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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第三節 気象

 天候の予知

 複雑多岐な地形と気候風土を有する本県で自然現象としての気象を予め知っておくことは、仕事の段取り決定など地域で生活する人々にとって必要不可欠な生活の知恵であった。現今のように気象庁による天気予報が報ぜられるようになっても、ある限られた地域の天候を予知するには各地各様の言い習わしに従った方が正確を得ていることが多いのも事実である。そして、たいていどこのムラにもこうした予知能力に長けた者がいたものである。昔、大洲の殿様が参勤交代で江戸へ向かうとき城下で評判の老女を伴って天候を見定めさせようとしたところ、長浜から船で海上に出てからいよいよというとき、「神南山はどこですらい」と老女が尋ねたという。すなわち、老女は大洲盆地にそびえる神南山にかかる雲霧の様子を見て天候を予知していたわけであり、その指標を失った瀬戸内海での予知は不可能だったわけである。
 このように、天候予知に関する具体的な民俗知識は他の民間療法などにくらべて、かなり地域的なものであった。しかし、その知識には判断基準の指標は異なっても方法は共通していた。その地域に峻立する山岳の様子、夕焼けや朝焼けの具合い、霧の発生状態や動物の行動などである。例えば、

○西の山へとぶ霧が夕方出たら晴れ、朝出たら雨(東予市庄内地区)。
○奈良原山の中腹へ水雲がかかると天候が変わる(玉川町)。
○高縄山に朝雲がかかったら東風が強い(北条市・中島町)。
○山口県大島の上に白雲ができると、長浜方面からの風雨が強い(中島町)。
○秦皇山の下の方に霧がかかったときには雨は降らない(中山町)。
○霧が土佐から来て上がっていくと日和に、下っていくと雨になる(久万町)。
○雨霧山に西風が吹くと晴れ、東風が吹くと雨(小田町)。
○大洲高山に霧がかかれば雨となる(大洲市中村)。
○カマンゴシ(釜木越)から黒い入道雲が出たら夕立になる。これをヤシマ雨という(瀬戸町大久)。
○鬼ヶ城に三回雪が降ると、里に雪が降る(広見町成泰)。
○観音森か篠山に雲がかかったら大か小か雨が降る(一本松町)。

などのことが各地でいわれてきた。あるいは、城川町遊子谷でにわか雨のときに「魚成雨に傘いらず」というように、雨雲の移動方向が一定していることからその後の天候を見定めることもある。しかし、天候を知るということは、二つや三つの俚諺にしたがっていて分かるものではない。それぞれの極めて限られた地域の中にあっても、そこにはあらゆる気象条件に合致するための詳細な知識がつくり出され、伝承されていたわけである。次に、高縄山系の東麓に拓けた東予市の庄内地方の事例が報告されているので示しておくことにする。

秋の夕焼鎌を研げ。あかぎれが痛いと天気。朝霧は晴。朝曇は晴。朝焼は雨の兆。
朝の虹は雨、夕の虹は晴。 朝焼は東風になる。 雨蛙が鳴くと雨になる。 蟻が穴をふさげば雨となる。
雨が降ってるとき蝉がなくと天気になる。
雨が止んで未だ晴雨何れとも定め難い時、雀が地に下りて餌を拾へば晴となる。
今まで吹いてた風が急に止むと雨。 魚が水面に浮くと雨が近い。 魚が高く躍るは雨。
蟹が高所へ上らんとするは時化の兆。 鰹節を削るとき柔らかいのは雨の兆。
鐘の音川の水が近く聞える時は雨。 家禽の騒ぎ、雨蛙のしきりに啼き蟇の多く這い出る時は雨。
汽車のひびきが高く聞えると雨。 北が美しく晴れて居ると天気は大変よい。
雲が高いと降らない。 雲が南へ飛ぶと降っていても止む。 雲が水まきになると雨。
雲が北向いて走ると雨又は風になる。 雲が低いと雨が近い。
煙の真直に立上るは晴、横になびくは雨。 東風降りは大きく、西降りは小さい。 霜の早く消えるとき雨。
空が高いと降らない。 煙草がつき難いと雨。 地震がゆると雨。 月が暈を被ると雨。
つちに入って降り初めた雨は長い。 天気が良くとも日没が悪いと雨。 電光が北の方ですると雨(夕立)。
手を水の中へ入れてすぐほとびると雨。 戸が軋ると雨。 七つ上りは明日の雨。 夏の夕焼池を干せ。
鍋の尻が焼けると風。 西風は日暮まで。 西が雲れば雨となり東が雲れば雪となる。
西の山へとぶ霧が夕方出たら晴、朝出たら雨。 蝿が特に多いと雨。 春秋いやに暖かい時は雨。
羽雲は雨の兆。 日暈は晴の兆。 昼西夜東風は雨。ふくろうが啼くと天気。 冬暖かく夏冷い時は雨。
便所や下水等の臭気が強くなると雨。 星の大きく近く見えるは雨。
飯粒が茶碗に着くときは晴、きれいに取れるときは雨。 飯がすえ易いと雨。
山が近く見えると雨。 山が遥に遠く見える時は晴。 夕立は馬の背を越さぬ。 夜上りは近くの雨。

