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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 屋敷神祭祀

 屋敷神の呼称

 屋敷の一隅かこれに隣接する小区画、もしくは少し離れた持地の山林など屋敷の付属地に祀られる屋敷神は、家の神である屋内神と村の神の中間的な存在として捉えられる。したがって、こうした存在の屋敷神は非常に可変性のある性格をもち、祭祀単位も変化しやすくさまざまであるので、ここでは近年、斉藤弘美らが指摘するように各戸が単独で祭祀する屋外神を屋敷神として扱っておくことにしたい。このような屋敷神を県下ではジノカミサン・ジジソサン・ジヌシサンなど地の神系統の呼称やヤブガミサン・マツリガミサン・ワカミヤサン・ヤシキジンサンなどの呼称でいっている。呼称分布のうえから注目されるのが地の神系統の呼び方で、松山市北部の旧和気郡から北の高縄半島部や芸予諸島の地域に特徴的に見られる。また東予地方でも東予市や周桑郡を中心としてこれ以東の地域ではワカミヤサンと称することが多いが、この場合には本家を中核とした同族神祭祀である場合の方が一般的である。一方、伊予市・伊予郡ではヤブガミサン、南予地方ではマツリガミサン・ワカミヤサンなどと称している。その他、こうした屋敷神の一般名称と併せて、あるいは別に個々の神名を明らかにしている屋敷神もある。妙見、出雲、稲荷、奈良原、八幡などの事例が散見される。また、田地の一隅に祀る小祠をオツカサンと称し、屋敷神的に戸別祭祀するところも多い。

