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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 死と衣服

 異常死者葬法

 死者の儀礼には実にさまざまな約束事があった。生活環境が激変し、昔ほどではないにしても死者に対する畏怖の念から今にいろいろな呪術的行為を伝えている。死者をねんごろに弔いまつろうとすればするほど、霊を管理する伝統的な呪法・儀礼が重視され、地域社会に固有な象徴的世界を描き出してきたのである。ことに四国は、四季折々のたたずまいや風景のなかに同行二人の遍路の姿をとどめ、鈴の音を残して通り過ぎてゆく人々の群れを迎えかつ見送りつづけてきた。このような文化環境は一つの宗派の教えを超えて、むらで生きる人々の精神史に強い影響を与えつづけてきたのである。
 四国八十八か所順拝遍路の行き倒れを弔うことは、むらの責務であった。各地に残る遍路墓の多くは、むらの人々が共同して手間や費用を出しあって埋葬供養したものである。はじめは杖を土饅頭の上に立てて墓標とし、笠を被せ草履を吊り下げた。引き取る縁者のない場合には、丸石や平たい並べ石を置き墓じるしとした。行き倒れの遍路に持ち金があれば墓石を建て供養した。遍路に限らず行き倒れがあれば、それぞれみなむらじまい(むらで処理する)であった。とりわけ流れ仏・エビスと呼ばれる海の水死体は、見知らぬふりをすると不漁になると信じられていた。八幡浜市大島では水死人を見つけると、発見者が死者を背負ってそら(山の頂上)の共同墓地に葬った。ジゲ(地下)の人々も皆それぞれ役について、丁重に葬って供養した。
 ところで、事故で亡くなったり、成人しないで亡くなった子供、懐妊したまま亡くなった人などは普通の葬法とは違った方法で弔われることがあった。戦没者の墓標も一般のそれとは形を異にしており、ところによっては施餓鬼供養碑を建てている。死後まつり手のない亡者とか、異常死者には特別の手続きと供養をしないとその霊が安住せず、成仏できないと信じられていたのである。不幸にして亡くなった死者の霊は、この世にさまよい出て災いをもたらすと怖れられており、そうした霊をこの世の側から管理していくことがむらで生きる人々の務めであった。
 伊予三島市富郷町では、川で溺死しかかった者を生き返らすにはカラカサの骨で火を焚き温めると、みょうに息を吹き返したという。一方、越智郡伯方町では水死人を火葬にすると死者の身体に潜んでいるエンコが驚いて外に飛び出して海にもどって又別の人を引き込むというので、葬式には火の気を断っていたという。水死のことを、エンコに尻をぬかれたとか、尻に藻をかむといった。津島町御槇地区では溺死した者はミサキになるといい、ミサキは人を水中に引っぱり込むといった。野村町惣川では人に悪戯をする仏をガキボトケといい、その集まりをミサキという。上浮穴郡では水死者があるとカワワタセ(川渡せ)をして供養した。久万町では葬式後遺族が川に行って花柴をちぎって流した。
 事例1 上浮穴郡美川村では水死人があると、川に白布を張り、川辺で線香をあげ、ロウソクを点し舟を作って菓子などを供え、餓鬼仏の供養とした。柳谷村では、谷川に百塔婆を立て、白布を張り花柴を供えて布の真ん中に石を一個置き、これに道ゆく人々に水を掛けてもらった。大勢の人にかけてもらうと供養になるといい、百日ざらしといった。布が朽ちて破れるまで掛けていたという。
 生まれてくる子供がっぎっぎと亡くなることをクルマゴといった。久万町では、棺の四隅に桑の木の股になった部分を立てておき、コノシロ(魚へんにつくりが祭)という魚を一緒に入れて葬ると次に元気な子ができるといわれており、津島町御槇地区では、嬰児が死ぬとコノシロを添えて埋める習わしがあった。こうすることによって、亡くなった子が早く生まれ変わることができるとされている。越智郡宮窪町余所国では、生まれて七日くらいまでのまだ名前がつかない子供が死んだときには、縦二〇cm横五cmくらいの竹三本を寺から貰ってきた。これをミチフダといい、戸口から道に向かって立てた。これを「ミチフダでいなす」としていた。子供が亡くなった場合には大人なみの葬式をださず、持物をひとつ減らしたり、賽の河原と呼ぶ子供だけの墓地に葬り、地蔵に赤い前掛をかけたりした。伊予三島市中ノ川では、長男が年若くして死亡したとき、家の近くにある畑に土葬し、死者にその畑を相続させようとしたといい、これをワケメバカと呼んでいる。年若くして亡くなった子に何一つ相続させてやれなかったことを不憫に思う親心があった。伯方町では、流れてきた死者や無縁仏を地蔵さんにしてむらの辻に立てて供養したといい、吉海町椋名では結婚しないで死んだ人は地獄で鬼にあったとき、お地蔵様が助けてくれると伝えている。今日でも水子地蔵や交通事故現場に建立される身代わり地蔵などをあちこちで見かけることができ、現代社会の一断面を照射している。
 吉海町椋名では、産で死んだときにはウブヤボトケといって地味な葬式をした。久万町では懐妊したまま死亡すると新鎌に杉の木の柄をつけ、鎌を研がずに妊婦の腹を割って胎児を取り出し、身二つにして葬った。津島町御槇地区ではその子を逆さに負わせて葬ったといい、大洲市蔵川では難産で親子とも死ねば背中合わせに葬るという。また上浮穴郡小田町では、石手寺の霊水を貰ってきて墓に掛けると成仏するといった。そのうえ、産婦のために流れ灌頂をすることがあり、ゴウザラシと呼んでいた。伊予三島市富郷町では白木綿を川ざらしするといっている。
 事例2 瀬戸町三机では、白木綿に石を入れ四隅を吊して水を掛け、その布が破れて石が落ちたら成仏できるという。難産で亡くなった人が血の池地獄に落ちないための呪いであったという。
 事例3 野村町惣川では、道端の小川に一尺ないし一尺五寸四方の白布に四本柱を立てて張り、竹杓子を備えておいて、通る人に布に水を掛けてもらった。これを「千人の人が水を掛けるとよい」といって四十九日間さらしておいた。

