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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 名字

 名 字

 家名は姓氏とも苗字ともいわれる。苗字はいま名字と書く。名字は土地の名と不離融合の関係にある。むしろ、名字の多くは土地の名に根源を持つといっても過言ではない。しかしながら名字は地名の研究・解明によってすべてが釈明されうるものではない。名字は、数字・尺度・枡目・色形・方位・天象・季節時間・身体部分名や、ことに信仰によるものを少しとしないからである。さらに名字を複雑にしている要因は名字文字の呼びかたの多様性である。角田はカクタ・カドタ・スミタ・ツノタと読み、さらに田は清濁二様に読める。上石はウエイシ・カミイシ・アゲイシとも読む。角谷となるとさらに複雑多様である。カクタニ・カクヤ・カドタニ・カドヤ・スミタニ・スミヤ・ツノタニ・ツノヤがあり、谷は熊谷と読むからカドガイもあり、転訛してカドガヤも生まれる。土井晩翠はツチイが本来の読みであるが文学辞典にはドイを併用する。従って名字を耳で聴いて文字に書くときに困却する。ヨシザワは吉沢・芳沢・喜沢・善沢・好沢・由沢・能沢・義沢・葭沢などとも、ウスイは臼井・臼居・碓居・碓氷・薄井などとも、サカイは酒井・坂井・阪井・堺・境などとも表記する。電話帳をめくる楽しみとはうらはらな苦労と気遣いとが現実の社会生活では生ずる。安倍・安部・阿部、 足立・安達・安立、 新井・荒井・新居、 泉・和泉・出水・出海・井泉、 伊藤・伊東、 小田・織田、 大屋・大矢・大宅・大家・大谷、大田・太田、 加池・加治・鍛冶・梶、 菊池・菊地、 芝田・柴田、 庄司・庄子・荘司・正司・東海林、 竹田・武田、 増田・益田・桝田・升田…など手持ちの住所録をめくるだけでも多彩な表記である。夏目漱石が病気のとき夫人は門下の安倍能成が来るとアンバイヨクナルと喜んだとかいう話しが伝わっている。

 愛媛名字百傑

 佐久間英『日本の名字』は全国の名字の多い順に〝五千傑順位表〟を掲げている。愛媛新聞社は「四国姓氏考」と題して〝愛媛の多い姓100傑〟を掲載した。両社の上位百傑を比較する。(右が全国、左のゴチック書体が県内名字)である。(図表「愛媛名字百傑」参照)
 佐久間の挙げる全国五千傑は昭和四三年刊、愛媛百傑は昭和四七年発行によるもので統計としては数字が古い。しかし家名は全く新家名が創設されることはほとんどなく、また現在存在する名字が消滅し去ることも少い。日本には名字が約一〇万種あるといわれるが、この数字は一定不変の概数を保持しているものと思われる。ただ述上の全国・愛媛県百傑の統計の根拠が明示されていないのが気にかかる。

 電話帳名字十傑

 県下の電話帳は東予・中予・南予版に分冊されている。東予は①新居浜市 ②西条市 ③今治市 ④越智郡 ⑤東予市 ⑥周桑郡 ⑦伊予三島市 ⑧川之江市 ⑨宇摩郡、中予は①松山市 ②温泉郡 ③伊予市 ④伊予郡 ⑤上浮穴郡 ⑥北条市、南予は①宇和島市 ②北宇和郡 ③南宇和郡④八幡浜市 ⑤西宇和郡 ⑥東宇和郡 ⑦大洲市 ⑧喜多郡で構成されている。全県下の加入者約四五万が昭和五三年の概数である。同年七月一四日付の愛媛新聞は電電公社愛媛電気通信部の資料によって県下全体の十傑を報道した。さらに、五六年一二月現在の十傑資料を同部の資料により同じく掲げる。(五三年の数字は不詳)

