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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 市  取  引

 市

 生活必需品の交換取引のことを「市」と称する。そしてそのような場所を「市場」という。そのような庶民の経済活動が行われたであろう市場は、現在も歴史的地名として残っており、われわれに昔を語りかけてくれるのである。しかし、本県の場合この方面の調査研究はほとんどなされていない。
 地図を見ると、三日市、八日市、十日市、上市、下市、古市、今市、市場などの地名が散見される。現に生きて用いられる公称的な地名もあるが、なお地域の小地名(ホノギ)で残っている地名もある。一般にこのような市関係の地名は、中世の城跡や社寺周辺に散見されるのが特徴であるが、近世になって交通・交易の活発化に伴って発生した地名もあるので、この点調査するに当たっては十分注意する必要があろう。
 市には定期市と臨時市がある。中世の斉市は定期市の代表であるが、現代各地で行われている日曜市などは定期市の現代版である。臨時市は正月や盆の年中行事に伴う歳の市、初市、盆市、祭礼・縁日の市などである。
 現在は商店の発達によって市の立つ機会が減少し、昔ながらの市風景もだんだん見られなくなって来た。市商人は露店商人組合を結成していて、それぞれ縁日を追って移動している。市商人たちは目的の場所に集まって来ると店開きのための場所割をする。それからクジを引いて自分の売場所を決定し、時刻を決めて一斉に店開きをするのである。場所に対しては「場床銭」といって、場所税を納める定めである。
 この場床銭は、神社の氏子や寺院の檀家の者が店を出す場合には特別に番外として黙認する風である。これに関連してこんな話を聞いたこともある。東宇和郡野村町惣川に船戸森三島神社というのがある。当社はもと大野ヶ原山麓の小屋に鎮座していたが、昔、洪水によって社殿が流失し、現在の鎮座地、宮成のしめ石の所で止まったのでそこに鎮座することになった。それで当社の氏子は小屋の下分にも一部分あるが、小屋の者が祭礼に市を出す場合は、元の氏子ということで場床銭免除の特権が認められていた。

 斎 市

 鎌倉、室町時代の中世に流行した市が斎市である。初めは月三回の三斎市であったのが、後には六斎市に発展した。この斉市が本県にも行われていたもののようで、それを推測させる伝承資料がある。『大洲旧記』(享和元年― 一八〇一 ―成立)によれば、

内ノ子に市町取立之事。高昌寺前より下もへ町を立、月に六日の市初り、朔日、六月より一六の日毎也。然共廿日市、先年より繁昌して、上の新市繁昌せず。依て廿日市の伊勢屋共に下へ引、其時より七日市と申候也。
七日市村分る事。天正十三年より内ノ子に大守なく、上町分は弥おとろへ、下町分は廿日市繁昌に付、文禄、慶長の頃、上町六日の市を廿六日一日を残して、五目の市を下へ取、有来る七日を添て、都合六日の市を用ひ、村を六日市と名付けり。扨、六日市町伊勢家共に繁昌せり。(以下略)

