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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 三 島 信 仰①

 古代の大山祗神社

 瀬戸内海のほぼ中央部に浮かぶ大三島の宮浦に、大山祇神社が鎮座している。大山祗神社は一般に大三島神社とも呼ばれ、その祭神は、三島大明神(平安時代以降の命名)・明神サン・オ三島サマと親しく呼ばれる大山祇神(大山積神・大山津見神)である。『延喜式』に名神大(社)として出る、きわめて歴史の古い神社である。旧国幣大社。伊予国の一宮であるばかりでなく、三蹟の一人藤原佐理が神号扁額に「日本総鎮守」とかいたように古くから、日本国土全体の総氏神として崇敬されてきた。
 大山祇神は、天照大神の兄神とか、伊弉諾・伊弉冉の二神の子あるいは、山の神ないし火の神の分神といわれる。(図表『釈日本紀』参照)もともと百済から我が国に渡来して摂津国三島(現大阪府高槻市にある三島鴨神社か)に鎮座したのち、伊予国御島(大三島)に遷座されたといわれる。百済からわたってきた神ゆえ、一名、ワタシノカミと呼ぶ(『古史伝・五』)。大山祇神が渡来神であったという観念は、山の神である大山祇神が海の神として成長してゆく契機を『伊予国風土記』編集の頃からはらんでいたといえる。古代日本史において大和朝廷と大陸・朝鮮半島との関係が強調されるとともに、瀬戸内海が交通の要衝として重視されたことによって、大山祇神への信仰はもちろん、神の奉斎地を領有し、やがてこの神を氏神とする越智氏と大山祗神の関係も強化され、そこに「日本霊異記・上」「今昔物語・十六」(越智直が百済に出征して唐軍の捕虜となり、中国へ拉致され、九死に一生を得て帰国したので、朝廷はその労苦をねぎらって彼の要望により越智郡がつくられたという話)をはじめとする祭神伝承が生まれたと考えられる。
 大山祇神社創建の時期や社地の位置は不詳である。(図表『三島宮社記』参照)
 また『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月二〇日の条に「伊予国神野郡伊曽乃神、越智郡大山積神、并授従四位下、充神戸各五戸」とあり、奈良時代八世紀中葉には神社の存在が確認されるとともに、神階が「従四位下」で、神戸として「五戸」をあてられたことがわかる。さらに、貞観から元慶年間(九世紀後半)には神階が従三位から正一位にのぼった(三代実録・大山祇神社明細帳)。そして一〇世紀初頭に名神大(社)すなわち国幣大社に列した(延喜式)。『大鏡』によれば、正暦三年(九九二)に藤原佐理が書いたとされる扁額(重要文化財)にあるように「日本総鎮守 大山積大明神」とよばれるにいたった。
 神社の発展はその広大な社領によっても知られる。鎌倉時代一三世紀中葉の建長年間頃、封戸田三八町余をはじめ講経供料田・八講田・仁王講田・法花講田・大般若田・法華会などに関するものが四〇町余あった。また鎌倉~室町時代にかけて越智郡鴨部郷内貞光名、桑村郡吉岡庄などを領有していた。

 越智氏と河野氏

 さて、元来、山の神として発現した大山祇神が、後世、海の守護神、武の神、農業や銅山の守護神へと成長してゆく道すじこそが、三島信仰の展開過程の主軸である。そのうち、山の神から海の守護神へと転換するにいたった背景として、当地の神事、社務全般を総裁する、いわば最高神職たる大祝職を継承し、在庁官人をも兼帯した越智家(のちの三島家)と、その越智家に出自をもつといわれ守護職を留保した在地豪族の河野氏とが、連携して瀬戸内海の制海権を掌握し、水軍をひきいて活躍すると同時に、瀬戸内海の「海人」・民衆がよせる大山祇神への信仰心をも統轄することができたということがあった。
 大祝職を世襲したとされる越智氏はまた、大祝氏・大祝家とも称し、鎌倉時代以後、強大な在地勢力を形成し、伊予国の実力者河野氏を通じて幕府御家人として、一方、国衙の在庁官人として成長していった。鎌倉末期から島民を統率して政界に登場し、河野氏輩下の有力豪族としての実力を発揮した。
 河野氏は、越智玉澄をその先祖とし、高縄山西麓の風早郡河野郷(北条市)に根拠をおいたため、河野氏を名のった。源平争乱の時代から織豊時代に至るまで、中世伊予の国でもっとも栄え、波瀾興亡の歴史をくりひろげた豪族である。河野通信は、屋島で源氏を援けたうえ、壇の浦でその優れた水軍力で平家追討に尽力した。その結果、寿永四年(一一八五)、通信は伊予道後七郡の守護に任ぜられた。また河野通有は元寇防御で伊予水軍をひきいて活躍したのち、大山祇神社に参詣し、一〇年以内に蒙古の来襲がないとき、異国に渡って戦いを敢行する旨の起請文を神前に捧げたうえで、それを焼き、その灰を飲んで武運の長久を祈願したという(八幡愚童記)。
 河野氏は大山祗神に寄進をすることが多かった。中世には五〇余りの建物があって、そのうち本殿は南北朝時代に河野氏が寄進したものといわれる。
 大山祇神は、越智・河野両氏の氏神ともされたが、伊予水軍によって支援された源氏の諸将はもちろん、中世を通じて、有力武将も神社に対して、田地の寄進や鎧兜・太刀などの寄進奉納をくりかえした。
 文和二年(一三五三)、源義尚、一町の田地を寄進
 天文一二年(一五四三)、大内義隆、奉幣・剣・神馬を寄進、武運長久を祈願
 慶長六年(一六〇一)、藤堂高虎、毎年二〇俵の供米を寄進
 今日、我が国の国宝及び重要文化財に指定されている甲冑(源義経奉納の国宝・赤絲威鎧等)の大半がこの内海の小島の一神社に奉納されている理由が上述からわかるのである。
 以上の寄進行為は、大山祇神を武の神あるいは海の守護神へと変質させずにはおかなかった。

