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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 親 族 組 織

 本分家集団

 出自のありかたは社会によって異なっていた。地域社会におけるオモヤ(本家)の家長と跡取りとの関係は、その家督の継承ラインが父系を介して単系の系譜によって連なっている。本家より二、三男が分家すると、本家と分家との間に擬制的なオヤ・コ原理による上下関係が形成され、当該集団内の系譜に基づく身分階層化の傾向が強まっていた。従来こうした単系的出自集団を本分家集団として理解しており、「同族」がその典型であった。同族では本家の先祖を中心にピラミッド型の順位づけによる社会的位置が固定され、むら社会において地縁化した集団として強い結合が保たれていた。愛媛県内で本分家集団の実態をみた場合、草分け伝説などにみられるようなむら社会での特定家筋の社会的地位の卓越性を示す伝承はあっても、その家筋と他の家との間に系譜上の序列を見い出すことがむずかしい。その上、オモヤ・シンタクと呼ばれる本分家集団も三代もすればつきあいも少なくなるといわれるように、集団への擬集力がきわめて弱かったということができる。

 イチゾク

 事例4 宇摩郡別子山村瓜生野には、近藤半之丞一族の流れをくむ家筋があった。伝えによれば、文治五年閏四月八日、近藤半之丞秀清が近江国北泉から来てこの地の東部に入った。瓜生野に居を構え、ヒガシノドイといった。今でもこの家をヒガシノドイといったり、オカタと呼んでいる。半之丞秀清の弟清俊も居を構えてニシノドイ・オモと呼ばれている。秀清は、この地に阿弥陀堂を設け、牛頭天王並びに熊野十二所権現、打刀三島大明神を勧請したという。また、内淵には弟の清俊の墓があり、オモの忠太と境くじり(境のもめごと)をして、「死んでも顔をあげささん、あそこへ墓をつくれ、にらみつぶしてやる」といって、墓が作れるようなところでないところに墓を作らせたという。オモの忠太の家は亡びてしまったということである。
 事例5 伊予三島市富郷町折宇では、正月元旦に主人がミズムカエに行き、家族全員で氏神参りをした後、その水で食事の用意をした。家長から順に明き方を向いて「私は何歳になりました。ありがとうございました」といって鏡餅をいただき、雑煮、数の子、煮豆、煮染などで食事をした。食事の後カドアケ(正月の年始礼)をする。カドアケは近所をすませてから、本、分家間でカドアケをした。近藤ミョウ(四戸)では、分家順位がそのままカドアケの順序となっていた。
 東予地方の山間部から嶺南地方にかけてイチゾク、イチマキをめぐる伝承が数多く残されている。落人伝説(平家、土佐等)とともに特定家筋にはそれぞれの家に独得なカレイ(家例)を伝えていることが多かった。ことに栽培植物のタブーや正月儀礼の独自性が強調されていることが報告されている。そのうえ、草分けにあたる家筋がむらの神社の鍵預かりをしていることもあった。
 事例6 西条市黒瀬の伊藤一族(オオダニ・トナリ、中ノヤシキ、ガラク、他一戸)では、大下の谷口に若宮様を祀っており、伊藤家の先祖であるという。一族の者に不幸があったとき、祈祷師におがんでもらうと若宮様の崇があったというので丁寧に祀っている。旧八月七日が祭り日ですし、御神酒、御供えをもって、伊藤一族の流れを汲む者がめいめいおまいりに行った。また、黒瀬大下の丹家では旧八月一五・一六日に若宮様を祀っている。この若宮様は土佐から持ってきたもので最初にこの若宮様を祀った先祖が丹という名字をもらった。分家する者があってもこの若宮様をお祀りしていたという。
 こうしてみると、イチゾクは先祖につらなる種々の象徴的関係によって結ばれた家々ということができるかもしれない。先の事例で「一族の流れを汲む」という言葉があるように、特定家筋にみられる申し伝えや秘儀の背後に自分達の先祖の姿を想い描くことのできる人々がイチゾクの成員となっていた。流れを汲むか汲まぬかは家によってそれぞれとらえかたが違っており、それだけにイチゾクのメンバーシップは流動的であった。ただし特定家筋の伝承や儀礼行為がむら社会の権威となっていることが多かったから象徴関係を積極的に否定することだけは避けていたようである。
 むら社会でのイチゾク意識が拡大再生産されたのが、東、中予地方にみられる落城城主の供養儀礼となってあらわれている。越智郡朝倉村の武田一族、菊間町佐方の村上一族などがよく知られている。新田(新居田)一族の事跡もこの範ちゅうに入れることができるであろう。ここでは落城城主の菩提寺や墓所にイチゾクの人々が寄り集うことがあっても、そうしたイチゾクがその成員の日々くらしを規制することはめったになかった。

