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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 明治維新

 廃藩置県愛媛県の誕生

 明治二年(一八六九)の版籍奉還で伊予八藩の藩主は知藩事に任命されて政府の一地方官に過ぎなくなった。翌三年九月公布の「藩制」では、松山・宇和島両藩は中藩、両藩以外は小藩として取り扱われることとなり、各藩は政府の方針に従って諸改革を断行した。しかし明治四年になると全国の諸藩の中には廃藩を願い出るところも現われた。
 明治四年(一八七一)七月、薩長土三藩の兵力一万を「御親兵」として、その武力を背景にして、廃藩置県が断行された。これにより、二六一藩は廃されて、その個別的領有権は否定され、全国(琉球を除く)には、一使三府三〇六県が生まれた。同年一一月には県の統合が行われ、伊予の八県は、松山県以東(旧幕領も含む)は松山県、大洲県以南は宇和島県にそれぞれ統合された。翌年前者は石鐵県、後者は神山県と改称、同六年二月に両者が合体して愛媛県が誕生した。こうして、旧藩以来の行政区画は、近代的な中央集権体制を支えるにふさわしいものに整備された。その意味で、廃藩置県は、幕藩体制の最終的清算ということができる。この改革において旧藩主は、家禄の支給や膨大な負債が政府に引き継がれた上に、従来の藩主としての実収入は保障されたことからみると、廃藩は、旧藩主にとっては、自ら失うことの少ない政治的措置にほかならなかった。
 一般国民の動向については、西日本を中心に、貢租公課減免、新政反対、官選村役人=区長・戸長の村治に反対を叫んだ騒擾が発生した。明治四年八月に喜多郡手成村ほか数十か村の四万人以上に及ぶ農民たちが「旧知事の帰京全く大参事の所為に係る」とか、「戸籍調査は生血を絞り種痘は毒を植る等」(『明治初年農民騒擾録』)と流言し、「村吏に抗し、掲示場を毀ち或は出張官吏の至るを拒」み、また各村庄屋宅を打ちこわし、帳簿を焼いた。この騒動は、大参事山本尚徳の自害をもって鎮静に向かった。
 旧藩主の留任をはじめとする諸要求をかかげた農民騒擾は、慶応四年の「神仏分離令」以来進行した廃仏毀釈、戸籍調査などの政府による中央集権化政策に反発するもので、あまりにも急激な改革と映じた農民たちの不安と批判が引き起こしたものである。
 明治四年八月、「各郡神仏の混淆を正し淫祠を除くの令」に反発して起こった浮穴郡久万山騒擾の指導者山之内才十郎は、その「首魁者口上書」に「当山は谷深く村々家並もかけへだて(中略)鬼所などと唱え候場所ままこれあり候につき、夜使などの者内心社堂を頼みとし、病気の節は祈願を以てあいしのぎ候所、右等の便も失い候につき、何卒其のまゝに置きたく、女子供に至るまで明け暮れあいなげき云々」と供述した。二五歳の才十郎の心意を通してうかがえる常民の心のひだを近代化の波があらい、地ならしていった。明治政府の近代化を志向する中央集権政策の本音を、いちはやく本能的にかぎとって、反対に立ち上がっだのが、このごろの農民たちであったといえよう。これら騒擾に対して、政府は、朝旨を蔑視して国権を犯す行為とみなし、同四年一〇月に府県に厳しい取締りと懲戒を指示した。
 明治六年(一八七三)に生まれた愛媛県の県庁は松山に、支庁は宇和島に置かれた。県の初代参事にそれまで神山県参事であった江木康直(山口県)、権参事に同じく神山県権参事大久保親彦が就任するなど、県政発足当初においては、旧神山県指導者が行政を担当した。また県庁職員のなかで県内出身者の占める割合は、翌七年では四一・八%と、のちの岩村県政時代に比べて著しく低いのは、政府が意図した中央集権化政策に沿った地方行政機関を作ろうとしたことの表われであるとみられる。
