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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

五 節分と初春のほがいびと

 節 分

 立春前日の節分を一般にセツブンというが、正しい呼び名はセチブンである。節分かれで、季節が冬から春に変わる折り目ということである。元来、節分は土用と同様に各季節ごとにあって、立夏・立秋・立冬は、夏(五月)、秋(八月)、冬(一一月)のそれぞれ節分である。しかし、今では春の節分だけが残った。節分境に年が改まるという観念があるからであろう。前日をトシノヨ、トシノヨサ、オオトシ、コドシといったりする。太陰暦でいうと、この前後に正月が来たりすることがある。立春前に新年を迎えるのを「年内立春」といい、古今和歌集に「年の内に春は来にけり、この春を去年とやいはむ今年とやいはむ」という紀貫之の歌があるが、これがその年内立春を詠んだものである。つまり、立春を一年の区切りとする考え方のあったことを窺わせる。三間町や肱川町・城川町などには「土用のサメ」という言い方があるが、これは先に言ったこの日をもって冬の土用が終わって、春を迎える節日であったのを言ったものである。
 節分といえば、豆撒き・鬼やらいがすぐに思い浮かぶが昔の人はこの日を重要視していた。正岡子規『墨汁一滴』(明治三四年一月一六日の条)に、松山の節分について次のように記している。

節分に豆を撒くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。況して其外の事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様は猶をかしき事多かり。其日になれば男女の乞食ども、女はお多福の面を被り、男は顔手足総て真赤に塗り、額に縄の角を結び、手には竹のささらを持ちて鬼いでたちたり。お多福先づ屋敷の門の内に入り、手に持てる桝の豆を撒くまねしながら、御繁昌様には福は内鬼は外といふ。此時鬼は門外にありて、ささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入ろうか、と叫ぶ。其いでたちの異様なるに、其声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐しく、若し門の内に這入り来なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありて斯くおびやかす時、お多福内より、福が一緒にもろてやろ、といふ。斯くして彼等は餅・米・銭など貰ひ歩行くなり。やがて其日も夕になれば主人は肩衣を掛け豆の入りたる桝を持ち、先づ恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き、福は内を呼ぶ。これと同時に厨にては田楽を焼き初む。味噌の臭に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団の下に敷きて寝れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数程紙に包みてそれを厄彿にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯の頭さしたるを戸口戸口に挿むが多けれど、柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。節分の夜に宝船の絵を敷寝して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売り歩行こそ心得ね。(以下略)節分には猶さまざまの事あり。我昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが、星を祭るとて燭あまたともし、大般若の転読とかをなす。本堂の檐の下には板を掲げて白星黒星半黒星などを画き各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は善過ぎて却て悪きなり、半黒こそよけれ、などいふ。我もそを聞きて半黒を善きもののやうに思ひし事あり。又この夜四辻にきたなき犢鼻褌、炮碌、火吹竹など捨つるもあり。犢鼻褌の類を捨つるは厄年の男女其厄を脱き落すの意とかや。それも手に持ち袂に入れなどして往きたるは効無し、腰につけたるままに往き、懐より手を入れて解き落すものぞなどいふも聞きぬ。炮碌を捨つるは頭痛を直す呪、火吹竹は瘧の呪とかいへどたしかならず。
     四十二の古ふんどしや厄落し

 当時の節分習俗を描写したものであるが、きわめて的確で髣髴たるものを覚えるのである。明治三〇年代のことであるけれども、江戸時代の習俗を伝えたものと見てよかろう。この文中に見える習俗は現在なお行われているものもあれば、その一端が地域的に残存している場合もあり、節分習俗を再現する好資料である。