 日和相伝記

 海運や漁業に従事する人々にとって、天候予知の問題は、ときには生死にも関わることがらである。風の方角、すなわち風位についてはすでに上巻の総論のところで概説しているが、佐田岬半島の瀬戸町三机や大久で「磯崎の耳取り風」というのは、真冬に磯崎付近で吹く風が非常に寒くて耳を取られるほどであるのをいったものである。また、マジ(南風)が来たら雨、マジニシがひどいときには雪、マジが穏かに吹くときは晴、春は北まわりのアナジ(北西)風のときは天気がよい、夏は西イデ風が吹くとよい天気、秋は北西のキタグチが吹くとよい天気、二百十日ころに東風雲が一週間続くと時化である、という。
 さて、内海交通の主要港湾である松山市三津浜では、この付近と大阪の天候が併せて江戸時代末に「日和相伝記」としてまとめられている。このうち三津浜地方のものを列挙してみたい。

       日和相傅記

一、貝寄之風ハ立春四拾日めニ吹事卜心得ベシ。何モ右九日ノ内ニ吹コト尤也。此時天上ニ雲ナクヲンボリトシテ西ゟ雨上り雲破ル次第ニ破風一度ニ来ル。
一、春ノシケ日和四番、拾四番、廿四番、廿八番、是日ニ四日ツヽ番ノ風トラ(寅)子比ニ吹ナリ、若不ㇾ吹ナギ成トモイタス、毎月此心得也、子丑ト当ル日ハ雨トシルベシ、時雨ナリ共仕事毎月心ニカケ可ㇾ申候。春ノ落日和昼ノ七ツ時ゟ水マサ雲少ニテモイレ申也。四月一ヶ月ハタ焼日和也。日照也、□角七ツゟ水マサ立雲入レ、最早唯今雨落カカル様ニ見江候トモ日ノ人ニ西大ニ焼候ヘバ必日照也。巳刻ヨリ晴レ申刻ゟ曇り翌朝巳刻マテ弥曇リシキリニ降カカリ申様見エ候共宵ニ西焼候ヘハ巳ノ刻ゟ後大ニ日照也。子丑ノ日ニ雨来ラスバ七日モ日照ツヅク也。又浦向ノ次第雨上り早速マゼ風吹来り候共南底ヨリ晴ヌ日ハ北ノ方雲ハイカホド□クトモ風不ㇾ吹南底ㇾ晴レ上リ、南ノ根雲潤、東へ行ヲ見立テ浦向ノ風ト心得船ヲ乗ルベシ。
一、夏ノシケ日春ト同前五月ノタ焼雨トシルヘシ。六月之土用ニ入テハタ焼日和トシルベシ。同土用ニ辰巳方ヨリ戌亥ノ方へ雲入申侯ハ角ノ雲トテ八月ゟ必大風吹也。但シ角々ノ雲卜申ハシラケノ間雲入キハ添昼ノ辻一ト剋二剋ノ内ニ入レ申ナリ、其日何方ゟ吹風之雲ニモ構ナク人雲来ル、此風八月ニ必吹也、六月土用ノ日和風ヲシルベシ、此雲不出土用ノ内ニ三夜程夜仝北風吹バ当歳ノ八月ノ大風ハ吹カヌト心得ベシ口傅有ㇾ之。
