データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)
1 集団形成の論理
集団の構造模型
むらといっても行政村が「部落」と呼ばれる小さなむらむらの連合体として理解されてきたように、その小さなむらもまたいくつかの小集団に分かれ、それらが寄り集まった組織であった。組織化の典型として村組というものを想定し、その集団の構造模型からむら社会に於ける内部区分の特徴を理解しようとしてきたのである。
村組はむらの内部区分を明らかにし、ひとつのむらがいくつかに枝分かれしており、各々均衡をとりつつ一定の整合性を備えているかにみえる。それはむらの内的発展の事蹟を歴史的(厳密には出自や系譜として語りつがれ、神話、伝説、昔話のかたちで人々に示される)に説明しながら、各小集団と土地との関係に固有な意味をあたえている。むらうちでの家屋敷のありかたが、村組の内部区分を決定づけていたということもできるのである。むらでは、上にあるとか下にあるとかそうした違いは認めつつも、ひとつのむらのなかでこれらの間に序列を設け、ある集団が別の集団を支配するということは少なかった。むしろそうした関係はできるだけ生じさせないような配慮がなされたのである。
事例34 上浮穴郡久万町上直瀬では、畑野川からきた炭焼が房代野株あたりに住みつき、一番炉をおこしたと伝える。上直瀬は永子組、段組、仲組、下組に分かれている。この永子組から上条、中条、下条、房代野の各株に分かれている。以下段組から上段、下段、仲組から庵城、久保、大西、鳥越。下組から沖条、竹屋敷、下沖、駄馬条、横野路の株に分かれていた。村、組、株(あるいは条、丈の字を宛てるジョウ)がそれぞれ組長、伍長という世話役によってむらの連絡網がととのっていた。人々の近隣のつきあいは株のなかにみることができる。
事例35 同町上畑野川は八組に分かれていた。そのうち岩川組は五株で構成されている。
事例36 大三島町宮浦 上条・下条の農村と新地と呼ばれる犬山祇神社の社頭に開けた町とに分かれていた。
事例37 西条市の旧加茂村は千町、藤之石、荒川の三部落からなっており、千町は晩茶、岡、久保、御代地、
土居、宮之首、中谷、中尾の八組に、藤之石は、藤本上、藤本下、吉居、水無、黒代、中之池、川来須、基安、下津地、風透の十組に、荒川は、八之川下、李、大平東、大平西、荒川下、河ヶ平上、河ヶ平下、東宮の九組にそれぞれわかれている。
社会の織り目
いくつかの村組を比較してみると、村組はむらうちをまとめてゆこうとするむら社会の集団形成の論理に従って内部区分されており、そのなかから人々の知恵を読みとることができる。それがたとえ山村であっても島の村であっても、それぞれのむらに合ったやり方で小集団が連合してむら社会を特色づけてきたのである。この連合のしかたが社会の織り目の地柄となっていたのである。従来、この村組の組織としての集団模型を、権力の在地支配という文脈でとらえられることが多かった。村組は役所の意向を伝える伝達網としてきわめて有効な道具であったし、それなりの機能は果たしてきたのである。しかし、この村組にもむら本来の集団形成論理が優先していた。役所の支配を受けるために内部区分されたものではなかったのである。
事例38 北条市横谷部落は戸数三八戸のむらで、上組、中組、下組、岡田組の四組に分かれている。上組は新田神社、梶原様、薬師堂を祀り、中組は新田神社、和霊神社、薬師堂を、下組は厳島神社を、岡田組は新田神社、薬師堂をそれぞれお祀りしている。九月三日の秋祭りが各組の祭りで、この日には組の者が出て幟をたて、当元にあたった家が世話をし、組の者は重詰めをもってオツヤをした。子供が集まってオコモリをすることもあった。横谷部落の氏神は天満宮で、祭日は旧九月一五日であった。また横谷にある素鵞社は小社ながら河野郷一四か村の守護神として正徳五年(一七一五)から熱病流行を鎮疫する目的で祭祀されるようになったことが知られている。また横谷部落の大氏神は高縄神社になっており、一〇月九日が宵祭り、一〇月一〇日、一一日が大祭になっている。横谷部落ではこのように神々の重層信仰によって結びついていたことがわかるのである。