(全県) 
 昭53 ①高橋 ②村上 ③越智 ④山本 ⑤渡部 ⑥松本 ⑦渡辺 ⑧田中 ⑨井上 ⑩白石    
 昭56 村上五八六〇 高橋五八四二 山本五六四七 越智五六〇九 渡部四六四六 渡辺四一五七 松本四一二二 田中三九〇八 伊藤三八七四 井上三八一八
 両資料をもとに東・中・南予別に十傑を掲げると次のとおりである。

(東予)
 昭53 越智 村上 高橋 伊藤 石川 近藤 渡辺 白石 矢野 真鍋
 昭56 越智四五七六 村上四一二七 高橋三八三九 伊藤二九八九 石川二七四二 近藤二五三九 渡辺二四二一 矢野二〇一一 藤田一八八九 白石一七四九

(中予)
 昭53 渡部 山本 田中 松本 高橋 大野 大西 村上 井上 三好
 昭56 渡部三〇〇七 山本二一二三 田中一八二七 松本一七五二 高橋一五九五 村上一三五六 大西一三三二 大野一二九五 井上一二三三 三好一一四〇

(南予)
 昭53 山本 井上 二宮 松本 菊池 兵頭 清水 河野 宇都宮 三好
 昭56 山本二二三三 井上一九〇八 二宮一六三三 松本一四二七 菊池一四〇一 宇都宮一三八六 兵頭一三六八 河野一三二六 山下一三一九 清水一二一四

 なお、同通信部が難読名字として例に挙げたものを五三・五六両年発表資料によって記すと次のとおりである。

 昭53…七五三(しめ)、 参川(みかわ)、 山家(やんべ)、 塩梅(あんばい)、 槐(えんじゅ)、 廉田(かどた)、 椽木(とちぎ)、 目(さっか)、 蛇艸(はぐさ)、 空閑(くが)、 上別府(かんびゅう)、 国分田(くもだ)、 鴾野(ひえの)、 酒肆(しゅし)、 味生(みのう)、 厚朴(ほうのき)、 手操(てぐり)、 貉ヶ原(むじながはら)、 藺牟田(いなだ)、 弟子丸(でしまる)、 日南(ひなた)、 千明(ちぎら)、 千々和(ちちわ)
 昭56…碇(いかり)、 呼(こう)、 奐梠(こうろぎ)、 目、 七五三、 執行(しぎょう)、標葉(しねは)、 蛇艸、 貉ヶ原、 瞿曇(くどん)、 塩梅、 空閑(くが)、 篁(たかむら)、 邑偉(いふい)、 釋氏(きくち)、 愚(しょう)、 八月一日(ほずみ)、 大鑿(おおのみ)、 槐、 御厩敷(おんまやしき)、 国分田(くもで)、 上別府、 名嘉真(なかま)、 鍛(きたい)
 小田町中川は小田深山と呼ばれたが、その小集落の桶小屋に返却という名字がある。もと木地師で小椋であったが、明治となり小椋伊勢吉が木地職を廃業して近江国の支配本所に免許を返却するとき由緒ある名字をもともとに返したことにもとづくという。

 由良の名字

 南宇和郡内海村の由良半島は宇和海に突出して、古来回遊魚の好漁場として知られ、鰯・鯔・はまちの網代がある。突端部は開拓者の浦和氏が、基部は百姓株を持つ名家が集落の中枢的存在であった。昭和五〇年、その先端部の網代地区は戸数三七戸、一四〇人の集落であった。入り江別に本網代・本谷・荒樫の三つの小集落がある。本網代には魚名にちなんだ岩志・浜地・鈴木・福戸・鱒・高魚などの、本谷には大敷・木網・目関・大目・立目・松綱・有請などの網にかかわる名字が、荒樫には穀物・野菜にちなむ麦田・稗野・粟野・真菜・大根・株菜・根深などの名字があった。或いは浦和氏が親疎によって三段階に区分し、重臣格五戸には漁具名を、旗本格には魚名を、家来格には野菜名をつけたともいわれる。
 基部の家串地区は百八戸、三六一人の集落であった。ここの名字は戦国武将や藩政時代の大名家の名字が多い。織田・前田・細川・北条・加藤や、忠臣蔵の浅野・吉良、有馬・伊井・黒田などすべて著名で由緒ある名字であるがその理由は明らかでない。
 網代地区には開拓の祖といわれる浦和盛次兵衛の末子に天保一四年生まれの盛三郎がいた。のちに網元浦和家の家督を相続し金融業をも興し関西財界にその人ありと謳われた風雲児であった。明治三年九月一〇日、庶民にも姓氏が許されるや本網代・本谷・荒樫の集落の農漁業の振興とその発展を願って盛三郎が全戸の名字を選定したという。一説には、明治維新の諸事改革のわずらわしさに酔余の興のあまり選んだ名字であるともいわれる。網元親方と網子家来という漁撈組織をうかがわしめる挿話でもある。改姓は昭和三〇年代に多く、根深→根沢、株菜→池田、鱒→増原など名字の変更があった。