 えくさし

 節分には家の入口や窓に鬼のばらを刺す。オニグイ(タワラギ・トベラ)、柊、鰯の頭など異臭を放つものを竹に挾み、あるいはこれに女の頭髪を巻きつけて焦がしたもの―これをエクサシというのであるが、それを家の入口や窓口に差しておくのである。これを東宇和郡では「ヌワ(庭)の口ぞめ」といっている。囲炉裏のある地域では自在鉤にもつける。悪魔を退散させる呪物であるので、その効果を増大するために、土居町では、このエクサシをケンドで伏せて線香を一日中くゆらしておくという念の入れようである。
 節分の夜は戸締まりをいつもより早目にし、家族全員が揃うように努めた。もし家族のだれかが不在のまま豆撒きすれば、その者に災難がふりかかると言われた。またカタドンを取るといって外泊するのは忌みる風であった。
 季節の変わり目にまぎれて悪魔の入り込むのを防除するためにトベラやいわしの頭などの悪臭を放つものと、ヒイラギ、トベラなどトゲのある植物を呪物に用いたのであるが、宇摩郡地方ではヒイラギをメツキバラといったりする。また女の頭髪をこれに巻き付け火であぶる所があるが、河辺村ではそれをエクサシといっている。同じ風は伊予郡の山間部から南予の一帯、宇摩郡、西条市西之川、周桑郡小松町石鎚など東予の山村地域にも見られる。広田村でも、トシノヨにはタラの木を割って、先端にヒビ(いいらぎ)の葉といりこ(煮干)に女の頭髪を巻きつけ、火でいぶしたものを、神棚、仏壇、出入口、窓口、囲炉裏の自在鉤などにつける。やはりこの呪物をエクサシといっている。このエクサシをつくるときに、中山町では「鳥つばさの口焼き、犬神へびの口焼き、野荒しけものの口焼き、立聞きする者の足焼き」と言って呪っていた。また東予市の庄内地方では「鬼やいのししの口を焼け」といったという。

 豆うち

 節分には豆撒きをする。豆うちともいう。焙烙を用い、コマゼで混ぜながら大豆を炒る。炒り豆は必ず一升桝に入れて恵比須様に供えてから撒くのが一般的習俗となっている。豆撒きはまず明き方から「鬼は外、福は内」と三度ずつ唱えて撒く。屋敷の内外、果樹、屋内の各部屋などに撒いて廻る。残り豆は、あとで自分の年齢数ほど食べる習わしである。
 しかし、漁村の豆撒きは少し変わっている。温泉郡中島町上怒和では、「だいめつ だいめつ おんてき(怨敵)退散 おんてき退散 福は内 福は内」と唱える。また越智郡魚島では船上でも豆撒きをしており、そのときは「ふか外、ふか外、ふか外、鬼は内」という。漁師の恐れる鱶の災難を未然に防ぎたいなりわいのうえからの発想である。 かく節分に豆撒きは必須の行事であるが、この豆撒きをやらない家や村落があったりする。たとえば渡部姓の家は、かの羅生門の鬼退治の渡部綱の故事にならってやらないのだと一般に言われる。また『御替地今古集』という古書に次のような記事が紹介されている。

当庄屋先祖まで毎歳節分の夜はりはり木葉をたき、大豆黒く煎り、篠いわし切さし、髪毛をつけ、焼きふすべ、たらの子にて即時に打殺候由。其後庄屋始め村中豆打ち申さざる由。当村ゟ他え出百姓も多く打ち申さざる由。怪敷事御座候。

 厄落とし

 節分の豆は呪力をもっていると信ぜられ、これで厄払いや災難除けをした。一般的には厄年者は年齢数ほどの豆に銭を添えて他人に知られないように四辻にそれを落としてもどる。長浜町では「厄落とします」といって、肩越しに放って後を振り向かないで無言でもどるという。人に見つからぬようにするのが秘訣であった。
 正岡子規の先の句のごとく櫛、髪ざし、手拭いなど身に着けていた物を四辻に落としてもどる方法もあった。大洲市菅田地区などでは火吹き竹を道に放り出していた。この厄落としを松山市興居島ではヤクノガレ(厄逃れ)といっていた。
 節分の豆の呪力はいろいろ言われ、厄落としのほか、撒いた豆を踏むと腫れ物ができる、そこ豆になる、初雷に食べると災難をのがれる。航海中に船幽霊に会ったり航行の見通しがきかなくなったとき撒くと助かるといわれる。また豆を炒った焙熔(コウラ)を熱いうちに家族の頭上に載かせて夏病みや頭痛病みの呪いをする俗信がある。

