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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 神社・寺院・教団等の崇敬講と代参

 伊勢講

 近世に全国を風靡した伊勢参宮なり、ヌケマイリなり、およそ六〇年を周期にまきおこるオカゲマイリは、各地に広く伊勢信仰を浸透させる結果をまねいた。近世伊勢信仰の形跡として神明社、伊勢山という地名、伊勢踊り、伊勢宿と地参宮、そして伊勢講といった事象があげられる。とりわけ南予地方の旧宇和島藩領には藩が『神明社』の建立を奨励したため、伊勢信仰の隆盛を見た。また慶長年間、伊勢の神官桜太夫が土佐(高知)から南予地方に入ってお伊勢踊りを伝え、喜多郡南久米(現大洲市)で死去したといわれている。その結果、今日なお伊勢踊りを伝承している一七か所は、いずれも、喜多郡河辺村以南の南予に集中しているのである。
 しかし、伊勢講はほぼ県下一円に存在する。
 事例1 小松町の旧千足村地区。一月に伊勢講があった。部落(組)で集めた一年間のお金を援助して部落(組)の代表がお参りした。出発前には酒などで送別の寄合いを行い旅の安全を祈った。帰って来る時にはサカムカエという習俗があり、小松まで迎えにでた。部落に帰り着くと、皆をよびオタルイレといってムカエザケで祝った。土産は神札や神酒のほかに竹の笛と刀であった。
 事例2 大洲市。毎年正月前に、伊勢から御師が来て、大麻と暦を土産に配った。その機会に伊勢講を開き、御師から伊勢の様子を聞いたり、代参を決めたりする所が多かった。講員は地区か村で一〇人内外から四〇~五〇人で組織していた。クジに当たった人はデタチ(出発)前に三~七日間、精進潔斎することもあった。代参に要する日数は往復二〇日以上であった。帰省の当日は、講員全員が朝から出迎えに行った。サカムカエといって出逢った道ばたで、まず労をねぎらう意味で酒をすすめた。
 翌日、講を開いて、先達の発唱でお祓いをあげ、代参者が受けて帰った御守札を分けたり、お伊勢様のようすを聞いたりした後、酒食をともにして代参の労を皆でねぎらった。お守札は、家の出入口の鴨居の上へとりつけてあるお札箱に入れるものもあれば、竹にはさんで田畑へ立て、五穀豊穣のお守りにするのもあった。昭和になって伊勢講はなくなった。蔵川の満屋敷に伊勢宮がある。旧二月一日の祭りには、蔵川全域から参拝する。明治から大正にかけては、菅田・五十崎・宇和川・大谷・中筋などの近村からも信者がおとずれ、お伊勢踊り「三十三庭」が奉納されたものである。現在踊りはすたれたけれども、お伊勢歌は年々変わらず奉納されている。
 事例3 北宇和郡津島町御槇。正月一五日に宇和島の和霊様へ行って、伊勢のお札を受けてくるのを、講の人々は村境に出てサカムカエをし、その晩にお講をした。宿はたいていは参りに行った者の家をあて、費用として米一升ずつを出し合い、不足の分は宿で補った。当番があって世話をした。宴の最後には、モロブタに御馳走を盛ったものを二つ出して、上座から左右へまわし、それらが上座へもどって来たところで納めの謡いが出、それから亭主夫婦を呼んで納めの酒をしたもので、講ではあるがなかなか難しい仕来りだったという。講人数のほかに当家のルイ(親類)も集まって賑わい、その翌日はまたイタナガシと称して、附近の人々を招いて酒盛りをした。
 県下の伊勢講をみると、基本的な要素はほぼ共通しているが、なかには、その地域性が著しく出た講もある。講の名称としてタルグミ(樽組)というのが西条地方にあった。講には酒がつきものだし(事例1)、代参者の無事帰村を祝う宴をオタルイレといったりする語彙とこのタルグミの名称は関連があろう。伊勢講結成の年代がわかる例は少なく、大正八年、明治二六年とか、文化年間以前などが明らかな例である。
 講の形態として、自由加入型と全戸加入型の二つがある。後者の場合、正月はじめに開くことの多い伊勢講がすなわち部落会を兼ねるということもある。また本来の講員以外の人たち(宿の血縁者や近所の人)までもが講に参加する盛大な拡大型の講もある。講の機能は、親睦をかねたり五穀豊穣の祈願といったところにあるが、青少年に礼儀作法を習得させる講もある。
 サカムカエをしたり(事例1・2)、参詣中に代参者の家に対してルスミマイをしたり、代参者の妻が、神社に通夜して夫の無事帰還をまつ伝承がある一方、実際に伊勢神宮に代参するかわりに、ちかくの神社に代参して伊勢神宮の神札をもらってくるという簡略化した講は、事例3のほかに越智郡大西町星浦のように今治市内の大神宮サンに参拝する例などがあげられる。温泉郡中島町の島民がはるばる伊勢の地に出かけず、正月に伊勢宿を大神宮に見たててお参りする「地参宮」も、代参にかわる習俗といえる。伊勢宿は年ごとの輪番で、旧一二月二〇日に旧宿から新宿へ神体を移す遷宮の行事が夜間、おごそかに執り行われる。伊勢宿の主人は、その一年間、毎日満ち潮の海水を汲んで神前にささげたり、お祓いをする。これをオシオイとよんでいる。
 近世宇和島藩では武士・庄屋仲間が村わりで伊勢参宮をした。これも庄屋レベルの伊勢講のひとつとみてもよい。その史料を次に掲げる(宇和島市大浦新田・清家シン(くさかんむりに辛)所蔵文書)。

