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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 正月準備

 正月は盆と並んで二大年中行事である。特に正月は、一陽来復してものみなあらたまるということで諸行事も多様で、期間も長い。昔の正月はかれこれ一か月に及んだということは古老からよく聞くことばであるが、準備段階から二十日正月までの間を通算するとそれも言い過ぎではないように思うのである。また正月は、新しい年の意識が強かったせいもあって禁忌も多く、格別に手重く扱い対処する風であった。
 近年になってクリスマスのような外来行事や社会的、商業的な新行事が年中行事化して、在来の伝統的年中行事と混交したりして年の瀬がますます慌ただしさを増し、正月準備もゆっくりできかねるようになってきた。昔は年末年始にかけての諸行事があって、それらが一つ一つ正月を迎える意識をつくり、またそうしなければ正月は来ないものと考えられていたのである。以下、正月行事を正月の前後に区分して、正月準備と迎春行事、正月行事について大要を述べることにする。

 ことはじめ

 正月準備の第一段階をコトハジメという。一二月一三日がそれで、この日は正月準備開始の日ということであり、家の内外の煤掃きや清掃をなし、夜はささやかながら家族で祝宴をしていた。温泉郡中島町怒和では、昭和初年までたかきびの団子汁を食べる風があったといい、松山市の湯山地区では米の団子雑煮を作って神に供え、また家族一同でそれを食べて祝っていたという。これを越智郡上浦町などでは、日は二三日になっているが煤掃きをしたあとススモチを作って祝ったという。また同郡魚島村では、一三日を「煤取り節供」といって祝っていた。温泉郡重信町下林字八幡の森家では、一三日をコトハジメと称し、必ず正月の注連飾りのべをする家例になっており、終わるとフクワカシといって小豆粥をこれに供えて祝うのである。

 お松迎え幸木迎え

 一三日のコトハジメは、門松や幸木の用意をする日でもあった。この日をオマツムカエ(お松迎え)とかサイワイギムカエ(幸本迎え)といって、来年の明き方の山に出かけ、オンマツ・メンマツを伐ってもどるのである。正月の門松は、他人の山の松の木を伐ってもかまわないという慣習のあるところもあって、ぜひとも用意するものの一つであった。枝が三段、五段になった枝ぶりのよい松が喜ばれた。越智郡大三島町肥海では「花松迎え」といい、南予の諸地域ではオマツムカエ、マツムカエ、カドマツムカエ、ワカマツムカエなどというのである。
 松迎えと同様に幸木を迎えてもどった。それをサイワイムカエ(北宇和郡)、オサイワゲムカエ(周桑郡)、サイワイギナラシ(上浮穴郡)などというのである。幸木は、マツ・ナラ・クヌギ・クリなどの木が用いられる。一mくらいの丸太を二つ割にして注連縄などで結び、家の戸口(玄関口)の左右にもたせかけたり、門松の根元に三本ないし五本をもたせ掛けるのである。また、十数本を丸く束ねて門松を立てる台にしたりする風もある。地域によっては門松を用いず、この幸木を戸口にもたせ掛けるだけのところも見られた。
 幸木迎えには作法があって、伊予市稲荷では親子で迎えてもどる風であったといい、周桑郡丹原町高松では、戸主が幸木を迎えてもどると家内中の者が門口まで出迎えていた。その夜は幸木に五目飯をつくって供えた。この幸木は、正月後も保存しておいて五月の田植え時の田植飯を炊く薪木にする風の土地もあったのである。
 また喜多郡肱川町のように、門松を立てる杭を幸木迎えのときに伐ってもどるので、「門杭迎え」といっていたところもある。門杭は若松の皮をはいで杭につくるのである。南予地方では、別にオトココバシラと呼ぶ支柱を門口に立て、正面竹とか笠木と呼ぶ横木をこの支柱に渡して門型に組み、正面竹に注連飾りをはじめ、譲り葉、裏白をつけて飾るのである。また門松には、シメノホと称して稲穂をうち違いにして掛けたり、輪飾りをつけたり、蘇民将来と書いた木札をつけたりする。北宇和郡津島町岩淵では、このシメノホを四日のハタキゾメに扱ぎ落とすことになっていた。ンメノホは稲のモチとシャクの穂をシメの両端にうち違いにして掛けるようにしたものをいうのであるが、これは稲の取り入れ時に気をつけて取って置き、あとで述べるツレヅレの両端に垂らしておくのである。
 門松をお松様と呼ぶ土地があり、これを迎える儀礼まであったことは、門松が正月の単なる飾り物でなかったことを意味している。すなわち、正月神の依り代であったのである。門松はタテムカイするのを忌みた。山から迎えてもどって、そのまますぐに立てるのを忌みるのである。タテムカイをするのは仏の正月(巳正月)の場合の作法であるというので、北宇和郡広見町興野々などのようにムカエカザリを忌み、一晩必ずどこかに休ませて置き、その夜は供え物をして祭った。東宇和郡城川町下相では、その日は家の中に入れずに近くの田に立てて置き、晩に飯を炊いて供えていた。南宇和郡では、伐った日は一日山に置き、改めて迎えに行ったという。北宇和郡吉田町大良鼻では二四日に松を伐り、一晩は山に留めておき、二五日に改ためて持ち帰るのである。松迎えを二五日に行うところが多くなってきているのは、後の変化であろう。