 魂呼び

 臨終にさいして、死者の名を大声で呼び、去りゆく魂をふたたび呼びもどし、蘇生させようとする習俗があった。病人の枕元でフリゴメといって、竹筒に米を入れ耳元で振ると息を吹き返すといわれていた。越智郡関前村では、茶碗に酢を入れ、雨だれが落ちかかる石を焼き、中に入れて臭いを嗅がせると生き返るという。また、ヨビカエシ(吉海町椋名・宮窪町・野村町惣川)とかヨビモドシ(宇和町・一本松町)、ムネヨビ(日吉村犬飼)といい、近親者か近所の人が箕・団扇・タコロバチ(菅笠)などを屋根の棟や破風であおぎながら、死にかかっている人の名前を呼ぶことがあった。喜多郡肱川町大谷では瀕死の場合に行ったといい、大洲市長谷や蔵川では子供や若い人が死んだ時、伊予郡中山町中山・越智郡弓削町では難産とか急病人の場合などに限られて行われることが多かったという。宇和島市薬師谷では箕を伏せて「もんてこい、もんてこい」という。八幡浜市若山では箕で扇ぎ病人の名を呼び「もどれよ」と大声をかけた。重信町上村では三~四人が屋根の棟に上がり東に向かい、箕を逆さにして招くように振り「○○さん帰れー」と呼び、中山町中山では棟にまたがり箕を持って病人の名を呼び続けた。北宇和郡広見町清水では近所の人が棟に上がり、箕を振って「もどれ、もどれ」と呼んだ。柳谷村西谷では離れたショウネを呼び戻すため、箕に一升桝とトカキを入れて、箕を振りながら音をたてて名前を呼んだ。同村柳井川では屋根に登り一升桝の底を叩き死者の名を呼び「もどれる、もどれる」と連呼した。新宮村馬立では棟の上で桝のロを下に向けて持ち、底を叩きながら名を呼んだ。だからなんでもないときに桝を叩いたりうつむけることを嫌っていた。野村町惣川でも一升桝を伏せて名を呼んでいる。肱川町予子林や一本松町増田ではタコロバチ(菅笠)で煽いだ。一本松町では難病で死にそうな人があれば、その夫がタイタイコロバチを持って屋根にあがり、煽ぎながら名を呼んだ。東宇和郡ではベカコと呼ぶ大団扇で煽いだという。屋根の瓦をはいで名を呼ぶこともあり、弓削町佐島や宇和町田野中などで伝えられている。
 事例1 大洲市蔵川では、人の急死の場合に呼び返すことかある。縁者は枕元で、近所の男は屋根の棟に登って「○○殿よ! 戻らしゃれよ戻らしゃれよ」と呼ぶ。三途の川を渡らぬ内なら戻ることがあると信じられていた。
 事例2 宇和町では、人が死にそうになったとき、屋根の棟に上がって「○○さーん戻って来いよう」と大声で呼ぶ。この時箕で四方に向かって招いたり、衣類を振って呼ぶ。ときには棟の瓦をはいで穴をあけたりする。