 イッパ

 事例7 今治市郊外のH側には一七軒の家があり、そのうち七軒が松本のワカレである。この七軒の家を一夫~七夫と仮称し、話者三夫からの聞き書資料を検討してゆきたい。松本のオモヤはH側の一番高いところにあった。、側(組)の寄合いや親類が集まったときなどオモヤのダイサンが「高いところまで登って来てもろてごくろうなことよなあ」というのがロぐせであった。このあたりはオモヤより奥や高いところにシンタクヤを建てるものでないと言われているので、フルカブの家は皆、谷の奥まったところにあった。オモヤのジイサンの弟が分れだのが六夫の家で田を二、三反ほど分けて貰ったらしい。その六夫のウチから七夫がシンタクした。七夫はタオル会社で働いており、オヤに土地を貰って自分が稼いだ銭で家を建てたといっている。オトッツァンのきょうだいは男ばかりであった。そのうち一番上の人はジイサンの先妻の子であった。この人は桜井の椀船に乗って九州あたりに稼ぎに行き苦労をしながら銭をためて、今では月賦屋をしている。その人の娘と自分のすぐ兄の二夫とが連添うことになり、オモヤのジイサンが建てていた小さな駄菓子屋の店をもらって商いをしている。オトッツァンの自身きょうだいは、上の兄さんから皆分家していった。オモヤをとったオトッツァンは一番末っ子であった。一番頭のオイサンは四夫のウチで、このオイサンは相撲が強く、素人相撲で大関を張っていたといっている。畑を少しと食うだけの米が穫れる田を分けて貰ってシンタクした。腕っぷしの強い人だったので昔は菊間の瓦職人をしていたらしいが、戦後は職変えして造船関係の下請けをしていた。五夫のウチのオイサンは百姓をした。オモヤの山を貰ってみかん山を開き、一時期景気がよかったが今ではみかんで食うことができないので、年をとっても左官のテゴに行っている。自分の兄弟は三人いた。オモヤをとるのは長男でなければと一夫兄さんが跡をみている。一夫兄さんが生まれたときには、オモヤのジイサンが喜んで鯉幟の出し入れについとった(関心を寄せて手を出していた)と近所の人が言っていた。二夫兄さんは先にも言ったように、オモヤのジイサンから駄菓子屋を貰った。自分は側内に空屋があったのでそこをシンタク家にして貰った。オモヤにはモノがあるが、それに頼っていたのではやってゆけないので、手に職をつけ大工でクチスギ(生活)をしている。
 このようなオモヤからのワカレをこのあたりではイッパという。イッパで集まってなんかをするということはめったにないが、側の寄合いでもめごとがあったときには、ワカレが多いので心強かった。オモヤとワカレのつきあいは、ミイトコぐらいまでが普通で、自分の子供の代になると六夫や七夫のウチとはただイッパというぐらいのもので、祝儀・不祝儀に関しても隣り近所と変わらなくなってしまうものだ。昭和四七年にはこのあたりに大きな災害があり、オモヤの裏がズエタ(土砂崩れ)ときに六夫のウチの者がかけつけて土を取除いてくれたそうで、オモヤでは縁が薄くなっても近所だけになにかと頼りになると言っていた。五夫ところのオイサンのウチが景気の良い時分に、お宮のオトウ(頭屋)を受け、このときは松本イッパの者が皆寄った。月賦屋をしているオイサンが写真を撮っていたのを覚えている。田やみかんが忙しいときには二夫兄さんや自分がオモヤに手伝いに行く。四夫のウチは隣りが大百姓なのでときどきヒョウカセギにいっているが、オモヤの手伝いに来ることはない。それでもオモヤのネエサン(一夫の嫁)が産後の肥立ちが悪くて大病をしたときには、輸血が必要になりイッパの者を頼って血を分けて貰たことがあった。四夫のウチのオイサンからニンドを煎じて飲むといいということを聞いて何日か続けたのが効目があったのか、ネエサンは元気になって、今じゃあ朝の暗いうちから夜の暗がりまで夜露をはうように働いている。自分の嫁はオモヤのネエサンによう遊びよるといわれるのが嫌で、下の田でネエサンが働きよるときには町に買物に行くのをさし控えている。今だになにかと気がねがあるようだ。
 イッパ(オモヤ・ワカレ集団)の系譜上の族縁関係は、むら社会のなかで任意の家と家との間柄が同じハに属するのかハが違うのかということを問題にしていながら、単系出自集団である「同族」とこのイッパを比較すると、同族では分家の創設順に身分階層化が形成されてゆくのに対して、イッパでは逆に、分家の創設順にだんだん縁が薄くなり、集団内でのオモヤヘの擬集は新しいほど強いという特徴が明らかとなった。集団への擬集力が弱体化してゆくのをわずかに支えていたものにオモヤ、ワカレ間の居住原理にもとづく地縁化があげられる。「側内にもめごとがあったときに心強かった」といわれるように、事例にあげた松本イッパは側と呼ばれるむら社会に於ける基礎的小集団のうちで大勢を占めている。こうした社会的条件がイッパヘのつながりを深めていったに違いない。さらに災害時における相互扶助がみられたことから「隣り近所」といわれる近隣関係がイッパのエンを深めていったことが予想される。もうひとつは、イッパを親類化することによって逆に出自原理を強調するということであった。このことを二夫のシンタクを例に考えてみよう。事例では、オモヤのジイサンが余財で建てた駄菓子屋をオモヤの第二の家督として、孫のひとりの二夫に隔世相続させている。また、腹ちがいのきょうだいの子供同士の縁組(イトコ婚)がみられ、単系出自集団内での通婚関係の重層化によって先妻の子の跡目もあわせて引きつぐことになっているのである。