 屋 号

 一般に村落では名字を用いないで屋号で個々の家を呼んだ。お寺の前であればテラマエ、往還の曲がり角であればカドというが如く屋敷の位置の称呼であったりする。地名や地物によるのほか、方位・本分家の関係や職業などに由来するものがあった。
 別子山村は①平家の落人と伝えられる流れ、②近藤半之丞一族の流れ、③長宗我部の流れである曽我、④南光坊快盛一党の流れ、⑤土佐から源氏出自を称する和田の流れなどが家系の祖を称し、本家はドイ・オモ・オカタの家号を伝える。瓜生野には文治五年(一一八九)近藤半之丞秀清が近江国北泉から移住し居を構えたといい、ヒガシノドイと称しオカタと呼ばれ屋号となっている。秀清の弟清俊はニシノドイ・オモを屋号とした。昭和四〇年の小美野・芋野・瓜生野・大湯における屋号は図のとおりであった。

 伊予の名字

 愛媛の歴史の流れのなかで活躍する著名な人物はそれぞれに由緒ある名乗り名字を持っている。近世大名およびその家臣団も名字に誇りをもち、家名に汚点を加えることを最大の恥辱とした。伊予は「越智氏が古くからの豪族で、祖神として大山(積)神をまつり、また国造として勢力をもった。現在の苗字でも圧倒的である。この越智氏から河野氏が出て、国衙の在庁官人としての勢力を張り、守護にも任命された。南北朝期、通盛は一族土居・得能とともに南朝に属したが、その子孫は足利氏に降り、伊予守護となった。伊予と安芸の島々には村上を姓とする家が多い。因島を中心とし、これに能島・来島の三家を本家筋とする。」と豊田武はその著『苗字の歴史』に略述する。また、佐久間英は「愛媛の特徴ある姓」として越智・兵頭・仙波・桧垣・白石・上甲・清家を挙げ、門田・武智・正岡・曽我部・乗松・一色・二神・高市・星加・薦田・宇高・影浦・田窪・薬師神・忽那・永易を加える。松平・一柳・加藤・伊達などの近世大名とその家臣たちの名字は士族として近代に継承され、現代社会においても名家名字として生きている。
 維新前までは女は生家の名字を婚後も称した。明治九年三月、太政官は「婦女、人二嫁スルモ、仍ホ所生ノ氏ヲ用ユベキ事 但夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スベキ事」と布達した。「婦女ハ総テ夫ノ身分二従フ筈ノモノ」であることを認めながら所生の氏を称すべしとしているのは、武士・大町人・村落支配者などにおこなわれていた慣行を採用したのであった。その後、内務省は父子の異姓を改めさせ(九年八月三日)、家族の姓を戸主と同一名字にした(同年五月九日・十年二月九日)が、妻についてはむしろその血縁が重視され依然として生家の氏を称することが命ぜられた。明治一〇年八月の愛媛県の「戸籍加除心得」にも「婦女ハ他家二嫁スルモ、終身実家ノ苗字ヲ記スベシ。モツトモ亡夫ノ跡相続スレバ、夫ノ姓ヲ記スベシ」としている。愛媛県ではこの規定を旧民法施行まで執行したといわれる。