一、秋ノシケ日和夏ト仝昏子丑トアタル、土用八専彼岸之節積リアタリ角ノ雲トテ辰巳ノ方ゟ黒雲戌亥ノ方エ来タル、丑ノ方二壱寸五分ノカブ虹立侯ヘハ大風吹ト心得ヘシ、亦雲天ニ付ハヤガテ吹ト知リ午ノ方ゟ寅ノ方へ虹立候ヘハ大風吹ヌト知ベシ、但シ子丑卜干支当リ侯ヘバ雨降ト知ルベシ、雨上リテハ北風空晴ルルナリ、九月ヨリ陰ノ代ト申テ戌亥ノ底ゟ雨上リ山根ヨリ青雲出天上破レ上々ハ重テ子丑ノ日天気能イト心得ベシ、山際エ雲少ニテモ残テソバヘバ又風増ト心得ベシ、雲大分残ラバ雨トシルベシ、右陽ノ代ニテモ雨上り下り山際ニテ知ルベシ、第一雨ヲ専卜心ニカケベシ、雨ヨリ癸ル風ノ指引口傅有ㇾ之、
一、冬ノシケ日和秋ト同皆午未卜当り雨雲ソフル共是ハナギト知ルベシ、申酉アレ候得者戌亥(日)和リト申也。西ゟ未ノ方へ虹立卯ノ方ヘ一寸六分程ノ黒黒ツカヘ申ノ間ヨリスキ上り候へハ三五七日者西風吹ト心へ申ベシ。但シナギノ時ハ卯ノ方痞タル雲透キ上リ丑寅ニソバエイタスモノナリ、此時ハ北風東風吹事モ有、時ナラヌ西吹トテモ俄ニ戌亥ノ間ニ壱寸三分ノカブ虹立ソバヘイタサバ大西吹、此時大事ニ及ト言ハ船頭無沙汰ニアラズ、子細者午前ゟ雲モ行カズ俄二吹也。西早風トモ言フナリ、同日ノ入相ニ亥ノ方へ壱寸五分ノ赤雲立也、ソバエイタサハ戌亥風吹冬ノ雨ノ見様日ノ入ニ日ノ本ニ雲有リ、ホドモナク引時ハ三日メノ七ツカ雨、四ツ時分ニ雲引ハ二日メノ七ツニ降ル、四ツ時過候テ雲引ハ明ル四ツ時ニ雨降ルト見ベシ、夜中ニ雲引バ其夜不明内ニ雨降ルト心へ申ベシ、但シ右書付雨ノ上リノ雲ニ雨残ルト見立ル心得油断有間敷、一天ニ雲ナク三日ノ内ニ雨卜言事右書付ニ口傅也、
一、毎年正月朔日ニ雨降ラハ七月水、二日ニ降ラハ六月水、三日ニ降ラハ五月水、四日ニ降ラハ四月水、五日降ラハ三月水、六日降ハ二月水、七日降ハ正月水也。
一、正月十四日ノ月ニ一尺ノ曲尺ヲ立、月ノ昼ノ時影ヲ見ルニ或ハ月影七寸上レハ其歳水七分也。何寸有之トモ同断ナリ、
一、一歳中ニ降雨風七十五日ノ積也。正月中ニ降雨晴付記シ毎月此日ニアタリ降也。若シ不降シテ重テ降出タル時ハ数降ト知ルベシ、
一、日和見様其国々之備タル山海ニ平生心当有事、
一、三津浜ニテノ日和考申時指当ニハ屋蔵山(金松山、八倉山)之上ノ峯ニ目当有、是ハ春ゟ夏之内ハ南ヲ専第一ニシテ可懸心者ナリ、右峯ニ出ル雲有ハ入雲也、雨近シ、夜ノ内(日和見ルヘカラス、日ノ出日ノ入ヲ可ㇾ懸ㇾ心モノナリ、日出ヲ内夜明ゟ日ノ出マテ日三立ハ明之日雨也、日ノ入日三立ハ夜中ニ雨可ㇾ成、夜明ノ焼早ク黒ムハ其夜雨也、モタユル時ハ又翌日可ㇾ見者也、
一、日ノ入合焼ハ根柄ノ焼上焼ニ可㆓心付㆒、
一、春之焼ハ嫌フナリ、
  正月一日廿二日雨力風卜心得ベシ
  二月九日、十二日、二十四日同断
  三月三日雨、十七日、廿八日同断
  四月八日、十二日、廿三日昼マテ雨風
  五月二日、三日、七日、十六日、廿七日右同断
  六月十二日、十八日、廿七日右同断