 近世の祭礼市

 中世末期天正年間に豊臣秀吉による四国征服で河野氏は滅亡し、大祝氏=越智氏は河野氏の武将たる地位から逐われて、一介の神職の地位におちた。神社をもりたて経営維持し続けてきた豪族の没落後、大山祇神社は近世史をどう歩んだのであろうか。
 太閤検地の結果、当社領有の社田一万数千石は没収され、ために年中八か度の大祭はじめ、神幸が中廃絶した。
 慶長六年(一六〇一)今治二〇万石領主の藤堂高虎は、当社の社地を現状の一万坪に削減、画定すると共に、神輿三体を奉納し、拝殿を修造し、十六皇子社を献進して四箇祭料米を寄進した。
 寛永一二年(一六三五)に入部した松山藩一五万石、今治藩三万石の両松平家の藩主は、古い由緒を持つ当社を厚く崇敬した。ことに当社を領内にもつ松山藩主は、参勤交代の途次、必ず本社に参詣し、家運の隆昌と武運の長久を祈ることを例としている。
 寛永一五年(一六三八)今治藩主松平定房が大石灯籠を寄進
 寛文三年(一六六三)松山藩主松平定直が神門・廻廊・神橋・玉垣・鳥居を寄進、四箇祭料米を献上
 貞享三年(一六八六)同定直が、社田五〇石を寄進
 右のような松山・今治両藩による当社への財政的援助のほか、貞享四年には、当社祭日にあわせて祭礼市がたてられた四月一七~二三日の間、境内において、歌舞伎芝居が興行されはじめ、祭礼市に多くの賽客を集め、神社への賽物の増加をはかろうとした。また祭礼市の場床料も神社へ収納させようとした。こうして神社経営の基礎を、従来の特定少数の領主階層から、多数の一般庶民の参拝者たちに、置き換えようとしたのである。
 安永年間に入ると、松山藩は甚だしくなった財政窮乏を切抜けるため、松山城下町人薬屋五兵衛の提案を入れて、宮島にならって祭礼市を盛大にし、参詣者をふやすと同時にその市からあがる諸運上などの収益で藩財政を潤す「御国潤」(他藩よりの一種の銀貨吸収政策)を果たそうとした。祭礼市として夏市は四月一日から五月五日まで、秋市は七月五日から八月二〇日までとするが、神社側の都合とか参拝者の大部分をしめる農民の農閑期を考えて決められることとなった。この計画に基づいて従来、藩で許可したことがない歌舞伎芝居や富籤をおこなった。そのうち富籤は安永九年(一七八〇)~天明四年(一七八四)の間、毎月二度ずつ行われるほどに人気をよんだ。寛政改革で富場所制限の影響をうけたためか寛政四年(一七九二)五月に富籤は中止された。
 歌舞伎芝居は藩直営の宏壮な小屋で、欠損覚悟であえて興行した。芝居見物を楽しみにしてくる参詣客による市の繁昌で、欠損は補てんできると考えたからであろう。そのために市芝居興行をしるした立札が、松山城下・今治城下・三原城下・竹原町・忠海町・三津町・御手洗町・瀬戸田島・尾道町など藩内隣藩の主要箇所に建てられた。
 安永六年松山・三原・尾道・竹原・御手洗・忠海などから遊女屋がき、彼らに揚屋株七軒分がみとめられ、遊女は、芝居同様に賽客の吸引に大きな力となったようである。
 また従来、川床を市場床として市日の期間中だけ、小屋掛の商家がならんで、鳥居前市としての祭礼市が経営されていたが、本川筋付替を安永七年に実現し、安永九年には、藩営・民営の町家が集結する町並が出現した。これが現在の「新地町」の起源である。
 いずれにせよ娯楽・遊興・商取引が自由におこなえる―「御制外」の場所としたので、瀬戸内諸地域から一般参拝者が増加するようになった。

 大祝家の振興策

 しかし安永期以来繁栄した祭礼市は富籤廃止によって急激に衰願し、幕末には市は不況のどん底に陥った。その間三島大祝家は三島市再興の案を数度にわたって松山藩に提出している。
 享和元年(一八〇一)提出の「口上之覚」によると、今治藩内では他藩内で興行される富会に参加することを厳禁しているので(貨幣の藩外流出を恐れたか)、富興行期間中は、今治浜手で船留して大三島への渡海を許さないから、今治から東、西条藩までの参詣者は一人もいなかった。それゆえ今治藩へは富興行のない日を通知して、社参を促したという。また奉行所の求めに応じて出した大祝家の具体的な提案は、三島市を三島宮の祭礼市として本来の姿にひきもどすため、市の管理運営の権限を、藩側から神社側に譲り受けようとするものであった。その中で、祭の日取りを五月の麦刈植付時に入らないようにしてほしいと言っていることから、この頃、参詣人の多くが農民であったことがよくわかる。
 安政七年(一八六〇)の提案では、三島祭礼市の不景気によって、参詣者が漸減し、参寵所の薪代も不足する状況なので、市再興のため、厳島神社・出雲大社の例にならって、神社自らが一か年二度(二月二八目~三月七日と八月一八日~二七日)、境内で牛馬入札市興行賑わいをしたいと述べている。そして翌文久元年(一八六一)から牛馬市が行われた。万延元年(一八六〇)八月には、伊予縞に注目した大祝家は、先の牛馬入札市をやめて、手数がかからず利の多い新国産品である伊予縞の入札市を出願した。その中で、入札市からあがる徳分は、牛馬市の場合と同様御役所において三島宮修覆のため貯蓄しておき元銀がふえれば、往古から行われ現在、廃絶している台浜への御神幸の祭式を再興し、宮浦沖横島または台浜笹山辺へ、管絃などの御神幸ができるようになり、そうすれば神位も増すであろうと述べている。しかし、この高機伊予縞の入札市興行は実現しなかった。
 以上のことから、江戸後期、大祝以下社人たちのなみなみならぬ努力にもかかわらず、神社経営の有力な財源としての三島市を確立することはできず、祭儀祭典の廃絶荒廃ははなはだしかったことがわかる。一方、農業神信仰としての三島信仰をひろめるため、神社は、近隣諸藩の農村に、当社の神火を戴いて五穀豊穣を祈る「三島講」の結成に尽力した。
 三島講は、先の三島市にかわる財源のひとつとして存続し、今日にまで及んでいるのである。三島講は後述するとして、幕末期における神社側の信仰をもりたてるための農・漁村に対する「檀廻」は積極的であった。
  文政四年(一八二一)四月廿一日、大三島神主菅弥太郎太夫代替二付旦廻正銀八匁九兵衛(注・庄屋)銀札廿四匁役人中  四拾目浦中寄附致ス 取扱向訴扣見合之事(宇和島藩三浦庄屋史料『田中家史料2』)
あるいは、次のような史料がある。
  一 大三島社人檀廻二参 弘化四丁未年(一八四七)七月廿日廿一日夜 村賄二而灘尾五右衛門方二泊 中山江村送リ(中略)(内ノ子六日市『永久録』)
 こうした社人集団の地域を問わない檀廻りの結果、賽物を集めて財源をうるおす一方、三島講、明神講とよばれる講の組織化がすすんだものと考えられる。
 明治維新後は、政府から格別の保護をうけ、明治四年(一八七一)に国幣中社、さらに大正四年に国幣大社となり昭和二〇年(戦前)まで国庫から祭祀料をうけつつ信仰的命脈を保った。その間、武神、海上守護神として帝国海軍・船舶関係者等から、山神(山岳神)・農神として鉱業・農業関係者から信仰されてきたのである。