むらには部落三役といって、区長、作見、年行司の三役が部落の運営に当たっていた。区長は総代とも呼ばれ、むらの代表者である。作見は水利、土木の役の元締。年行司はさしずめ庶務、会計といった係であった。三役は正月一日のハツヨリのとき選挙で決めた。区長には昔から年間米一俵半の手当てがついた。部落の事務施行機関をさして「区長場」と呼んだ。これは役所を例えば、村役場、町役場、市役所と呼ぶのに似ている。そうした行政の機関とは別にむら独自の区長場があったのである。区長場はときに総代場と呼ばれることもあり、これからむらの各家への触れ事はコバシリが伝えた。かつてコバシリには年間一俵の給米があり、希望者が申し出ていたという。今では各組で輪番の組長がこのコバシリの役を兼ねている。
むらには、「法事一家」と呼ばれるつきあいが古くからあった。例えば葬儀のときとか建前があったときに集まる家と家とのつながりで、かつてこの「法事一家」でむらが組分けされており、現在いう上、中、下、岡田組の四組に分けたのは昭和初年に編成されたもので、その時旧来の家のつきあい関係を無視した組編成だというので種々論議をよんだという。今でも「法事一家」のつきあいは続いているという。
事例39 宇和町新城では上組と下組に分かれている。新城の氏神は新田神社で、集落から離れたところにある。集会場は上組にあり庵には葬式の道具が置かれている。新城下組は現在戸数が二二戸ある。ふつう下組二〇軒というふうに言われることが多い。下組二〇軒の祭り神様は白王様で、田植上りに年一回オコモリをしてお祭りをした。分限によって多少の上下はあったが、各家より寄附金を集めて祭りの費としていたというが今はこの祭りはやっていない。
下組はさらに「十人組」と呼ばれる二つの組に分かれ、一方を一番組、片方を二番組と呼んでいる。この十人組がいわゆる役所等からの伝達組織になっている。十人組に対して新城下組にはコウグミといわれる組があり、古老によれば、昔は「一日ヨクロふやすと算用がひきあいになる」といわれて、お互いのコウロクで田地を開墾し合った家同志だから切っても切れない縁があり何世代に亘ってのつきあいであるという。コウグミはむら社会に於ける基礎的集団として位置づけられており、これがいわゆるむらの自治組織である。新城下組の人々は、任意の条件下で支配と自治のチャンネルをそれぞれ切りかえながらむらをまとめてきたのである。
コウグミの人々は死者がでると米をもってかけつけた。かつては白米にするにも時間がかかったので、大量の米を入用とする葬式には、コウグミの人々が持ち寄る米が葬家にとってはありがたかったという。親類への知らせ、寺、役所への通知、買物、穴掘り、山道具作り等コウグミの仕事は忙しかったので一番コウグミの者で手が足りないときは、二番コウグミから何人か助人を頼むことがあったという。コウグミはまた念仏講組でもあった。念仏は昔は毎年旧暦正月一六日、一一月一六日の二回行われていたが、いつのころからか五月九月を除いた月の一六日に、年間計一〇回の念仏をあげている。念仏講組には講長がいて念仏の要領等を口写しで伝えている。念仏の鉦や掛軸は箱に入れ各家をまわして念仏のあと小宴を設けることもある。
横目で見る
村組のありかたやそのしくみのなかには非常に手のこんだ工夫がみられ、歴史の荒波にもまれながらも独自の共同体を維持してきた事例が知られている。そこでは一戸前とか、半戸前とかそれぞれの家督に応じた違いを認めながらも、むらの人々の公平、平等ということにはことさら敏感に反応していた。「皆ついよ」とか「どいつもこいつもドングリの背くらべよ」という人々の平均(中間)意識は、あらゆる機会を通して均等に取り扱われることを望んだのである。例えば社寺の造営にかかる寄附額の決定についてみると、越智郡大西町宮脇では先ずヘイフ(平賦)を定めていた。ヘイフというのは、寄附必要額を想定し、家の戸数で除して得た平均金額である。ヘイフが示されると各家のその時々の状態(必ずしも経済状態のみに限ったことではない)によって寄附をどのくらいするか腹づもりをしたうえで、他家の様子を横目でみて調整をし最終的な寄附額を決めていた。「横目で見る」とは、当該社会の伝統的な価値基準にのっとって状況をできるだけ同じ水準にならしてみるということである。むら社会では「横目で見る」という比較法が最も客観性をおびていた。だから、昔あったヨメやムコのふるまいをジゲの人々に横目で見てもらうといったときの評価は決定的でさえあった。組の世話やいろいろな役割を順廻しとか輪番制によってひきうけたり、誰が当たってもあたりごめんと籤引きで決めることができたのもおたがいの行動を常に厳しくみつめていたからに違いない。