(表紙)
文化十三丙子十二月吉日
伊勢代参順番牒
    御城下組

朱書 伊勢参宮村割順次
 定
  一銀百弐拾目 但御初穂銀
  一銀札四百目 但 代参銀
  〆
  一 五千度御祓 小のし 御郡所
  一 五千度御祓 包のし 扇子壱箱 御代官
  一 百度御祓 扇子壱本ッヽ 村浦江
 右 弁天講於寄松村打寄相談之相決シ申候、年々無滞参詣之事

 右の五千度御祓とか「のし」「扇子」というのは、御郡所、代官、村浦の庄屋の伊勢神宮での祈願内容であり、土産品であろう。
 御城下組二〇か村(祝森村・保田村・寄松村・宮下村・川内村・丸穂村・下村・藤江浦・中間村・柿原村・光満村・高串村・大浦・奥浦・高山浦・九嶋浦・三浦・遊子浦・戸嶋浦・日振嶋)が文化六年(一八〇九)から文政八年の間、一組ないし二組で代参した。しかし祝森村・中間村・柿原村・奥浦・高山浦・戸嶋浦の六か村はいずれも文化六年から同一一年の早い時期の代参組だったとみえて、文化一三年(一八一六)になって他の村浦が参詣しおえたら、またクジを引いて、ひと回り参詣することをきめている。
 同じように、安政五年(一八五八)御城下組中の代参として伊勢参宮をした。伊勢参宮をした宇和島藩三浦庄屋田中九八郎の道中日記が宇和島市三浦の田中庄屋文書のなかにのこっている。九八郎は、下人をひとりつれ、文化文政のときと同様、講銀として銀百弐拾目(伊勢御初穂)、四百目(路用銀)を持参した。同年三月二日に旅立った二人は吉田まで船でゆき、卯之町↓大洲↓内子↓中山↓郡中(伊予市)↓道後↓川上(川内町)↓小松と陸路をつたった。丸亀から瀬戸内海をわたり備前児島郡下村(現岡山県児島市)についている。帰りは大坂から船で今治↓長浜↓磯崎浦(保内町)と来て上陸、川之石をへて再び雨井(保内町)から出船し、五月五日に三浦に無事帰りついた。
 時代がくだって大正年間に南宇和郡西海町中泊の伊勢講の代参をした吉田文一郎は、代参道中を次のように回想する。

「平城の神主さんが、郡内伊勢講代参者を引率して出発した。宇和島から船で大阪の天保山にあがり、京都に向かい、石清水八幡宮など神社めぐりをしながら伏見から亀山を通り伊勢についた。外宮、内宮に参拝、太夫神楽を奉納して、お札を受けたが、一生に一度はお伊勢参りをと念願していたのがかない、感激したことをきのうのことのように思い出す。帰りは奈良に出て、お宮参りや名所旧跡を見物、大阪から船でもどった。部落を代表しての参拝なので、精神潔斎に務め、物見湯(ママ)山などという気分とは、およそ縁遠い旅行だった。」
 先の大洲・喜多郡の事例にみられたように、伊勢講の組織化にあずかったのは、伊勢御師である。松山市来住町の岸純一宅は安永一〇年(一七八一)ごろ建築された「伊勢屋」である。伊勢からきた松室という御師が、ここに遥拝所を作り、旧久米郡内に伊勢講を作り、信仰を普及させた。のち岸純一の祖父の代にこの家をうけついで毎年七月二〇日にお伊勢祭りをし、氏神の神職を招いて拝んでもらっていた。伊勢大神宮と猿田彦神社の二つを奉祀し、獅子舞や神楽を奉納した。もとは伊予万歳や芝居などもあって、賑かであった。