 屋敷神の類型

 県下の屋敷神には部落内の大部分の家に祭られている形態と特定の旧家や本家筋の家のみに祭られている場合の、二つの大きな類型が認められる。一般に前者を各戸屋敷神、後者を本家屋敷神と称している。本家屋敷神は、さらに本家の単独祭祀である場合と同族祭祀とに分けられる。そして、イットウ、イチマキ、カブウチなど同族の結合が強い場合には本家の屋敷神を本家が主催し、同族が相寄って祭祀する形態をとるが、家の分化、拡大の過程で同族結合が弛緩すると分家も戸別に屋敷神を設けるようになり、戸別屋敷神へと移行すると考えられている。もっとも、ここでは単独祭祀の場合のみを屋敷神として捉え、同族神とは区別しておく。また、ある特定旧家の屋敷神が神威を発揚することによってしだいに昇格し、集落神社として祭祀されている例もある。すでにふれた玉川町法界寺の旧庄屋浮穴家の和霊神社はその典型であり、同町畑寺の光林寺の寺内鎮守として勧請された白山権現がこの地域の氏神化したのも類似した事例と考えられる。
 事例1 越智郡伯方町北浦では屋敷神として地主神を祀っている。全部の家が所有しており、分家した場合は石を持ってきて神職に拝んでもらい、地主様を祀る。祠はなく石が神体となる。場所は屋敷の東側に設けられる。同町伊方では地主様、地神様と呼び、一〇戸に一戸くらいの割合で各戸に祀られている。特に祭日もなく、小祠を設けている程度である。
 事例2 同郡吉海町椋名ではジノシサソ、地の石、ジジンサンと家によっていろいろに呼ぶ。普通庭先にあって、人の踏まないところに南向けて祀り、石祠や五輪塔など形はさまざまである。正月には門松・注連縄を張り、お鏡餅を供える。また秋祭りには洗米、塩、水を供えて神職に拝んでもらう。本家だけで分家にないのが普通である。土地の守護神と考えられ、移転した場合には後に入った者が祭祀を受け継ぐようである。
 M家では北方の裏山に五輪塔と石祠を祀っており、秋祭りの日に神職に来てもらって祭る。I家ではジノシサンと称し、三月三日に地の神として自家で祭っている。家を守ってくれる神といわれ、そのときの収穫を供える。
 事例3 同町仁江の地主さんは、先祖の墓を神様として祀ったものであるといい、先祖の古い家にはたいていある。最初にその屋敷を開いた人を祭祀したものであるという。また宮窪町余所国でも地神さん、地主さんとして祀っており、その家の先祖だから粗末にはできないという。古い屋敷はどこでも地主さんを祀っている。
 事例4 同郡魚島村魚島では約一五〇戸のうち四戸で屋敷神を祀っている。M家で妙見さんを祀っているほかは地主さんである。このうち妙見さんは屋敷の東南すみに西向きに小祠が設けられており、この屋敷へ入った者が代々祀ってきた。月の二三日を祭日とし、御飯の炊初穂や果物を供えて灯明を献する。昔は祭日には「隣り七軒にお接待する」といって近隣の家々にお接待をしていたが、そうすると妙見さんにはたいそう喜ばれるのだという。妙見さんは霊験のある神様といわれ、近くの共同井戸は干魃にも枯渇することがない。ために妙見井戸とも呼ばれる。反面、バチもよくあてる神様であり、崇られたときにはアラシオ(海水)で浄めなければとれないという。また他家の地主さんは、いずれも自然石をその神体とし、戸別に祭祀している。うち二戸は、周桑郡の祈祷師のお告げで祭祀を復活したものである。
 事例5 北条市内の古い家には、家の守護神として屋敷内にオジノッサン(お地主様)を祀っている。また、分限者は別に崇敬する神社を設けて祈願したりもした。北条町の廻船屋であった苫屋は伏見稲荷を勧請して祭祀したが、今も辻町一番組、新立町、鹿島町に残っている。
 事例6 上浮穴郡美川村七鳥のN家の屋敷神はワカサマと呼ばれている。伊予と土佐が合戦をした際に土佐から攻め込んできた若侍が負傷し、この地で死んだものを祀ったのだという。オムロ(小祠)は西向きで、金銀の御幣を供えている。とくに祭り日はなく、毎日水をかえて祭祀するほか、正月などには若さまのためにも家の神棚に榊などを供える。屋外に供物をしても、ミサキサンがその供物をとってしまうので御利益がないからだという。なお、若さまはN家の先祖ではなくこの屋敷を守護する神で、古くから祀られているのだという。
 事例7 同郡小田町中田渡のM家の若宮は、先祖が重い病気にかかりなかなか治らないので山伏に祈祷してもらったところ、畑の下に八幡様の家来の墓があるので崇りをなしているのだといい、以来若宮様として祀ることにした。三月初午と八月八日がモンビ(祭り日)で、神酒を供えて燈明を献ずる。創祀時期は不明であるが、M家の守護神として祀っている。また、同町吉野川のH家では屋敷の南西に大塚大明神を祀っている。傍には五輪塔がある。定まった祭り日はなく、当家の者が毎朝水や榊を供え、正月と盆には神酒・肴・果物などを供える。以前は大洲の山伏に四月ころ拝んでもらっていた。本来は隣家のY家の屋敷神であったが、Y家没落後に転入してきたH家が祠を再建し、祭祀を引き継いだものだという。
 事例8 伊予郡中山町重藤のT家には裏山に南西向きのオゴシャ(小祠)があり、ツボウガミ様を祀っている。神体は壷の申に入っている丸い自然石である。昔、風の吹いた日の朝に御幣が飛来してきて壷の中に入ったので太夫さんに拝んでもらい、祀り始めたと伝えている。傍には神様の木といわれた杉の大木が三本あった。すでに祭祀も絶えて久しいが、祭田には神酒・榊・燈明をあげて家族でオコモリをした。その他、正月や新穀を食するときにも供え物をした。また、生児に命名したときには、ナザケとして三方に名札を垂して酒を供え、これを生児になめさせた。このツボウガミ様はたいへん御利益があり、また金がたまる神様であるという。
 さて、同町日浦の竹岡家の屋敷神は屋敷裏で西向きに祀られている。正月五日から七日の間の一日が祭日で、五穀や肴・榊を供えて太夫さんに拝んでもらう。また、一〇月一七、八日ころに五穀豊穣の御礼として初穂、神酒、肴・野菜など七品を供えて祭りをする。竹岡家の屋敷神は、当地への移住時に伴ってきたものであると伝え、これとは別に現在の屋敷に付随していた八幡様を動かすと崇りがあるといって祀っている。ともに戦死した侍を祀ったオツカサンであるという。
 事例9 三間町土居垣内は一七戸(昭和三三年)の小部落であるが、屋敷神を持った家が二戸ある。その一戸の口家では、屋敷近くの畑の傍に木造小祠の若宮大明神を祀っている。以前はマツリ神様と呼んで、正月七日に山伏が家祈祷に回って来た時に注連縄を張り、御幣を切って祀ってもらった。昭和三〇年ころに病人が出て医者に診てもらっても治らないので、宇和島市の行者にみてもらったところ昔の落人の霊が出て若宮大明神として祀ってくれというお告げであったので、それから若宮大明神と書いた神札を祠に納めて祀るようになった。祭日は氏神の祭りに合わせて旧九月一九日に祀っている。
 事例10 津島町下畑地の鴨田部落では、Y家のみでマツリ神様を祀っている。地主様で、今では地主神社と彫った石碑を家からかなり離れた場所にすえて祀っているが、もとは家の背後に祀っていた。そのころは瓦の小祠であったが石碑に改めて現在地へ移した。土佐の侍が三人来て、ここで死んだのを祀ったものと伝えている。地主様と呼ぶほか若宮様ともマツリ神様とも呼んでいる。正月に注連を張り、供物を併えて祀っているが、祀り方が手ぬるいとよく崇る神様である。なお、イッカ(同族)は三戸あるが祭りには参加しない。
 以上の諸事例は各家々ごとの単独祭祀の方式をとる戸別屋敷神である。しかし、屋内に祀られる神々にくらべて祭祀する家の割合は低く、事例1の伯方町北浦などのように地域の大部分が屋敷神を所有することは稀でしかない。地主神を祭祀する高縄半島部や越智郡島嶼部には、オジノッサンとてこれを祭祀する家の比率が比較的に高いようであるが、県下全域としては、多くの場合その祭祀はムラ内の特定有力戸に限定される傾向がある。本家であったり旧家、重立ちの家であったり、ムラの草分け伝説と絡みあった家筋であったりするのが一般的であることは、上記の事例からも明らかであろう。
 また、南宇和郡西海町福浦の東組は地域の中でも最も早くに開けたところで、草分けは七戸であるという。ここに六か所のマツリ神が祭祀されており(表5-23)、草分け七戸と何らかの関係があるものと考えられている。直江廣治や森正史の報告によると、いずれも屋敷に付属して祀られ、それぞれに地頭八幡様とか高島大明神などと固有の神名を付して呼ばれているのが特徴である。また、近隣神的な性格を有しており、祭祀にあたっては近隣が参画するが、祭りを主催するのは屋敷神(マツリ神)を持っている家のみで、他の諸家は関与しない。諸家はオコモリの形で祭りに参加するわけで、おそらくは後世の変化であろう。福浦の場合は、屋敷神が旧家にだけ存在する形態であるが、あくまでも個々の屋敷地に付随するものであるから、家の盛衰によって住む者の交替があり、祭祀も家を引き継いだ者によって継承されてきた。