 これより先、明治四年に政府は県治職制などからなる「県治条例」を布達した。この条例を具体化するため、愛媛県は同六年に庶務課章程一四章を制定して以来改定を加え、同七年に「職制大綱」を制定して、ここに庶務・聴訟・租税・出納・監察の五課からなる分掌機構が確立した。この職制大綱によると、当時の官員は「第一御誓文ノ旨ヲ奉体シ、同心協力」「各其職分ヲ守り苟モ其位ヲ出テス、常ニ謹厳端正ニシテ人民ノ標準トナル」を心得として、朝九時出庁、午後三時まで執務した。江木県政は、県治体制の整備を進めるとともに、徴兵令誤解騒動、高知県との篠山・沖之島問題、夏の干ばつなどの対応に追われた。

 大区小区制の発足

 明治政府による地方行政の新方針は、明治四年の発足 以降に具体化し、大区小区制という新体制があらわれた。その第一着手は明治四年四月の「戸籍法」である。廃藩置県に先立って出されたこの法は、新政府が中央集権的統治を行うための基礎を作りあげる人口調査と戸籍編成を目的としていた。戸籍法は、戸籍事務遂行のために新しく区を設定し、戸籍吏員として戸長・副戸長を置くことを定めた。ところが、この実施過程で、旧来の村役人と戸長・副戸長の間に権限の競合が起こり、この両者の関係をいかにすべきかとの疑問が各県地方官から政府に寄せられた。この伺いにこたえて、明治五年政府は二つの布達を出して、旧村役人を廃止して新しく戸長・副戸長と改称すること、大区に区長、小区に副区長を置くという原則を明らかにした。
 この経過から分かるように、大区小区制は政府が地方制度として体系的に作り上げたものではなく、地方で作られた既成事実を政府が追認するという、府県知事と中央政府の合作の産物であった。それだけに大区小区制は、その実施の過程で府県ごとに地域性に富んだ行政区域と組織を作り出していった。
 本県での大区小区制実施は愛媛県誕生前であったから、石鐵・神山両県で別個に施行された。石鐵県は、明治五年六月に大区小区制を採用し、県下を一八大区二一七小区に分け、大区に区長一人、小区に戸長一人、副戸長を一〇〇戸単位に一人の割合いで置いた。神山県でも明治五年に大区小区制が施行され、県下を一一大区七〇小区に分画した。翌六年二月、愛媛県が成立したが、旧両県の大区小区の区画はそのまま新県に引き継がれた。
 明治七年五月、愛媛県は「県内大小区画ノ義地形ノ広狭、人ロノ多少等差違アリ、不便少ナカラス」と、区画を改編して、大区に区長一人、副区長二人、小区に戸長一人、町村に組頭を置くことにした。一四の大区の平均戸数は一万二、二九〇戸、人口は五万六、五三〇人であった。小区は二、〇〇〇戸をもって一小区とする方針で臨んで県内を三一三小区に分けたが、結果的には平均五五〇戸、二、五四〇人の規模になった。
 新たに改編された大区小区と旧来の郡との関係を見ると、一大区=一郡の事例は、第一大区(宇摩郡)、第二大区(新居郡)、第四大区(越智郡)の三例であり、第三大区(周布・桑村郡)は一大区=二郡となっている。これに対して、第六大区は和気・温泉・久米の三郡と風早・浮穴・伊予の三郡の一部からなり、宇和郡は第九~一四の六つの大区に分割されている。小区はほぼ二、三村単位で編成されたが、二郡にまたがる小区が八例を数え、第一二大区第五小区は宇和郡惣川村・喜多郡中津村・浮穴郡小屋村の三か村で構成されている。
 このように本県の大区小区は郡の区画を無視して編成された。郡とは無関係に人為的・画一的に編成されたところは愛媛県のほか新潟県などで見られる。これに対して、滋賀・静岡・愛知の各県では一大区=一郡の原則で大区を編成しており、神奈川・山梨・山口などの諸県もこの類型に近い。愛媛・新潟県は政府の指示を忠実に実行し、滋賀・静岡県などは歴史的領域を継承して現実妥協的に区画を編成したのであった。
