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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一 風土の構造

 「愛媛(愛比売)」

 美しい乙女の国を意味する「愛媛(愛比売)」は、その名にふさわしく自然もおだやかであり、しかも女性的である。「愛媛(愛比売)」の名は古事記の伊邪那岐命と伊邪那美命の二神の国生みを記した所にみえ、「次に伊予之二名島を生みき。此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宣都比売と謂ひ、土佐国は建依別と謂ふ。」とあり、この愛比売が「愛媛」に転化し、現在の県名として使われるようになったとされている。伊予の二名島とは四国島の総称で、「身一つにして面四つ有り」とは四国島の地形が四つに区分され、それぞれの土地には神霊が宿るとする古代人の信仰を表したものと考えられている。また、二名島は二並びの島の意とされ、愛比売(伊予国)と飯依比古(讃岐国)との男女一並びと、大宣都比売(粟国)と建依別(土佐国)の男女一並びを合わせて二組の男女を意味している。四国島の形はあたかもこうもりが飛んでいる姿に似ており、上下、左右がほぼ対称的な形になっていることが四国島を二名島と名付けたことに関係しているとする見方もあるが、これなどは古代人の直観力・洞察力の素晴らしさを物語るものと言えよう。
 大変粋な名称が四国島につけられたのであるが、伊予国の〝イヨ〟の由来については、弥(イヤ……限りない発展を意味する副詞)が伊予(イヨ)に転じたとする説や、道後温泉との関係から、出湯あるいは接頭語「イ」十「湯」の転じたものとする説もある。しかし、本来伊予国の一地名であったと考えられるイヨそのものの命名経緯についてはなお明らかではない。このようにさまざまの説はあるものの、愛媛県は、「皇祖神の 神の御言の 敷きいます 国のことごと 湯はしも さわにあれども 島山の宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の……」(万葉集巻三 山部赤人)と詠まれたように、山・島・海のすぐれた景観をもった我が国を代表する温泉県である。また、香川県を四国の表玄関とすれば、徳島県は勝手口、高知県は裏座敷、愛媛県は本座敷にあたると言われるように、愛媛県は四国を代表する雄県であり、限りない発展が期待されている。
 愛媛県の自然や人文現象に最も大きな影響を与えたものは、瀬戸内海と石鎚山であろう。この両者にはさまれた愛媛県は南北に狭く、東西に細長くなっており、高縄半島を頭部、佐田岬半島を尾部と想定すれば、あたかも「犬」が東西に伏せた形によく似ている。西日本の最高峰である石鎚山は四国島の面積に比して大規模であり、四国全体が石鎚山の裾野となっている。愛媛県の場合は、特にこの傾向が強く、海岸の近くまで石鎚山やその支脈が迫っており、いたる所で平野を分断している。また、愛媛県は地形的に東西に細長いため、海岸線は北海道、長崎、鹿児島、沖縄県に次いで五番目に長く、総延長は一、五六一キロメートルにも達しているが、このことは、天然の運河といわれる顔戸内海に面する長大な海岸線を持つことを可能とした。