 イチルイ

 事例8 高縄山麓の松山市東川町では本分家集団をイチルイと呼んでいる。このムラダニの先祖はミチノシタだといい、イチルイの本家でもあった。東川のムラダニで盆の供養念仏の行事が伝えられており、念仏のはじめに「ミチノシタの御先祖様」といって拝み始めている。ミチノシタは松山の殿様が鷹狩りに来たときお休みになられるところで、先祖が茶を献ずることになっていたと伝えており、安佐ヱ門という人がこの家の中興の祖であるという。東川は二四戸の戸数があり、そのうち一一戸がミチノシタからわかれたイチルイである。イチルイのなかではM姓一戸・S姓一戸を除きほかはすべてN姓となっており、各々屋号で呼ばれている。その屋号はイチルイ内での家と家との位置関係を指しているばかりでなく、ムラダニ全体の位置関係にまで及んでいる。分家をシンタクヤといっており、財産をわけることをシノケといっている。ミチノシタからオシタがわかれ、オシタからオオヒガシがわかれたといいアタラシヤもミチノシタのわかれだというぐらいで、お互いにどの家からどの家がわかれたか全体の系譜を知っている者はいない。
 かつて東川には「東川一六軒半」という言い方があった。このムラダニにも家々の盛衰があり、村を出てゆくものもあったし、ヨソムラからムライリするものもあった。ムライリは盆・節季毎に開かれる寄り合いで披露された。入村する家は酒二升を差し出していた。そのとき、村の入用に関して一戸前か半戸前であるかが決められていたという。
 東川では田が少なかったので、明治一三年よりほぼ五年の歳月をかけて、旧風早郡九川村の溪流から五〇〇間余の水路を引き、一町余歩の新田を開発したという。昔の人が田をつくるには、下の川から石を運びあげ、高崖を作り、鉄砲を目当てにして水平を計っていたという。ミチノシタの辻の広場に新田記念碑があり、先祖の苦労をしのんでタカギシマツリを行っていた。このころからムラダニのなかには土蔵造りの倉を建てる家々が増えはじめ、おいおいムラウチでの家並みの善し悪しがいわれ始めたということである。
 東川と呼ばれるムラダニのなかでは、イチルイのありかた、位置関係がそのままむら社会の居住空間を縦横に区切る座標軸になっている。ことに屋号の命名の動機をみてみるとミチノシタあたりを中心点にした上・下の軸、東・西の軸が交差している点が興味深い。つまり、居住空間に於ける位置関係と、「ムラの先祖」とされる系譜上の位置関係の両者が、むらやイチルイの人々の志向の原点になっているということである。
 さらに東川のなかにあって、イチルイの家々の家並の良さが際立っている点にも考慮すべき問題が残されている。新田開発による経済的効果がこのイチルイにたいして有効に働いたものと思われ、土蔵を構えた家が東川に六戸あるなかで、そのうち五戸までがこのイチルイで占められている。
 イチルイと呼ばれる本分家集団の地縁化によって、任意の家がむら社会のなかで、どのような位置を占めているかを判断する基準を示すとともに、家並・家構えにみられるような地域の景観をかたちづくってきたのである。