 神職組織

 大祝家の本拠はもと越智郡高橋郷別名の塔本(現今治市)にあって、祭礼や社用のとき海を渡って大三島に赴いた。自家の経営のほか、ことに鎌倉時代に御家人としての職務によるものとみられる。大祝家は五家に分かれるが、そのうち本家と分家のひとつ鳥生家が天正五年(一五七七)に統合されて、延宝三年(一六七五)には大三島宮浦の現在地に移った。
 大祝姓を改めて「三島」と称するのは、安躬(宝暦四年~文化一三年)の時代からである。
 大祝は、「擬神体半大明神」、つまり神と人間との間をとりもつ存在で、神格と人格をあわせ持つ。年表・文治五年の項でもわかるように、大祝は食事のとき必ず土器を用い、しかも同じうつわを二度と使わなかったという。現在も神酒は素焼の土器にもる伝統がのこっている。神職に厳粛な禁忌が要求されているのである。また江戸時代までは、大祝家は社参には神事でなくとも、乗輿した。
 大祝職を補佐する主な役職は時代によって異なる。表5―3中、国神主は、河野氏の代官として大島義成らが赴任していたが、預所加茂吉盛と争ったため、遠成のとき、康和元年(一〇九九)に廃止され、領家の知足院から預所兼帯のため京神主が派遣され、嘉禎元年(一二三五)まで続いたといわれている。国神主・京神主ともに大祝家以外から派遣された「外様の守護」としての神主で、うち国神主の名はその後もながくのこった。
 「三島宮御鎮座本縁」によると、大内義隆が大三島に勢力をのばしたとき、天文一三年(一五四四)に大三島の小海城主島左衛門を三島六官の上に「島神主」として、さらに、弘治四年=永禄元年(一五五八)に甘崎城主村上通康を「地頭神主」とし、島神主の上においた。これらの神主は長くはおかれなかったとみえ、大内氏の後退とともに廃止されたものと推測される。
 宝永四年(一七〇七)、祝安積が松山寺社奉行所へ差出した「惣社人職分之事」(文政十二年の『舊翰秘覧記』所収写)に次のような職掌説明がある。
 (1) 大祝 擬神体職で、それは遷宮のとき、本宮の神体を載せ遷座し奉る。また諸神官に対して、大明神にかわって神宣を伝え惣社家上に立ち社人の職掌を指揮するものである。
 (2) 擬神主 三島宮内陣御戸開のとき、錠をあけ御扉を開き内陣へ入り掃除をつとめ惣社家献上の幣帛を献じ、あるいは、それをかたづける。遷宮などのとき大祝をたすけて平常の御祈祷にも大祝家より出勤しないときは、大祝のさしずを受け、その代わりをつとめるものである。
 (3) 権神主 擬神主につぐ職分。御内陣御錠箱を取扱い、神前の錠前に封をつける。社家旦所より祈祷や神楽の依頼があったとき、祝言を奏す。また擬神主が故障のときは、その代職をつとめる。
 (4) 国神主 内陣の御鍵箱をあずかり、万一、大事がおこったとき、そのまま神前に馳け付け非常な事態を防がなければならない。神女の補任状も国神主が出す。
 (5) 修理行事 修理職のことを行うものである。
 先の擬神主~修理行事を四職とよぶ。四職以外の上官社人(神太夫・樋口太夫・的射太夫・弥九郎太夫・勘太夫・福江太夫・片山太夫・久保太夫・六郎太夫・宮之太夫の一〇人)の座列は、補任状をもらった順番で代々廻り職分としてきまる。すなわち、早く補任状をとった者を古老と称して、先の一〇人のうち第一の古老から第六の古老までを六官とよぶ。しかし残りの四人も補任状をうけた順に獅子居殿に着座し、神前社役をつとめるのであった。
 これらの社務の要職についた社家は、十菅五越智といって菅家一〇軒と越智家五軒とがあたったものらしく、神職の継承には世襲ないし縁続を原則としていたようである。たとえば、菅福江太夫は文化八年(一八二五)に病身ゆえ退職隠居をねがって、十官御社人中へ「奉願口上」を提出した結果、大祝によってその願いはゆるされ、翌年その近親者井口村の常八が養子となり太夫に補任されている。
 江戸時代を通じて、大祝と社家の間にはげしい確執が生じ、ことに万治・正徳の両年間には、大祝職が停職になったほどである。その間の事情を物語る社家側の訴えは、松浦家文書に詳しい。なお、明治以降は、大祝職以下が廃止され、宮司・権宮司・禰宜・権禰宜・主典等が社務にあたっている。

 神仏習合

 明治初期の神仏分離まで、当社には神仏習合がみられた。『予章記』『予陽河野家譜』は大山祇神の本地仏を大通智勝仏とする。河野氏は大山祗神を氏神とするところから、大通智勝仏にあやかって、平安時代末期以降の河野通清・通信をはじめ河野氏の嫡子たちが、その名に「通」の字を使用した。
 古くから塔頭が置かれ供僧が勤務していた。神宮寺は保延元年(一一三五)に創建され、さらに神宮寺の供僧や寺家人の居所として次々に坊が建てられた。『予陽河野盛衰記』によると、一二世紀前半、二四坊もに供僧が配されていた。正治年中(一一九九―一二〇一)には、そのうち大善・中之・乗蔵・通蔵・宝蔵・円光・西光・南光の八坊を日吉郷(現今治市)に鎮座する別宮大明神の供僧としたという。現在は大三島に東円坊、今治に南光坊が残るのみである。
 神仏習合は、神社の年中行事のなかにもはっきりみられた。次の史料は『松浦家文書』所収の正徳三年(一七一二)の祭祀の記事である。
   修正會牛王加持并願文供物次第
 一当社大明神江献上大餅三拾三枚大仏供五坏并串餅柿
 一当社七拾末社江献上小餅七拾五枚
 一日本國中諸神江献上大餅
 一征夷大将軍様為御武運長久献大餅抽精誠勤行
 一大守様為御武運長久同断
    (中 略)
 一今治城主采女様為御武運長久同断
    (中 略)
 一国家安全百姓萬民為息災不難同断
 一右牛王加持     薬師寺
  彼牛王加持ノ節数万男女社参仕、銘々ニ牛王杖致所持御法声を出候事無量
 一願文ハ       東円坊
  右願文相調節六郎太夫願文二相記人数改役
  三箇寺御祈祷成就以後献供物其後頂戴人数
 一 大餅三拾三枚        棚守
 一 斗俵三枚          東円坊
 一 小餅七拾五枚        擬神主、行事、惣官、守手、小行事
 一 串餅            国神主、六郎太夫、本覚坊、薬師寺、東円坊、行事
            (以下略)
 また、祭神の本地である大通智勝仏が祭礼に開帳されたりもしたことが、次の史料でわかる。(図表「大通智勝仏」参照)
 各地に伝播した三島信仰にも神仏習合はごく普通の形でつづいた。西宇和郡保内町宮内の三島神社の本地仏が批把谷村(現保内町)にある眼法山真願寺にあると伝えられている(宇和旧記)。宇和町の三島神社にも大蔵山神宮寺があった。