 告げ人

 近隣・親類・寺・役所への死亡通知や葬具の買い物は必ず二人使いであった。北宇和郡三間町では、オトといい、伊予三島市富郷町ではワザビト、上浮穴郡美川村ではハシリヅカイといった。佐田岬半島では、一人で行くと魔がさすから必ず二人で行くといい、伊予郡広田村では二人立ての使いという。重信町では二人連れの客が来ればろくなことでないといわれていた。使いは他所へはいっさい立ち寄らずに戻り、越智郡玉川町では何の知らせか聞き返してはならないといっている。知らせを受けた家では、告げ人に何でもよいから飯を食べさせることになっており、後日の香奠とは別に「お見舞い」といって何か見舞いの品を持参する習わしもあった。
 事例1 宇摩郡新宮村では知らせは二人で、木で作った刀を腰に差して行くことになっていた。
 事例2 越智郡関前村では、寺行きは組の者が行き、米一升と金を持参しており、オハチといっている。
 事例3 東宇和郡城川町土居では、寺への知らせには死者の着物か所持品を持参した。通知を受けた僧は本尊仏に経をあげ、枕経をあげた。
 事例4 南宇和郡内海村では二里の道のりは大役であると二人で告げに行った。昔は、喪家から弁当代として五銭貰った。

 魔除け

 死者を北枕に寝かすことをマクラガエといった。城川町土居では北枕にして顔を西に向けた。西条市西之川では西枕にしたという。野村町小松では、死者の枕を不意にはずし再び元のようにした。これをマクラオトシといった。大洲市蔵川では、北枕にして雨だれの小石を拾って石の枕をすけさせた。宇摩郡別子山村では、死者は病床から座敷の床の前か次の間の上座に移し、病中の蒲団を取り替えることをネザトウシといった。南宇和郡一本松町では猫をショーゲで覆い、魔除けの鎌をかけた。津島町御槇地区では、猫が死者の上を越すと死者が踊り出すというので必ず籠か桶の下へ伏せ、死者の室には刀か鏡をおいて魔払いとした。八幡浜市大島では、カシャが来て死体を取ってしまうので、棺の上に髪剃を置いている。大洲市では魔除けの刃物を置き、これを置かないとき猫が通ると死者が立ち上がったり這い出すといい、城川町高川地区では刀・鎌などの刃物を置いていなかったら、猫がまたいで死者が立ち上がって天井に上り、家のハリから飛んで行ったといわれている。新宮村や別子山村瓜生野・野村町惣川では刃物とともに箒を置くことがあった。南宇和郡城辺町脇本では、死者がはい出さないために冬でも蚊帳を三隅だけ吊る。そのため、平生にそうすることは忌まれている。猫やカシャの外にテンマルという妖怪が人を食うというところもある。また、逆屏風で死者を囲い、その着物をオイといって逆に掛ける風習がある。
 事例1 新居浜市では、顔に白布を覆い、北枕に寝かし逆さ着物を掛け、枕辺に屏風を逆さに立て回し、魔除けのため枕元か死体の上に刀とか刃物を置いた。
 事例2 南・北宇和郡では北枕にして顔を西に向かせて白布を掛け、蒲団をふかぶかと被せた上に、生前の着物を逆さに掛ける。枕元には逆さ屏風を立て、猫が近寄らないように鎌を掛けた。
 このような事例は、別子山村や新宮村、宮窪町、大洲市、宇和町、三瓶町和泉などでも伝承されている。

