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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第三節 競技と童戯

 競 技

 競技は人間の生きかたを象徴的に表現する手段の一つであるとされる。それは、宗教的な儀礼において、共同体を形成する全員が参加するかあるいはその代表者によって特定の対抗的行為を行い、その優劣勝敗の結果の表現として豊凶・価値などを占う。競技は①体力競技(相撲・綱引き・競漕)②技術競技(歩射・凧上げ)③動物競技(競馬・闘牛)などに分かつことができる。
 相撲…平安時代を中心にして三百年間続いた節会相撲に二十年間も最高位たる最手を守った越智常世と、その子の富永・是永兄弟は伊予の出身であるという。長保二年(一〇〇〇)七月二八日、紫宸殿南庭での抜出天覧相撲にアオイの花を飾った右の最手大鹿文時を、ユウガオの花をかざした越智常世が技によって制した。常世は経世とも書き『予章記』によれば、浮穴御館と呼ばれた為世の長男であるという。
 〈大山祗神社一人相撲〉一人相撲は相手なしの相撲であるが、じつは田の神の精霊との相撲であるとされている。三番勝負で、一勝二敗で精霊の勝利で終わる。新旧二通りの取り方がある。左に三回まわって人間が精霊に押し倒される一番勝負が古法である。四股を踏み→水を飲み→塩を撒き→(行司口上=東西東西、本日取り行います一人相撲は…見合って!)→土俵上三歩出て天を見る→半歩下がる→仕切りに入る→立って突き押しの構えを見せながらじりじりと左に回る、土俵上を三周する→足をとられる→押し倒される。新三番勝負は古法と同じく押し倒される一番、四つに組んでうっちゃりで人間が勝つ二番、投げ倒されて人間が負ける三番で構成される。喜多郡五十崎町宇都宮神社の一人相撲は、江戸時代末に氏子の大洲藩お抱え力士江戸相撲大関磯ノ海源蔵が氏神に奉納した古式を継承していたもので、二番勝負であった。
 〈卯の刻相撲〉北宇和郡吉田町立間の八幡神社の宵まつりが終わり、祭礼当日の午前二時頃、神霊を神輿に遷座申し上げるための相撲が行われる。本村と長谷からそれぞれ三名の力士が奉仕する。力士の家筋は定まっていて、本村では東、中、下組の薬師寺、清水、矢野家がその家柄とされている。取り組みは小結・関脇・大関の三番で、それぞれ二回取り組むが勝負はつけない。〝相撲の花じゃ花じゃ〟で小結・関脇が、〝ご名人にご名人で、この勝負はまた明年とらせていただきます〟で大関が引き分ける。神霊を揺るがせて神輿への移乗を促すためという。
 〈乙亥相撲〉嘉永五年(一八五二)東宇和郡野村町の中心部で二六五戸が全焼した。同町の愛宕神社に息災を祈って三三結びの奉納相撲を旧暦一〇月の乙亥の日に行ったことがはじまりとされる。現在は、日本大相撲九州場所後の幕下クラスのプロ、近県の国体選手などが参加しての盛大な土俵である。
 県下の相撲は神社の祭礼奉納相撲が多く、季節的地域的に特有の名称を持っている。旧三月一〇日ころの「花相撲」(宇摩郡土居町天満)、「かざかみさん」(同町飯武)、「亥の子相撲」(同町入野)。五月三日「三皇相撲」(川之江市妻鳥)、四月一〇日「権現相撲」(同市城山公園)、四月二九日「春日相撲」(同市春日神社)。五月三日「天満相撲」(東予市天満宮)。七月二五日「山の神の相撲」(玉川町・北条市・一本松町)。九月一〇日「砥鹿相撲」(菊間町田之尻)。