 三島神社の分布

 昭和四七年八月神社本庁調べによれば大山積(祇)・大山津見神を祀る神社(分社)の数は、全国で約一万三一八社ほどにのぼるといわれる。これらの神社とこの大三島大山祇神社との関係は、いま確認のしようがない。表5―4から「山神神社」の数が異常に多いのは、この「山の神」が山民たちの素朴な守護神が、後世の神道家により、記紀などの故事にこじつけられて、大山祇命や木花咲耶姫をまつるとしているためであろうと思われる。したがって、一万余社にのぼる大山祇系神社のなかには、大三島大山祇神社の勧請分霊社でないものもふくまれていよう。
 県内の場合、鎮座の島すなわち御島の名にちなんで三島神社と呼ばれる分社が、境内社等をふくめて一五〇社前後あり、その数は全国的にみて多い。さらに社名にかかわらず、その祭神を祀る神社は約四七〇社(愛媛県神社誌)にのぼる。
 図5―3は境内社や配神をのぞいた独立社のうち旧村社クラスの主な三島神社勧請社の分布状況を示す。これをみると、地域差が若干でてくる。越智氏ないし河野氏との関連がふかい地域に独立社が多く分布しているものと考えられる。
 越智氏との関連を説く社伝にはいくつかの類型がある。
 事例1 伊予三島市宮川にある三島神社(旧県社)の勧請経緯は養老四年(七二〇)、宇摩大領の越智玉澄が大山祇神社より奉遷したのがはじまり。『小松邑志』によれば、越智玉興が老いて三島へ参詣しがたくなったため、宇摩郡地方へ勧請したという。
 事例2 松山市余戸町の三島大明神社・同市港山町の湊三島大明神の勧請経緯。聖武天皇の詔勅によって、神亀五年(七二八)、越智玉純が伊予国内九四郷に一郷一社の三島神社を建造したという。
 事例3 松山市東方町の三島神社の勧請経緯。和銅五年、大三島より勧請する。
 図中の平安時代以前の勧請社の多くは、右の三つの類型のいずれかに属する。社伝として勧請経緯の不詳なものをのぞけば、東・中予と南予のうち喜多郡・東宇和郡あたりにこの古代勧請型がある。
 次に河野氏との関連を社伝とする神社は、図の鎌倉~室町時代前期と戦国時代に勧請したものに多いが三浦章夫によると応永年間(一四世紀末~一五世紀初)から各地に勧請されたものに多い。
 事例4 松山市石手の大山積神社 鎌倉時代の弘安年中(一二七八~一二八八)、河野通有が元寇にそなえるために勧請した。「比宮の事 通有度々渡海の難に逢ふ 神託によって宮勧請す 比神事に市をたつ石手市と言ふ」(予陽郡郷俚諺集)。またこの神社には「河野神楽」というのがあった(伊予二名集)。
 社伝をひとつの民俗伝承と考えてみると、越智氏や河野氏が神社を創建したという社伝をもつ神社には越智氏なり河野氏なりとのつながりを強調しなければならない、かくされた理由というものがあったとみられる。その理由は今のところつかめていない。ともかく、こうして三島信仰の伝播は、古代の豪族とその一族の流れと称し、中世初頭以降、中予地方を根拠とし、勢力をなした河野氏が、あるいは南北朝以降の村上氏が、瀬戸内海の制海権を、さらに伊予一国を支配するにつれて、その勢力圏内へ漸次、大山祇神社を勧請したものと考えられる。それに伴い祭神の性格は、本来の「山の神」から「海の神」「武の神」へと変質したのである。

 各地の三島信仰

 信仰圏が拡大するにつれて、種々の三島信仰伝承が各地に生れた。
 事例1 今治市神宮にある野間神社祭礼(もと五月一九日~二〇日、現在五月一〇日)に出る神舟。神輿が出る前に登場するこの舟は、舳から艫まで四間余りもあり、御簾が下がり高欄がかかった豪華な屋形舟である。舟の中央には「日本総鎮守大山積大明神」とかかれた神号扁額が置かれ、その両側に等身大の二つの人形が向かいあって座っている。舳側に白髪の翁である大山積神(三島サンと一般によぶ)と艫側は筆を手にした藤原佐理である。大三島の大山祇神社にのこる、藤原佐理の筆と伝えられる神額の由来については「大鏡」に紹介されて有名であるが、佐理かその神額を書いた場所として、吉海町の泊の海岸、弓削町下弓削の海岸と諸説がある。大西町九王や紺原では、大西町品部川の川裾のあたりで佐理が筆を執ったとの伝承がある。その神額は神の加護によって大三島町の宮浦の海岸に流れつき、大山祇神社の人によって取り上げられた。それゆえ、氏子である大西町紺原の若衆二十人ほどがこの神舟を動かすことになっている。
 事例2 東宇和郡宇和町卯之町の三島大明神勧請にまつわる塩ごりの行事。承平年間(九三一~三八)に越智好方(押領使)が純友の乱をしずめるため勧請した。そのとき俵津浦(明浜町)に「御船着」、それより神領大蔵山(現社地)に社地を定め、京都吉田殿より左衛門・右衛門の太夫二人が下向し左座右座と分神の取行いをした。毎年八月二一日には社人たちは潮垢離取りに俵津浦へゆく。神が「御船着」した所は宮崎と名付けられたのである(宇和旧記・上巻)。
 事例3 喜多郡内子町川中の三島神社の霊験譚。曽根城の城主高昌公は神仏崇敬の念あつく、入城の前夜、川中で宿泊したところ、枕辺に錦の直垂をつけた気高い翁が現れて「汝屡々危難を免れ辛苦を嘗む。今開運の時にあたり、錦旗を授く、吾れは三島の神なり。ゆめ疑うことなかれ」と告げた。眠りから覚めた高昌公はこの不思議な夢も半信半疑で翌朝、三島神社に詣でたところ、果たして錦旗一流があった。高昌公はいたく、その霊験に感じ、後に社殿を営み神領を寄進した。
 事例4 越智郡吉海町の三島明神誕生石。大島泊村(吉海町)の海浜に誕生石という石がある。石面に胞衣の形がみえる。三島明神が誕生した名残と伝えられ、産婦がこの石に祈れば、必ず奇瑞があるという(愛媛面影)。
 右の〈事例1・3〉で、ともに大山祗神が「翁」の形で現れ、さまざまの霊験を示す点が注目される。〈2〉は三島信仰の厳粛さが潮垢離行事をとおして伝えられていたことを示す。〈4〉は一種の地名伝説のなかに三島信仰が定着していった例といえる。

 祭礼(一)