 和霊講

 (宇和島市の和霊神社の講については、第五章第二節の「和霊信仰」の項を参照) 宇和島の和霊神社参詣は、金毘羅参りとならび四国ではさかんで、九州東岸一帯からもその参詣者は多い。大分県南海部郡蒲江町では、不漁が続くとマンナオシ(漁が好転することを願う行事)に船頭が金毘羅に代参したり、網船を新造した時は乗り子全員が盆前に和霊参りをした。こうして多くの参詣者をあつめた和霊信仰も和霊講をともなった。
 次の史料は、三原城下町門閥町人で近世末の一時期を松山城下に転住して酒造業を営んだ天野屋の宗教生活の一面をかきとどめた日記である。文久二年(一八六二)とおもねれる箇所に、「九月十一日 早朝宇和島和霊様参詣代参(十四日帰)」とある。これだけでは、「代参」の意味内容がつかめないが、近世松山城下の町人上層部の社会に和霊講の存在をおもわせるに十分であろう。
 自然発生的な講は、十分につかめないが、明治時代以降、神社側の働きかけによって結成された講組織がある。
 事例1 今治市高部。国鉄予讃線波止浜駅の裏手(西側)にある厳島神社境内社としての和霊神社は和霊講をもつ。もともと、ここの和霊神社は駅前の新田地区が勧請したものである。その「和霊講社心得」は次のとおり。

一、本講社ハ和霊講社ト称シ本部ヲ愛媛県今治市高部ニ置キ崇敬者ヲ以テ結成ス
一、講社員ハ先左記講規ノ大旨ヲ心得ベキ事
一、本講社員ハ何人ト雖モ自由ニ入社スル事ヲ得
一、講社員ハ其ノ戸主ノ住所姓名年齢ヲ詳記シ差出サルベシ
一、講社員ハ名簿ニ記載シ平日神前ニ於テ社員安全家運繁栄ヲ祈り年々神符ヲ授与ス
一、講社員当社へ参詣ノ節ハ神前ニ別座ヲ設ケ親シク拝礼ヲ許シ御神酒拝戴ヲナサシム
一、本講社ハ二十名ヲ以テ一組トナシ(二十名未満又ハ二十名以上超過スルモ妨ナシ)壱人前金参百円ヲ出資シ毎年旧六月二三日ノ大祭二抽籤ニテ当籤者二名代参シ拾ケ年ヲ以テ満講トナス 
但代参者ハ相当ノ待遇ヲナシ神札ヲ授与ス

 この高部の和霊講は昔からあったといわれているが、玉川町法界寺の和霊神社に対抗して、参拝者を確保することから出発したようにみえる。二〇人一組の講は毎年二人ずつ代参させる。昭和五一年三月現在、五〇講ほどあり、その分布は、今治市、越智郡菊間町、来島、馬島などにひろがっている。旧六月二三日の大祭が近づくと、神社総代九人は、各講の世話役(輪番)に連絡し、毎年の講金をあつめお札をくばり、祭りの案内をする。
 事例2 越智郡玉川町法界寺の和霊神社。この神社は旧今治藩領法界寺村庄屋浮穴家の八代目浮穴与右衛門包俊が若くして難病になったとき、大三島大山祗神社の祠官菅弥九郎太夫貞光が和霊大明神の霊験を説いたので、数度宇和島の和霊神社に参詣し祈願した結果、病気が全快したため村方衆四人が延享三年(一七四六)に、和霊神社神主・和田河内守に頼んで勧請した。庄屋浮穴家の屋敷神であった和霊社も武士・庶民の信仰をあつめ手狭となったので法界寺氏神三島神社境内社として遷座し、さらに寛政~天明年間、文政・天保・嘉永年間にかけて社殿が増築され、ついに現在のように桑坂山の独立社にまで発展した。ここにも昭和二七年に定めたという次のような和霊神社講則がある。すなわち、「二〇人を一組の講とする。毎年五月及び一〇月の二三日に国家安康・家内安全・家業繁栄の祈念祭を執行する。講社員は一〇人につき一人の割合で交代の当番参拝者を選出し祈念祭に参拝する。ただし遠隔員は夏祭(旧六月二三日)に参拝することでもよい」と定められている。
 講社名簿によると、西条市下島山、周桑郡小松町石根地区、東予市庄内・壬生川地区、丹原町徳田地区、越智郡上浦町瀬戸、大三島町宮浦新地・上土居、台、明日、肥海、伯方町木浦、有津、吉海町本庄、仁江、宮窪町友浦・余所国、泊、広島県安浦町三津、忠海町といったところに講が存在する。
 法界寺の和霊神社は、広島県豊田郡の漁民にとって、宇和島よりはるかに近く、漁船で簡単に参詣することができる。『安芸三津漁民手記』に「毎月二十三日 和霊講 大祭六月二十三日」とあるのは、この法界寺和霊神社の講のことである。また越智郡関前村岡村でも和霊講があって代参したというのも、この法界寺和霊神社への参詣であったとみられる。
 以上、和霊講は現在のところ、自然発生的な講としてとらえることができず、神社側か主導権をにぎり組織化された典型的な崇敬講の一つといえる。
 いずれにしても、事例1・2のように、宇和島からやや距離をおいた所にあって、それぞれ勧請社を中核とした小規模な和霊信仰圏が形成され、それらをつつみこむかたちで西日本に広がる大きな和霊信仰圏が存在するという構造を考えることができる。その意味でもこれら各地の和霊講が信仰圏を支えた役割は小さくなかったのである。

