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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 憑きもの伝承

(注意 本項において、かつて人権侵害ともなりかねなかった伝承について記述している箇所があるが、それは、伝承的世界をありのまま述べたにすぎないのであって、この種の伝承を継承すべき意図などはいっさい働いていないことを予め断わっておく。)

 超自然的なモノが人間やその他のものに憑依する(とりつく)という信仰を憑きもの信仰という。憑きものには、広く神霊や人間霊などもふくむが、ここでは、動物霊を中心にみていく。ところで、憑きものの正体とされる動物類(狐・蛇・犬神等)を意識して飼っており、それらを自由に駆使すると考えられている家を、憑きもの筋とよび具体的に狐持とか犬神筋といっている。この憑きもの筋については婚姻の妨げとなるなどややもすると社会問題化しうる迷信とされてきた。柳田国男は動物を使った託宣・神使としての動物崇拝の形骸化あるいは零落したものを憑きもの信仰とみたが、さらに速水保孝は憑きもの筋の成立の原因を正徳・享保期(一八世紀前半)を境として農村に浸透してきたとする貨幣経済と、それによって引き起こされた社会変動に求めた。すなわち、外来者たる新興勢力と土着の旧勢力との階級関係が均衡状態にあって、両者の対立が激化し、旧勢力の反感や嫉妬が祈祷師などを媒介として変容し、そこに憑きもの信仰が成立したものとする。
 さて、宇和地帯の憑きもの信仰の実態を調査した桜井徳太郎によると、憑きもの信仰は、(1)憑きもの伝承と(2)憑き神信仰に二分される。前者は、鳥獣など動物の形をとって出現し、人間に憑いていろんな怪異現象をひきおこす妖怪の一部をさし、山犬・川獺(かわうそ・カワソ)・狸・蛇・夜雀・エンコ(河童)などの憑依伝承のことであり、後者は、峠や寂しい場所といった一定の場所に出現する妖怪のことを指し、それにはジキトリ・ガキボトケ・オクヨサマ・柴神様(柴折様)・ヒダリガミなどがあり、これらはその出現する場所に神として祀られている。また妖怪のうち非業の死をとげた幼児の亡霊とされるノツゴもよく人に取り憑くものといわれている。