 年 木

 門松、幸木と並んで正月までに準備すべきものにトシギがある。ツレヅレともいう。現在では南予地方でしか見ることができなくなったが、かつては松山地方でもサイワイギとかツレヅレといって設けていたものである。
 北宇和郡津島町では、トシギ・トーシギ・トシノキなどと呼んだ。毎年師走の二五日に新しく、竹・タラノ木・樫・松などの木を用いて作ったのである。しかし古いほどよいのだということで永く常設する家もあって、何か不幸事があったときに作り変えていた。松の丸太に平年なれば一二本、閏年なれば一三本の縄の節をつける。すなわちカケノヲ(掛けの緒)という綱を丸太に結び付けてヨコザの前の壁に掛けるのである。家を入った内土間の天井に吊り下げている家もある。一二本の縄の節を結び付けるところから「一二節」、「一二の節」とも呼ぶ。これに大根・蕪・シメノホをはじめカケノイヲ(主として鮭や鱈の塩物)等正月用の御馳走の材料などを吊しておくのである。懸の魚は嫁いだ娘や養子に出た息子等が、歳暮として足袋・手拭い・米一升に添えて持って来ることになっていた。歳暮の懸の魚は両親健在なれば一対、片親なれば一匹を親の生存中贈ることになっている。この歳暮をカカノリアゲと称している所がある。上家地では、嫁の里へ両親揃っている場合は二つ、片親の場合は一つ、別にオカサネ(二升餅)一重ねと懸の魚に金封を添えて大晦日に聟が持って行く慣習である。それを日振島ではコイワイノモチといっている。なおこの懸の魚は田植のオサンバイオロシやサンバイアゲ(サナブリ)の魚に用いられたのである。
 年木に添える物は、この外に松明がある。この松明は元旦の若水迎えに用いるので若水ボテと称した。若水汲みが終わるとまたこの年木に掛けておくもので、二本作って年木の両端に掛ける。若水松明には、五月の田植の際の初めて牛を仕立てるときに用いたり、また走った(行方不明になること)牛を探すときに用いると必ず見つかるといわれた。なお、落雷で火事になったときにこの松明の火を燃えている家の上を投げ越せば火災が消滅するなど呪力ある松明とされている。
 年木をツレヅレと呼ぶことは松山地方でも言っていた。伊予郡松前町徳丸では材料は竹であったが、これに輪飾り、若水松明一対、ホゴ(中に餅・田作り・干柿・蜜柑などを入れた)、若水手拭いなどを掛けていた。松山市興居島の重松家(神主家)ではサイワイギと称してこれを玄関の天井にスボ(三対)を揃えて吊しており、これに正月魚を吊している。

 箸けずり

 一三日の行事にハシケズリがある。正月神に供える膳や家族が雑煮を祝う箸は、栗か樫の箸を用いることになっていた。この箸を一三日に作っていたのである。北宇和郡津島町では、一三日の夕食後に、正月用の雑煮箸をシリフカという木で家族全部のものを作り、これを紙製の箸袋に入れて年中の使い箸にしていた。箸袋には水引をかけ名前を記しておく。南宇和郡御荘町でも正月の箸削りをこの日にしていた。