 ごくたげし

 農家にとって、今年の作柄はもちろん天候のよしあしは重要な関心事である。それで節分の晩にこの豆でもって、今年の天候や作物の作占いをしていた。それをゴクタゲシ(温泉郡川内町)、ツキヤキ、ツキシラベ(上浮穴郡)、ツキダメシ、ヒヨリダメシ(東宇和郡)、モノダメシ(南宇和郡内海村)、ヤキダメシ(宇摩郡新宮村)、コクダメシ(北宇和郡)などといった。  地域的な事例は繁雑にわたるので略するが、ゴクタゲシとは作物の作柄を占うことである。タゲシはタゲス=試すの意で「穀試し」ということだ。ツキヤキ(月焼き)は月豆ともいい、月の吉凶天候を占うのである。一二粒の大豆を一月から一二月の月に見立て、それを囲炉裏や火鉢の熱灰の上に置き並べる。豆が白変すればその月は晴、黒く焦げれば雨、裂ければ風、早く焼けてしまえば日照りという風に判定したのである。また水の張った容器に豆を落とし、その浮き沈み状態を見て作柄を占ったりした。
 なお、この豆炒りをするときには、パリパリ木と俗称する植物(豆柴ともいう)を用いる。この植物の枝を田畑にさしておけば作がよいとか害虫がつかぬともいうのであるが、豆炒りの際、各田畑の名称を唱えたり、作ほめをしながらこのパリパリ木を焚くのである。例えば伊予郡や温泉郡では「早稲、中稲、晩稲」と稲の品種を唱えたり、「米よし、麦よし、粟よし、黍よし」と唱えた。越智郡菊間町では「ふくらしば ふくらしば」と唱えたのである。

 なまこひき

 これは松山地方で行っていた行事であるが、ナマコヒキと称するもぐら退治の行事があった。影浦直孝の話によれば「節分の晩に青少年がたくさん隊をつくり、金盥や拍子木、太鼓の類を持ち出して、〝オゴラモチや御内にか、ナマコドンのお見舞いじゃ〟と呼ばわりながら家々の庭をさわぎ廻ることが明治初めから中頃まで行われた。無住の山伏が錫杖を鳴らして、〝誓文払い厄払い厄よけ厄ぬぎ厄落とし〟と唱え、各家の門口に立ってお布施を求めることもあった」(松山中央放送局編『伊予風土記』という。また松本常太郎によれば、松山市三津浜では「てんかいたちか おごらもちやおうちにか、なまこどんのお見舞じゃ」と歌ったという。(『三津浜誌稿』)。山本富次郎は「てんか いたちか おごらもちあ お見舞いじゃ なまこさんの お見舞いじゃ」と、節分の夜、七、八歳より一一、二歳ぐらいの男児が石油の空缶などを打ち鳴らして各所を廻るという行事があって、このように歌ったといっている。
 この風習は大阪、仙台などにも行われていた。岩手県気仙沼市では松山と同じく子供らの呪術的行事になっていて、その踊りを「なまこ踊り」といっている。所によると曳くものはなまこでなくて縄を丸めた束子のようなものであったり、関東などで藁打用の槌を代用したりする風であった。しかし日は一般に小正月であったようである。

 成り木責め

 なお節分にはナリキゼメということをしていた。果樹に対する呪法でキマジナイという所もある。南予地方では小正月の行事になっていた。
 松山地方では、節分に結実の悪くなった果樹に節分の豆を投げつけながら「ならぬと伐るぞ」と、結実を促す風が昭和初年頃まであった。北宇和郡三間町では、年男が果樹を棒で叩いて「なるかならぬか」「なりますなります」と自問自答して鎌または斧の類で幹に傷をつけ、その跡に酒を注いたり、飯をすり込んだりした。叩くだけの所も多い。中島町の怒和や二神ではキマジナイといい節分にしていた。
 東宇和郡では「祝い棒」をつくり正月一五日か一六日に、果樹に向かって「なるかならぬか、ならぬと伐るぞ」と唱えながら樹をたたいて廻った。同郡城川町下遊子では、飯を盛った茶碗を一升桝の中に入れ、フシの木の皮を剥いで、その先に十字の割れ目をつくり、そこに竹の割箸を挾ませたものを作る。一五日の夕方畑に行って柿その他の成り木をそのフシの木で打って廻った。それが終わると、その飯をフシの木の割れ目に詰め込み、注連藁で巻いてから屋根の軒端に差しておく。そうすると一年中空腹にならぬといわれていた。また同郡宇和町岩木では、桝に赤飯を入れ、三〇cmほどの祝棒と呼ぶものを作ってそれを大黒様に供える。この祝棒で成り木責めをしたり、若嫁の尻を「産むか産まぬか、生む生む」と言って叩いた。
 西宇和郡三瓶町布喜川では、この日を「元祭り」と称し、栗の木の径一寸くらいのものを長さ一尺五、六寸くらいに伐り、その一端を尖らし、他の一端に十字の割れ目を入れ飯をすり込んだものをモトマツリボウ(元祭棒)と称し、それで大黒柱を始め家の各柱を叩いて廻り、最後に家族一同の頭を叩く。元祭棒はあとで注連縄をくくって荒神様に供えておき、四月に苗代田に持って行って水口に立てた。
 元祭棒は他の地方でいう粥棒であるが、この一五日に炊いた飯をアマノガユと三間町では言った。『宇和島吉田両藩誌』所収の文政年中桜田某の随筆にも「十五日あのまのかゆとて小豆粥を炊くこと今以て変ることなし」とあり、すでに近世以来の習俗であったことがわかる。なお、成り木責めではないけれども、津島町では一六日の朝、フシツクの木で寝ている者を叩き起こして廻ると厄除けになるというのでしていたという。