 山犬

 山野にいる野生の犬ともいい、またオオカミと同じもののように考えられているのが山犬である。山犬が夜、人のあとについてくることを山犬に憑かれたという。
 伊予郡広田村高市・中山町にもよく山犬は現われ、「犬寄峠」の地名の由来ともなった。大洲・松山間の御用飛脚、畑左衛門が深夜に犬寄峠にさしかかり、一匹の山犬を殺したところ、その悲鳴で次ぎ次ぎに山犬が集まってきた。左衛門は松の木によじのぼったが、山犬は互いに肩車同様にのりつぎ、木の幹にそってどんどんとよじのぼった。左衛門は自分の持った刀の目抜きに鶏の名作があって血潮の温みを得るときは、精を得て歌うということを思い出し、刀に「鶏声を放てよ」と祈ったら、はたして「コケコッコー」と刀の先から声が発され、山犬は夜が明けたと感違いし、囲みを解いて帰っていったという。
 山犬退治譚は南宇和郡の城辺町や一本松町にもある。岩井(岩屋)のオカネは産後三日目だというのに奥山に入り木に登っていたところ、山犬の群が現われて互いに首馬に乗りながら迫ってきたので、オカネは鉄砲の引金に指をかけると、山犬たちは一目散に山中へ逃げ行った。
 北宇和郡吉田町奥南の太良鼻の渡辺駒蔵という男が、大晦日の晩に隣村舟間の浦中円治方へ借金を返しに行っての帰り、あざかというところで、たくさんの山犬におそわれたので、その晩はとめてもらって元旦になって帰ったことがある。
 山犬が人のあとをつけたて、人に憑く伝承は西宇和・北宇和郡(松野町上家地)のほかは南宇和郡に多くみられる。西宇和郡三瓶町鴫山の木挽が隣村の穴井に仕事にゆき病気で死亡。木挽の家は極度の貧乏で人を傭う金がないため、その家内と娘の二人でその遺骸をかついで帰りかけると、山犬が眼を光らせてその後をつけて来た。その親子は山犬に向かい「うちに帰ったら小豆飯を炊いて進ぜるから今夜は無事に帰らせてくれろ」と山犬に頼んだ。それで山犬はそのまま、とうとうその家までついて来たので、早速小豆飯を炊いてこれに振舞った。小豆飯は、家の門口にある丸い藁打石の上にのせることが普通であった(これはエンコへの贈物の場合も同様)。南宇和郡内海村柏では、山犬は狼とも異なる魔物の一種であり、憑かれると人の後になり先になりしてついてくる。そのとき「家へ帰ったら豆御飯を炊いてやるから、トギ(供)をしてくれよ」というと、つけて来なくなる。北宇和郡吉田町苫ヶ浜へ不幸見舞いに行った帰りに山犬につけられた者は、土産物を投げつけたらそれにたかり、もうついて来なかったという。南宇和郡内海村油袋の山犬は、お産祝の餅や一〇月亥の子の祝餅を親類へ配る子どもの股をくぐったり、頭上を跳び越えたりしてついてくる。同郡城辺町中緑では、お産見舞いに行って七夜を済まさないうちに、その家の御飯をもらって食べると山中で山犬につかれることがあるので警戒する。
 また一本松町小山では、お産があって三日の火の明けぬうちにその家で飲み食いをすると山犬がつく。そこで「産火を食べたら夜道を歩くな。」と言った。また山犬は血を好むので赤火(月経中)の婦人にはよく憑く。山犬は眼の大きな犬で格別、人にかみついたり悪いことはしないともいう。御荘町猿鳴では、生魚などを担いで夜、山道を通るとき、背後でドスンと音がして、調べてみると魚がなくなっている。これは山犬が魚をとったもので、これを山犬が憑いたのだという。
 宇和地帯ではよくノイヌを山犬ともいい、山犬につけられたときの呪いとしては「ヨスズメ ヨスズメ 姿がみえるぞよ」といえばよい。また火を嫌い、また煙草の煙をとくにいやがるという。桜井徳太郎は、こうした宇和地帯の山犬伝承を調査したうえで、南予の山犬の性格を次の六点にまとめている。①犬の一種ではあるが狼ではなく、眼光が鋭い。②夜、山道を通るときに憑かれることが多い。③とくに赤火・黒火に憑く習性をもつ。④狼のように人に害を加えない。⑤おおむね気味の悪い存在で、これを避けるには食物を与える、火を焚く、あるいは煙草を吸えばよい。⑥山犬が憑くと、他の魔物はいっさいつかない。

 エンコ(河童)

 安永六年(一七七七)の記録(宇和島藩庁伊達家史料八)に現在の北宇和郡津島町の川筋には「川太郎」などというものがいるとある。エンコを川太郎とか河童とかよぶことも多く、また県下のカワウソ(カワソ)生息地にエンコ伝承が多いこともあって、越智郡関前村岡村などではエンコとカワウソを同体異名と考えたりもする。また逆に、上浮穴郡小田町深山や町村などエンコとカワウソが全く異質なものと考えるところもある。越智郡の大島ではエンコボ、新居浜市大島ではコンボーズとそれぞれ呼んでいる。また、エンコは、水辺や海辺にすむ手の長い猿の一種というふうに考えられ、頭にエンコ皿とよばれる皿をかぶっている姿がふつうである(三間町)。エンコが人に憑くということは、例えばエンコが尻をぬく(水死)ことを意味するものと思う。
 柳田国男の『山島民譚集』以来、エンコ(河童)は水神のおちぶれた姿を示すものとされている。八幡浜市真穴のエンコ祭りは、その経緯をわずかに証明する伝承といえよう。真穴では毎年子供たちが海水浴をはじめるころになると、各家ではエンコのいやがる筍をたべ、腰には鹿の角をつって母子ともに海岸に出て、弁当を海に供えてエンコに子供たちの安全を祈り、母子で弁当を食べたのである。
 『西条誌』巻十七の入野村(現宇摩郡土居町)の項に次のような記事がある。西条あたりではエンコウとよび、俗人は猿猴の字を用い猿猴は山にすむサルのことである。東国ではカッパと呼ぶ。カワタロウともいう。入野にあるガワラ塚のガワラはカワタラウの略語である、と。