 周桑郡の若宮祭祀

 同一地域であってもムラごとの差異も大きく、屋敷神や同族神を一般にワカミヤサンと称する周桑郡のうちで小松町の高鴨神社旧氏子内における祭祀状況は、表5-24のようであった。同神社の神主家である鴨家(もと須藤姓)に伝わる天保末年の作成と推定される『高鴨神社勅許神主須藤家年中行事』によると、同家は当時で年間八四回の屋敷神祭祀と思われる神事を執行している。内訳は武家二四回、町家四回、南川村二八回、新屋敷村一一回、玉之江村一七回となっているが、これを当時の氏子戸数と照らし合わせたのが表5-25である。もっとも、新屋敷村では三島新宮の社家もあって二重氏子の形をとっているため、実際の祭祀数とはかなり異なるものと考えられる。新屋敷村のうち新宮・一本松地区の祭祀数が極端に少ないのはかかる理由によるものであろう。今在家村についても同様である。同村は現在でも「御先社」などの社名で若宮祭祀を実施する家が二〇戸ばかりみられる地域である。他方、南川村では明治以降の耕地整理などに伴う高鴨神社境内への移転があったりするが、全体に祭祀は収束し、中絶したところが多く、現在では数戸にすぎない。
 さて、これらによると祭祀神社一一四社のうち「和珂宮」と称するものが四四社で、その他は稲荷七・御先六・八幡四などとなっており、やはりワカミヤと呼ぶのが一般的であった。そして、複数の社を祭祀する家が二九戸と事例の三分の一以上を占めている。また武家では、八幡などの具体的神名を付加して祭祀することが多かったようである。階層的には上級武士や富農層を中心に祭祀されており、家中在住武士の祭祀率には高いものがある。反面、下タ町に在住する士分の屋敷神祭祀は少数にとどまっている。また、町家における祭祀事例が少ないのも興味深い。村分では南川村の事例が全戸数の半分に近い数値を示しているが、これは高鴨神社の宮元の村でもあるので神主家による屋敷神祭祀の勧奨があったのではないかと考えられる。とくに神社境内に祠を設けている事例は、これではないかとみられる。年中行事記録のなかに鴨家が司祭する自家や周辺諸社家の霊神祭りの記述が散見されるが、こうした神式の祖先祭祀を氏子内においては旧来の若宮祭祀と重ね合わせることで普及拡大させたものと考えて差し支えないであろう。因みに、この年中行事記録を記した鴨(須藤)重忠は、天保年中に西条市の伊曽乃神社で橘家神道の伝授を受けたり、神葬祭運動を展開するなど地域の神道家であった。高鴨神社氏子内の屋敷神祭祀数が周辺に比して多数であるのも、一つは神職による働かけの結果であるとも考えられる。南予地方における山伏の介在と対照的であるが、なお不分明である。
 また祭祀日はほぼ年間を通してみられるが、全体として秋に集中している。ことに旧八月・九月で三四例と全体の四〇%を占めており、一〇月、一一月を加えると六四%余りとなるが、七月については盆月であるためか祭祀を避けている。四月に事例がなく、五月も少数であるのは田植え時期と重複するからであろう。ともあれ、高鴨神社氏子地域では一般に先祖祭りの時期とされる仲・晩秋を中心に、それに合致するような形で屋敷神の祭祀が展開されてきたようである。