 親類づきあい

 個人を中心に父方・母方双方に、いうなれば双系的に展開されてゆく親族をシンルイという。県下では、先に述べた本分家集団もいわゆる「親類」と呼び習わしてきたところもあるようだが、本分家集団が先祖を志向した超世代的な単系出自集団であるのに対して、ここにいう親類とは組織の焦点が個人に向けられている。それだけに親類は、個人を通してかなり流動的な間柄であったといえる。世代がずれるごとに親類の範囲はいつもずれており、決して超世代的な集団を形成しえないでいる。ふつう親類は父方・母方双方の家同志の関係が云云される。地域の人々は、ウチマの広さに応じて親類のハシバシのどこまでつきあいするのか、その範囲について常に気を配っていたのである。愛媛では、ウチ(父方)の近い親類と、デザト(母方)の濃い親類との均衡をはかるように配慮していたようである。
 親類はイトコあるいはマタイトコまでで、代が替わればつきあいもかわるとよく言われる。あるいはイトコ・ハトコまでが葬式にかけつけていたということを云々したり、東宇和郡あたりではイトコ半の夫婦ということがある。ここにいうイトコが親族関係の従兄弟・従姉妹を指し、一時的な親類の範囲を示しながら、もうひとつイトコのなかに、イトコ=親類という意味を読みとることもできる。親類を指す民俗語彙は外に、ミウチ・ヒッパリなどがある。
 先にあげた東川の事例を通して親類の実態と、本分家集団との関係について考えてみたい。
 事例9 〈ウチマ〉 東川では「家並の良し悪し」をいい、「ウチマの違い」を問題にした。「ウチマウチマでやりようも違う」とか、「ウチマの格に段がついている」ということがいわれた。ウチマとは我が家という意かあり、家々の独自性を指すとともに、人々が日々の暮らしのなかで育くんできた家意識のあらわれがウチマの違いを際立たせていた。ただ家並は目で見ることができるが、ウチマはよほどのことがないとなかを覗くことができない。覗いたところで見えてくるといったものでもないのである。それにもかかわらず、人々はしばしばウチマの様子を気にかけていた。ことに跡継ぎの嫁取りともなるとウチマの違いに対する関心はひときわ高くなっていた。
〈デザト〉 このあたりでは嫁の里をデザトと呼んでいた。ムラウチで嫁取りすることもあったが、小さなむらだからヨソムラからの嫁取りもあった。東川周辺の十ケ村を日浦地区といい、なかでも川ノ郷・藤野々・河中・福見川あたりと通婚があった。ちょうど奥の城主の非業の死を語る伝承圏とも一致しており、ヨソムラといっても東川と同じような環境にあった。
〈ホウバイ〉 ムラダユのなかには村方ホウバイと呼ばれる家があり、イチルイが一戸前を構えていたのに対して、いわゆる寄留者や縁をたよりにムライリした家々の仲間同志で身を寄せあって暮しをたてていた。
〈シンルイ〉 (一)ムラウチのイチルイを「近所づきあいしとるシンルイ」といい、いつからどういう関係でつきあいをしているのかわからないが、昔から助けられたり助けたりしているという。ヨソムラから来たヨメのデザトが属しているイチルイを「デザトの遠いシンルイ」とか「デザトのもうひとつ古いシンルイ」と呼ぶことがある。(二)シンルイづきあいの節囲はホウジゴケにならないように、親の十七回忌の法事をとうときに、あの家とこの家は呼び、どこそこの家はもう案内せずともよかろうと、一応のめどをたてていたという。法事は死者の年忌供養のことで、このあたりでは法事をとうと案内すれば、夫婦が子供連れて前の晩から泊りがけでやってくることが多く、御馳走を作って振舞っていたから、ずいぶん経費もかかった。法事の入用で出費がかさむことをホウジゴケといったのである。((一)のシンルイはずいぶん広い意味に使っており、(二)ではその範囲をいくぶん狭めようという意図が働いている。)(三)、父方の親類を「近いシンルイ」と呼び、母方の親類を「濃いシンルイ」と呼ぶことがある。「近いシンルイ」がイチルイを指すとともに、ムラウチに縁づいていった家々との関係を意味することもあった。また、それが超世代的な系譜集団を形成するのに対して、「濃いシンルイ」は世がかわればつきあいの軽重が生じている。
 〈ミウチ〉 ミウチといえば血縁関係を指している。全くの他人同志であっても、夫婦になればひとつ家に住み血縁以上の縁で結ばれる。ヨソから嫁をもらうとか、他人をもらうという言い方があるのに対して、ミウチから嫁をもらうということもよく聞く話であった。ことにイトコ婚等によって通婚関係の重層化か進展すると、ミウチといえどもシンルイと同じように父方にも母方にも双方に親族関係をもつようになる。東川では、ミウチを「ウチマのミウチ」と「デザトのミウチ」にそれぞれ区別して使い分けることもあったという。