 古代における祭典には、「上卿―国司代官―職掌、官人、氏長者、氏人、以下諸役参列」した。祭祀を掌ったのは越智国造であったが、孝徳天皇の頃、国造が廃止、越智大領がこれを掌った。文武天皇のとき、越智大領玉澄に至って世事と祭事を両分して、世事は河野氏に、祭事は大祝職が世襲することとなったと伝えられる。大祝(大宮司)は、散位勅任の長職と称し、三位の装束を着け、上司十官(擬神主ほか)は五位職と称す。大祭には、大祝は前斎七日、擬神主・権神主・一内子・棚守などは三日の潔斎をする。
 年中の祭祀は百あまりあったといわれるが、はやりすたれがみられた。貞治三年(一三六四)にあった八節供のうち、七月、八月の二つはいずれも天正年間に跡途えてしまった(宝永四年の記録)。八月二二日は今日、産須奈大祭としてよみかえっているが、七月の方は中絶したままである。
 現在の大山祇神社での祭事は、月々の月次祭(毎月二二日)と一日祭(毎月一日)をのぞいても、五〇ほどをかぞえる。そのうち主な祭礼についてみよう。
 (1) 一月七日の赤土拝戴神事は、生土祭に先だって、神体山としての安神山の麓で赤土を採取してくる神事である。生土祭は、神と人とが合一して神遊びをした古代的な神事伝承といえる祭りで、安神山からとってきた赤土を神前に献供したあと、宮司以下全員が、額にその赤土で神印をつけ、続いて御串山の榊枝を手にして太鼓を合図に、これを打鳴らす。祭典後、庭で、参拝者に天之真那比木と呼ぶ福木をなげて授与する福木神事が行われる。うまく福木を手にした人は、副賞として神酒一本(昔は米一俵)が渡される。
 貞治三年(一三六四)の記録によると、正月御神事は次のようなものであった。一日から七日まで七昼夜の間、大祝並びに六官神官以下いろいろの役人等が参宮し大宮、上津宮、下津宮、葛木之社の四箇社を日々御供を献じ奉幣行事を勤行する。昼夜やかことない御祈祷は天下無双の御神事であった。
 また、宝永四年(一七〇七)の史料には次のように出る。正月七日夜、「牛王祷事」と称し当年の年穀をいのり、刻限にのぞんで、大鏡餅を供えた。これを「斗俵のモチ」といった。これは越智、菅両家の一﨟・二﨟の社家が出勤して供えた。刻限がくると行事が大祝宅へゆき、その案内によって大祝は出仕、神官も参勤し御供神饌、造酒(神酒)などを供え、祝詞を奏し奉幣。大祝家代々一子に伝来してきた牛王加持の秘法を行い、国泰鎮護五穀豊饒、宝祚長久、御邦君御武運長久、君臣調和の御祈祷執行する。神事がおわって直会がある。これには種々の規式があった。
 正徳三年(一七一三)の史料(松浦家文書)に次のように出る。(図表「松浦家文書①」参照)
 (2) 毎月二二日は月次祭で、これは祭神が旧四月二二日に鎮座した日だから行う祭事である。ただし、四月は例大祭があるので月次祭はない。毎月一日も「一日祭」が行われるが、一月は歳旦祭がこれにかわる。なお、月次祭について次のような享保一二年(一七二七)の史料がある。
 (3) 三月三日の祭礼は貞治三年の古い時代にもあった。くだって宝永四年(一七〇七)の史料では、
 三月三日太祝始神官以下各参列 御饌奉幣桃花種々之物を以て供奉り乙女を□し神楽を奏し鎮魂之秘法を行ひ上 御一体を奉始下萬民之寿命長延を祈り申候(以下略)
 とある。
 (4) 桜会御神事については、正徳三年(一七一三)の記録から出る。それによると、桜会御神事は四月八日から一五日までの間、寺社家が出仕し、神前へお茶を献上し、社僧が毎日、御法楽として、読経する。享保一二年の史料によれば、陀羅尼経を読んでいたことがわかる。
 (5) かつて四月一五日から二三日まで本地仏を開帳し、寺社家出合わせた。また一五日から現在なお執行されている御更衣御戸開祭(カンミソマツリ)の準備にはいる。この祭りは、神が衣替えをする神事で、一一月二二日の御戸開祭と対になった祭事である。四月は夏の御神衣として、麻の生地一反を本殿内陣内に奉り、一一月には冬の御神衣として絹一反を奉る。内陣を開いて神衣を奉るので「御戸開祭」ともいう。いわゆる春の例大祭で、各地からの参詣者でにぎわい「三島市」がたったのも、この日である。現在は四月一五日の山口祭からはじまり四月二四日の宇迦神社祈晴報賽祭までを「春の大祭」とよんで、愛媛の三大祭りの一つにも数えられている。今日なお各地から大漁旗をかかげた漁船が宮浦港につめかけている。
 安芸三津(広島県安浦町)の漁民はかつて、三丁櫓で三時間くらいかけて大三島まいりをした。そのとき船頭たちが「三島饅頭に芋の粉がまぜる 空が曇れば安くなる」とうたいながら、船をこいだという。越智郡関前村には大山祇神社の末社としての姫子島神社という郷社があり、大山祇神社から神主がきて大漁祈願祭をするが、春と秋の例祭には必ず大三島に御祈祷詣りをする。村一番の慰安の日である。費用は漁協がもった。
 越智郡弓削島の明神地区からは神前で用いる二間つづきの新蓬(苫)を大山祇神社の大祭ごとに奉納するならわしがあった。これは、藤原佐理が帰京の途次、船が難破して弓削島にたちより、例の「日本総鎮守……」の扁額をかき、それを大山祇神社に奉納した際に弓削島の名産であった蓬を持参した故事によるものといわれている。大三島の南隣の大島では、大山祇神社の春祭りの日に、娘たちが海岸や路傍などでオクドサンを築き、そこで御飯を炊いてたべる風習があったという。
 御更衣御戸開祭は、種々の準備段階を経ておこなわれた。それを、享保一二年(一七二七)の史料(玉川町光林寺文書)でみておく。(図表「玉川町光林寺文書」参照)
 以上のように御更衣御戸開祭は、大祝が「禁足」するなど厳重な規式のもとにとりおこなわれていたこと、貞治三年(一三六四)においても近世の祭礼とほぼ同じスタイルのものがあって、いわば中世的な祭礼としての「申」(お鍵申し・御封申)の伝統がかなりつづいたこと、ただ、宝永四年の史料によると、四月二二日夜から二六日までの「宵之御申」から「阿奈婆申」は、中世にはあったものの天正年間(一五七三~九二)から中絶してしまったようである。一体に、大山祇神社の祭礼は、時代の流れと関連してか、消長がみられた。したがって、文明一三年(一四八一)には、神事祭礼のことが社家中といえどもよくわかっていないので、河野家は「自今以後 神官供僧等違先例、於致神コ察(祭)例等之煩輩者、竪可処重科」との触れを出さざるをえないありさまだったのである。