  七月七日、九日、十四日、二十五日雨ナリ
  八月三日、五目、八日、十七日、廿七日大風雨ナリ
  九月十一日、十七日、十九日大風雨ナリ
  十月十五日、十八日、十九日、廿七日朝雨ナリ
  十一月一日、三日、十九日雨風ナリ
  十二月二日、五日、八日、廿一日、廿八日風ナリ
  右ノ日キノヘ・キノトノ丑ノ日ニ当ラハ必雨ト知ルベシ、其内目付有リ、夫ニヨラズ月ニ三日四日宛雨風ニ当ル日有
一、二月ノ貝奇ノ吹様ニ見様有、節分ゟ四十八日二当ル日ヲ中ニシテ跡先四日ツツ以上九日ノ内ニ吹ト可ㇾ知也、
一、三月ニ八拾八夜有、トウ人坊卜言、是八十八夜二当ル日前後十日ノ内ニ吹也、
一、四月ハ陽ノ月ナレハ十月マテハ昼ノ内ニ日和替ルヘシ
一、霜月ゟ来四月マテ陰ノ月ナレハ夜ニ入テ日和替ルヘシ
一、秋冬ノ内七月ヨリ極月マテハ北西ニ目ヲ付入相考、西ノ焼八日和能ト可知ル、
一、八月ノ節ニキノエ寅、ツチノエ丑アラバ其歳ハ野分可吹、其当ル日ニ跡先可ㇾ考、
一、冬節ニ入テ壱ツ火ヲ打事有、又虹立事有必大風也、能ク考可有事、
一、洲領南山(谷上山)ニ立雲有其時石鉄山ニ雲カカルハ雨ナリ、日和稽古ハ夜明、日ノ出、昼ノ未刻(ハツ)、又ハ入相夜ノ子丑ヲ可㆓心懸㆒、
一、戌亥ノ底之大事、ソコ上中下、但シ中ノ上・下ノ上能々考可有、
一、日ヲウケ申水マサスジハリ又日ヲ逐申水マサスジハリ能々可考、日ヲ請申水マサハ雨近シ、日ヲ逐申水マサスジハリカタマリ黒雲ハ雨近シトカクヨリ可考、戌亥ノソコヨク澄ミ青天ナラバヨキ日和心得ベシ、其内座替其外ヲヨクヨク可ㇾ考。
                   (伊予史談会所蔵写本)

 また、天正一〇年(一五八二)村上弾正景広によるものと伝えられる「一品流干満抄巻」なる巻子には、次のような天気予知に関した記述が見られる。
  ○春夏は雲の起る中雨を知る、秋冬は風と知るべし
  ○夜は雲の晴方より風吹き来る、昼は雲の群る所より風吹き来る
  ○春夏陽気(黒雲)強うして雨、秋冬陰気強うして雨なり
  ○大風は巽より吹き出すなり、風は木の精、巽は風の本源なり
  ○夜、星に晴無くして光らざるは雨、昼天の晴れるは風なり
  ○月に雲出て掛る雨と知るべし   
  ○霜甚だ降り風落つるは雨、雪落ちざると知れ
  ○雨の起り、夏の雨は西風に降らず、冬秋は西風に起る   
  ○クモの囲を作るは日照と知るべし
  ○蜉という蝿の立つは雨なり、鳥の水あびるは雨近し   
  ○山島晴色して近く見ゆるは雨なり
 以上の予知方法は、その大部分が今日もなお伝えられているものばかりであり、こうした民俗知識の有効性を端的に示しているものといえる。