入会山所有権を訴上して打ち首となった若宮の慰霊相撲である四月一四日の「若宮相撲」(宮窪町)。「御鉾相撲」(吉海町)。荏原城主平岡遠江守の霊にささげる「平岡様」(松山市恵原)、七月二三日「清正公相撲」(同市森松)、五月三日「白山相撲」(同井門町)。牛馬供養のための九月二三日「楢原相撲」(久万町東明神)、「天神相撲」(同町久万)、「堂山相撲」(同町下直瀬)、旧八月八日「お八日の相撲」(小田町)。旧三月一七・二一日「つんごえまつり」(三崎町)。旧一一月六日の潮祭りに子供が手拍子で囃す「チャガドン相撲」(西海町)。九月一二日「宮相撲」(内子町五穀神社)。五月一~三日「山の神相撲」(新居浜市住友山神)、五月一五日「荒神相撲」(同市萩生)。旧八月一日「八朔相撲」(八幡浜市大平・城辺町緑)などまことに多彩である。
 ちなみに中島町怒和、重信町牛淵、久万町東明神、長浜町戒川、大洲市上須戒、八幡浜市川名津・日土町、三崎町三崎、瀬戸町川之浜、保内町川之石、明浜町高山・狩浜・俵津、城川町田穂、宇和島市三浦、内海村家串などに相撲練り・相撲甚句と呼ばれる練り踊りがある。重信町牛淵では練り行列の一つとして行われ、行司が〝東西東西、このふるごとは世々にして、今やこの国この郷も、斎かむための神祭り、または、土俵四本柱水巻絹、あるいはこの行事が持ちたる軍配にいたる〟と述べる。宇和島市三浦の天神祭り練り十番のうちの第三番が大内浦の相撲練りである。行司二人・力士一〇人の少年が参加する。行司二人は相撲行立・科白・名乗を言上し、力士は声を合わせて相撲甚句・甚句はやし・トントコ節を歌い、取り組みをする。
 力 石…若連中の力石は神社境内や辻に置かれている。松山市来住町の消防ポンプ蔵置所前に嘉永六丑四月吉日に建立された金石常夜燈の前に二個の力石がある。一番石は一五〇㎏ぐらいで「明治八乙亥…若連中」の文字が刻まれている。二番石は無刻で七〇㎏ぐらい。三番石は六〇㎏ぐらいであったが紛失して、いまはない。一番石を担ぐ者は村の英雄とされたという。わずかに持ち上げることを地切り・蟻通しといった。
 その他、大三島町宗方八幡神社の櫂伝馬、中島町津和地の櫓漕ぎ、津島町下灘由良神社和船競漕など船の漕ぎ競べもある。直径一・五m、深さ七〇㎝の漁獲計量や連絡用の桶を松前町浜ではハンギリという。少年たちが操法をうけつぎハンギリ競漕をする。競漕は神事的な色彩が濃い。東予に多い歩射は弓祈祷(大三島町肥海・弓削町)、初祈祷(上浦町盛)、弓放し(大三島町宗方)、百手祭り(川之江市・新宮村)などと呼ばれ、馬に乗らない。悪魔退散・五穀豊穣を祈願し、古式を伝え厳しい戒律に支えられている。南予でも宇和島市戸島、八幡浜市中津川などにも点在する。五月節供には喜多郡五十崎町で凧合戦が行われる。綱にガガリをつけ相手の凧を切り落とす。小田川をはさんで五十崎と天神で競う。初節供の子供の名を書いた出世凧を揚げる。南予の闘牛は「牛相撲」といわれ、祭礼行事のひとつともなっている。押し・向こう突き・ヒラ・横掛け・寄り込み・受け返し・もたしこみ・チャツリ・さび込み・もみこみの基本技がある。正月八日の松山藩士による伊予豆比古命神社境内の勝軍八幡社への騎馬乗り、松前町徳丸高忍日賣神社などの正月社頭の競馬、大山祇神社の五月五日の桂馬流鏑馬は今は見ることができぬが、菊間町浜の加茂神社のお供馬は一〇月一〇日の秋祭りに盛大に行われる。境内に「お供馬行事資料館」が完成した。

 童 戯