 (6) 御田植祭は今日なお旧暦五月五日に行われている。貞治三年の記録中に「舞楽并桂馬流鏑馬以下色々御神コ等」とあって、田植祭もその中にふくまれるものと解釈されてきた。そうなると、南北朝時代には既に始まっていた神事といえる。この神事は、大山祗神が農業の守護神としての性格をあらわすものといえる。三体の神輿が斎田ちかくの御棧敷殿に渡御して五穀豊穣を祈願する祭事がとり行われたのち全国的にも珍しい神事芸能の一人角力、早乙女による田植え行事があり、神輿の還御で祭りは終わる。旧九月九日の抜穂祭もこれと同様な内容で稲刈りが行われる。式次第は正徳三年(一七一三)の史料(松浦家文書)によると、次のとおりである。(図表「松浦家文書②」参照)
 さらに享保一二年(一七二七)の記録(光林寺蔵文書)には、
 一同(五月)五日御幸并御流鏑馬之御祭礼 御幸之刻限行事太夫大祝江窺、夫より祓殿着キ直二本社江帰リ神輿神前江進メ国神主神輿言次 其時擬神主あふの聲ヲ勤 其後権神主神輿之御戸帳下シ夫より本社出御御旅殿江御幸御供奉行列之次第  并御流鏑馬御田植相撲之儀式 前方書付指上ヶ申候通
とある。
 九月九日の抜穂祭も、五月五日の祭事と同じ内容のものである。享保一二年の五月、九月両度の行幸行列は、「行幸之節行列并御流鏑馬次第」(松浦家文書)によると図のとおりで、このころの御田植祭は流鏑馬を伴っていた。
 現在は概略、次のような次第で祭りが行われている。
 ①修祓 ②神輿渡御 ③早苗及び斎田を祓う ④神饌・早苗を奉る ⑤祝詞 ⑥一人角力神事 ⑦御田植神事 ⑧玉串を奉る ⑨神饌を撤す ⑩神輿本社還御
 「一人角力」は、享保二年(一七一七)の上浦町瀬戸部落の向雲寺住職慈峯による記録にはじめて出る。それによれば、
  端五神事、節於宮浦邑の斎事有 其内 瀬戸の独り相撲と名乗る儀式あり、役人は甘崎より出候得共 瀬戸と名乗る 両村の高三百石二つに別れ候事百年余り 氏宮は瀬戸にあり
とある。古くから「瀬戸の一人角力」といって、瀬戸部落からもっぱら一人角力の取手を出していたことが知れる。大山祗神が稲=田の神=精霊に見立てられ、人間を相手に相撲をし、二勝一敗で神が勝ち、その年の豊作が約束される。力士は行司役のもとで、突っぱったり、足とりしたり四つに組んだり、あらゆる相撲の手を演じ、精霊を十分楽しませる。これは、その年の農作物の作柄をあらかじめ占う「年占」の一種と考えられている行事である。(図表「対抗相撲」参照)その他、引分け相撲でおわる肥海の兄弟相撲もあった。『嶋』に、「白褌と黒のタブザキに白褌を締めた両名の取手が現はれ、一番は白、二番目は黒と互に勝負があって」とあるのは、この兄弟相撲のことをさしていると思われる。その後一人角力以外は中止になったとみられる。
 相撲行事につづいて御田植行事がある。享保一二年の史料には、肥海部落から出るとある「御田植男」二名は田植の正条縄を張る。柄振男は記録にないが、肥海から出、田植男は宮浦、井之口から一名ずつ出るという。柄振男はエブリで斎田をかきならす役である。田植男・柄振男の衣裳は白衣、白手甲、白脚絆、白帯である。早乙女は一六人。宮浦、井之口、肥海から各二名、他の一〇部落から一名ずつ選ばれる。一〇歳から一三歳くらいまでの少女がなる。白衣、赤手甲、赤脚絆、赤襷姿で頭にノシをつける。
 今日の田植はかたちばかり数条ほど植えておわる。この大山祇神社の御田植祭には、かつては行われていた和霊神社の御田植祭とはちがって、田植歌がない。この五月五日の御田植祭には多くの参詣者をあつめた。越智郡吉海町津島では五月五日をゴリョウといい、柏餅を作り、それを持って大三島サンヘ参詣に行く。
 (7) 風鎮祭 貞治三年の記録にある祭りである。天正年間に断絶したが、その神式行事の次第は「大祝家一子相伝」であるためその後も伝わっていると宝永四年(一七〇七)の史料に記されている。
 (8) 産須奈大祭 旧暦八月二二日国土安泰・五穀豊穣などを祈願、あるいは感謝して行われる祭りで、春の例大祭とともににぎわう。宮浦から台までの「お旅」と呼ばれる神輿の供奉行列がある。宝永四年の史料によると、この祭りは「国祭」と称し、貞治三年の記録に出るが天正年間より中絶。大祝家に伝わる神事の次第は次のとおりである。(図表「大祝家に伝わる神事」参照)
 (9) 抜穂祭 旧九月九日。御田植祭と同様な神事が行われる。斎田の稲穂を、春の御田植をした早乙女がヌキホオトメと称して抜き収穫し、御輿に供える、いわば新穀祭の意味を持つ。この祭りには特殊な神饌が供せられる。その一つにハナモリ(花盛)がある。白米五合を炊ぎ握り飯にし、奉書に包んでワラシベで結んだもの三個を供える。また「菜葉メシ」という直会用の熟饌が供される。これは白米一升を炊き、菜葉に包み、シュロの葉でくくったもの一〇〇個供え、参列者や付近の者に分与される。俗にチカラメシともいわれている。宝永四年の史料に次のとおり出ている。
  九月九日、中御橋御旅所江御幸成奉り、神幸之式五月五日之儀式之如し、当日其年之新穀を神饌に供奉り、騎射執行御旅所二而相撲とらしめ終る、還幸於外陳大神供献上、祝言奉幣神楽を奏し種々之式有之、次直会頂戴
 (10) 一一月二二日の御更衣御戸開祭は、春四月二一日の御戸開祭と同じ内容である。
 (11) 酒口祭(ミケグチマツリ)は冬至に行われる。かつては祭りごとにその一週間前から、この祭りを執行したのち一夜酒をつくったが、今日では一年間のお神酒を酒屋にたのんでつくるため、冬至に斎田からあがった米を酒屋へはこんで、そこで酒口祭を行う。
 (12) 御戸開祭が臨時で行われることもあった。享保一二年、与八郎が大祝に就任して安屋となのったときに臨時御戸開か勤行されている。