 拡大された親族

 ひと昔前まで家のなかで行うまつりごとがいろいろあった。そうした機会を通して親類の範囲に一応の区切りをつけ、つきあいかたの目安が示されていたようである。世間のなかで世渡りをしてゆくのもむつかしいことだが、親類のつきあいといえども血がかかっているだけにむつかしかった。家と家とのつながりは、一方がこのあたりでつきあいを止めようとしても、片方の家は従来どおりのつきあいを望んでいることもあり、きっちりと割りきれるものではなかったのである。家と家との関係、人と人とのつながりの輪は跡切れることなく連続しており、親類をたどってゆけばどこまでも拡大してゆく。東予地方でヒッパリといえば、親類の親類といった意があり、二者の間になんらかの族縁関係が見い出し得る場合にこの言葉を使っていた。「よいことで訪ねるのであればヒッパリでも悪い顔はしないが、金策に来たなどと言えば、親・きょうだいであっても相手にしてくれない」といったり、「出世したり、選挙に勝ったりすればヒッパリもふえる」という言い方があることでもわかるように、ヒッパリは親類の範囲を可能なかぎり拡大した間柄であった。このことは、本分家集団の「一族」がむら社会を離れて拡大再生産されたことと対になって進行した現象だということができる。

 嫁婿のやりとり

 かつて嫁どり、婿どりはミウチの者から選ぶことを良しとした地域社会があった。縁組があれば、そのうち何組かは親類の者同士が夫婦になっていた。親類でなくとも家が近所で小さい頃から知りぬいた者同士で、共白髪になるまで連添ったという話もある。宇和町下宇和地区では「親のかまどに火を焚んもんは、極道たれか意気地なし」といわれ、むらうちでの結婚が多く、ところによってはよそへ嫁ぐことが恥とさえ思われていたという。地域社会にはそれぞれのむらに応じた通婚圏があり、先の例のようにむらうちでおさまるものもあれば、近隣のいくつかのむらむらにまで拡がっていることもあった。
 親類やミウチで嫁・婿のやりとりがある場合、イトコ夫婦、イトコ半の夫婦が好まれており、親族内ではオジ、オバ、オイ、メイ関係が重要な役割を担っていた。オジ、オバはときには口うるさい存在であったが、若者からすれば親に相談できないことでも、気軽に話をもちかけることができる親密な間柄であった。ことに結婚式などの儀礼を通してオジ・オバの象徴的な役割が期待されており、親族代表の挨拶は今でもオジにしてもらうことが圧倒的に多いことが報告されている。
 事例10 南宇和郡西海町の民謡に「風の福浦、波内泊、情けないのは中泊」と歌われることがある。かつて中泊は、内泊の付浦であったから、永い間その支配をうけていた。中泊吉田家の初代喜兵衛は九州からやってきた六部姿の男と主従の関係を結び、共に中泊浦を開いたと伝えている。さらに明治初年には、三〇歳前後の働き盛りの男が中泊の家々から次々と分家して、一〇年余の年月の間に四七戸の家々を開いたのが石垣の集落外泊である。石垣は初代のジイサンがイワガンドを山の木でよく焼いて、水をかけて小さく割り、ひとつひとつ積みあげていった。石垣には、海が見えるように凹みを作っており、外泊ではこれを海賊窓と呼んでいる。女達が沖から帰ってくる男衆の舟をこの窓からみて食事の準備をしたという。かつて段畑でとれるイモとムギ、それと鰯を常食にしていた。今でも初亥の子の日には女達が集まってクロモチをつくっている。クロモチはイモ、小麦粉、米の粉少々、ヨモギを混ぜて臼でついて作った。
 明治一二年の頃のようすをみると、四七戸のうちほとんどの家が、中泊から嫁をもらっていた。中泊S家の場合、初代文七からはじまって自分で五代目になる。バアヤン(祖母)のデザトは小浦であった。デザトは女のオトドイ(姉妹)ばかりで、その小浦のバアヤンには子供がなかったから、オトヤン(父)の弟にあたる歌の上手なオジが婿養子に行った。そのオジにも子供がなかったので、自分の妹が、オジの跡をみるので貰われていった。オカヤンのデザトは外泊であった。デザトは後に家が傾いたのでオトヤンの一番下の弟にあたるオジがトリツキのモトで養子になって跡をみた。自分の嫁のデザトはこのむら(中泊)にあり、自分はオカヤンのメイの子を嫁にしているという。