 注連飾り

 正月には各神棚や家の出入口、付属建物、家畜小屋をはじめ農具、山林用具、屋敷内の果樹などに至るまで注連飾りをつける。年を取らせるという意識からである。注連飾り作りはたいていは二三日、二五日、二八日などが充てられていて、新しい年の明き方(恵方)に向いて作るのが一般的作法であった。
 注連飾り作りを、カザリノベ・オシメノベという。これは縁起をかついだ表現である。色のよい新稲藁を用いて作る。
 注連飾りは地域による作り方の特色があるが、最も一般的な注連飾りはエビジメ、ワジメ、ナワジメの三種類である。ナワジメにはたいてい、三・七・五のタレと呼ぶ足をつける。そのタレを濃密にしたものを中予地区ではオオカザリとかハカマカザリと呼ぶのである。注連飾りには山草(裏白)や譲り葉を必ずつけるのであるが、玄関の入口の注連飾りなどには別に橙(代々)、懸鯛、炭などをつける。また、恵比須様や大黒様にはエビカザリというのを飾る。
 さて、この正月の注連飾りをしない風習の家がある。温泉郡重信町山之内の杉原家、越智郡大西町別府の某家などでは、昔、大晦日にかざりのべをしている所へ訪問者があって、こんな時分にかざりのべをしている様子を見られるのを恥じ、慌てて隠したことから、以後注連飾りを廃止することにしたという伝説がある。なお『続今治夜話』によると、宝永のころ高木理兵衛なる武士が、元旦の年始礼に登城したとき途中で付髪の髭を落として無くしているのを知らずして登城した。彼は同心からそれを知らされ、驚いて急遽退出し、道中注意して探したが一向に見つからず、家まで帰り着いてみると門の注連飾りに付髷が引っ掛っているのを発見した。それで病気と称して当日は家に引き籠っていた。以来、高木家では注連飾りを廃止することにしたというのである。いずれも論拠のない廃止理由であるが、それが慣習として家や一族の家例になっているのは伝説とはいえ注目される民俗である。
 なお、これに関連して、「餅なし正月」「松なし正月」の伝承がある。正月といえば餅が必需品であるのに、その餅を搗いて正月を祝うのをタブーとする風習の家や一族があるのである。また、門松を立てない習俗の家筋があったりする。これについては別項で述べるつもりである。
 正月の注連飾りは特にオカザリというが、これはシメカザリの略称である。これを飾ってある所は正月を迎える神聖な場所であることを標示しているのであって、土地によっては家全体に注連縄を巡らしている場合もある。例えば温泉郡中島町野忽那などである。なお、本県における特異な注連飾りとして大三島のカンジョウがある。大手島町肥海では家の入口にする末広型の注連飾りをカンジョウというのであるが、これはカンジョウナワの略である。神を迎える勧請と関係する語で、その事例は滋賀県にもある。滋賀県滋賀郡堅田町では田神祭に氏神の鳥居に張る注連縄をそう呼んでいるのである。また温泉郡中島町野忽那では鶴型の注連飾りをしているが、これも特異な注連飾りの一つである。
 とにかく正月に注連飾りを神棚以外の日頃の生活用具のようなものや自転車、自動車、オートバイの類に至るまでつけることは日本人の物質観を端的に表現しているものである。
 なお、注連飾りの種類・形式は各種バラエティに富み、地域的特色もあれば、最近では近代的な注連飾りまで作られている。要するに注連飾りは正月の象徴物であり、稲藁という素材を用いての農耕民族が考案した極めてユニークな工芸品(つくりもの)であるというべきである。
 次に、一つの事例として松山市福見川町の松本家の注連飾りを当家の「記録」によって付記しておく。

   御飾の事
     十二月二十五日を吉例に調へる事左の如し
      左
一 御年徳神様 五垂れ飾
一 金比羅様  小飾
一 庚申様   仝上
一 神棚様   仝上
一 奥の間御床 目飾
一 天神様   小目飾
一 大黒様   仝上
一 上座敷御床 目飾
一 三宝大荒神 七垂れ飾
一 水神様   小飾
一 地神様   仝上
一 塚神様   仝上
一 日天月天様 仝上
一 土蔵入口  五垂れ飾
   両土蔵共
一 土蔵大黒様 小目飾
   両蔵共
一 門 口   五垂れ飾
一 高宮様御神 小飾
一 若 水   小飾
一 佛だん   〃
 (家ノ人ロノ事)
一 庭 口   仝上
一 居間(ヨマ)口 仝上
一 座敷ロ   仝上
一 露地口   仝上
一 上座敷前ノロ仝上
一 上座敷南ノロ仝上
一 奥ノ間裏  五垂れ小飾
一 裏 口   五垂れ小飾
一 味噌部屋口 小飾
一 勝手間裏  仝上
一 醤油部屋口 仝上
一 駄屋口   仝上
一 仝上裏口  仝上
一 下ノ小入口 仝上
一 ヤグラ様  仝上
一 木小屋   仝上
一 藁小屋   仝上
一 水 車   仝上
一 いなき   仝上
一 下便所飾  長丸垂れ飾
一 上便所飾  小飾
      以 上
   小飾方 二十五
  (この二行は消去)
  炭釜様あれば一つ増す
  氏神様
一 神 前   五垂れ飾
一 鳥居前   仝上
一 常夜燈前  仝上
一 各宮様   小飾三
一 拝殿前   小飾一
一 社内 拝殿ト御殿トノ間 小飾一
      以 上
   中村ノ分
一 神様 床様荒神様 小飾二
一 家入口   小飾形ノ大一
  一 裏口及居間ノ外 小飾二