 屋敷神の性格

 屋敷神は、先の事例でみたような高縄半島を中心とする地主神的性格のもののほかにも、さまざまな神格が付与されている。屋敷神を地域の開拓先祖または家代々の祖霊と考えて祭祀するところも全国的には多い。これは屋敷神と祖霊の深い関連を示していると考えられるが、県下の屋敷神には、こうした祖先祭祀の伝承をもつ事例は同族神にくらべて少ないようである。
 事例1 宇和島市高串の今城イチマキでは今城様を祀る。土佐の長宗我部に攻められて討死した。先祖の今城兵庫守を祀ったものだと伝えている。また同市石丸のH家の若宮様は、先祖の中に頭の悪い人があったのを渕に投げ込んで殺したが、その崇りを怖れて若宮様として祀ったという。
 事例2 南宇和郡一本松町中川の森田家の若宮様は、屋敷裏の畑の畦に石造少祠で祀られている。御神体は丸石で、旧一二月一五日を祭日とする。昔、東兵衛という山伏がこの地に留まって森田家の先祖になったが、これを祀ったのが若宮様である。昔は木造で、分家が集まって祭りのたびに屋根を葺き替えたという。また、同所新田家のイエタカ様も先祖を祀ったもので、屋島の戦いで敗走した三浦大介の家来であると伝える。この人が自分を祀れば飢えさせぬといったことから祭祀が始まり、やがて近隣七軒の者が祭りに参加するようになったという。
 事例3 石鎚山麓の西条市大保木の今宮ではワカミヤサンといって、土佐の長宗我部家に従った者たちが逃れてきて部落を開拓したという先祖を祀っている。今宮はさらに下の四手坂と上の今宮に分かれ、それぞれ戸数四戸と三〇戸ほどであった。四手坂は藤原姓、今宮は伊藤姓であったが、ワカミヤサン九社はすべて今宮にあった。しかし、ワカミヤサンは屋敷に付属した施設であるので、四手坂から今宮のマルハチ家、さらにはゼンノジョウ家を買い取って移り住んだ藤原Y家でも、それぞれのワカミヤサンを祭祀している。屋敷に隣接あるいは少し離れた山にあり、一〇月一〇日の氏神(三倍神社)祭りにあわせて神職に拝んでもらう。ゼンノジョウ家の若宮さんは源氏の神さんだともいう。
 また今宮の若宮さんには、土佐からさげてきたという瓶を埋め込んでいるものが三か所あり、毎年、大豆やトウモロコシの初穂を入れて神職が拝み、封じ込める。閏年にはでき初穂(米)を入れるという。
 このように屋敷神を祖霊と考えて祭祀している事例は、いずれも落人伝説を付随しながら創祀伝承が語られているのが特徴である。そして、この傾向は、南予のマツリガミと称される屋敷神などの民間小祠について語られる普遍的な縁起伝承であることは、すでに大島建彦らが指摘しているところである。さらに今城様のように同族神化した本家屋敷神もあるが、石鎚山麓にみられる屋敷地に付属する祭祀施設であったのが本来の形であると考えられる。しかし、祖先神としての性格以上に地主神的な性格が強く表面に押し出されることによって地付きの神となり、さらには屋敷居住者が交替したのちも崇りの伝承を伴うことなどによって祭祀が継続されてきたものと考えられる。

表5-23 福浦のまつり神一覧

表5-23 福浦のまつり神一覧


表5-24 高鴨神社氏子内の地域別屋敷神祭祀状況

表5-24 高鴨神社氏子内の地域別屋敷神祭祀状況


表5-25 高鴨神社氏子内屋敷神祭祀一覧 ①

表5-25 高鴨神社氏子内屋敷神祭祀一覧 ①


表5-25 高鴨神社氏子内屋敷神祭祀一覧 ②

表5-25 高鴨神社氏子内屋敷神祭祀一覧 ②


表5-25 高鴨神社氏子内屋敷神祭祀一覧 ③

表5-25 高鴨神社氏子内屋敷神祭祀一覧 ③