 三番叟舞し

 お多福・赤鬼・春駒などのたぐいは、いわば招かれざる客であったと言えるが、これに対して農家の人々に待たれた新春の廻り芸人が「三番叟舞し」である。「三番叟さんに踏んでもらう」と言って、人形を舞して荒神祓いをしてもらうのである。それぞれに縄張りがあり、相当草深い山村にまで訪れて来た。
 広田村高市では、お福が来てお多福の面を被り、ほめことばを歌う。獅子舞い、猿回しなどが来て門付け芸をしたので、米・餅・金品などをやった。また旧正月過ぎには必ず定期的に三番叟舞しが廻ってきて、各戸の荒神祭りをし、宿の希望によっては魔除け・悪病除けの祈祷をした。この三番叟舞しは「木偶まわし」ともいい、部落ごとに泊まる宿が決まっていた。功徳のために木偶の衣裳を寄付する者もあった。高市へは阿波の小森米太郎がずっと来ているという。
 温泉郡東部へ徳島県三好郡より来ていたS氏からの聞き書き(昭和三四年一月二日)によると、彼の祖父は八〇歳までこの地方に来ていた。彼は当時六二歳で、少々身体が不自由なために三四歳になる息子を同道しておった。息子が四代目で、巡業に出始めてから一〇年になるといっていた。彼の縄張りは当地域で、川内町の海上、土谷・島ノ戸・落合・森・竹の鼻・堂戸・三軒屋・重信町の横河原・樋口・西岡・八反地・田窪・牛淵・野田・下林(定力・横根・八幡)・上林、それに松山市南梅本などである。株組織になっていて、この区域内しか廻らないのである。これを廻るのに三三日間を要するということであり、終われば徳島に帰って本業に従事するといっていた。
 三番叟舞しの楽器は鼓一つだけで、担いで来た箱の中から人形を取り出してつぎつぎと遣うのである。舞いの順序は、(一)荒神様を拝む、(二)春日神、(三)八幡神、(四)手力男命の黒い面をつけてノバセワラを拝む、(五)恵比須神の順で遣うのである。

 〈荒神様祭詞〉 そも地神さんに式三番叟の御神楽をあげ奉るは ナン作コウ作なきように 虫けら一切つきませんように 稔りよろしきように 御願い奉ります
 〈春日神の囃詞〉 どうどうたらぎ あらぎたらぎろう 処は千代まで お囃しましょう
われらは千秋三郎と 鶴と亀とのよわいにて 幸い心にまかしたり
名あるは滝の水 日は照るとも 泰蔵 常に唄うたり はァあいや おうはァおうはァ
天津乙女の羽衣を常にたいぞう唄うたり はァあいや おうはァ おうはァ
 〈八幡神の囃詞〉 あけまきや とうどうや いろまかりやとうどうやさしてはいたれども 舞の礼儀やとうどうや ありはらやありはらやわれはなじょさの翁とも そよやいづくの翁とも そうようやとも はァあいやァおうはァ はァあいやァおうはァ名あるは滝の水 名あるは滝の水 れいれいと 夜の月 鮮やかに浮んだり国土安穏 これ諸事の御祈祷なり はァあいやァ おうはァおうはァ
 〈手力男命の囃詞〉 おおさいや よろこびは このところ 式三番叟 諸事の御祈祷なりほかいもやらじ おんもうは(このとき目をむいで笑う) はァ あいやァ おうはァ おうはァ
 はァ えいえい(目をむく) あーらめでたや あとの太夫さまに けんぞう(見参)申そう
 めでたや 丁度参って候(手力男命が面をつける)たしらおんたちにて候
 あと遠し 随分ものに心得し おんみあとの役まかりたって候 されば候
 こんにちめでたき 色の黒き仰せのごとき 色の黒きこの状は 天下泰平五穀成就と踏み納めることいと易侯 しからば御祝儀の鈴を参らそう よう拝ましやな