 金毘羅講

 金毘羅信仰の流行神化は江戸時代中期(宝暦~天明期前後)とされる。従来、海神としての金毘羅神が江戸での霊験譚のなかで現世利益の神々一般の神格に解消されてしまっている点が指摘されているが、この変質は近世における流行神のいずれもがたどった過程だったとみてよい。
 伊勢参宮と金毘羅参詣は近世の二大流行であった。金毘羅講の分布は、北は三陸海岸から南は鹿児島の離島にまで及ぶといわれている。愛媛県は金毘羅宮(金刀比羅宮)にとりわけ近いとあって、近年、講組織によらない、個人的な参詣が網、漁船の代表、漁業組合関係者を中心とした人たちの間で多いが、古くはどの町村でも金毘羅講が存在したのである。
 事例1 越智郡生名村。一〇月一〇日は讃岐の金刀比羅さんの大祭の日で、お講といって連中が寄合って酒食を供し神に航海安全を祈願した。新造船での金刀比羅参りはおきまりとされ、行くときは天気よく出船するが、帰りはよく風雨にあったとか、そのことから金刀比羅参りはまた、雨(飴)がと洒落がよく言われた。土産には真黒い飴菓子に(○に金)の渋団扇であった。
 事例2 上浮穴郡久万町直瀬。藩政期から明治期にかけて金毘羅参りが盛んで、講が組まれ組中でだれかはいった。出発前の一か月は水ごりして身を清めたといわれる。金毘羅道の道標が直瀬から白猪峠にさしかかる道中にあって、代参者は白猪峠をこえて温泉郡川内町に下ってゆく。下直瀬に常夜燈があって、講に関係なく組当番制で毎月一日はお伊勢さん、一五日は金毘羅さん、二八日は石鎚さんに灯をあげた。
 事例3 松山市市坪。南丁の組に金毘羅講がある。二三~四名参加している。正月三日に五名が代参し、そのうち一人の家に正月一〇日にあつまって「お講」をひらく。三日に代参したときもらった神札を床間にかざって講中がおがむ。このとき、クジで次の当番を決める。
 事例4 北宇和郡吉田町鶴間。ここの金刀比羅講は、高知県幡多郡西土佐村西ヶ保の金刀比羅宮に代参する講である。一講一〇人の講が三組ある。旧三月一〇日と旧一〇月一〇日にそれぞれ一人ずつクジで代参者を決めて参詣した。一人あたり六〇〇円ずつ出す。これは神札・祈祷料・御神酒の代金で旅費は個人もちである。帰参の後、講員全員が酒肴を催すことはないが、代参者は帰途、松野町の温泉につかって神社でもらった弁当を食べる。
 金毘羅講は、先の伊勢講とならんで、県下で最も普及した講であった。吉田町鶴間のように実際に琴平の金毘羅宮に参詣するのではなく、地域内に勧請した神社に講が組織された例もあるが、多くは、代参講としての金毘羅講が多かった。また男のみの講が多かったが、一般の参詣者のなかには婦人も少なくなかったのである。
 松山市伊台の金毘羅参りには婦人もよく行った。歩いて五、六日を要した。多くは堀江または、和気浜から船で行くもので、古くは帆掛け船であったから風と潮の干満を利用するゆっくりしたものであった。
 金毘羅宮へ船で行く場合、近世、上方からの参詣人は、丸亀に上陸して、郡家、与北、公文を経る丸亀街道を、そして伊予以西の西国の者は多度津で下船し、金蔵寺、善通寺を通って琴平の門前に到る多度津街道を利用するのが、通例であった。
 現在、こうした近世から明治期に盛んであった金毘羅信仰の形跡は、松山市周辺に多くのこる金石常夜燈にもうかがえる。金石常夜燈とは、金毘羅の「金」と石鎚の「石」の文字を彫った常夜燈のことである。
 松山市周辺における五二基の金石常夜燈の設立年代は文化五~一四年(一八〇八~一七)に集中し、ついで文政~弘化年間が多い。またそれらの多くが村組単位で建立されたのである。松山市市坪の場合のように村組が金毘羅講の母胎であったことから十分に推測される。