 縄襷・縄帯

 遺体を棺に納める前に、湯水で拭くことを湯灌といった。死者の近親者が左縄の襷と帯をして半裸になって行った。宇和島市九島では着物を左まえにし、三尺の縄帯を締めたといい、重信町では右肩から左へ縄襷を掛けたといい、中島町では左縄か麻緒の襷を掛けた。また今治市馬島では左縄の荒縄を襷にした。三浦福太郎は「この作法はあとで着物を焼きすてる必要もなく、死体に残っているかもしれぬ魂の移りこもることを恐れ、死忌に対抗するための手段であろう」と述べている。
 事例1 西宇和郡瀬戸町川之浜では左綯いの縄襷を「洗い襷」と称し、真ん中に一本だけ垂れのついた襷で、掛け方は普通の襷掛けと逆にかけた。
 事例2 伊予郡砥部町では入棺の前に死者に身近い者が湯灌をする。入棺が終わるまで左綯いの縄で襷をかけていた。

 死装束

 死者に着せる白装束はシニギモンとか経帷子と呼ばれ、その仕立かたには独特な作法があった。東宇和郡宇和町では、鋏を使わないで作り、縫糸の節は他人がしたもので縫ったという。越智郡生名村では一反の木綿で手拭い、脚絆、頭巾を作ったという。宇和島市九島では丈三尺の白さらしで作った。
 事例1 新居浜市では、白さらしの衣類を身近な女子が集まって通夜の夜一部分ずつ縫った。布を裁つには、鋏を使わず手で引き裂き、縫糸には結玉をつくらなかった。
 事例2 越智郡宮窪町浜では、白装束は嫁や娘など必ず三人で縫うものとされていた。
 事例3 上浮穴郡では、死者の白衣も昔は全部自家で綿をつむぎ、機で織って用意していた。同郡久万町では、物差しを使わず、大勢で縫いあげ、縫い終わったら冷酒を飲み、酒で針あらいをした。
 事例4 大洲市では身近な人が寄り合って白衣を縫った。短時間に仕上げねばならず、鋏を使わないで一枚を幾人かが引っ張り縫いをし、一か所を両端から縫うことにもなっていた。白衣が縫いあがると縫った人に冷酒を出した。
 事例5 南・北宇和郡では、死者には晴れ着の上に晒の三尺着物を着せる。鋏を使わずに裂いて裁ち、ぐし縫いにする。留めるところは他人にとめてもらって自分では留めない。着物には衿はなく、その布切れを帯にした。身うちの女達が作るところと、城辺町では死者と血のかからぬ親戚の女や他人の婆さんたちが寄って作るところがあった。同町脇本では三人と人数が決まっており、棺と三尺着物は死んだ翌日に作っていた。 今治市桜井や新居浜市では、自身が生きているうちに経帷子を作り、四国八十八か所の霊場を巡拝して持参の経帷子に直接納経を取り、亡くなったとき着せてもらうのを例としており、佐田岬半島では善光寺参りの経帷子のある人はこれを着せたという。
 事例6 伊予郡松前町では死者に晴着を着せ、その上に白衣を着せるが左前にし、手甲、脚絆、足袋も左右違えて履し、サンヤブクロを下げさせた。
 事例7 伊予三島市富郷町では死者に着せる衣類は、男であれば紋付を着せ、女であれば晴着を着せ白装束を着せる。子供には晴着を裏返して着せるだけであった。
 事例8 東宇和郡野村町惣川では、死装束は下着に生前その人が一番好んでいたものを着せ、上には白衣を着せる。長命で亡くなった場合は右前であるが、年寄りより先に若い者が死んだときには逆に左前に着せた。
 死者に死装束をつけ頭にはヒタイツキ(新居浜市)・ヒタイボウシ(西条市西之川)・スマボウシ(津島町)などと呼ばれる三角布を被せ納棺した。サンヤ袋には六文銭や死者の好物を入れたが、ワラジやキリバナ、樒の葉を投げ込み、入棺のとき涙を落とすと死者が成仏できぬということが越智郡玉川町ではいわれている。同郡魚島村では木鍬を作って入れた。木鍬は死者が極楽に行く途中にある壁を打ち破るために入れるのだという。また宇摩郡新宮村の高知県境に近い地域では、正月に女の人が亡くなると七人続いて死者が出るというので、女の死者には腰に刀を差したり髪を坊主にして男にしたてて成仏させた。西条市加茂では、入棺のとき、身体の悪い人はその所を紙でなでさすり、その紙を棺の中に入れておくと死者が持って行ってくれるといっていた。