 年籠り

 大晦日はオオツゴモリというが、オツゴモ、オツゴモリと略称したりする。新年を迎える夜ということで「お年越し」といっている所があるように、厳粛な気持ちで過ごすものとされていた。つごもりそば、年越そば、縁起そばなどと呼ぶそばを食べて越年することは現代も変わっていない。
 大晦日には寝ずに元旦を迎えることになっていた。「お年越し」もそうであるが、神社でオコモリ(忌籠り)する風があったのである。これを松山地方でトシゴモリ、西宇和郡でトシゴロウ・トシノヨ、一本松町ではトシノバンといっていた。神社の拝殿に炉が切ってあって、そこで暖を取りながら除夜を明かす風であったのである。南予の各地をはじめ、松山市伊台や津吉などでは大晦日に神社で焚火をしながらオツヤをしたそうであるが、この風は各地で見られた越年風景であった。
 年籠りは子供組や若者組の行事になっていた所もあった。曽我正堂の「随筆豆郷土」によれば、「大晦日の夜は、われわれ子供は挙って宵から氏神様に参籠した。ふるい鎮守には拝殿の一部に炉がきってあったので、割木を持ち寄って、徹宵でどんどん火をたいてこれにあたった。その後鎮守が改築されてからは炉がなくなり、火鉢の火にあたった。その火でもって餅を焼き、黒砂糖をつけて食べたり、相撲をとったり、児うとりその他の遊戯をしてつばへあかし、二番鶏を聞いてからうちへもどって来た。これがわれわれ子供の正月劈頭のたのしい年中行事の一つであった。」という。また北宇和郡広見町沢松でも、子供が神社の参籠所でお通夜をし、明け方に宿にもどって一同で新年を迎えた。このとき一五歳の少年は子供仲間を離脱して青年団の一員になる機会になっていた。
 大晦日の夜に氏神に参拝するのを「お年越え」と周桑郡地方ではいっている。温泉郡中島町睦月や津和地では、神社の鳥居元で茄子の木で焚火をし、この火で尻あぶりをしながら除夜を明かす風習であった。要するに大晦日は聖夜として過ごさねばならなかったのである。
 したがって大晦日は各家庭でも寝ずに元旦を迎えていた。囲炉裏に大きなホダ(丸太薪)二本をくべ、炉端で元旦を待つ風であった。これをトシトリクイゼ、トシトリホダ、クンゼイなどといっていたのである。上浮穴郡地方ではこのトシトリクイゼが長い間燃え続けるほどその家が繁昌するのだといったり、福の神がはいり込むという。西宇和郡でもそういっていた。中山町佐礼谷地区ではくぬぎとふしの木を囲炉裏にくべて、朝まで燃やし、庭口の戸を少々開けておくと金の馬が入って来るといっていた。この風は周桑郡などでも行われていた。
 クイゼの火は長く燃え続けさせるほどよいといわれているが、野村町では正月いっぱい、吉田町喜佐方では七日間、日吉村では三日といっている。城川町下相では一五日まで燃やし、焼け残り(ヒドメという)を盗人除けの呪物として戸口に吊したり、保存しておいて、五月の田植飯を炊く薪に用いた。北条市立岩地区でも除夜にホダをくべる風があって、元旦の若水汲みの松明にこの火を点して谷川へ汲みに行ったという。
 このように大晦日には年籠りをする風であって、寝ることは禁忌になっていた。したがって寝ることを「稲を積む」「くろを積む」と忌詞を用いて表現し、絶対に寝るとはいわなかったのである。