 子安講

東予地方では、周桑郡小松町にある香園寺に参詣する子安講(大正初年開講)があり、一方、南予地方では宇和島市松が鼻にある子安地蔵に参詣する子安講が著名である。
 宇摩郡新宮村馬瀬地区に一四、五戸が参加した子安講が戦前まではあった。香園寺で求めて来た「子安大師像」の懸軸を床の間に掛け念仏を唱えた。温泉郡中島町では、三月二一日が子安講で、香園寺に参詣し、妊婦にはハラオビをいただいてくる。子供が生まれるとお礼にゆくのである。越智郡宮窪町浜にも子安講がある。
 北宇和郡津島町御代川地区の子安講は、地区内上、下二組にそれぞれ子安講があって、宇和島市の子安地蔵に、二人ずつ代参が立った。この宇和島の子安地蔵尊は、南予の子安信仰の中心で、かつて宇和島藩主伊達家の安産祈願所とされた。その堂は、伊達家からの建立基金で、享保八年(一七二三)に建立されたもので、三間四方のお堂には、三尺二寸の石像が祀られている。
 北宇和郡松野町では三月二三日に子安地蔵に安産を祈る女子の子安講が催され、上家地地区は七月に行った。南宇和郡内海村家串地区にも主婦だけの子安講があった。宇和島に代参したと思われる。
 同じ南予でも野村町渓筋地区の子安講は、香園寺の子安大師を信仰したもので、講員の代参もあり、産めよ殖せよの合言葉に同調して、戦前戦中は各地で盛んであった。
 西宇和郡伊方町の子安講は、代参を伴わないとみえて、数戸で組を作り、子安観音を祀り、安産を祈願する。講連中は、年一度の輪番制で子安観音を祀り、御馳走を作って祝宴を催すのである。

 奈良原講

 越智郡玉川町楢原山(一〇四二m)の奈良原神社の講を奈良原講という。奈良原信仰は山岳信仰・霊山信仰に溯る古い歴史をもっているが、牛馬の守護神とする信仰は、江戸時代中期以降である。奈良原講もその頃から組織されはじめ、昭和三〇年には約四〇〇の講があった。今日では牛馬の減少とともに講数もまた急速に減少した。
 現在、奈良原講は、神社側(玉川町大野の奈良原神社社務所)と光林寺(同町畑寺、旧別当寺)双方が別々に組織し、運営されている。しかし、明治の神仏分離以前はすべて光林寺によって運営され、光範上人(宝永七年=一七一〇=に入寂した光林寺四五代住職)の積極的な喧伝活動の結果、講の組織化が大いにすすんだものとみられる。
 光林寺にのこる「繁栄講社台帳」によると、明治一九年頃から「繁栄講社」が発足している様子で、おりしも明治末期にかけて牛馬飼育数が急激に増加することに連動して、この講は急速に発展した。その後一時収束するが昭和三〇年前後には再び盛期を迎え、表4-4のような分布を示していた。
 一方、奈良原神社側の奈良原講は、昭和五、六年に結成されたのが最も新しいもので、その分布は、新居浜市・西条市・周桑郡・今治市・越智郡陸地ならびに島嶼部・大三島・伯方島・北条市・松山市・温泉郡・上浮穴郡・伊予市・伊予郡に広がり、先の繁栄講と同じ信仰圏をかたちづくったことがわかる。講の最盛期の昭和三〇年~三五年にかけては東予全般、越智郡島嶼部(大三島・伯方島・弓削島・岩城島)、中予全域、島嶼部(興居島・中島)、南予(喜多郡・北宇和郡)に及んでいた。講数は昭和四〇年現在で一五〇講であった(最盛期に約三〇〇講)。
 講の年ごとの参詣件数をみると、昭和五年に発足した奈良原講は、神社側からの積極的な組織化の働きかけや時代性をよく反映してそこに盛衰のあったことがよみとれる。すなわち、発足当初から、太平洋戦争にかけて参詣件数は減少し、戦後の二三、二四の両年にわたって講の参詣は全くない。戦後は二五年に再組織化されたのか、漸次、参詣件数はふえ昭和三二年と三五年には一〇〇件を突破した。しかし、四〇年代になると再び件数減少の一途をたどったのである。
 光林寺の繁栄講は原則として一〇人で組織される。旧八月の丑と午の日に毎年交代で講中から講銭を集めて代参者が参詣し、牛馬のお守りやお札をいただいて帰って配った。明治二九年の講は、講銭六銭、明治四四年九月四日付けの講は八銭、大正一四年九月付けの講銭は三〇銭、昭和二五年九月一五日付けの講銭は三〇円となっている。講銭はほぼ米一升二合半分に相当するといわれる。なお繁栄講の名は大正時代に「萬民耕作家畜繁栄講」、昭和に入って「奈良原大権現繁栄講」とそれぞれ改称された。
 事例1 越智郡伯方町伊方。玉川町光林寺に祀られている牛の神様へまわり番で代参する奈良婆羅講がある。
 事例2 越智郡伯方町北浦。奈良原講といって、一〇人が一つの講をつくり講金をもって「市」がたつ八月の丑と午の日に代参する。
 明治初期に神仏分離したのちにできた寺と神社のふたつの講が、ほぼ同じ信仰圏を形成し、そこに並存してきたことが、わかるのである。