いわゆる六斎市が立っていたことが知られるのである。
 古く市には市神を祭った。市神は村境、町の市組の境などに立てられ、市はそこを起点としたり、中心として開かれることになっていた。市神はまた、土地の区画を管理する神としての性格をも備えていたらしい。
 市神は、市杵島姫命、事代主命、大国主命、恵比須、大黒などが祭られた。神体は自然石、木の柱、木像などがあった。内ノ子の廿日市の神体は「蛭子」である。厳島の荒えびすを勧請したと伝えており、毎月の市日に一日宛開張する慣例であったので、それを目当てに遠方より参詣者があり、大いに繁昌したと、『大洲旧記』は記している。
 市神に恵比須を祭った事例は、伊予郡松前町徳丸の高忍日賣神社の記録がある。神社を中心に上と下に恵比須社があって、それを上市恵比須、下市恵比須と称した。文字は「蛭子社」を当てている。上市恵比須社は現存して田中の恵比須さんと称し、秋の社日に例祭を執行している。下市恵比須は社地を「松葉地」と称し、そこに祭祀されていたが、現在は高忍日賣神社の境内末社に合祀している。
 同社旧記によると「毎年四才(斎)宛市場をもうけ、四民むらがり集る。社内にとよむ賑言語を断(つ)」(年代不詳)とか、「古より若宮ト申来テ、毎年三度宛上下之市立申、六十一年前ニ社火事ニ相申、神之御作卜申テ馬ノクラヒトセ御座候。棟札拾八数御座候得共是皆炎上仕申候。(元禄十二年)とか、「昔は御社地八町四方にして毎月六才(斎)の市を設け、上市夷子、下市夷子と申し伝へ候。小社に今御座候。」(文化二年)などの記録がある。とにかく、上市・下市があって六斎市が立っていたという伝承があったことは事実である。
 周桑郡丹原町円野上方にも古市の地名があって、そこには「恵比須社」がまつられている。なお、変わった事例として、この市神が地蔵尊になっている例がある。温泉郡重信町志津川に「上市地蔵」「中市地蔵」「下市地蔵」の三地蔵があるのである。この周辺には、「市楽」「桟敷」などの地名があるし、中世の古城跡や土居構跡もあるので、市が立つ当然性は十分考えられる。しかし、地蔵になったのはどのような理由によるのであろうか。初め恵比須を祀っていたのを、後に地蔵信仰がとって代わったのか、その事情を解明する史料は目下不詳である。しかし、三市が存したことは三斎市ないし六斎市が立てられていたことを示すものである。なお、斎市については注意しておればかなりの伝承資料が得られるものと思っている。

 市の記録

 次に古い郷土地誌から市関係の記録を摘記すると、次のようなものがある。

(1) 伊曽乃市 伊曽乃祭礼九月十四日、十五日、この両日、昔は遠方より諸商人入り込み、町家無商売の者、家を前年より約束借り置き、持ち来りたる売物を並べ、賑々しく市立つ。差し懸り来りたる商人はかり家なく、難儀致すほどに有りて繁昌しけるが、近来衰微に及び、只大坂より金物屋一人、是は昔の如く来り、町家を借りて店を張るという。又かの祭礼に馬市もあり。〈西条誌-御城下町〉
(2) 野々市 野々市という処あり、元は氷見村の内なりしが、寛文二寅歳、当村へ分け、村在所と成る。今家数五十軒程あり。ここの野原に於て昔四方より寄り会て季冬に市を立つ。因って野之市というといへり。今野々市と書くは誤りなるべし。〈西条誌〉
(3) このあたり(下泉川村)市というは、往昔かの一条氏の時代、商、集りて毎月幾度とか市を立つ。よりて名づくという。今は七月と十二月に市あるのみ。〈西条誌―下泉川村〉
(4) 氷見村宮之下川は、禎瑞の西を流る。その東の堤は禎瑞なり。石鉄山参詣の者、宮の下川を入り、この堤へ船を着け、夥しく集るが故に、この堤へ小屋掛して、風呂を焚き、飲食を売り、五月の末は市をなして賑おう。これは農民の余業なり。〈西条誌〉
(5) 石手市 三島大明神 石手寺より東にあり 弘安年中河野通有建立、此宮の事、通有度々渡海の難に逢ふ、神託によって宮勧請す。此神事に市を立つ、石手市と云ふ。〈予陽郡郷俚諺集〉
(6) 大洲城南の山上に八幡宮あり、八月末祭礼執行、殊なる市数日立つ也。〈予陽郡郷俚諺集〉

