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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 若者遍路の民俗

 若者と遍路

 村の若者が四国遍路に接待をしていた時代がある。接待はオセッタイと一般にいっているが、お遍路さんに金品や食べもの、生活用品などを施す行為をいう。このことは後で述べることにして、このお接待を村の若者の事業活動として行っていた時代があったのである。温泉郡重信町では、三月節供の日に接待桶と呼ぶニナイ(荷桶)に餅を入れて、松山市高井町の西林寺(四八番札所)に出向き、遍路たちに接待をしていた。同町下林や山之内にはそのニナイが現存しているが、この風習は同樋口などにもあった。接待が済むと村に帰ってきて慰労会ごとをする風であったが、これを「茶堂開き」といったのである。この風は大正初年まで続けられていた。
 松山市市坪町でも四国遍路からもどると、その翌日に「接待返し」といい、五一番札所の石手寺に出向いてお接待をすることになっていた。また越智郡大西町宮脇では遍路の季節になると、若者らが遍路道に出て接待をし、終わると若者宿に引き揚げ、そこで氏神祭礼に備えてのヤクシャドリ(役者取り)をすることになっていた。
 お接待は各地とも若者組の年中行事になっていてなかなか盛んだったようで、たとえば宇摩郡地方では旧三月二一日がお接待日で、各組から米を集めて握り飯をつくり、重箱に入れて奥之院(三角寺)に運び、遍路に接待していた。新居浜・西条地方でも盛んであった。西条の加茂川の河原に接待屋を設けて接待するグループもあった。