 出石講

 オイズシ講とかイズシ講と呼ばれる喜多郡長浜町金山出石寺の講である。今日、この講については、温泉郡重信町、松山市市坪、大洲市、西宇和郡三崎町正野などで、出石講の存在が断片的に知られる程度である。
 長浜町の各部落では、毎日順番で出石寺へ日参する習わしがあった。これを日参講とよぶ。日参者は、米一升を献米し、木札をもらって帰り戸口の上においた。戒川地区では、初参講といって、旧正月一六日まで、米一升を持ってゆき、賄いをしてもらい、ひとはら飲み雪の中をころげまわって帰ったという。豊茂地区でも、各部落ごとに白布で作った旗を持ち、毎日各部落とも二名が交代で出石寺へ参り、無病息災・家内安全を祈祷する。六月ごろから毎日続けられたが、戦時中から下火になり戦後全くなくなり、個人的な参詣に変わった。また、柴地区では、出石寺近くの部落同士で番を定め、七月一日から二四日まで毎日「出石寺日参り」という幟を作り、家の宗派の区別なく参詣した。起源は、幕末期に、黒船が来た時に始めたといわれる。戦後中止された。
 以上の日参講とは別に、明治中期からあったといわれる。「金山目護摩講」と称する出石講がある。この日護摩講は一講一〇名からなり、毎年一回四月中旬ごろ抽せんで決めた一名が代参し、講員の寺納金三円六〇銭を納め、長足護摩供を修行して講員安全を祈念して帰った。松山市余土では明治四一年ごろから玉井弥太郎・関家吉五郎の両名が専ら世話役となって講員を募り、村内に一九の講を組織した。うち関家吉五郎は大世話人として自己の輩下に五二三人もの世話人を擁していたという。
 出石講は講員数こそ戦前に及ばないが、現在も続いており、その分布は表4-5のようである。県内では、東は越智郡菊間町から、西は西宇和郡三崎町、南は南宇和郡城辺町までの間に、また、県外では広島県竹原市、山口県屋代島、大分県佐賀関、宮崎県の延岡市、高知県幡多郡などの四国西部、中国西南部、九州東部に講は分布している。
 講の母胎は、郡部で大字、小字、市部では町内会などとなっている。一つの講の人数は大洲市平地の六人からはじまり、山口県大島郡東和町伊保田の二二〇人の大集団までみられるが、大半は一〇人余で組織されている。参詣は、正月に始まり、三月一五日の涅槃会ごろから四月一七日の春季大縁日ごろが最盛となる。境内に群生するクマザサを参拝記念に持ち帰る。
 なお、宇和海沿岸の漁業者の間に漁事講が組織され、毎年豊漁を祈願していた。八幡浜市幸町(三九人)、伊方町豊之浦(一〇人)、宇和島市日振島能登(一一人)、同(一三人)の計四講があったが、沿岸漁業の不振によって昭和四六年で中止された。

 出雲講

 川之江市金田地区には明治時代ごろ、出雲講があった。伊勢講とほぼ同じように毎年一回、農閑期に代参した。代参者が、出雲大社へ旅をしている間、代参者の家へ留守見舞として親戚が赤飯を炊いて持って行く風習があった。お詣りから帰ると代参者の家に講員を招き酒食のもてなしを行った。
 北宇和郡津島町大道には、出雲屋敷とよばれる七軒の家が出雲講をつくっていた。出雲屋敷というのは、出雲大社から出した神酒徳利に大社境内のお砂を入れて炭の栓をしたものを屋敷の四隅に埋めてある家をいうのである。大道には昔から七軒の出雲屋敷があったが、昭和四三年時点で残っていたのは堀川忠太郎、堀川栄松、山口源太郎、森下佐太郎の四家であるという。他の地方へ行くと不幸な家が出雲屋敷になる場合が多いが、この大道の出雲屋敷はそうではなく幸福を祈って出雲講に入ったのであった。一一月の初子の日、岩松の大庄屋小西家の世話で出雲講の御札を受け、出雲屋敷七軒の中の一軒の家へ集まってお講祭りをした。
 越智郡宮窪町余所国では、伊勢講、祇園講などは現在までにたえているが、出雲講のみは、四講つづいている(昭和四一年現在)。その他、出雲講の存在が確認できるところは次のような所などである。川之江市、伊予三島市、土居町、新居浜市、今治市、朝倉村、大西町、菊間町、喜多郡長浜町、城川町下遊子、八幡浜市中津川、瀬戸町塩成、吉海町仁江、北条市八反地、石鎚山麓(旧千足村)、宮窪町余所国など。