 子供たちは遊びの天才だといわれる。身のまわりのあらゆるものを遊びの材料にして遊びそのものを創造する。自然のたたずまいそのものでも子供にとってはかけがえのない遊びの材料となる。地面に線を引き自分の運動能力を試す場とし、あるいは指のとどく範囲を次々と拡大して面積を拡げていく。水溜りは水を跳ねさせるところであり、川の流れは競走の相手であり、傾面は滑り台である。ひとりで遊び、友達と遊ぶ。子供にとっては遊びそのものが独自の世界を構成する。
 言葉は不思議な道具のひとつである。形もないのに意味がある。南予では「おがめ おがめ おがまんと ころすぞ」という。カマキリが前脚を挙げた形が神仏を拝んでいる形に似ているのでオガメといい、これを口遊びにしたのである。童詞とか童言葉といわれる唱えことばは、言葉の興味を中心とした歌や目に触れる動植物に対する命名・謎などの具体的な口遊びとなる。「絵かきうた」もその側面を支えているかと思える。岩井正浩は〔A〕人間、〔B〕動物(a)数字を主に展開する(b)図形を主に展開する、〔C〕植物、〔D〕文字、〔E〕その他―と分類する。軒下や縁側・玄関などのような大人の目のとどくところでの遊びを軒遊びという。女児のお手玉・人形遊び・ままごと・あやとり・まりつきなどはその典型である。男児は竹馬・片足遊び・独楽遊びなどが戸外での遊びが主体となり、子供集団を作る。外遊びである。軒遊び・外遊びの過程を経ると子供集団の遊びの群は多様化し、群と群との対抗的遊びが多角化し、遊びの場も広さが要求される。群の内部に指導的な役割を果たす子供が明確となり遊びの秩序が表面にあらわれる。公園などの広場が遊びの場となる。辻遊びといわれる。
 〈凧あげ〉店売りの凧は色鮮やかで優雅であるが、それゆえ何かよそよそしい。凧は奴凧にしろ角凧にしろ、そして飛行機凧であっても自分で作るのがたてまえであった。竹でヒゴを作り、蝋燭の炎にかざして曲げて直ちに水に漬けて曲部を形づくり、接続部を和紙で糊付けして骨格を作り、仙貨紙を貼り、三本の支え糸を付け、バランスを取り、さらに尾をつける。凧揚げの場所は決まっているから風を待てばよい。風に乗った凧は糸を繰り出すとどんどん揚がる。糸車の枠も自家製である。凧は何かの調子で急に舞い落ちたり糸が切れることがあった。
 〈羽子突き〉ムクの実を採ってきて錐で穴をあけ、鷄の羽根を植え込んで羽子を作る。羽子板は何年も前のものを大事に受け継いで使った。勝負抜き・遣り羽子・追い羽子・貸しっこなどの遊びかたがあった。
 〈絵双六〉軒遊びの代表である。道中・出世などの双六があった。賽を振って目の数だけ進む。休みがあり、戻りがあって、容易には上がりに到着することができない。「かるた」遊びには、ばら取り・おばあ抜きの遊びがある。
 〈手毬突き〉中心部は綿を木綿糸で巻きあげ、表面を色糸で模様巻きする。初心者は自分の調子に合わせて練習する。独り突きである。競技突きは二人・三人・組突きがあり、数・唄で勝負する。突きかたに片手・両手・股くぐり・足の甲突きなどの方法を採ることもある。
 〈独楽〉椎、樫の径三~五㎝の丸木の先端を円錐状に削り、丸状部を二~三㎝とり、切り落とす。鞭の先につけた紐を独楽にまきつけ左手で地面に立て、右手の鞭を素早く引けば独楽はその場で回っていて、それを鞭紐で当て打つ。紐は楮の皮が最適で、独楽材は桜が最良である。この木独楽はブチゴマ・タタキゴマ・ハタキゴマといわれた。店売独楽には妙音を奏でる金独楽・鉄輪をはめた喧嘩独楽などがあった。曲芸まわし・手取り・綱渡し・宙取りの技巧がある。喧嘩独楽の金輪も心棒も自分の納得のいくようはめ直して相手の独楽をただ今割る豪快さもさることながら、独楽のよさは微動だにせず静止している姿ではないかと思われる。このような状態を澄むといい、やがてよろめき倒れることを消えるという。