 愛媛県の大区小区制のもう一つの特色は、大区の区長、小区の戸長ともに官選で、町村の組頭は区戸長が任免したから、官治体制が徹底していたことである。
 区長・戸長の職務は、明治七年五月大区小区新編成と同時に布達された「区長事務仮条例・戸長心得」に明らかである。区長・戸長は人民の代理としての権限を持ち、常に上下の中間に立ってその職掌を守り、勉励して事務に尽力することが要求された。区長は、戸籍を把握して物産を興し救恤その他に注目して、戸長以下を指揮監督した。戸長は、布告布達の伝達と住民の諸願伺届の点検提出、戸籍・徴税事務を職務とした。明治八年段階で、本県には区長一四人・副区長二九人・戸長三一二人・組頭九八三人が配置されている。
 区長の任命に当たっては士族が多く採用され、戸長は旧来の村役人が配される場合が多かったが、数村を合わせた区制であったので村民とのつながりは前より薄かった。このため、日常の行政事務をめぐって町村の組頭や住民としばしば対立を引き起こした。住民が「兎角職制ヲ名トシ、自意ヲ主張致シ、我儘ノ取扱振り数々アリ」と戸長を批判すれば、戸長は「頑民ノ不協カニヨル事務渋滞」や「民間物議紛然トシテ動モスレハ沸騰ノ勢」を示して上からの指令を無視すると訴えた。これに加えて政府・県庁の諸調査が激増して事務多端であり、実効があがらないと動揺する戸長が多かった。さらに明治七年八月には干ばつで水争いが各地で起こり戸長を苦しめた。これらの諸事情で過半の戸長が病に託して辞表を提出した。県参事江木康直は異例の告諭を発して説得に努め、辞職を思いとどまらせた。戸長の辞職騒動で行政事務は渋滞し、急に事をあげようとすれば民情を刺激して紛擾を醸成することを恐れて、「租税ノ改正、徴兵令ノ施行、学校ノ興行等モ自然卜相後レ候趣」と、本県を巡察した政府の役人は報告している。政府方針をそのまま写した本県の大区小区制と官治組織は、現実面での改革に迫られたのである。

 身分制の解体自由化

 政府は、近代国家に脱皮するため順次、「四民平等」の実現に努めた。版籍奉還によって藩主と藩士の封建的身分関係は解消されたので、政府は藩主を上層公家とともに華族、藩士を旧幕臣などとともに士族、足軽以下を卒族とし、農工商を平民として「四民平等」の原則を打ち出した。明治三年に政府は、それまで庶民に禁じられていた苗字を名のることを許した。宇和島藩でも同年、平民の苗字・住居移動を許している。廃藩置県直後に華・士族の断髪・廃刀は「勝手たるべきこと」とされたが、強制的でなかったため、石鐵県が五年に断髪・廃刀の布達を行ったにもかかわらず、内藤鳴雪の手習の師・武知五友のように、明治二六年の死に至るまで髷を切らなかった例もあった『鳴雪自叙伝』)。さらに通婚・職業選択の自由なども認められ、四民平等の差別は制度上、解消されることになった。また、同四年(一八七一)八月に「太政官布告第六一号」により、えた・非人の称が廃止され、「身分職業とも平民同然たるべきこと」とされた。
 同年一〇月これを受げた松山県は、えた非人の解放を諭告し、同一二月に彼らを神社の氏子に加えた。さらに松山県改め石鐵県では、旧えたと平民が争いをすることが少なくないとして注意を促し、子弟の「就学告諭」などを発した。しかし解放令は勧業のための資金貸与、技術訓練などの措置を伴わず、壬申戸籍などに「新平民」といった差別呼称が使用されたため、真の解放を目指す運動は国民的課題として残された。
 明治五年一〇月には、「芸娼妓解放令」が布告された。これは売春婦など年季奉公人の人身売買を禁じ、その借金を破棄させるものであったが、布告ののちも当人の希望による自由営業は許され、府県公認の公娼制はなお維持された。愛媛県は、同六年に「芸娼妓営業規則」などを布達し、同一〇年丸亀歩兵第12連隊分営が設置される直前に、道後松ヶ枝町に営業区を限定した。同時に授産による芸娼妓解放を目指して湯月・三津女紅場を建設している。