 土地の姿と季節の移り変わり

 石鎚山と瀬戸内海に象徴される愛媛県は、「山」と「海」の顔を持っている。西条市・小松町・面河村の境界にある石鎚山をはじめ、瓶ヶ森、笹ヶ峰、大森山などの山々が四国の脊梁をなす四国山地を形づくっており、海岸線に並行して険しい山地が屏風状にそそり立っている姿は男性的で、前面に広がる瀬戸内海の女性的な優美さと対称的である。伊予三島市から西条市にかけて連なっているこのような急傾斜地形は全国的にも非常に珍しいもので、一般には石鎚断層崖とよばれている。これは、愛媛県の北部を東西に走る中央構造線に沿う地殻の大変動に関係するものであり、石鎚山やその周辺に、海や湖に由来する地層・化石が見られるのも、こうした地球の壮大なドラマと密接に関係している。
 四国では、山地の占める割合が八〇%にもなっている。山がちな国とされる我が国の場合でも、山地は国土面積の五八%であるのと比較すると、石鎚山を中心とする四国山地がいかに大規模であるかが分かる。ここから流れ出す川には、銅山川(吉野川水系)、中山川、重信川、面河川(仁淀川水系)、肱川、吉野川(渡川水系)などがあり、その流域には平野や盆地を形成しているが、これらは多くの峠によって分断されているため、いずれも小規模である(図1―1)。平野のほとんどは石鎚山脈の北側に分布し、このうち、宇摩平野、新居浜平野、西条・周桑(道前)平野などは燧灘に面した狭長なものである。重信川の中・下流域には愛媛県最大の平野である松山(道後)平野がみられるが、この平野は全体的に扇状地性であるため、流れる水の大部分は伏流水となり、平野のあちらこちらに泉となって湧出している。なお、高縄半島には、小規模ながら今治(越智)平野と北条(風早)平野がみられる。山間部には、久万、内山、大洲、宇和、野村、鬼北盆地等の小規模な盆地が形成されているが、大洲盆地のように標高がわずか一〇メートル程度の低地にあるものや、久万盆地のように標高五〇〇メートル以上の高原にあるものなど、地形環境はさまざまである。
 瀬戸内海は、今から二〇〇万年前の地殼変動に伴ってその原形が形成されたが、約一〇〇万年前には、東側からの強い圧力によって、土地の隆起と沈降が交互にみられるようになった。瀬戸内海においては、土地の高まりの部分は大きな島や諸島となり、低く沈んだ部分は灘となった。瀬戸内海を東からみていくと、大阪湾―淡路島―播磨灘―小豆島・備讃諸島―備後灘・燧灘―芸予諸島(県内部分け越智・上島諸島)―斉灘―防予諸島(県内部分は忽那諸島)―伊予灘―国東半島―周防灘となっており、隆起部と沈降部が規則正しく交互に連なっているのがよく分かる。
 今、もし、瀬戸内海の幅がもっと広く、その海が波高いものであったならば、本州、四国、九州はそれぞれ離れ離れの歴史的経過をたどり、早くより三つの小国家として分立するような事態を引き起こしていたかも知れない。また、もし、この海が陸地であったとすれば、耕地面積は非常に広くなり、農業形態は異なっていたであろうし、中国大陸からの文化の波は日本海岸に押しよせ、日本海岸こそ表日本と称されるような状態になっていたと考えられる。瀬戸内海は日本の歴史や文化を左右するほどの影響を及ぼしたが、特に、長い海岸線をもつ愛媛県に対してはその影響は大きく、伊予の風土と歴史を決定づけた。
 伊予灘から黄金碆を経て、速吸瀬戸の急流を乗り切ると、南国の日射しに照らされた宇和海沿岸の岬や入江を一望のもとに見わたすことができる。宇和海沿岸に見られるような出入りの複雑な海岸は、一連の山地をつくっていた四国山地と九州山地との間か沈降してできたもので、尾根の部分は半島や岬となり、谷の部分は入江や湾となった。瀬戸内海と宇和海を隔てる佐田岬半島は、愛媛県の西部にあって、西南西へ約四〇キロメートルも伸びる我が国最長の半島であるが、全体的に急傾斜地が多く、小集落が湾頭の狭小な平地に見られる程度である。この地域は、本県における後発地域の一つであったが、昭和六二年一二月に一般国道一九七号(頂上線)が全線開通したのに伴い、今後大きく変貌しようとしている。
 愛媛県の気候を端的に言い表す言葉には、「温暖」「明るい日射し」「朝凪・夕凪」などがある。気候の温和性を示す言葉であることに共通性を見出すことができるものである。県内の地域を気候で区分すると、瀬戸内海型気候地域、南海型気候地域、山地・高原型気候地域に大別できるが、一部には盆地型気候地域もある。愛媛県の場合、比較的狭い地域に各種の気候をみることができる県であると言えよう。
 瀬戸内海型気候は、周囲を山地に囲まれた瀬戸内海沿岸及び島しょ部にみられる。災害が少ないこともあって、県内人口の約八〇%がこの地域に住んでいる。松山の場合、年平均気温約一五・三度、年降水量約一、三〇〇ミリメートルで、冬でも日平均気温が五度未満になることはきわめて少ない。このように温暖であるにもかかわらず、日平均気温が二五度以上の日は大阪よりも少なく、海洋の影響を強く受けていることが分かる(図1―2)。
 南海型気候地域は、佐田岬半島から宇和海沿岸にかけて分布しており、全般的に温暖多雨である。特に、宇和海沿岸は黒潮の影響を受けているため冬季も温暖で、宇和島では日平均気温が五度未満になることはほとんどない。しかし、南予にあっても、宇和・野村・鬼北盆地などは、盆地特有の気候を呈して冬は寒く、降雪量も平地に比べて多い。
 地球の壮大なドラマを物語る石鎚山は、愛媛県の自然を決定づける山でもあった。大きくて背の高い石鎚の峰々は南から吹きつける雨を防ぎ、風を和らげた。この結果、四国山地を境にして南側と北側の気候は全く異なるものになっている。山地・高原型気候は、四国山地とその南側の標高五〇〇メートル以上の地域にみられ、嶺南から久万高原を経て大野ヶ原、五段高原にかけて帯状に分布している。この地域は全般的に冷涼で夏も涼しが、冬の寒さは大変厳しい。「伊予の軽井沢」とも称される久万高原では降雪日数は四〇日以上にも達しており、第二次世界大戦後に開拓された大野ヶ原では一月の月平均最低気温は氷点下五・五度まで下がる。台風や梅雨に伴う降水量は多く、年間三、〇〇〇ミリメートル以上の地域もみられるなど、我が国における多雨地帯の一つとなっている。
 気候の違いは衣生活の違いとなって明瞭に現れてくる。袷を着ている期間は、寒冷な北海道東部では年間三〇〇日にもなるが、瀬戸内海沿岸では二〇〇日以下となり、南予地方では一六〇日程度である。一方、瀬戸内地方は古来干害の多い所であるとよく言われてきた。しかし、これは災害の少ない地域にあって、強いてあげるとすれば干害が多いということであり、県内の干害発生頻度が北九州や東北地方などより多いという事実は見当たらない。日照りに備えて潅漑用溜池が多数築造されていることが被害を少なくしているものと考えられる。現在、県内には約三、〇〇〇もの潅漑用溜池があるが、このうちの約七〇%は明治末までに築造されたものであり、藩政時代に築造されたものも二〇%以上ある。このような溜池の多さは、地域の経済力の豊かさをも示すものであり、愛媛県の平野部は全体的にみて比較的豊かな地域であったことが分かる。気候の温和さに加え、地形的な恩恵を受げて風害や水害も少ない(図1―3)ことなどを総合すると、愛媛県は全国的にみても最も住みよい県の一つと言うことができよう。

図1-1 愛媛県の山地と主な峠

図1-1 愛媛県の山地と主な峠


図1-2 旬平均気温からみた日本各地の季節の移り変わり

図1-2 旬平均気温からみた日本各地の季節の移り変わり


図1-3 日本の風・水害地域

図1-3 日本の風・水害地域