一色…室町時代、その幕府の四職の一家に一色があった。足利泰氏の子の公深が一色阿闍利と称した。その子孫である藤長の弟秀勝は南禅寺長老であった崇伝の父である。三河国幡豆郡一色から出た。足利氏の一族である。一色別納の意味で、年貢の徴収が単純化し、一人の領主に直納する開墾地をいった。荘園関係からの名字である。
宇高…新居郡八幡神社の社家であって、天正の末高橋氏の子孫及び社人の子孫が帰村し垣生村に住んだ。高橋三河守大宅光頼が伊豆国より来住し、垣生・字高・松神子・阿島・黒島・沢津・新須賀の地を領した。中世、宇高と改めた。宇高大炊之助か最も世に名があった。子孫は再び高橋に復した。美濃守は天正一三年高尾城を守った。
宇都宮…下野国宇都宮を発祥地とする。粟田関白道兼の曽孫宗円が宇都宮座主となったことにはじまる。宇都宮豊房は元徳二年(一三三〇)伊予国守護職に任ぜられ翌元弘元年大洲に地蔵嶽城を築城した。八代豊綱は旗下の大野直之に攻められ松山興居島にのがれたが追撃されて備後にわたり、天正一三年(一五八五)病没した。
越智…大和朝廷を中心とする勢力が伊予国をその勢力圏に統轄したのは三~四世紀の後半にかけての時期であったと推測されている。応神天皇のとき久米・小市・風早などの国造がおかれた。小市国造に任ぜられたのは子致命であり、押領使越智好方や越智玉澄はその子孫である。
忽那…風早郡忽那島(中島町)に起こる。御堂関白藤原道長の裔孫親賢が故あってこの地に遠流され、その子孫がこの島に在住した。「忽那島は俗に中島と言ふ。この島に十二浦あり。昔時二階堂信濃守民部入道、此の島に謫居せり。子孫忽那を氏とすと俚諺集に見ゆ」と『愛媛面影』に記されている。古くは地名として骨名と書かれた。
河野…風早郡河野郷より起こる。伊予国造の後裔である伊予凡直姓で浮穴為世より出る。その子孫為綱は風早大領となり、その子親孝が北条大夫、その子親経が河野郷に住み河野新大夫と称し、以後高縄に拠り世々河野を称した。善応寺を建立し、のち湯月城(松山市道後)に移った。元寇の役の河野通有があり、一遍上人も河野家の出。
白石…浮穴郡白石邑を発祥地とする。牛淵村字牛頭守にあり。久寿三年(=保元元年・一一五六)浮穴郡大領白石三郎家員が氏社を造営し社領田を寄進したと伝える。河野氏の一族で越智系図に―行員(白石三郎大夫)、弟兼員(白石新大夫)―と見え、『東鑑』巻一八にも白石三郎家員の名が見える。『予章記』には「白石左衛門尉」とある。
高市…越智系図に「守興の子新居殿、新居郡に居住す」とあり、『予章記』に「新居と言ひての後二、三代過ぎて、兄弟の別有けるを高市と言ふ。其の孫、元暦の比、高市武者所清儀、同五郎友儀と言ふ者の摂州生田森の攻口、鹿を討、弓勢の聞え有ける。道後伊与郡三谷と言ふ処に至りて、氏寺を立て、多喜寺と号す。」とある。
桧垣…伊勢皇太神宮の三神主の一家に度会氏がある。祖を天牟良雲命とする。この度会氏の一族に箕曲氏があり、箕曲貞雄の名が見える。曽孫の常行が桧垣を称した。根元を辿っていくとかすかながらも伊勢の出といえる。
兵頭…肥後の菊池氏の系図に、菊池則隆―経隆(号、兵藤警固太郎)とある。経隆が兵頭を号したのちその子経頼・通倭もともに兵頭を称した。経頼の手の経長は天草兵頭大夫と呼ばれた。泉貨紙といわれる紙の製法を考案した泉貨居士は俗名を兵頭太郎左衛門尉通正とい慶長二年(一五九七)二月二八日卒。墓は野村町にある。
二神…二神島(中島町)を出自とする。「南北朝の頃、二神十郎左衛門等あり」と『予章記』にある。『南海治乱記』には「二神修理進あり、海賊の大将なり」の記事が見える。松山周辺と城辺町に多い。二神淡水は城辺町の里正で郷士格の家柄、幕末長州征討に際して民兵を率いて参加する。二神氏系譜は『伊予史料集成』五巻に所収。
正岡…風早郡正岡村より起こる。河親経の弟北条六郎大夫康孝の子経孝を先祖とする。越智系図に「経孝正岡祖」とある。正岡雅楽助、正岡十郎入道、仝弟中務焏尾張守などの名が一族として『予章記』に見える。玉川町仙遊寺には正岡左衛門大夫の寄進状が保存されている。正岡子規、名は常規、幼名処之助、または昇。
松浦…肥前国に末羅がある。魏書東夷伝にある末盧とあるに比定される地名である。のち松浦郡となる。安倍宗任が出家して筑紫にいたり、その子孫肥前にあって松浦水軍として威を振ったという。別に和泉松浦がある。佐々木義清の後胤二位田元氏が和泉国松浦にありその子元定が松浦を称したとされる。『予章記』に「正平中、松浦氏等恵良山に楯籠る」の記事がある。「文禄中、宇和郡立間城主土居式部大輔清良の家臣、松浦伝次貞家は農業経済に精しく宗案と号す」ともある。日本最古の農書のひとつといわれる「親民鑑月集」の著者との説もある。
薬師寺…下野国薬師寺より発したとされる。藤原秀郷の八世の子孫にあたる小山朝政の孫の長村を祖とする。薬師は薬師瑠璃光如来の略で、衆生の病苦を救い無明の痼疾をいやす仏である。その薬師如来を本尊とする寺が薬師寺である。吉田町・三間町に薬師寺が多く、宇和島市には薬師神がある。