 祭礼・縁日と市

 大三島の大山祇神社の春季大祭は御更衣御戸開祭ともいい、旧四月二一日、二二日、二三日の三日間である。当大祭には大市が立ち、それを三島市といったのである。時季的には初夏に近いところから「夏市」ともいった。またそんな事情から袷姿あり夏姿ありで「雑炊市」の異名があった。
 大三島市の始源は明確でないが、貞享四年(一六八七)に松山藩が繁栄策として歌舞伎芝居の興行を認めたりした。安芸の宮島市にならってのものであったが、当市は現在でも行われている。一方、今治別宮の大三島市も有名であった(「今治夜話」)。
 市には、そのところの地名や状況によってさまざまな名称が冠せられている。松山市居相の伊予豆比古命神社は俗に椿神社と称し、俗称を椿さんと言うところから「椿市」といい、縁起笹とおたやん飴が名物である。徳丸の「虫干市」、郡中の「住吉市」は夏祭りの市で知られている。
 新居浜市には「萩生の市」「喜光地の稲荷市」「泉川の星原市」「一宮神社の宮の市」「浮島の八幡市」「中野の天領市(川口市)」がある。また周桑郡小松町の正善寺の金毘羅社の市は「ムシロ市」といわれており、旧二月十五日の涅般会には郡内各寺院で「涅般市」が立つ。
 変わった呼称の市では「遍路市」がある。越智郡吉海町仁江では、旧三月一九日より二一日まで「島四国」で賑わう。各民家はその参詣者の遍路を泊める善根宿をつとめるのであるが、その遍路で島は時ならぬ大賑わいとなるところから、それを「遍路市」と称したのである。
 市での販売品目は、陶器類、刃物類、種子物類、日用品などが主であった。農産物の種子を交換したりした市もあったようである。伊予郡中山町では、毎月一九日、二五日が市日で、旧四月には鎌市が立って刃物類が売買されたという。西条市氷見のように魚市が立った例もある。また変わった例では上浮穴郡小田町中田渡の新田八幡神社の初卯祭の市である。俗称を「ボボ市」と称したが、一夜妻の性解放が見られたことから生じた呼称である。
 喜多郡五十崎町には牛馬大市があって、全国的に有名であったが、別に春の市があった。明治中頃の開設といわれるが、毎年五月十五日で、「みのかさ市」と呼ばれていた。牛馬の売買や田植等の準備品の購入で賑わったそうである。
 北宇和郡三間町戸雁の稲荷神社の初午祭の市は、宇和島の和霊市と並んで有名であった。ひょうたん菓子や松茸飴の土産品が名物になっていた。

 師走市と盆市

 盆や正月前には各地にその準備のための市が立っていた。それを師走の市、節季の市、歳の市、盆の草市などといっていた。西宇和郡三瓶町あたりの人びとは、十二月一七日、二一日、二四日、二七日の四日が八幡浜の正月買物の市日であったので買い出しに行ったが、最初の一七日を「分限者市」、最後の二七日を「貧乏市」と呼んだという。貧乏人は年末ぎりぎりまで金工面もつかず正月買物もできなかったところからかく呼ばれたのである。伊予郡広田村高市の人びとは、正月用品の買物は、中山市(伊予郡中山町)、総津市(広田村)、小田市(上浮穴郡小田町)、成留屋市(内子町大瀬)、内子市(内子町)などを利用したという。中山市と総津市が最もよく利用され、正月用品、塩物、衣料品、履物類を買って帰った。中山市は一二月一九日、二五日であり、旧四月には「鎌市」があって、刃物類の市が立つ慣わしであった。小田市は二四日、総津市は二八日、成留屋市は二六日、内子市二〇日と決まっていて、人びとはそれぞれにこれを利用していた。市での買物は「横しま籠」や「まかご」で担ってもどったり、サス(天秤棒)の両端に縛り荷として担ったり、負子で運んでいた。そのとき子供らに市土産を買って帰っていたが、子供らにはそれがまた楽しみであった。北条市横谷では、一二月二六日に「北条の山草市」と称し、北条の町へ山草を売りに行き、帰りに正月用品を買ってもどっていた。東宇和郡城川町上川地区の人びとは歳末には土居の市、野村の市、魚成の市、鹿野川の市などを利用していた。
 歳の市に対し、盆には盆市が立った。盆の草市といわれ、盆の入用品を販売したのである。『吉田藩昔語』によれば、北宇和郡吉田町の盆市は横堀で朝市が立っていたという。だんだん盛況になりその後桜丁まで延び、草市以外に菓子類その他日用品の売店が出るようになり、一三日だった朝市も一二日の夜市に変更されるようになったと記している。