 こうして、これまでの複雑な封建的身分制は、段階的ではあったが、解体の方向にむかう中で、天皇及び華族・士族・平民の新しい身分制度へ整理されていった。華士族と官吏は新しい特権身分とされ、平民のうち「旧賤民」はそれまでは課せられていなかった納税・兵役その他の義務が他の平民同様に課せられるに至り、実生活上、困難に直面するに至った。しかし、法制上の封建身分制の解体は、国民の間の相互交流による実質的解放という近代化に向けての前提条件となりえたのである。
 政府は、身分制の解体と並行して、国民の自由な経済活動による資本主義経済体制の確立のため経済の自由化を図った。明治四年に田畑の作付制限を廃止し、田畑勝手作を許し、翌五年に近世初期以来続いた田畑永代売買の禁を解いた。前者は、開港以後の国際市場に対応する措置でもあり、後者は、士農工商の別なく地券(壬申地券)が交付されることと相まって、封建的身分制の解体と四民平等を経済的側面から促進する意義をもった。これらの経済の自由化は、明治六年以降に進められる租税の金納化をねらった画一的な税制の確立に接続していくものであった。
 信教の自由については、明治政府は当初キリスト教を認めなかったが、長崎浦上の信徒を松山藩などへ配流した事件が諸外国から強く非難されたのを機に、明治六年に黙認するに至った。本県でも明治一〇年代に入ると、宣教師によって教会が各地に造られ始めた。
 一方、政府は、多元的な源流に発する民間信仰を基礎におく全国の神社の社格を、皇室との関係を基準に秩序づけた。その結果、国民の神社信仰は、近世以来、国民化しつつあった伊勢神宮を頂点にピラミッド化され、それに伴って近代天皇制は補強されていった。

 地租改正と秩禄処分

 地租改正は、「万国対峙」のための財政的基盤の確立を目指したものである。明治六年(一八七三)七月の地租改正法令では、田畑貢納制度を廃止し、地券調査を行い、百分の三定率による地価賦税の金納地租を徴収し、村入費の土地にかかる税は、地租の三分の一に限定すること、新地租は、年の豊凶によって増減しないことなどが定められた。
 地租改正に先立ち、五年八月の太政官布告で米納を金納とする石代納制が許可された。翌九月に石鐵県では津留が解除され、米穀の売買が鑑札発行のもとで自由化された結果、これまで以上に農家の手もとに現金が保有され、石代納を容易にする状況が現出した。しかも石代納の場合は現米輸送に要する経費分などが減じられたため、いよいよ普及した。また高掛物などの雑税の廃止も五~七年にかけて実現した。
 本県の改租事業は明治八年八月、権令岩村高俊の発した県布達により着手された。改租の成否は各区戸長の奮発と努力にかかるとしてその心得を頒布するなど、一〇年までに七五以上に及ぶ地租改正関係法令を公布した。六尺を一間に統一した実地丈量は、農民の労務提供により進められ、地所面積は改正前より三三・九六%も増加した。各地所の収穫地価は、中央の事務局から各府県に割り当てられた地価に基づいて評価・算定されたといわれ、本県の地価取調べ作業は明治一二年末までに終了した。地価が決定されると、県は各郡長を通じて土地所有者に、先に発行の壬申地券と引き替えに新地券を交付した。
 愛媛県で地租改正反対一揆が起こらなかったのは、旧税が「伊予の七ツ免」(村高の七割課税)といわれるほどに高率であったものが、改正により相対的に軽減されたとの印象を県民に与えたことなどによるとみられる。実際、改正により一四・一九%の減税となった。明治一五年の全国の新地租は、改租前三か年平均の旧地租に比べて「年々石代納価」(地租改正実施中に上昇した米価)の場合は、六・一%の減租となり、この限りでは、本県の減税率は全国平均のそれをはるかにしのいでいたといえる。