 ここにいくつかの伊予の名字をとりあげて寸描したが、名字の発する由縁を正確にたどることは困難である。ことに系図そのものの真贋を判定することはできても、記載事項すべての真偽を確かめることは絶望的ともいえる。近世にいたり、幕府においても各藩にあっても家譜の監修編纂がおこなわれ、武士階級の基本単位としての家の由緒が辿られた。この間、いわゆる系図書きの専門家もあらわれて、名字の出自と系譜とはますます昏冥の彼方におしやられたかの観がある。家の直系は系譜や過去帳によって辿ることは可能であろうが、その分家・分流・姻流を直系譜の記載に求めることはむずかしい。史書・戦記物などに見える名字を自家の名字と結びつけることもあったのではないかと推測される。名字の固定と偽作の経緯、身分制度の確立と庶民の名字、名字の公称などは興味ある問題であろう。

 『新撰姓氏録』・『尊卑分脈』・『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』・『古事類苑』の姓名部・太田亮『姓氏家系大辞典』・吉田東伍『大日本地名辞書』・治田頼輔『日本紋章学』など名字を考察する基本ともいえる諸書を見ることが出来る。柳田国男の「家名小考」『地名の研究』を参考にすることも出来る。阿部武彦『氏姓』・渡辺三男『日本の苗字』・丹羽基二『姓氏』などの研究書を繙くことも出来る。県下の家名・名字についての画期的な業績は宇和島藩庁伊達家史料のうち『家中由緒書』上・中・下の出版である。近代史文庫宇和島研究会(代表者・三好昌文)が編集発行した。史料の分析研究がすすめば宇和島藩家臣団の動向が明確になるのみならず、名字についての意識や感情など人間的な思いが甦ることが期待される。概説書としては村上順市編『伊予の姓氏』が愛媛文化双書の一巻として復刊された(昭和五五年)。入門書として参考になる。なお、読みものとして秋田忠俊「伊予の名前事典」(愛媛新聞朝刊 昭和44・1・1~12・31連載)がある。

愛媛名字百傑

愛媛名字百傑


図10-1 別子山村の屋台

図10-1 別子山村の屋台