彼ノがわら塚のいわれハ、むかし當村の庄屋某、健なる馬を蓄置けるが、一日入野の原に繋ぎ春の青草はませけるに、此ノ原より少し南に本川口と云処あり、或ハ鮎帰の淵とも云、此淵よりがわら出、かの馬の綱をくるゝと身に纒ひ、少しづつ南して、ついにかの淵に引入たり、馬ハ何心なく牽て行けるが、次第に深く成り頭ヲ没する程に至りけれバ、驚キテはねあがり、只一さんにかけて庄屋に帰る、がわらハ長き綱にからまれたる儘にて水を離れて力なく、五、六歳の小児の様にて庭中に蹲ける、其頭に皿の如ものあるを見とめて、是レ人を喰がわら也とて、農民等よりて打殺し、田の頭に埋めける、そのがわら塚ハ、其跡也とかや、それ迄ハ、かの淵にて人を引入レ殺す事、夏ハ度々有けるが、駿馬の力により、永く其患なく、空しく物語のミ世に遺れり(以下略)

 右の伝承は、「河童駒引」の話で、県内各地に聞くことができる。北条市浅海本谷では、孫兵衛という馬使いが海で馬を洗っていたとき、エンコが出て、馬を沖の方につれていこうとしたが、逆に馬の方が山へにげてゆき、孫兵衛はエンコをつかまえ殺そうとしたところ、エンコがワルサをしないと約束したので命は助けた。
 一度つかまったエンコが、命ごいの条件として毎朝、あるいは毎年元旦に、魚などのお礼を人間にすることになったが、魚をかけるかぎが、エンコのきらいな鹿の角になったとたんに、このエンコの恩返しも終ってしまう。この話は南予を中心に広く行われている。伊予郡砥部町馬取淵のエンコ伝説、『大洲旧記第四』の「下須賀村」の項、東宇和郡明浜町高山の城主宇都宮正綱の話、北宇和郡成妙村(現三間町)、津島町土居奥の百姓の話、松野町などの話としてそれぞれ伝承されている。
 鹿の角を戸口にかけてもエンコが平気でお礼にくる話は南宇和郡城辺町のエンコ婆ヤンの伝承である。大力ものの婆さんが川を渡るとき一人の小坊主があらわれ、背負って川を渡った婆さんは高熱にうなされる。エンコに憑かれたためだといわれ、湯攻めで憑いたエンコを殺そうとしたらエンコが謝り、毎朝魚のお礼をすることとなり鹿の角の鈎に魚を吊すようになったという。しかし普通、エンコは鹿の角をきらうもので、海や川で泳いでいると、エンコがツベを抜く(肛門がひらくことで水死の状態を意味する)というので、フンドシに鹿の角を差しておく(明浜町高山)とか、カワガリに行く子供に鹿の角の箸で飯を食べさせるとか(津島町御槇)、「清正公、大神宮様、渋谷の観音、鹿の角」などと唱えるとツベを抜かれない(内海村柏)。越智郡関前村岡村ではエンコは金物が大嫌いであるといい、宇和地帯ではシシのカケバ(欠歯)を持つ。捕ったエンコの返礼にはこの他に、骨つぎの膏薬の作り方を伝授してもらうこともある(今治市来島、砥部町千里口)。
 エンコ(河童)伝承には駒引きのほかに「相撲をいどむ河童」「年貢を納めた河童」「詫証文を書いた河童」などがある。そのうち「相撲をいどむ河童」伝承は、南宇和郡内海村油袋にもあり、そこでは、子どもと相撲をとっているうちに、頭の皿の水がこぼれて急に力を失い、ついに腕をとられてしまって、ようやく逃げ延びたと伝えられている。同類型の相撲をいどむエンコの話は瀬戸内海の関前村岡村にもある。
 その他エンコにまつわる伝承として、七夕以降に泳ぐとエンコが出て足をひっぱるとか釣り船に子供を乗せて寝かしていたらエンコにさらわれるという。海が五色の波できれいに見えることがあると海のエンコのしわざだといい、帰りが遅くなって海に一人でいるとエンコにひかれる(関前村岡村)。また、エンコは冬になると山に入ってセコになる。セコは足が一本で雪の上に一つの足あとをのこしながらホイホイとよばわって歩く(宇和地帯)。なおセコは、九州でカッパを意味する。
 エンコの供養塚としては、松山市北梅本町のエンコ塚、越智郡伯方町矢崎の海岸のエンコ石などがある。