 〈めんこ〉周桑郡でメンタタキ・メンタといい、南予ではバッタン・パンという。円形と角形があった。武者絵が印刷されていた。地打ちのときに裏返しされぬよう蝋を沁み込ませて重さを増したり、二枚を合わせ張ったり、或いは二枚張りの中にブリキの小片を縫い込んだりして勝負強いめんこを手作りする。直径三〇mぐらいの円を描き各自のめんこを置き順番で打つ。裏返すか円外に出せば自分のものとなる。打ちめんこが置きめんこと重なれば負け、もぐり込めばスクイで勝ちである。壁打ちは、めんこを縦に打ちつけ遠くに転がった方が勝ちである。五円硬貨ぐらいの小型めんこが二〇枚一組で十文字に糸で縛られ蝋付けされた飛行機パンは、一枚一枚はがして親指と人差し指の関節に挾みつけ絞り出すようにして飛ばす。規定の枠線内最高のものを一位として面返しをする。
 姉さま人形は塵紙を丸めて半紙で包んで頭とし、着物は色紙で作り帯をつけて出来上がりである。ホウズキの実を頭にしたホウズキ人形もあった。トウモロコシの皮と毛で丸髭髪を作った。
 〈土筆継ぎ〉〝つんつん つくしんぼ どこつげた つくつくぼうし つくぼうし どこをついたか あててみろ〟と、土筆の節を抜いてそっと継ぎ、その継ぎ節を言いあてる遊びである。つばな抜き・すいとばらの芽・いたどりなどを口にするのもこの頃のことである。おおばこ・ポプラの葉茎で草の綱引きをする。笹舟を流したりもする。
 〈相撲〉相撲は戸外での競技とは限らない。座り相撲・立ち相撲・引き相撲・脚相撲・膝相撲・尻相撲・腕相撲・指角力と軒遊びで出来る相撲は多い。
 〈おはじき〉女児の軒遊びである。細螺という巻貝を取り合う。平等に細螺を場に出し合い、順番を決め、最初の者が全部を手に取って撒く。二つの貝の間に小指を入れて仕切り、親指もしくは人差し指で弾いて片方の貝に当ててそれを取り続ける。仕切りの際指が触れるか、仕切り貝以外の貝に当たれば失格で次順位者が試技する。今治市では〝(a)あわーエエ〟もしくは〝(b)うつーエエ〟と称えて出し貝を撒く。細螺は投げ出されると上向きか下向きになる。(a)と称えたときは上向き貝を、(b)のときは下向き貝を取る。伊予は海岸線に恵まれているので細螺が多く採れる。
 〈コンヤマ〉三月四日の雛あらしには山籠りをする風習を伝えるところがある。松山市南吉田にセクヤマの行事がある。お節供山の転訛といわれる。周桑郡丹原町徳能の男児は常石山を陣地にし、女児は裏山の南斜面に莚を敷いて滑って遊ぶ。越智郡上浦町水場の男児は山で源平遊びをする。南宇和郡城辺町の男児は組をつくり、山に砦を設けて大漁旗で飾って籠り、他の砦を攻撃する。北宇和郡吉田町裏町・立間尻の男児は、仙貨紙何十枚張りと誇る軍艦旗を作り、コンヤマと称する陣地を構築して籠り、他のコンヤマの旗を奪うなどして争う。「三月三日千度戦万度勝也」と書いた源氏旗をコンヤマに立てておく。
 〈国取り〉地面に大きく円を描きその円を小さく分ける。小分けした土地を取りあう。順番を決め、皿か碗の割れを玉として小さい区画の土地へ人差し指で玉を入れていく。玉が線にかかるまで続行できる。場取り(陣取り)も自分の領地を増し取りしていく遊びである。暑い日射しの頃、子供たちは真竹の皮を拾って来たり竹の子の皮を剥いだりしてこれをよく洗い、中に梅干しやシソの葉を、または夏蜜柑の果を入れて三角形に包み、その角から酸っぱい汁を吸う。竹の皮が赤く染まるのを持って削いで噛んだ。カッポという。