 喪 服

 新居浜地方では、位牌持ちやお膳持ち、墓標持ちなどは額に三角形の白紙をつけて葬列に加わるが、以前は各地ともそのようであった。
 西条市西之川ではヒタイボウシを着けるのは位牌持ち・お膳持・六地蔵・棺担ぎ・天蓋の役にある人々であった。喜多郡長浜町青島ではイロと呼ぶ白紙を着物の衿に挾んだり、温泉郡中島町では女性は髪型を泣島田、残念髷と呼ぶ結い方に替え、綿帽子を被っている。三角布については諸説があり、解釈はさまざまだが、三角形にはある種の呪力があると思われていた。また新調の喪服をおろし初めするときには、喪家の大黒柱に逆さに着せ、帯を締めてから着初めをして不幸除けの呪法としていた。
 事例1 北宇和郡津島町御槇地区では死者にスマボシという白紙の帽子を被せる。額の部分が三角形で他は細く、頭の鉢を巻くようにしたもので、これは一枚紙でこしらえる。葬列の位牌持ち・飯持ち・天蓋持ち・ガンを運ぶ役の者たちもこれと同じものを着ける。
 事例2 越智郡吉海町椋名では女性の場合、白無垢に綿帽子・かつぎである。婚礼のときには横に被るが、葬式の時は長くたてに被った。ホウカンは白紙でつくり、梵字を書き、こよりの紐をつけた。同郡魚島村では、親戚か親しい間柄の女性はオソレという白紙を細く切ったものを頭髪に結びつけ、さらに白布を頭に被っていたが、今では白布を被るだけである。

 願ほどき

 ガンモドシ(伯方町北浦)・ガンホドキ(中山町)といい出棺に際して茶碗を割り、細かく割れた方がよいといわれていた。大洲市蔵川では見事に割れたら死者の霊が極楽に行って成仏するといい、南宇和郡一本松町では割れた茶碗を屋根に投げ上げていた。喜多郡長浜町では軒下に投げつけた。越智郡玉川町では棺が軒下にかかった所で、死者が生前使用していた茶碗(じょうぎ茶碗)を割った。またこれとは別に宇摩郡別子山村では病人の平癒祈願を掛けてある場合は、病人の平素身に着けていた着物を逆さに持って家の入口で振ることがあった。越智郡の島嶼部では木製のひ杓の底を抜いた。
 事例1 伊予三島市富郷町では死者の着物は伐りたての青竹に二重にうち掛けた。
 事例2 越智郡伯方町北浦では、死者が生前に何か願を掛けていた場合には、死者の着物を逆さにしてオモテで振るった。これは野辺送りに行かないで家に残っている者がしていた。同郡吉海町仁江では、戸口か門口に棒を立て死者の着物を掛けておいたといい、同町椋名では、願もどしはカケギモンといって棺の上にその人の一番よい着物を掛けておき、墓地に埋めるときに逆さに振るったという。
 事例3 伊予郡中山町では棺に被せていた衣類を振るって願ほどきをしたあと、衣類は寺に納める風習であった。

 棺 覆

 棺の上に死者の着物を逆さにうち掛けるのを棺覆といい、東予市では棺蓋の上に生前の羽織紋付の礼衣を逆さに掛け、小脇差を置いたという。温泉郡中島町ではこれをウチオイと呼び故人の着物を逆さに掛け、あとで善の綱とともに寺へ納めた。
 事例1 東宇和郡野村町惣川では夫が亡くなった場合は妻かその子供が棺覆の布を寺へ持って行った。
 事例2 南・北宇和郡では棺の上に紋付着物などをカンオオイとして仏壇の前に安置し、のちに寺へ納めた。
 事例3 喜多郡肱川町や上浮穴郡美川村・伊予郡双海町では葬列の役目に覆というのがあって、棺のうしろで死者の最上の着物を家の跡継ぎの嫁が持っていた。後日着物は寺へ納めた。
 事例4 大洲市蔵川では、葬式の翌日、親類の者が大勢で盛装して寺参りの行列をした。棺覆は亡者の形見の一枚で、代わる代わる寺まで持って行き神仏の位牌に参拝し、覆の着物と焼香金を納めた。
 事例5 伊予郡中山町出淵では死者供養のために生前愛用していた着物などで打敷を作り、菩提寺へ奉納した。