 西海町中泊、外泊あたりではオモヤ、ワカレの関係以上にウチ・デザトの関係に重点を置いて生活していた。家のなかにあっては「初代から始まって、何代目」という言いかたがあり、タテに連なるオヤ・コの系譜を意識しながらも、現実にとりかわされる親族関係のもちかたは、横に拡がったイトコを基軸に展開していたのである。 事例11 城川町では隠居慣行が活発に行われていた。アトトリに嫁をもらうと、両親は別棟のヘヤに移り住んでいた。自分のカッカ(母)は七六歳になり、もうバアチャンになっている。二〇年前にヘヤに入るまで一二人の子供をコヤライした。バアチャン(母)は川津南下から嫁にきた。バアチャン(母)のオトドイは皆、身体が弱く育たなかった。バアチャン(母)は土佐梼原町の龍王さんに連れてゆかれて御祈祷をしてもらい龍の字をもらってタツミと呼ばれるようになり、それから元気になったので、バアチャン(母)は龍王さんの祭には必ずおまいりに行って御燈明をあげているという。バアチャン(母)のデアトは妹がヨウシュを迎えて跡をみた。ヨウシュは菊野谷の分家から行っており、デアトのバーバー(祖母)と菊野谷の分家のバーバーはオモヤから出たオトドイ同志であったからデアトはイトコ夫婦であった。菊野谷のオモヤと分家は三代前のジイサンが分かれ、分家のバーバーもイトコ夫婦であった。自分のバーバーは日吉村から来た。自分の一番上のアンネエがバーバーのデアトに嫁ぎ、アンネエはイトコ半夫婦である。自分の上にアンチャンが二人いたが、一人は戦死し、一人は若くして亡くなったので自分かオモヤをみることになり、今では息子が二人いる。息子等のめんどうをみるのは今でも年寄ったバアチャン(母)の仕事で、息子等はヘヤに寝泊りすることもあり、ヘヤの子のようにして育ててもらって大きくなっている。自分の弟は農協に勤めており、つい最近嫁を貰って小さな家を建てた。バアチャン(母)は足腰がたつあいだは弟のために息子ヅトメ・嫁ヅトメをしてやるといって、こんどは弟夫婦の子育てのめんどうをみることに意欲をみせているという。
ウチマ同士の縁組のありかたについて、西海町の事例では分家創設が活発に行われ小世帯家族に独立してゆく地域について考え、城川町の事例では隠居慣行によって夫婦家族に世代分節化が進んでいる地域についてみてきた。両者それぞれ家、とりわけオヤ・コを基軸とした個人の類別なり序列、あるいは権威関係の集中化が双系親族体系の展開のなかで回避されていることがわかる。城川町では夫婦のありかたが家のありかたを決定しており、それはウチ・デザト関係にまで及んでいたということができる。例えば、Aカド(家)の長子とBカドの娘がナジミになった場合、「父子婚所を共にせず」という考えから、何年かはヨバイの期間をおき、Aカドに婚所が整ってから嫁入りするということにしたのだが、もしAカドに婚所が整う目処がなく、Bカドで都合がつけば、すぐにでも婿入りした。ひとつカドのオモヤのカカリゴは長男にという考えが支配的であったけれども、それ以上に夫婦関係に重きを置いていた生活ぶりをよく示している。
 また隠居慣行の活発な地域には『ヘヤの子』を養う慣行が残されていた。ヘヤの子とは、ヘヤ住いしている親夫婦がオモヤの孫を引き取ってコヤライすることである。多くの場合、七、八歳の頃までヘヤで育てていた。なかには子供が大きくなるまでめんどうをみることもあった。昔は年始の挨拶にオモヤの子供が揃ってヘヤを訪ねてきたので、ヘヤの子にしてみれば物心つくまで、おたがいがオトドイだということを知らなかったとか、ヘヤのジイサンを父親だと思いこんでいたなどという話を聞くことがある。隠居制家族に於ける親子関係は、子供が生まれてから配偶者を得るまでの間に限られており、嫁どり・婿どりがすめば息子ヅトメ・嫁ヅトメの間柄に変わってゆく。そうしたなかで、比較的若い親夫婦が余力を残してヘヤに入っていたのでヘヤの子を養うことができたのである。
 事例12 伊予郡広田村高市は一番組の鴨滝あたりの人々をカミノシュウ、本郷あたりの人々をホンムラノシュウ、六番組あたりをオオシモノシュウと呼んでいる。大洲や砥部、松山の人はサトノヒトといった。土佐との交流もあり、外から訪ねた者はタビノヒトと呼ばれた。