 〈麦藁細工〉麦藁を水に浸して弾力を持たせて細工する。野苺は草の茎に貫いて持ち帰るか、麦藁で苺籠を編んでそれに入れた。体操人形を作って両手の上下運動をさせた。周桑郡丹原町の黒河健一は巧みに馬を編む。五本の麦藁を使って尻尾・後脚・前脚・首・耳・口を編み出す。胴体ももちろんある。顔は、正面・正面上向き・裏正面・裏正面上向きの四態の馬をつくる。千代紙で鞍を作って貼る。
 〈七つ竹〉二〇㎝定規ぐらいの竹片を作る。青皮の部分はそのままにし、肉の部分を削いで着色する。竹片は普通七本なのでこの呼び名がある。右の手で七本の竹片を握り一転させて手の甲に乗せる。表裏入り混じっている竹片のすべてを表か裏かそのいずれかにして地面に並べる遊びである。手の甲の動き、竹片の姿勢の総合的な様態に気を配らねばならない。同一の竹片の残りを手の甲から離すか、あるいは反対に裏返すかがこの遊びの焦点である。
 〈お手玉(おじゃみ)〉東予で、石なで・おじゃみといい、南予では、いちどりという。小切れ袋に麦や小豆を入れてある。絹地のお手玉は滑りがよくて玉さばきに適する。数は普通は七・九・一一個と奇数であるが、南予では偶数のところもある。唄に合わせて一つの玉石と他のお手玉を動かす。玉石はいつも演技者の手中にある。唄に合わせて外のお手玉を取り上げたり・落としたり・集めたり・散らしたり・手の甲に載せたりする。正確で迅速な動作が要求される。一つの演戯が完了すると必ず玉石の決まった所作がある。トンキリ・オサラという。
 〈子供将棋〉大駒・歩駒九個による挾み将棋、大駒九個・歩駒九個を中央三面三段に並べておき敵陣に九個の駒を入れてしまう飛び将棋、金四枚を振り駒にして自分の基点を出発し盤の外周を一周し順次上位駒で進む回り将棋は、振り駒の縦立ち一〇・横立ち五・表面一・裏面零・逆立ち二〇とする。四四のべは四枚全部表で四回振ることができるなどの数え方があり、踏み越しなどの取り決めもある。将棋駒を積み上げる積み将棋、人差し指で音をさせぬよう取っていく取り将棋もある。また弾き将棋・当て将棋・倒し将棋などと子供たちはさまざまな遊びを大人の将棋の世界から引き出してくる。
 〈ねんがり〉稲刈りが終わった田に出て、径五cm、長さ七〇cm程度の棒杭を相手の棒杭に投げ当てて倒して取る。松山では根っ木という。鬼ごと遊びには休み場一つ・同二つのもの、虜鬼ごと・めくら鬼ごと・瓢箪鬼ごと・草履とり鬼ごとなどさまざまな型がある。石けりには団子型・四角型・丸型などがあり、両組に別れての対抗石けりは、防禦組は参加者数の小石を防禦線上に立て、攻撃側は攻撃線より各自一回の攻撃をする。防禦側の石を全部倒すと一つ飛・二つ飛・三つ飛と防禦線に近くから投石する。さらに足の甲・膝・帯はさみ・胸・左右肩・首と進み、最後は防禦線上に近く投げた石を盲でさぐり防禦側の石に当て倒す。防禦線上より飛び越した攻撃石は無効である。盲のときは探り手が線外に出れば無効である。
 〈口遊び〉尻取り唄・悪口唄などがある。〝日本の乃木さんが 凱旋す 雀 目白 ロシヤ 野蛮国クロバトキン 金玉 負けて逃げるはチャンチャン坊 棒で撲るは犬殺し 死んでも命があるように (↓冒頭に返る)〟の尻取唄や〝あの子まい子よ 牡丹餅顔よ 黄粉つけたらなおよかろ〟の悪口唄はよく唄われた。

立ち相撲・尻相撲・脚相撲

立ち相撲・尻相撲・脚相撲


童戯番付(山本富次郎作成)

童戯番付(山本富次郎作成)