 箸蔵講

 徳島県三好郡池田町の箸蔵寺に代参する講である。新居浜市船木、越智郡上浦町をはじめ、次に掲げるように上浮穴郡に多かった講である。
 事例1 上浮穴郡小田町臼杵。ハシクラ講はもと、臼杵の下畦々に二つあった。二四名の講員で成り立っていたが、今では下畦々と本成の二つの講で二〇人足らずで成り立っている。正月の日に、代参人を各講から二人ずつクジで選び、一〇日までに四人でお参りする。参詣から帰ると、代参人四人のうちの一人の家に全員集まり、会食する。ハシクラの講に行った者は、火事に会わないといわれている。
 事例2 上浮穴郡美川村筒城では、秋ごろに講員が集まり、その時、次の年の代参者二人をクジで決める。代参者は家内安全のお札を受けて帰って来るとコウイワイ(講祝い)をする。その費用は代参人二人が負担し、当番の家に集まって行われた。この間、うけて来たお札は床の間に祀っておく。また、講帳があって、毎年の代参者名が記録されている。
 なお、箸蔵寺は金刀比羅宮の奥の院といわれ、松山地方などでは講組織をもたないまでも金毘羅参詣とセットにした参詣が多かった。

 お四国講

 四国八十八ヵ所霊場を巡拝するための講である。
 事例1 喜多郡肱川町大谷では現在も講員七、八〇名をつらねて盛んである。八月一日に開かれる講には、米を集め、簡単な握り飯や精進料理で会食する。もとは、クジに当たった者が、講員の代表として四国八十八ヵ所を巡拝した。
 事例2 喜多郡長浜町では毎年二人ずつが代表で巡拝し、最近まで実施した。旧二月の彼岸の入りに出発して、四月のお釈迦様のころに帰ってくる。同町沖浦地区の講では、小長浜まで船で見送り、砂浜で一ぱいやり、「無事で帰れ、いたわれよ」といって見送った。八十八ヵ所参りから帰ると、浜で山のうれた麦を眺めながら、講中で一ぱいやった。戒川でも毎月講金をつみ立ててクジをぬいて、代表が巡拝した。
 事例3 東宇和郡野村町渓筋地区。講員組織としては一人一日一銭ずつ、一年で三円六〇銭をきょ出して、二〇人ほどの講金が集まれば一年に二人位はらくに四国遍路ができた。籤引き輪番制で遍路に出る人を決めた。ひと昔前は、人生の修業として一生に一度は四国遍路に出るものだとされて、以上のような「お四国講」が各所にあった。
 右のほかに越智郡伯方町伊方・新居浜市船木・西宇和郡三崎町正野などに「お四国講」があった。自動車・バスによる四国八十八ヵ所遍路行の流行によって、講金をため、輪番で代参者が遍路に出た「お四国講」の習俗は漸次、その姿を消しつつある。

 一畑講

 島根県平田市一畑にある一畑寺に代参者をたてて、眼病に霊験のある一畑薬師のお札を受けてくる講である。北条市や越智郡島嶼部の魚島村、関前村、宮窪町浜などに一畑講がある。また温泉郡中島町小浜に一畑薬師の小庵があって、各部落に、一畑講がある。同町大浦にも一畑講が現在なお続いている。
 ここの講は明治二八年一一月から始まった。島根県の一畑寺は毎月八日が縁日である。大浦の講は、その前日の七日に毎月、開かれる。昭和の初めころが盛んで講員は四〇名いたが現在は女性がほとんどで二五名からなる。講の宿は、輪番で、一人一〇〇円分ほどの菓子を準備する。講員は一人毎回、二〇円の賽銭をおさめるほか、年額五〇〇円の講金と一月八日の星祭のときの二〇〇円をおさめる。
 大浦の講は、諸道具を持っており、講の宿に保管する。幟(一本)・提燈・掛軸(一軸)・仏具一式(高杯・蝋燭立・ロクゴウ・線香立・鉦・鈴・湯呑・数え歌を立てる台)・道具入れ用箱・祭壇。
 講のセンダチには俊成タマコ(明治三八年生。幼少時、角膜をわずらって以来、一畑薬師を信仰。四五歳の時からセンダチを務める)、大角清春(大正二年生。昭和五三年から世話人兼センダチとなる)がいる。講のオツトメの所要時間は一時間ほどで、各講員は右に「大浦一畑講」、左に「南無薬師如来」と書いたワゲサ(昭和五六年一〇月製作)を、センダチは右に「薬師教団」、左に「出雲一畑」と書いたワゲサをそれぞれ着用して表4-6の要領でオツトメが行われる。