 カワソ

 カワソ(カワウソ)と先のエンコ(河童)と同一視されることもあるが、小田町におけるカワソの特徴をまとめると①足が小さい、②髪の毛がない、③女の人に化ける、④猫のようにはう、⑤淵・穴に住む、⑥イタチと同じような太さ、⑦猫のようなもの、⑧小さい坊さんのようなもの、⑨川に入ってもぬれない、⑩イタチの大きいもの、⑪むささびに似たもの、となる。カワソは水辺や水中に住み、そこを通る人々にとり憑いては色々の悪戯をはたらくのである。
 東宇和郡宇和町には次のような「一の瀬のカワウソ」の伝承がある。ある男が橋の上で会った女に子供を抱いてくれと頼まれた。男は遠ざかる女に不思議を感じ、抱いている子供を見ると、それは大きな石であった。また、『続今治夜話』には次のカワウソオドシ(獺威)の話がある。子供への戒めとして、放屁をすればカワウソオドシということがおこると教えられた。永野寿庵が宝暦七年(一七五七)に御療治のため登城し、深更に及んで帰路につき山里口御橋先にとおりかかり、放屁をしたら数疋の獺が集まってきて道をふさいだ。当惑しているところに、中間が通り掛り、同道を頼んで無事帰宅できた。
 越智郡の大島ではカワソはいろいろな悪戯や怪異をなすが、河童と同様なものと思われている。同郡宮窪町ではカワソは人を騙そうとして水辺にくる。カタンとかジャブンとか音をさせたら、こちらから「たまげた」といえば、化かされることはないという。宇和島市戸島にもたくさんのカワソがすんでいた。カワソの千匹連れといって、千匹ものカワソがカタギウマ(肩車)をして列をつくり、ひしめき合っていることがあった。
 南宇和郡内海村猪谷では人間がカワソを見れば見るほど大きくのび上って、大きく脹れてゆく。これを「カワソののびあがり」と呼ぶ。カワソを見すえるかぎり大きくなって、しまいにはカワソに負けてやられてしまうから、いい加減のところで「見越した」というと、カワソは急に小さくなりどこかへ消え失せてしまうといわれる。海上で船がどうしても進まないときにも、カワソが憑いたためであるという。同郡城辺町緑では、松明を振りかざしながら僧都川の上流へ鮎を追い上げて捕るとき、途中で急に松明が消えてしまうことがある。それはカワソに襲われたためである。カワソが通ると、川魚は一尾もいなくなる。みなカワソに食べられてしまうからだというので、その夜は鮎漁をやめて家に帰るのである。しかし、こうしたカワソをめぐる伝承も、国指定特別天然記念物のカワウソが人間の前にその姿を見せなくなるにつれて、漸次、消えつつある。