以上が式三番叟である。最後の恵比須神はつけたり程度のもので、余興でするのだという。手力男命が黒面をつけるのは、日天様を岩戸より引き出すときに日焼けした状態を示しているのだという。

 〈東予地方の恵比須舞い歌〉
西の宮の恵比須三郎は 御誕生なされた なされた なされた 刻はいつよととえば 正月三日寅の一天 まだ卯の刻になるやならずで御誕生なされた なされた
なされたときは 鯛の刺身に数の子の肴 五、六杯ひっかけた
ひきうけ さしうけ 献が重なりゃ 目元ちらちら 足元ひょろひょろ 胸元たっくりしょ だっくりしょ
釣竿かたいで 浜辺づたいはよかろうか しゃんたら しゃんたら
金の釣竿 五色の糸で 大鯛小鯛釣りそろえて お船にのって 御殿にお帰りあらば
天下泰平 五穀成就 おさまる御代こそ めでたけれ
 〈中予地方の恵比須舞い歌〉
先はめでたい西の宮の 恵比須三郎左衛門の尉は 生まれ誕生いつぞと問えば 寅の一天正月三日 信濃の国のたけひが森で やすやすと卯の刻限に ご誕生なされた これの産着にや 錦が千反 綾が干反 産着の祝いにや 斗樽まき樽 酒は諸白
それの肴にや 鯛の刺身に 栄螺の壷焼 雀の吹物
長柄の銚子を握り 金の盃 大黒さんのお愛嬌
弁天さんのお酌で つぎかけ もりかけ 献が重なりや 足もとひょろひょろ 眼もとちらちら みなもと(胸元)たっくりしょ
磯辺を眺めりゃ 沖は大漁じゃ これを取らねばならぬと 釣竿かついで こがねの針で 錦の糸に 蝦の巻餌沖へと乗り出し じゃぼりこと投げ込み 大鯛小鯛の釣り上げ お舟に並べて 錦の帆を揚げ えいやえいやと西の御殿へお帰りなさる
天下泰平 五穀成就 一粒万倍 福はこの家に納まります
 〈南予地方の恵比須舞い歌〉
先ず 先ず めでたい めでたい 西の宮の恵比須三郎左衛門の尉 ご誕生なされた なされた なされた
信ある人には福を与えて 福を守り 神々と祝い申せば お蔵も繁昌 麿が生まれは いっそと問えば 福徳元年正月三日 寅の一天 まだ卯の刻に やすやすと御誕生なされたなされた
なされた なされた祝に お酒とあれば 斗樽 巻樽 長柄の銚子
弁天さんの お酌でつきかけ もりかけ 五、六ぱいもひっかけた ひっかけ ひっかけ ひっかけた
献が重なりや 目もとちらちら 足もとひょろひょろ 胸もとたっくりしょ
たっくり たっくり たっくりしょと 酔の機嫌に 遙か向うを眺めて見れば 大鯛 小鯛が ひちひち跳ねおる
それを釣ろうと お舟にとび乗り 金の釣竿 五色の糸に 針に餌をさし どんぶりこと 投げこみゃ
かっぷりこと喰いつく どんぶりこと 投げこみゃ かっぷりこと喰いつく
喰いついた 喰いついた 喰いつき 喰いつき 喰いついた 大鯛 小鯛 お舟に積んで 綾や錦の帆を巻きあげてもとの御殿にお帰りあれば
天下泰平 五穀は成就 沖の大漁 陸の万作 福はこの家へ納めおく

 かく囃し、人形を舞わし終わると、ノバセワラに御幣を立てるのである。この御幣は五月の苗代の水口祭りに立てるのである。この初春に来訪する芸能者には「宿」と呼ぶ民家が契約されていてそこに止宿し、判で押したように決まってやって来たのである。ポンポンと弾んだ鼓の音、諧謔的な祭文の調べが春の訪れを感じさせたものである。