 若者遍路

 若者と遍路との関わりで、さらにおもしろいのは通過儀礼の民俗があったことである。いつごろから始まった風習か不明であるけれども、松山地方には二〇歳くらいまでに必ず遍路体験をして来なければならない不文律があった。一人前認定の通過儀礼として遍路体験が社会的条件に位置づけられていた時代があったのである。
 松山市市坪町のY氏(明治二九年生)は、大正三年一九歳のとき同行一一人で四国遍路に行っている。そのころは石鎚登拝とお四国を体験しておらねば世間が一人前に見てくれなかったというのである。当時の遍路姿は、伊予絣の着物を着たそうであるが、いよいよ打ち止めの石手寺に到着すると家族が出迎えに来ていた。角籠に回向着物・帯・食物などを入れて運び、石手寺で久しぶりに家族たちと共同飲食を楽しみ、それから回向着物に着替えて帰村したのである。こうした若者遍路は市坪町では大正六~七年頃まで行われたということである。
 若者遍路が最も盛んで、かつ遅くまで存続したのは松山市北部の旧和気地区であったようである。五二番円明寺下のM氏の話によれば、遍路に行くのは若衆組の順送りで、先輩に奨められると同輩中の最年長者が先達になり、同行を編成するのである。この年長者をトシコウといった。だいたい徴兵検査までに行って来ることになっていた。
 M氏は昭和一五年に行ったが、その頃は戦時体制下であったので洋服を着て、足には巻脚絆を巻き、国旗を持っての遍路行であった。そして武運長久を祈って歩いたのである。同行八人が二八日間で廻ってもどった。打ち止めの石手寺にもどると、若者仲間や家族らが出迎えて来ていた。そこで待ち着物に着替えてから帰村した。遍路からもどると村の者を招待して大盤振舞いをしたものである。まあ遊びが半分の遍路であったとM氏は述懐するが、その翌年に行ったグループを最後に当地方の若者遍路は中絶したというのである。
 また松山市馬木町のS氏(明治三三年生)は大正六年、一七歳のとき同行七人言遍路に出た。三二日かかった。N氏(明治三八年生)は大正八年に一八歳で行った。日程は三二日、同行は八人であった。Y氏(明治三四年生)とS氏(明治四二年生)は同行一三人で行った。大正一四年に行ったが、S氏はいちばん若年で一六歳下であった。
 同行はキマリ酒で決定し、その約束は堅持された。N氏の話によると、キマリ酒を飲んでから家に帰り、遍路に行くことを親に話したところ、物価上昇の折柄来年にするよう言われ、反対された。しかし、自分はキマリ酒をした後であったので決行したということである。私らはナグサミマイリであったので門に立ったり(托鉢のこと)、宿でオツトメをしたりはしなかった。阿波では伊予の松山オゲヘンドとか走りヘンドということを言にわれた。遍路中、松山市湯山の二一人同行に出会ったことがある。また同市安城寺町のオナゴヘンド(娘遍路)の一行と一緒になったこともあった。
 同市和気のW氏(明治三六年生)は大正一〇年に、一八歳のとき遍路に行った。当地方でも部落内で二~三年ごとに若者が遍路に行くことになっていたのである。しかし和気村には「七人ミサキ」の俗信があって、七人旅はタブーになっていた。それで、自分らの遍路は、少し歳の若い少年と、少し年長だが他所へ出ていたために遍路をすませてなかった青年とを加え、計九人で出かけたのである。
 般若心経などのお経は先輩に教わった。納経帳は父や兄が使ったのを持参した。先祖代々が使った、朱印のたくさん押してあるものほど値打ちがあるとされていた。着物は普段着として伊予絣を用意し、そのほかに高松・徳島などの町で着るために、そろいで無地紺の着物を新調した。これは真黒に見えるため、「伊予のカラスヘンド」などと呼ばれた。路銀(旅費)は一日一円の計算で、一応四〇日分として、ひとり四〇円ずつ持って出た。それ以上は親が出さなかった。貧しくて金の工面がつかぬ場合でも、遍路に出るとなれば借金の申込みは断れないことになっていたから、村の富裕者が貸してくれた。
 出発は旧暦二月で、だいたい三月節供の頃に徳島付近に来るような日程で出た。出発の二~三日前に九人全員で氏神へ参り、道中の無事を祈願した。また出発当日は、まず五二番太山寺を打ち出しに、村にもどって村内の五三番円明寺へ参り、ここで住職がお経をあげ、道中の注意などを受け、親兄弟や親戚の者に見送られて出発し、その日は北条(北条市)あたりで宿泊した。道中では、よくお接待をもらった。米が多かったが、持ち歩くのが重いので途中の宿や民家で売ったりした。おもに遍路宿へ泊まったが、金毘羅では「さくらや」という旅館の一泊二円もする上等な部屋に泊まり、酒を飲んで、女郎屋へ繰り出した。
 「伊予のカラスヘンド」は道中で嫌われていた。出たとこ勝負のこけ徳利で悪さをはたらくので嫌われたのである。このあたりのエピソードがいろいろあって、体験者はおもしろおかしく話してくれるのであるが、すべて割愛したい。伊予の若者遍路は、菅笠の笠印に「○い」と書いた。これを宿屋の軒先に吊したりして、後から来る者への目印としたりすることもあったが、「○い」印の伊予の若者遍路の泊まっている宿は他国の遍路から恐れられて同宿を敬遠される始末であった。またそれをよいことにもしたのである。
 道中も終わりに近づくと、宇和島あたりから家に手紙を出して、帰還の日を報せた。最後の札所は道後の石手寺で、家族らは巻ずしなどご馳走を作って出迎えてくれた。ご馳走を食べた後、道後の湯に行ったのだが、この時、着ていた着物を払うと、ノミやシラミがパラパラと落ちた。それからいっちょうらいに着替え、道後煎餅を買って和気へ帰り、氏神と円明寺にお参りした。寺では村童らが待っていたので道後の土産をやった。当時は、香川県の一部に鉄道があっただけだったので、ほとんど全部を歩いたが、日数は三三日かかった。村に帰って二~三日後に「接待がえし」をした。道中で接待を受けたことへの返礼である。同行が金やみかんなどを持ち寄り、円明寺でお接待をしたのである。これはその年一回きりである。なお遍路仲間は「同行」と呼ばれ、生涯付き合いをする。毎年春さきに氏神に参集して御神酒を酌み交わし旧交を温める。
 このように旧和気郡であった松山市北部地域~姫原から太山寺・和気浜・堀江・東大栗に至る一帯、及び興居島で、現在七〇歳以上になる男性のほとんどが、この若者遍路の体験者であると古老たちは言うのである。
 なお、ついでながら若者遍路の分布は、さらに北部に広がって旧風早郡(北条市)や旧野間郡(越智郡菊間町など)周辺にも及んでいた。明治四五年当時の「温泉郡粟井村に於ける娯楽」を記したなかに「四国八十八か所と称し、遍路の装をなして四国を遍歴するものにて、主に青年間に行わる」と記している。大正一一年二月、北条市横谷から出た若者遍路の一行があった。同行七人のうちK氏は最年少者で一七歳であった。徴兵検査までに四国遍路をして来なければ一人前に扱ってくれなかったといっていた。
 いま少し若者遍路について各地の聞き書きを記しておきたい。若者遍路の分布は、全県的にはまだ調査が不十分で未確認であるけれども、四国四県でも本県の松山市とその周辺に最も盛行していたようである。古老の伝承によれば、久米地区(北久米・鷹子・南土居など)・道後地区(石手・道後など)・湯山地区(溝辺・日浦地区)・伊台地区・桑原地区などである。西部では、余土・垣生・生石・味生地区、それに雄郡地区などにこの習俗はあり、さらに南の方の伊予郡松前町や伊予市の一部などにも若者遍路の習俗があった。
 松前町では「大正以前は、青年たちの最も楽しい行事で、普通旧暦二月~四月に約三〇日をかけて徒歩で巡拝した。遍路姿となって気の合った青年が一団となって歩くのである。帰村すると遍路会をつくるところもあった。遍路の途中、作物の栽培状況や土質などを調査したり、他郷の人々と親睦を深めたりした」と同町誌が記すように、若者たちが見聞を広め、親睦を深めることも若者遍路の功徳に数えられていたのである。
 伊予市宮ノ下新屋敷の某老人は、大正中頃に二〇歳のとき同行六人で遍路に行った。松山市高井町の四八番西林寺から打ち出し、二三日でもどったという。打ち止めの石手寺に着くと、家族が伊予絣の新調着物を持って出迎えてくれた。それを着て家に帰ったが、家では客呼びをして祝った。翌日、西林寺へ接待がえしに行った。遍路中、留守の者は気を遣って豆炒りをせず、女性は髪を結ったりしないものといわれていた。またこの間、陰膳をして旅中の安全を祈る風であった。
 温泉郡重信町や川内町あたりにも若者遍路の風があった。北条市では昭和初年まで続いたが、重信町、川内町では大正初年をもって廃絶したらしいのである。さて、当地方には「大頭見舞い」という風習があった。川内町松瀬川のS氏は、明治四二年同行五人で遍路に出た。二六歳を頭に二〇歳までの者であった。繁多寺から打ち初め、その日は道後に一泊し、三二日間で帰村した。
 松山からの遍路は越智・今治を経て周桑郡に出るのが決まったコースである。それで、松瀬川の若者連中は、遍路の一行が小松町大頭に出てくるころを見計らって、桜三里を越えて大頭に出て落ち合い、仲間への接待というか餅の差し入れをするのが慣例になっていた。餅をイレコに詰めて運んだのであるが、これを「大頭見舞い」というのである。ところがこのときは、一行が横峰寺参りをしたために見当が外れ、仲間と出合わず肝心の餅に食いはぐれたことがあった。一行は残念に思いながら新居・宇摩の郡境の関の峠で泊まっていると、仲間たちがここまで追っかけて来て、それでやっと念願の大頭見舞いにありつき喜んだという話である。彼等は徳島で急にコースを変えて脚を高野山に延ばすことになり、高野山詣りを終えて再び四国にもどって巡拝を続けた。高知では岩本寺から金剛福寺までを一日で駆け抜け、いわゆる「伊予の走りヘンド」をやった。
 四国遍路に出るには旅費として米四俵分を要したと重信町では伝えているが、大洲市三善の古老からは五俵と聞かされた。しかし、この路銀が無くても四国遍路に限って無条件でそれを貸してくれる金主方があるというからかもしろい。この点でも四国遍路については人びとの格別な感覚があったことを知ることができるであろう。