 犬神

 この憑きものの正体は犬の霊であるとされ、中国地方西南部から四国・九州の一帯で盛んだった俗信である。延宝五年(一六七七)の宇和島藩の記録に次のような一節がある。

十月十九日 一、子を殺シ長堀二捨置候助右衛門と申者、妻共新町橋二而三日さらし、町中引渡 焼印、当親子三人共追放、犬神持之由故 不及欠所也

 右の家族は、犬神持ちであったがため財産没収にはならず、追放されている。この特別視される犬神持ちは、また、犬神筋ともよばれ、憑き物筋として典型的な事例である。東予地方のあるむらでは犬神に憑かれるとワンワンと犬の鳴きまねをしたり、動作もそれに似たようになるが、ゴキトウで「落ちる」という。
 大正二年の『郷土研究』によると、松山以東における犬神の起源を弘法大師と関連づけて、次のようにいわれる。犬神は鼠のようなもので、犬神のいる家の人には見えるが他人には見えない。犬神のいる家はきまっていて、犬神は家族の数だけいる。もし犬神系から嫁をもらうと、一匹の犬神が嫁についてゆき、婚家の家族数と同じに増加し、その家も永久に犬神系の家となる。犬神系の家人が他人の物を見てからほしいと思うと、その人の跡を追ってかみつく。かみつくといっても、胸が苦しいとか腹が痛むということで、修法をするか、欲しい物を与えないかぎり一命は助からない。また、犬神は不従順なところもあって、時として逆に家人をかみ殺すことさえある。総じて、奇妙な病気はみな、この犬神のしわざといわれる。さらに犬神の起源は「むかし弘法大師が四国巡錫の折、村人が宿をかして鄭重に待遇した。大師はこれを徳として、謝禮のために如何なる望でも叶へてやらうと云ふと、主人は畑の芋を野猪に荒されて困るから、野猪の出ぬやうにして貰ひたいと頼んだ。大師は料紙を取寄せて何か書いてそれを封じ、これを畑に立てゝ置けばよい、併し忘れても封を切っては成らぬと堅く命じて置いた。主人がその禁呪の紙を竿に挾んで畑に立てると、その晩から野猪が出ない。餘り不思議さに封を切って見ると、唯一匹の犬の繪が描いてあった。その繪は忽ち紙をぬけ出して、犬神と成って、其家に住むやうに成った」とされる。
 越智郡島嶼部の犬神伝承は次のとおりである。ある男が女を編した。女は怒って犬神に恨みごとを願掛けした。するとその男は足が不自由であったのに、脛ぐらいある海の中を陸上よりも速く走ったり、天井に吸い付いたり、股の下に頭を入れてくるくる回ったりした。これを島の人たちは、「大神がとりついたのだ」という。また、犬神はワンワンと吠え、飛び上がり、足ずりをする。村に憑き物はなかったが、ある人が他村に嫁ぎ、その嫁ぎ先が憑き物筋であったために、この村に入って来たのだという。
 中予地方の某山村では犬神は大体、女につき代々女に伝わるといわれる。祈祷師の呪術によって落してもらうのが常である。また南予地方のZ村にHという体格のよい、おとなしい男がいた。Hの母親が、他村の犬神筋の家から嫁入ってから、この家が筋になったという。Hの意中の恋人であったSという女性が、N男の所へ嫁いだ後で、Hの生霊が憑いたといって祈祷だ護符だと大騒ぎをした。Sは小柄の弱々しい女であったが、この時だけは特に大力で、二、三人の屈強な男がかかっても取鎮めることが出来ないほどで、その理由は、Hが憑いているからで、その口走る態度・口吻までもHにそっくりだといわれた。ただしこのSは非常に内気で神経質で、よくヒステリー症状を起こし、犬神だけでなく、狸などがついたといって騒動を起こす女であったらしい。この村は以前は狐、狸、犬神、金神等の崇り神の信仰が強く、護符の祈祷が非常にさかんであったという。
 なお犬神の起源については、『大洲妖怪録』の「伊撞国犬神之事」や『雪窓夜話抄・巻七』の中に引用された『学海餘滴』巻八に詳しい。
 次に、憑き物落しについてみる。越智郡島嶼部では犬神が憑くのを防ぐ方法として、胡麻をいって仏様に寄せるとか、迷うような人に憑くので迷わないことがあげられる。また犬神や蛇神が憑くと、石鎚のダイニン(祈祷師)に拝んでもらうと憑きものが落ちるというところもある。
 松山市高井の西林寺には犬神よけ大師がある。あまり古いことではないが、この大師は本堂の縁に祀ってあるという。犬神に憑かれて災難にあうと、この犬神よけ大師に祈れば災いからまぬかれるといわれる。東予地方の一部では四ツ辻や墓地等にオクリモノを供えて、落とした。

 トンビョウガミ・蛇神

 中国、四国地方にみられる憑きもので、その正体は一〇~二〇cmくらいの小蛇であるという。東予地方の一部では、大正時代のはじめころまで、クチナ(蛇)の一種にトンビョガミがいて、その蛇を大切にかっている家の人とケンカなどすると蛇群が襲い、蛇神に憑かれるといって恐れられていた。『西条誌』によれば、頓病というのは、にわかに病むの意味で、蛇神持ちの家の者が、遺恨ある人の名を言って、誰それにゆけとのろえば、七五匹の蛇が相手の家をおそい、その家人はにわかに病となる。つまり、トンビョウにかかる。身体がはれたり、腹痛などをおこす。
 中予のX町の蛇持ちの家は、広島県蒲刈島から移住した家といわれている。
 南予地方の一部では蛇に憑かれると眼から異様な光を発し異常な動作を示す。立って歩かず、蛇のようにのたうち回りながらはう。その状態を蛇ヅカレという。それを治すためには、棒をもって打ちのめすという。またある村では「出刃庖丁でぶった切るぞ」と脅すと、けろりと治る。

 狸

 愛媛県に限らず四国には、狐つきが少ないかわりに狸の憑く例は多い。狸に憑かれて急に高熱を出したり、狂人のように走りまわったり、いろいろのことをロずさんだりする場合を、南予で狸ヅカレとよぶ。狸が人に憑いてだます伝承は多い。北条市高萩山で、狸にだまされた人を村総出で、「おったかよードンドンドン。おらんかやードンドンドン。」というふうに太鼓をたたきながら探す。見つけた時には、ふぬけになっていることが多かった。松山市南久米のホゴツリ狸もよく人をばかしたということで有名である。松山市久谷では昔、神経異常のことを、狸つきとか犬神つきといっていた。