 善の綱

 葬列のなかにゼンノツナ(善の綱)といって棺の前につけて死者に身近な女達が持っていた。南宇和郡一本松町では名残の綱と呼んでいる。『大洲旧記』巻七には「一、布一反にぜに五百文中へつつみ、ぜにのつなに可ㇾ仕事。」という記事がある。
 事例1 伊予三島市富郷町では、棺にはサラン木綿を巻き、これをゼンノツナといい、近親者が棺の近くを持ち、これを持つ人が多いほど良いといった。ゼンノツナはあとで寺に奉納した。
 事例2 新居浜市では近親・親戚・近隣の婦女が喪服にカツギか綿帽子を被り、直接棺より出しているゼンノツナという白布を引いて棺の先引をした。この人数が多いのを盛大な葬儀とした。
 事例3 吉海町椋名では二反続きのさらしをゼンノツナといって女の人達が持ち、その後に棺が続いた。同町余所国では血の濃い人が棺の近くを歩きゼンノツナを引っ張り、若い人が死んだ場合には、年寄りが前の方を引っ張ったという。この善の綱は寺から貰ってきた。一反のさらし木綿で残った布は、新盆のタカバタにした。同郡生名村では天蓋のあとに、白い長い紐を近親者の女性が持ち、白い綿帽子に白りんずで悲しみながら仏について行った。同郡伯方町では善の綱を引っ張るのは二反の長さを持てる人数としていた。
 事例4 今治市馬島では善の綱は棺の後につくのが普通であるが、老人が死んだ場合には年寄りだからといって、棺の前について引いて行ったという。

 役草履

 ふだん鼻緒が切れると縁起でもないと、なにか不吉な前兆とすることがあった。伯方町北浦では、草履の緒に紙を巻き棺担ぎ・位牌持ち・水持ちが履き、葬式が終わって帰る途中でその鼻緒を切って帰った。
 事例1 西宇和郡瀬戸町川之浜では、棺かき・位牌持ち・糧事持ちの履いた草履を役草履といって、それぞれの帰りの途中へ脱ぎ捨てて帰った。これを拾って履くと、あかぎれによく利くといい、老人のなかには捨てる前から予約している者もいるという。
 事例2 越智郡宮窪町余所国では露餌を持つ人・位牌を持つ人・棺をかく人が草履を履き、帰りに墓へ脱ぎ捨てて帰る。この草履を人知れず盗んで履くとよいことがあるという。
 事例3 温泉郡中島町野忽那では、葬式から帰るとき位牌持ち・枕飯持ち・棺かきの者は寺下の浜で潮に三回つけ、左に三度回ってから鼻緒を切り草履を捨てて帰った。