 新地租は、地方税(地租割)の賦課の基準とされるなど県財政に資するところが多かったが、農民には、五割以上を換金商品化することを迫り、しかも農作物価格の変動に一喜一憂する不安な生活に追い込まれた。特に明治一四年(一八八一)以降の松方デフレは、米価・繭価の暴落を引き起こし、中農以下の農民を小作農化した。さらに小作料は現物納入であったため、同二〇年代以降の米価上昇は、地主の収入増を確実なものとし、寄生地主制の発達を促した。こうして地租改正は、近代愛媛の県民生活に甚大な影響を及ぼしたのである。
 一方、秩禄処分は、廃藩置県以後もなお旧領主・武士に支給されていた家禄が国家財政上の大きな負担となったために断行されたものである。まず政府は、家禄の削減さらにその奉還を図った。県内士族のうち三、一一九人が明治七年中に家禄奉還を申請した。石鐵県などの官吏を務めた小林信近も半額返還ではあったが、率先して、この政府の方針に従って士族授産の道をさぐっている。こうして明治九年までの三年間に、県内の家禄支給士族の五四%に当たる六、一二七人が奉還に応じた。これは、全国平均二四%に比して極めて高い数値であった。
 しかし、国家財政の中に占める家禄支出の負担は、租税収入の約三割以上と依然として高く、さらに明治七年の台湾出兵による支出増大などもあって、ついに明治九年(一八七六)大隈重信の建議になる「金禄公債証書発行条例」が公布された。愛媛県では一一年から金禄公債証書が交付された。交付対象は五、〇九六人、一人平均五四五円の証書であった。全国の下級士族は一人平均四一五円の公債が交付され、年収利子(七分利付)二九円五銭が与えられた。それは、歩兵兵卒(近衛)の年俸とほぼ同じ額であった。明治一〇年来のインフレの中で、実収入はこれら一般士族の生活を支えきるものでなく、公債を手放したり、授産事業にその活路を求めたが、「士族の商法」などといわれたように、多くは失敗に終わった。本県の場合、士族授産は養蚕製糸業を中心に進められ、県当局の奨励もあって、同業は、明治一〇年代にマニュファクチュアから機械制工業にまで成長することとなった。この明治一〇年代の士族授産は、同二〇年代に展開する地方産業資本の成長と産業革命への道を切り開く重要な役割を果たしたものといえる。また旧松山藩士族の中には、士族授産として、福島県安積地方への入植、北海道への屯田兵移住を試みた者もいた。
 以上の、地租改正によって政府の財政収入は安定し、秩禄処分によって財政負担は軽減し、農民からの高額地租は、軍事費及び資本へと振り分けられていった。とりわけ秩禄処分は、多額の公債を入手した華族や上級士族にとっては資本家への転身の機会を、零細な下級士族は公債を手離して生計の道を失い労働者に転ずるきっかけを、それぞれ提供したのであった。こうして、地租改正と秩禄処分による封建的な領有制の解体は大いに進み、日本は近代国家へと離陸していったのである。

 学制頒布学校づくり

 我が国最初の総合的教育法規である「学制」が頒布されたのは、文部省が設置された翌年の明治九年(一八七二)八月のことである。学制の教育理念については、「学事奨励に関する被仰出書」で明らかにされた。同書によると、華士族・農工商・婦女の別なく「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という国民皆学が意図された。この学制は、徴兵令・地租改正と並んで、明治政府の殖産興業・富国強兵政策の重要な一環として位置づけられるものであった。