 夜雀

 真夜中に山道を歩いていると、急にちっちっと鳴いてついてくるものがある。ときには、その声で行先がさえぎられ、一歩も歩けなくなる。これをヨスズメに憑かれたという。南予から高知県幡多郡に多い伝承である。南宇和郡城辺町僧都では、一種の蛾のようなものといわれる。内子町大瀬の成留屋付近にも夜、「チチ、チチ」と鳴いてついてくるのを袂雀とよんでいる。鶯に似た褐色の小さい鳥だという人もいる。上浮穴郡小田町桜原でもタモトスズメという。東宇和郡城川町上川地区でもタモトスズメがたもとの付近でチュチュとなくが、人家近くになるとぴたりと止むという。これに憑かれるとつづいて山犬が現れるので、南宇和郡一本松町小山ではヨスズメは山犬の先きぶれだともいう。ヨスズメに憑かれたとき「ちっちっと鳴くものは、しちぎの棒が恋しいか、恋しいならばぱんとひと撃ち、アビラウンケンソワカ」と呪文を唱え、歩いているうちに、やがて鳴き声がやむといわれる。

 憑き神信仰

 (1) ジキトリ・ヒダルガミ 高い山などへ登ったりした時、空腹で動けなくなることがある。これをジキトリ、ガキボトケあるいはヒダルガミに憑かれたという。その時、弁当箱のすみに一粒でも御飯が残っていれば、それを口に入れるとすぐなおる。飯粒がない時には、掌に米という字を書いて、なめてもよい。
 ジキトリ伝承は全県下にみられるが、南予に多く聞くことができる。南予のジキトリは、姿をかえてあらわれた山の神の化身と考えられている。ジキトリにとり憑かれた場所は、重信町から皿ケ嶺に登る上林峠・犬寄峠・城川町の土居から下相へ抜ける祓川のところ・法華津峠の卯之町側下り口・野村町内場奥から鉢ケ森に登る峠・津島町御内部落上組の刈端などで、三崎町正野では海上で働いている最中でも漁師にジキトリが憑くといわれる。
 ジキトリからのがれるために、太夫や法師にオハライをしてもらったり(城辺町中緑)、山で弁当を食べるとき、まず一番箸でとった飯粒をかならず山の神に供え、ジキトリである山の神の空腹を満たせておく(一本松町小山・城辺町・御荘町猿鳴)。一方、ヒダルガミやダリもジキトリと同様に、これらが憑くと空腹を感じて一歩もあるけなくなる。一本松町では、憑かれたときには、身につけているものは何でも後へ投げつけるとよいという。
 伊予郡広田村高市ではヒダルゴもヒダルガミで「駄場のはな」あたりや縄目すじなどによくおって、人につくとその人は急に激しい空腹感をおぼえ、一歩も歩けなくなって冷や汗が出る。しかしわずかでも何かちょっと食べると直ちに離れてしまう。同郡中山町重藤から永木へ出る峠のハマ石のある所でもヒダルゴにつかれたという。
(2) オクヨサマ 三間町音地中之畑にオクヨサマ(お供養様)という小祠がある。そこを通って山仕事へ行く人は、草花を手折ってその前に供え拝んだ。同町梅が峠を越えて行く三叉路にもオクヨサマとよばれる高さ七〇cmほどの自然石がある。言語障害や眼病・疣に効く。
(3) オシオリサマ 城辺町や内海村など南予に多い。一つの通路が峠をはさんで二つの部落を結んでいる場合、それぞれの部落側に一つずつ、合わせて二つのオシオリサマとよばれる地蔵がおかれ、道行く人はこれに柴を折って行く。そうすると、疲れた足も治り、重い足も軽くなる。
(4) 柴神様・柴折様・足軽様 新宮村をはじめとする東予地域では、旧道の難所に石地蔵・小祠・道祖神があって、通行人が、柴をおって通行の安全を祈願したところから、これをシバオリサンともよんだ。南予でも各村にシバガミがあって、柴を一本供えるとたちどころに、足の疲れを忘れる。東宇和郡野村町平野から次ケ川へ越す峠を柴神峠と称し、そこに自然石があって通行人が柴を手向ける。宇和島市豊浦からエビガ峠を越えて津島町岩松へ出る山道がある。その峠の中腹に柴折様とよばれる石仏がある。ここには狸・山犬・ノツゴなど妖怪がよく出るので、これらに憑かれないために、青草を手折って供えて行く。内海村油袋・平碆の峠の柴神様は足軽様とよばれている。西海町小浦の上の旧往還にテンヤ(店屋)があって、そのそばにも柴折様があった。