 秋葉講

 上浮穴郡内に多い講である。上浮穴郡久万町上直瀬では、講員二〇人で五〇〇円ずつ集め、毎年正月一八日に二人ずつの代参者が高知県高岡郡仁淀村の秋葉神社に参詣する。
 同郡柳谷村中久保でも、正月一八日(戦前は旧暦)に代参人二人が高知県仁淀村の秋葉神社に参拝して帰ってきたら代参人の家に集まりオミキアゲをしたのち、それをおろしていただく。代参人はその時、秋葉神社の家内安全のお札を配る。中久保部落の全戸が加入しており、代参は輪番制になっている。死人が出た家や子供が生まれた家を代参人からはずすということはない。秋葉様はアタゴサンとともに火の神とされているが、アタゴサンは火をつける神で秋葉様は火を消す神であるといわれている。
 さらに同郡美川村仕出では男女とも参加して行われていたらしく、一年に一回、旧暦正月一八日ころ代参人二名をたてていた。代参入はお札と掛軸を受けてきて、お札は講員に配り、掛軸は帰ったとき代参人の家に掛け、そこへ講員が集まり、お神酒を飲んだ。その費用は、代参人が講員から均等に集めて賄われる。代参人は、話し合いで決められ、一通り全員が代参すると一応、解散した。
 東宇和郡野村町渓筋地区にも秋葉講がある。家を火難から守るために、火除けの神としてまつった秋葉様の信仰である。定日になると、当番の家で夕食をともにして組内の安全を祈った。その他南宇和郡城辺町深浦地区にも春秋二回オコモリをする秋葉講がある。

太山寺講
 松山市にある四国八十八ヵ所五十二番札所の太山寺を信仰する講である。温泉郡中島町二神では、三月四日に餅をついて太山寺へ持って行き、四国八十八ヵ所の霊場を巡拝するお遍路さんに接待する。講員は二〇人である。

谷上講
 伊予市の谷上山宝珠寺に参詣する講で、一二人で構成し、毎年旧二月一日に一人が代参した。西宇和郡三瓶町和泉には、タガミサンを山頂に勧請しており、正月七日に山林の保護成長を願っておこもりをする。

多賀講
 松山市新立町の多賀神社の講で、面河村をはじめとする上浮穴郡内に多く分布する。伊予郡広田村高市・越智郡吉海町仁江・東宇和郡野村町惣川などにもみられる。

宮島講
 東予、中予地域の瀬戸内海沿岸部および島嶼部に多くみられる広島県厳島の厳島神社の講である。なお、上浮穴郡柳谷村中久保などの山村部にもみられる。
 さて、昭和五三年七月二一日(旧六月一七日)の厳島神社管弦祭に宮島を訪れた船舶のうち調査されえた二七七隻のなかに、愛媛県からの船が八二隻・約三割ふくまれていた。地域別の内訳は表4-7のとおりである。これは広島県の一五〇隻に次ぐもので、調査もれの船も相当数あることから県下漁村部における宮島信仰が広範濃厚にみられることが窺える。そして多くの場合、この参詣に宮島講が付随しているものと考えられる。

 報恩講(おたんや)
 温泉郡中島町などにおける新暦一月一〇日~二〇日の真宗門徒の説教会のこと。親鸞上人入寂の一月一六日を中心として各真宗寺院で行う。各門徒の家でこれより前に行うのをオトリコシという。今治市でも御正忌とよんで一月一六日前後に布教説教する所が多い。

 竜王講
 伊予郡中山町。盛景寺裏手の水源池にある、水をつかさどる守護神竜王大明神を信仰する講で、町内の主婦に信仰者が多く、昭和三四年盛景寺にこの講が結成され、約五〇〇名の講員を有している。五月と九月の一八日に講を開く。竜王は運の神様で金まわりがよくなると信じられている。東宇和郡野村町大野ヶ原の龍王様は大漁の神様であるとして、温泉郡中島町二神の漁業者が講をつくり、昭和三八年まで続いていた。正・三・五・九月の二八日の夜、当番の家へ講員一四人が寄り、龍王様の掛け図をまつり、お神酒をくみかわした。いわし網その他の網おろし・網あげのたびに、講員は大野ヶ原の龍王様にお参りに行き、大漁を祈ったのである。

 敬神講
 各氏神に崇敬講をもっところも数多くある。例えば上浮穴郡小田町中田渡にある新田八幡神社にはかつて敬神講社なるものがあった。明治二〇年に発足し、明治三〇年代末ごろに四一五の講をかぞえた。一講社は一〇人からなり春秋二回開講し、一回の講金三〇銭ずつ五か年をもって終了するものであった。また、代参形式ではないが、周桑郡丹原町田野上方の綾延神社には、六月と一二月に一週間の長日祈祷を行う長日講があった。周布郡代官所の祈祷に併せて田野郷内有力農民の家内安全等の祈念を行っていたもので、米一俵の永代加入であった。加入者を長日連中といい、神社の造替にも多額の寄付を出している。また明治三七年には、その後の有力農民によって新長日が結成され、玉垣を奉納している。

表4-4 地区別繁栄講社数(昭和27年~34年)

表4-4 地区別繁栄講社数(昭和27年~34年)


表4-5 出石講の分布(昭和47年8月調)

表4-5 出石講の分布(昭和47年8月調)


表4-6 一畑薬師講勤行法

表4-6 一畑薬師講勤行法


表4-7 管弦楽宮島参りの地区別船数一覧

表4-7 管弦楽宮島参りの地区別船数一覧