 愛媛県が成立すると、庶務課学制掛さらに学務課が置かれ、同課は明治八年制定の「愛媛県事務章程」に基づき、学区取締及び教員などの勤惰を監督しその進退を議すこと、校資金の増殖を図ることなどに当たった。初代課長に肝付兼弘(鹿児島県士族)が、課長心得に内藤素行(鳴雪)がそれぞれ就任した。学制実施の過程で重要な役割を果たしたのは、一中学区内に一〇~一三人ずつ配された学区取締であり、小学校の設立、就学勧誘などを主な職務とした。学制では「一切ノ学事ヲ以テ悉ク民費ニ委ス」という受益者負担を原則としたため、学区取締らは学費捻出に苦慮し、学校造りは順調には進まなかった。そこで県当局は、明治七年に従前のように学費を士族に依存せず、四民一般に賦課するなどして学校を保持するよう布達した。
 こうして、寄付金、学区内集金、不動産売り上げなどによる諸入金によって、明治八年までには五六五校(うち分校一四〇)の小学校が設立され、ほぼ小学区数の半ばに達した。校舎は、民間の借用(本県四三・五%、全国三三%)、ついで寺院の借用(本県二九・九%、全国四〇%)が多く、新築は四九校(本県八・七%、全国一八%)に過ぎなかった。同九年に県内学校の景況を視察した文部省の中督学野村素介は、「年数ヲ経スシテ校数ノ多キ此二至ル者ハ勧誘ノ功二因ル」と県当局と学区取締など町村学事関係者の努力を高く評価した。
 しかし学校づくりの上での最大の悩みは、学齢児童(六~一四歳)の就学率の低さであった。明治七年は一三・八八%の低率で、岩村権令自ら「学事告諭」を発して督励し、第一回学務集会を開いて就学促進の方法を協議実施に移すなどして翌八年は二四・七五%に伸ばした。しかしこうした勧学策にもかかわらず同一〇年の就学率の本県平均は三二・七三%(全国平均三九・八七%)で県民の教育への関心の低さを示していた。
 「小学教則」は、明治五年に文部省が制定し、それを受けて各府県が諸規則を制定したが、教員や教科書が十分に整わない状況にあった。当時、石鐡県第一五大区の学区取締であった内藤素行が述懐しているように、「此頃出来て居た福沢物の、究理図解、地学事始、世界国尽しとか、其他文部省出版の単語篇連語篇とかを間に合せに用ゐだ」(『鳴雪自叙伝』)というのが実態であった。県内小学校の教育制度は、明治九年の「愛媛県小学校規則」によって整えられたが、都市・町村を問わず同一教則を適用した結果、地域によって学業進歩上の格差が拡大したため、同一一年に各地域の実態に応じた三種の教則が設けられ教育の実をあげようとする改革が進められた。これは、西南戦争のあと、政府が学制政策の手直しを開始し、特に就学年限の短縮と画一的教則の緩和の措置がとられたことと連動する動きであった。この手直し路線の帰結が、明治一二年(一八七九)九月の学制廃止とそれに代わる地方分権的・自由主義的な「教育令」の公布であった。この間、本県当局は、学区取締を廃止し、郡長に教育行政事務・学務管理を主管させ、同一二年には小学校則・教則を各郡役所でその地域の状況と住民の要望などを考慮して編成・施行するよう指示した。さらに教育令公布後の同一三年には町村・学校単位で校則・教則が学務委員を中心に設定されることとなった。その後、教育令は改正され、教則については文部省の綱領に基づき府知事・県令が編成し文部卿の認可を経て管内に施行するとされるなど、小学校教育の規制が強化された。
 愛媛県師範学校は、明治九年(一八七六)に創立されたが、その卒業者が出る時期までの教員の多くは、士族、旧村役人、僧侶、神官あるいは寺子屋の師匠から任用された。明治一三年の「県政事務引継書」は、各校の資金が不足し教員には月給二~三円の薄給の者が多く、そのため「教員恰当ノ人物ヲ得難ク、動モスレハ教育ノ価値ヲ人民二賤視セラレ、寧ロ旧寺子屋二如カスト謂ハシムルニ至ル事アリ」と指摘している。