 組は六つに分かれ、常会と呼ばれる寄合いがあり、組長がいた。正月一六日には大念仏の口明けが行われ、組の者が集まった。組はいくつかのゴチョウに分かれており、輪番の世話人を伍長といった。近隣集団としてのゴチョウは五~七戸で構成され、ネキのカタマリといって、テマガエをしあったり、病人が出ると百万遍の御祈祷をした。多勢の力を借りて病気を直してもらうということから端切を縫い合わせて病人に着せたりもした。
 一日働いて男の稼ぎが米二升、女で一升といわれていた頃、男児はボーヤ・コボ、若者はワカイシ、嫁をもらうとニイサン、ヨモチで四〇過ぎのおとながオイサン、ヘヤ住いの年寄りがジイサン・ヂンヂと呼ばれた。女児は、ジョン・ジョウンヤ・ビーヤ、髪をシソチョウに結っていたのがムスメ、ボタンに結ってお歯黒をつけていたのがネエサン、四四の腰ふたぎといわれておりそうなるとオバサン、ヘヤの年寄りはバアサン・ババといった。ヘヤのジイサンとバアサンをジョウトンバともいう。父親はトッツァン、母親はカンチャン、きょうだいはオトドイといった。兄をアニサマ、姉はネエサン、末子はオトンボ・オトゴ・オトンドという。古くはヨバイドがムスメを訪ねる風があった。間夫子はフリダネ、私生児はマチボリゴといった。マチボリとはへそくりという意があった。結婚は早く、ムスメが二〇歳を過ぎるとソバダネになるといわれた。
 畑を小作して大豆を作っていたころ、年貢は金納であった。このむらでは田はあまり多くはなかった。手が余っているとアラシコや女中に出た。
 病弱な子供がいると、仮親・拾い親・名付け親をたてていた。実の親がごく身近な人を仮の親に頼み、オヤ同士が申し合わせて子供を氏神様の鳥居のところに捨て、仮親がその子を拾い上げ名をつけかえた。子供はモライゴと呼ばれ、大きくなるまでは仮親のところに正月礼に行った。また婚礼には仮親からお歓びのお包みが来た。こうした擬制的な親子のつきあいはモライゴの考えで婚礼が済んでもひき続いてつきあいをすることもあったが、婚礼を区切りにオヤ・コのつきあいを終えることが多かった。
 嫁どり・婿どりの世話はナコド(仲人)がした。ワカイシやムスメがいる家では頼みにしている家をナコドグチに頼んだ。良縁ばかりでなく、なかにはムコザレ・ヨメザレで出戻りになったこともあったが、だからといって世話をしてもらった家の仲人好みや仲人嫌いを云々することは少なく「女の捨てる藪がない」といわれるように、それぞれにまた縁づいていった。ナコドとは子供でも生まれると挨拶に行くというくらいのつきあいであった。
 むらではオモヤ・シワケでベツカドを張るということはきわめて稀なことであった。隠居米を仕分けして、家をもたせたという話もあるが、よほど財産のある家で、隠居が余財を貯えたときに限られていた。だから昔からこのむらの戸数が大きく変動することはなかった。
 オモヤの跡継ぎをカカリゴと呼び、オトドイのなかでどの子にかかるかはその家の都合で親の気に入った子を選んでいた。嫁取り・婿取りが早かったので総領から次々に他家に縁づいたり、職人になったりしてそれぞれヒトカドの家をもたせ、親が隠居の年輩になるころオモヤに残った子供にかかるということが多かった。
 カドを絶やさないようにということからカイケンヨウシュ(会見養子)をとることがあった。例えばある家で借金をかかえて絶家の憂き目にあっているとき、ヒキアイやクミのなかで有志を募り、その家のヨウシュになる人を探し、借金を帳消しにするかわりに家屋敷はカイケンヨウシュが貰い受けるということが行われていた。
 昔はヒキアイ・ミウチでの嫁、婿のやりとりが多かった。明治五年のいわゆる壬申戸籍を分析した土居義一は、「折角自分の子供が居りながら、他家へ嫁婿に出して、夫婦とも他人にあたる婿・嫁を迎えている家が(全戸一一五戸の内)三五戸」あると報告している。むらでは子供を全部かたづけておいて、すでにナジミになっている若い者同士を迎え、トリヨメ・トリムコにすることがあった。他人を迎えるといってもヨウシュはその家の誰かのミノハナかシンセキウチから迎え、夫婦の身内を探してヨモチの良さそうな若者を選んでいた。壬申籍下調帳でみると、一番組から四番組までの各組では、他家あるいは他村から婿入りした戸主が、その家で生まれ育った男子よりも多く、養子慣行がきわめて活発であったことがわかる。婿の続柄をみても二、三男に限らず総領のヨウシュも数多くあった。