 若者遍路の意味

 以上、若者遍路について松山地方の民俗を主として述べてきたが、ではなぜ若者は遍路に出たのか。それはすでにしばしば触れたように、一口で言えば、若者が村人として一人前になるための通過儀礼としてであったのである。旅という信仰的体験(巡礼=遍路)を通して、世間を見たり知ったりして人生観や社会観を培うのに役立てたのである。同行という連帯集団が一か月にわたって信仰や苦楽を共にすれば、自ら心の絆というものができるのは必定で、それが仏心となって遍路体験者を生かさせるのである。
 老人は行きたくても身体的、経済的にかなわないし、世渡り盛りは金とひまがないし、遍路に出るには元気でまがり掛かりのない、余暇もある若者の時に行くにこしたことはないという現実的見解も成立つであろうが、ともかく早い時期にこのような旅の体験をしておくことは人間形成に重要な意味があると、前代の人は考えていたからであろう。日本人の人生には、それぞれの時期と機会によっての通過儀礼があるが、四国遍路ぐらい人生観を変えさせるものは他にないのではなかろうか。一般的に言っても、これが四国遍路の魅力でもあるようである。

 娘遍路

 娘が遍路に出ていたことは、若者遍路のところで一部触れた。娘が若者といっしょに遍路に行ったという伝承があるのは、松山市鷹子・北久米・石手・道後・吉藤・平田・福角・米野々・別府・東垣生・興居島などである。
 鷹子では、女一九歳の厄年までに厄ぬぎのための遍路に出たと伝えており、これが嫁入り条件になっていた。平田などでは、青年と娘がいっしょに行くときには老婆がついて行った。遍路中に心安くなり、帰ってから所帯をもったという例もあったという。しかし、娘遍路の習俗は若者遍路よりもかなり早い時期に姿を消したようである。