(享保一二年)十月十日太祝成之儀臨時戸開勤行為御検使嶋方御代官村井又右エ門殿御渡海、御手代得能七右衛門殿御立合有……(松浦家文書『覚』)

 また、松山藩主の病気回復祈祷、藩主社参のおりにも、必ずこの御戸開祭が行われている。
 雨乞、五穀成就の祈祷も、藩側から代参として御奉行がおもむき行っていたことが寛政年間の史料に多く出ている(松浦家文書)。藩はまた、廻状を村々浦々におくり雨乞御祈祷を三島宮に参詣させたうえ、行わせている。(岩城村年中諸雑記)
 ところで大山祇神社と雨乞の関係も古く、安神山の頂上に祀る龍神祠は越智玉澄が創祀したといわれ、古来旱魃の年には必ず祭壇を設けてこれを祭り、山上に神火を焚いて太鼓をたたき、徹宵、雨を祈る習俗がある。これと同時に、神苑中の弁才天池に弁才天を祀っており、大旱の時、神社の馬場で千人踊をし、いよいよ降雨なき時は弁才天池をカエル(排水する)と池中の龍が水を吹くので、いかなる日照りにも雨が降るといわれている。

 祭礼(二)

 各地に勧請された三島神社の祭礼をいくつかみよう。
 宇摩郡新宮村大谷の三島神社の春祭(旧三月三日)は、大谷一〇戸の内から輪番で勤める当屋の世話でモモテが行われる。射手は「三島神社、大山神社……」と身近な所の神社名を唱えたあと一三間先にある的を射る。
 新居浜市角野の大山祗神社は元禄四年、別子銅山開坑とともに銅山経営者の住友家の祖である泉屋が大三島から勧請し、別子山村の足谷に祀ったのがはじまりである。その後、採鉱本部の下山につれ大正四年、新居浜市の東平一ノ森へ、さらに昭和二年山根内宮社に遷したのち、昭和三年に現在地川口新田へ遷座した。
 大山祇神は鉱山の守護神として全国に分霊されているが、この新居浜市の神社は、毎年元日の大鉑祭で知られていた。また五月一~三日の祭礼には住友従業員による奉納相撲があった。
 大鉑とは重さ約九四〇㎏もある大きな良質の銅鉱石のことで、小鉑とともに別子銅山の守護神としての大山祇神社に奉納して山の繁栄と安全を祈願する。大鉑、小鉑の製作は坑夫頭に命じられ、その寸法は書残された図面に従って寸分たがわぬものにつくられる。大鉑は一・三m、高さ一・三m、底の幅一・〇九m、銅鉑の最もふくらんだ部分の幅は一・七mといった具合に、毎年一一月初めから、ノ・ミのうまい人たち数人が人のあまりこない坑道に囲いをして籠り、削りあげて完成させる。鉑にはシメナワを張り、これをソリあるいは台にのせてミコシのように、斎戒沐浴した山の坑夫五〇人ほどがかついで大山祇神社まではこび、奉納するのである。
 大鉑祭の起源は不詳であるが、産銅が著しく減少した時、高品質の鉱脈を掘りあてて経営がたちなおったことから、これを鉱山の神と仰ぐ大山祇神の神助によるものとして、この祭りが始まったと伝えられている。ともかく鉱山におけるシゴトハジメの祭りと考えてよい。祭りには、
  明けて目出ーたいーヨー始まる はーりやエー ∃エーヨエーヨエーヨー
  エーエー始ーまるー歳ーは金場エーヨエー∃ エーヨエーヨー
  エーエー大鉑富士の山∃エー∃エーヨエーヨー
 といった大鉑歌がつきもので、かき手は荘重な節回しで、この歌をうたって大小の鉑を神社へはこび入れる。儀式を終えた銅鉑は、四阪島の製錬所へ送られ、溶鉱炉の火始めに用いられた。しかし昭和四八年の全山閉山とともに、大鉑祭も姿を消したが、大三島の大山祇神社では毎年六月二七日と一二月一日に「全国鉱山工場安全祈願祭」がとりおこなわれている。

 大三島参り

 日向(宮崎県)佐土原の修験者野田成亮は「日本九峰修行日記」の中で、「文化一五年九月十七日晴天。瀬戸田浦より又便船にて予州三島へ渡る。里村と云ふに上り、貞七と云ふに宿す。当島にては鰻は三島明神の眷属とて食せざる由聞き居たる」と記している。
 三島信仰に、神の眷属ゆえ鰻をたべてはいけないという禁忌があったことが、幕末のひとりの参詣者の日記からわかる。伊豆の三島明神にも同様な禁忌があって、神社近くに放生池があり、無数の鰻がいるので、東海道の旅人の話題になっていた。
 大三島参りは、修験者をとわず、近世から多くみられた。温泉郡の島方では、金比羅参りの帰りに鞆(広島県)の祇園さんにお参りして、土地の名産である甘味の銘酒を買いこんで飲み、必ず大三島へお参りすることにしていた。大三島の土産物は赤いヒゲモモや鎌、御神火といったものであった。大三島参詣の帰りには木江(広島県大崎上島)や御手洗(同大崎下島)でオチョロ船の遊女の相手となったものである。船中のバクチもつきものであった。
 大三島参りを組織的に行う習俗が田植え前後にある。農民が豊作祈願と多分に慰労をかねた目的で参拝する土用参りである。夏の土用は立秋までの一八日間をさし、七月下旬から八月上旬にかけてが土用となることが多い。しかし、火縄の火もらいが土用にほぼ固定したのは最近のことで、以前は田植え前の参詣も多かった。
 事例1 松山市伊台町。石油発動機のない頃は帆かけ船で風と潮の満干を利用してゆくので、何日目に帰るという予定が立たないので万事、のん気なものであった。酒、勝負事に熱中した。大山祇神社の拝殿の左右の常夜燈の火を火縄にもらって帰ってくると、この火を藁に移して隣近所でわけあい、稲の上をふり回して豊年万作を祈った。また越智郡亀岡村(現菊間町)の風の神様に台風の来ないように祈願にゆく者もあった。
 事例2 越智郡上浦町瀬戸。六月一四日ころに部落から金を出して総代が大山祇神社にお参りする。稲に虫がつかないようにと神社から火種をもらってきて、燃やし、その灰を田にまいた。同じくその火種で各家の神の燈明としてあげたりする。
 事例3 宮窪町余所国。お百姓は大三島神社の火をいただく。各組から代参一名が出て、その上に氏子総代がついて火をもらいにいく。帰ったら各戸に火を分けてまわる。
 事例4 松山市付近。団体で船をかり、米はもってゆき野菜などは三津で買いこみ船中で料理した。船は三津、和気や堀江からでた。帆まい船の十反帆や八反帆の船で、船頭は二人ほどいた。今日の午後三時頃でれば翌日の昼ごろ大三島に着き、その日の午後二時頃そこをたって翌日の昼に帰った。お札は竹にはさんで田にたて、火縄でもらってきた火は藁につけて田植えをした稲の上をもって歩いた。
 事例5 大三島町明日。組々の総代が総代場に集合し、大山祇神社に青祈祷の代参をする。同社では大技い、浦安の舞いなど諸儀式を本殿で受ける。神火を火縄に転火し大小の護摩札をいただき帰村する。藩政時代から伝わるホラ貝が吹きならされると、村人は直ちに集まり、神火、札を受け取ると、各自の稲田に走り、かねて用意をしていた青竹に火や札をさし稲田を振り歩き最後は水田に、さし立てる。
 右の諸事例にみられる土用参りや青祈祷の代参の範囲は、大三島、大島、伯方、弓削、生口、関前、瀬戸田、因島の芸予諸島、西条市、周桑郡丹原町、東予市、小松町、今治市、温泉郡川内町、重信町、伊予市の広い範囲にまたがる。
 今日の土用参りは、船のなかに火気がもちこめなくなったため、社務所で火縄とマッチをもらって帰るようになっている。次は昭和五六年夏に調査した事例である。
 事例6 今治市高部。土用三日目に八丁荒神のお堂で、土用参りの日程を決め、その参加者をつのる。昭年五六年は三六名(農家が中心、商家の人もいる)が参加した。今はフェリーを利用するが、一四、五年前までは土を運ぶドブネをやとって参った。帰途、波方で下船したとき、神社でもらってきたマッチで火をつけた火縄を班ごとにちぎりわけて、班長が「今年も豊作でありますように」と唱えながら畔道を歩く。
 さて、虫除けのための神火をもらいにゆく大三島参りは、次の文化年間(一八〇四~一八一八)の記録にもみえ、農業神としての三島信仰が近世に確立していたことがわかる。