 ヨを譲るとかヨを持つといわれるオモヤの相続の時期と、親夫婦がヘヤに隠居する時期はほぼ同じであった。隠居するからといって、とりたてて披露することもなかったが、冬場の寒いときや仕事の忙しいときをさけていた。このあたりでは親が五〇を過ぎ六〇歳が近くなるとそろそろ若者にヨを譲ることを考えていた。オモヤのオモテマエを若夫婦がみはじめるとクミの常会はオモヤが出た。隠居が出ていくのは念仏や麦祈祷のときであった。ツクリメンをオモヤと隠居に分け、隠居にはサエンバと畑を隠居地にあてた。ヘヤの財産を隠居米ということもあった。ナリワイはそれぞれ別にやっていたが、忙しいときには手伝い合って、牛・臼・千歯・井戸などはいっしょに使っていた。ヘヤはオモヤのヨマをもってきたようなものだといわれていた。別棟が多く、煮炊きも別にできイロリもきっていた。隠居の身近な人をまつる仏壇を設けることもあったが、隠居が亡くなると葬式はオモヤから出した。墓は夫婦墓が多かった。
 高市でもヘヤにいる隠居がオモヤの孫を養って、ヘヤの子に育てることがあった。隠居に余裕があればその子の嫁入り支度、婿入り支度をしてやることもあった。このむらではヘヤの子はほとんど他家に縁づいていた。隠居がめんどうをみていると仲人が来て「向こうの相手の家の子は出しゃあせんので、ヘヤの子をくれんかな」と相談をもちかけていたという。ある老女は、「自分が日の浦のこの家に嫁に来てもう四〇年に余っている。デアトはすぐ近くの上本郷にあり、クミのなかでも田畑が多い方であった。自分が生まれたとき、上のアニサマが五歳、トッツァンは三〇歳、カンチャンは二六歳でオモヤの切盛りをしていた。七〇歳になるババがまだ元気でヘヤに隠居していた。トッツァンはオトゴで、上のアニサマから皆他家に婿入りしたと聞いている。実は自分が嫁に来たこの家のヂンヂにあたる人は、デアトのトッツァンの一番上の兄で、自分とはオジ・メイの間柄である。デアトのヘヤが空いているとき、オジさんはデアトのヘヤに移り、自分をヘヤの子として育てるかたから、デアトの仕事を手伝っていた。ヘヤの子はすぐに外へ出られるということもあって自分も縁あってこの家に嫁ぐことになり、ツレアイとはイトコではないがミウチ同士の縁組みであった。自分を児やらいしたオジはデアトで息を引きとっだが、仏祭りはこの家で行っている。昔は空いているヘヤがあれば、オモヤと相談して移り住むこともあり、オジがデアトのヘヤに移っていた頃には、この家のではイッケの後家さんがヘヤで子供を養っていたそうである」という。
 イッケやミウチで縁組みがあると、家族内の人間関係は複数の親族関係で結ばれることになる。むらのなかで家と家との関係をみると、何世代にもわたって嫁・婿のやりとりがくりかえされる傾向が強く、高市ではこれをイチマキと呼んでいる。ここでいうイチマキとは本分家集団をさすものではなく、その成員は双系の親族体系によって結合している。そして、この双系親族体系のなかに、イヌガミスジ・ヘビガミスジ等の憑きものの伝承がもちこまれることによって山村特有の族制慣行が育くまれたといわれているのである

図4-7 本・分家集団の親族構造モデル

図4-7 本・分家集団の親族構造モデル


図4-8 H側松本のワカレ

図4-8 H側松本のワカレ


図4-9 松山市東川町の家並み

図4-9 松山市東川町の家並み


図4-11 ミウチ同士の縁組み(1)

図4-11 ミウチ同士の縁組み(1)


図4-12 ミウチ同士の縁組み(2)

図4-12 ミウチ同士の縁組み(2)


図4-13 ヘヤのコ ー隠居慣行の展開ー

図4-13 ヘヤのコ ー隠居慣行の展開ー


表4-2 壬申籍下調帳による嫁婿の概要

表4-2 壬申籍下調帳による嫁婿の概要


表4-3 壬申籍下調帳による婿の続柄

表4-3 壬申籍下調帳による婿の続柄


図4-14 ミウチ同士の縁組み(3)

図4-14 ミウチ同士の縁組み(3)