 潮祓い

 死穢の除去をはかるため野辺送りから帰ると塩祓いをする。越智郡上浦町瀬戸では葬儀が終わるとビヤドウを持って行ったトドケと棺を担いだ人は浜の潮で浄めてから家に入った。同郡吉海町椋名では海の潮でからだを浄めてからでないと家へ入れなかった。伊予三島市富郷町では箕をうつむけて、その上に塩を置き塩祓いをした。新居浜市では、玄関先に用意されている桶の水で手を洗い箕に入った塩を身体に振って浄めた。越智郡魚島村では浜に寄り海水を額につけたり、塩を振りかけたりして身を浄めた。家に上がるときには、縁側の下に箕と盥を並べておきこれに足をつけてから上がった。玉川町では門前に伏せてある盥を最初に帰った人が足でおこして塩祓いをし、箕を伏せておいてこれをひっくり返すことがあった。中島町神浦では盥に水と糖を入れそれに足のかかとをつけた。宇和町では門前に盥を置きこれに水を入れ、箕には塩を入れて用意し、帰ると盥の上に足をあげ交互に足を洗うしぐさをして、箕の塩をつまんで少しなめ、残りを地面に撒いた。一本松町でも盥と箕を用意しており、ここでは箕の中に塩と米をまぶし、取り方は必ず箕の口の方から取っていた。
 事例1 大三島町肥海では、タオルくらいの白布を濡らして近親者が帰り道で待っており、葬式から帰る人はその白布をちょっとつかむことでブクが晴れたという。
 事例2 中島町野忽那では潮を額につけて浄め、家に帰ると門口に糖と塩を混ぜたものを箕のなかに盛っておき、それに足を触れてから盥で洗った。また着て行った着物を脱ぎ、それを振って竿に掛けてから家に入った。
 事例3 瀬戸町三机では箕を裏返して塩をのせ、盥の水で足を洗う真似をした。このときタチカワラケといって酒を飲んだ。

 形見分け

 葬儀の翌日をトヤゲ・トイアケといい、この日にはハカナオシをすることが多かった。吉海町仁江では墓なおしは三日目に行い、肉親が墓に来てブク石を取り、きれいにしてから浜から取ってきた砂を撒いた。墓には板の上に竹を二本両側から曲げておいて縫針を吊した。この針を盗んで縫うと裁縫がうまくなるといった。双海町法師では、トヤゲの日は縁故者が死者の衣類を川原で洗濯した。南・北宇和郡では、葬儀の翌日か三日目に死者の着物を身うちの女三人で洗いに行き、酒を飲んで洗った。帰りには途中まで迎えでたということである。また重信町では四十九日まで家の裏側の軒下に、死者の着物を一枚北向きに陰干ししていた。伊予郡広田村では、これをシニハギキモノと呼び、何か一枚人目につかぬ所へ干しておき、四十九日が終わってから処分したという。四十九日にはショウブワケといって、死者が生前使っていた衣類や持ち物を形見分けすることがあった。城川町では葬式の翌日に形見分けをしたという。一本松町では三日目に、越智郡島嶼部のなかには七日目にしたという報告もあるが、四十九日の法事にすることの方が多いようである。松山市興居島ではソデワケといった。
 事例1 西条市加茂ではカタミワケやカタアケキモノを分けた。カタミワケは死者生前の着物を分け、カタアケキモノは新しく作った。
 事例2 大洲市では四十九日に死者が生前使っていた衣類や持ち物を近親者に分け合い、これをショウブワケといった。
 事例3 一本松町では、三日目くらいに死者の使っていた蒲団や衣類を洗い、使えるものは形見分けした。
 死と衣服の伝承に注目しながら県下の葬送儀礼をながめてきたが、これまでみてきた事柄をまとめると、
 一、愛媛県下には、報告例は必ずしも多くはないが、葬送儀礼の各段階に応じ、死に際してのさまざまな衣服の伝承を抽出することができること。
 二、死者の身に着けていた衣服になんらかの呪力があると考えられていたこと。箕・桝・盥といったものとともに霊を制御・管理する呪具であったらしい。
 三、衣服には、霊的存在が依りつくと考えられていたらしいこと。ヨビモドシはこの効果を増幅させようとする招霊の呪的行為であり、死者にうち掛ける逆さ着物・棺覆などは霊が留まっていることを期待してこれを魔除けとした。願ほどきや塩祓いのときに衣服を振りはらうのはこの効果の否定、除去を意図しての呪的行為であった。形見分けは、霊の分配を意味していたと考えられる。
 四、三角布にみられる死衣装、役草履の伝承などは、厳しい物忌の生活をして喪に服してきた、かつての生活ぶりを窺い知ることができること。
 五、さらにこれらの伝承と、先に検討した死と食物の伝承とを比較してみると、各々別々な儀礼と呪的行為が併行して進行しているにもかかわらず、その構造と機能は驚くほど似かよっていること。
 以上のことが分かる。しかし、複雑で多岐にわたる儀礼や呪的行為の構造を解きあかすことはなかなか容易ではない。

表8-6 死と食物と衣服の伝承

表8-6 死と食物と衣服の伝承