(三月の項)
一、麦作に赤手虫附候趣少しづつ。……町東の者寄合、船にて三島社へ参詣 神燈の火を貰い戻り候に付、村中へ相触れ、信人有之候はば相渡し呉れ候様申し出、於役場右神燈の火を移し置、三月六日、七日の両日間留め置、組々へ相触れ追い追い貰いに参る。(岩城村年中諸雑記)

 三島講

 土用参りを講組織で行うことも近世末以来つづいている習俗である。三〇人一組で毎年五人ずつ代参し六年で一巡する。旧四月と八月の二二日の講社大祭と毎月一日の一日祭のほか土用参りのための講である。大山祇神社社務所の講台帳によると講員の分布は表5―5になる。
 越智郡の島々が群を抜いて多く分布しており、ついで松山・今治の両市、さらに北条市とつづく。越智郡上浦町の明神講は、普通、隣組で組織している。以前は相当な数であったが今では一、二の講がつづいているにすぎない。
 クジに当たった二人(春と秋)が、四月に大山祇神社に参拝して祈祷をしてもらい、お札と紙のお守を受けて帰り、春と秋の適当な日を選んで講員を招じて、一同揃ったところで神酒を床に供えて礼拝し(般若心経を唱え)、酒食をともにする。
 松山市市坪に天保一五年(一八四四)から今日までつづいている大三島講(三島大明神講とか大三島恵栄講ともいう)についてみよう。
 市坪に次の五つのムラグミがある。上の丁(市坪の草わけの地区)・北の丁・中の丁・北組(洪水のため南の丁や上の丁から明治二〇年頃に移住してできた)・南の丁。
 大三島大社講は、もと市坪全体の講であったが、昭和一八年から二三年まで中止、昭和二四年に復活したとき南の丁のみがひきつぎ復活したかたちとなった。戦前の南の丁の世帯数は二八世帯、現在は四〇世帯ほど。戦後農協関係の都合で、東側の上組と西側の下組にわかれた。南の丁では正月、五月、九月に組祈祷をする。正月の組祈祷は五日で、戦後は大三島講もこの日に併せておこなうようになった。前年のコウアタリ(代参者)五名が講員二八名から一人米二合半ずつあつめ、コウアタリのうち一人の家をヤドにして膳をつくる。酒(五升)肴代は講員一人あたり一〇〇〇円ずつ徴収する。
 素鵞神社で組祈祷をした講員は、ヤドにきてオニギリ、オアカリをあげた神棚(もとは大三島とかいた掛軸あり)を拝む。全員そろったところで飲食、籤引きでその年の代参者五人をきめ、そのうち一人が一件書類をおさめた「大三島大社講々帖筥」を預かる。
 代参は現在、水中翼船で日帰りするが、戦前は高浜から尾道がよいの船で日帰りした。旅費はもと講で出したが、今は自己負担。神社に神楽料をおさめ、神楽をあげてもらい、火縄で火をもらってきて、南の丁の四辻に一日もえつづけるほどの長さにしたワラスボに火をうつしてたてる。各戸は線香あるいは火縄に火をうつし自分の田にたてる。神棚にたてたり、ヤイトをすえる火にする人もある。各戸用の札は田にたてたり神棚におさめたりする。関札は、市坪の東西南北のはずれの道のそばに立てる。
 昭和五二年から開始した現在の講帳は昭和三五年からつづられた「大三島恵栄講」の最末尾にある。この三五年からはじまる講の規約は次のようなものである。規約中代参者四名とあるのは、昭和四四年から五名となった。
 一 本講ハ講員弐拾八名ヲ以テ組織ス
 一 木講ハ壱人二付金若干及ビ白米弐合五勺宛ヲ集メ前年参詣人世話人トナリ一月五日二本年度ノ本社参詣者四名ヲ抽籤二依リ定ムルモノトス、但シ当日ノ賄ノ点ハ世話人ノ話合ニヨリ定ムルモノトス
 一 本社参詣ハ参詣帰宅ノ節講員二五穀成就ノ受札ヲ壱枚宛ヲ渡シ御初穂料トシテ金参拾円也ヲ集金スルコト
 一 講員ハ中途退講ヲ許サズ必ズ壱期間終了迄ノ義務ヲ負フコト
        以上
 表5―6の変遷表のとおり、講の名称、講員など変化している。また、明治五年までは、参詣のとき、樽開きをしていた。樽開きというのは、代参の際のデタチ(歓送儀礼)のことであろう。慶応四年の樽開き料は一人につき麦一升だしていた。明治三二年正月講での賄は「寿志握り、肴一種皿盛、酒一人前二合半」となっている。
 もっとも古い史料は天保一五年(一八四四)で、これによると、卯歳(天保一四年か)の参詣人利右衛門・半蔵・善右衛門は、参詣のとき正札四人分の「あまり札」をのこし、それを記録している。また亥歳(嘉永四年・一八五一)七月三〇日(?)付けで「余札帳」に二匁五分と記録、それを子歳すなわち翌年七月の樽開きのときに同金額を差戻し、それを瀧蔵が預かったことがわかる。
 この天保一五年の初穂料以下は次のとおりである。
 一 御初穂壱人前二付拾匁相渡し
   参詣之節 樽銭壱人前二付三分宛
   樽開之節 酒食椀壱ツつゝ肴見合
   正月講五合弐口(勺か)但壱人前之事

 こうした三島講の伝統の上に、戦後財団法人の大三島大社講が成立し、現在旧四月二二日に講社大祭、毎月一日に一日祭があって、講社員が参拝している。
 一方、地元宮浦にある「明神講」は二五組ほどあり、旧正、五、九月の二二日に輪番できめた宿でひらかれ、掛軸をかざる。そのとき講の者みんなが大山祇神社に参詣し、ゴマフダをもらいうけている。

図表「釈日本紀」

図表「釈日本紀」


図表「三島宮社記」

図表「三島宮社記」


表5-2 大山祇神社関係年表

表5-2 大山祇神社関係年表


表5-3 時代別神職の構成

表5-3 時代別神職の構成


図表「大通智勝仏」

図表「大通智勝仏」


表5-4 オオヤマズミ系神社数の比較

表5-4 オオヤマズミ系神社数の比較


図5-3 愛媛県内における「三島神社」勧請社の分布(旧村社クラスの主な独立社の場合)

図5-3 愛媛県内における「三島神社」勧請社の分布(旧村社クラスの主な独立社の場合)


図表「松浦家文書①」

図表「松浦家文書①」


図表「月次祭」

図表「月次祭」


図表「玉川町光林寺文書」

図表「玉川町光林寺文書」