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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

三 河 川 運 輸

 渡 船

 大洲は城下町である。やゝ内陸の大洲盆地にあって、その湊としては伊予灘に面した長浜を持ち、その間は肱川によって結ばれる。全国第四位の支流数三一一を持ち、全長八九・一キロ、県下最大の河川である。その氾濫は常習的な自然現象であって大水害をもたらしていたが、鹿野川ダム完成(昭和三四年三月)は洪水を止めた。
 橋が架けられるまでは肱川を渡るには渡渉・渡船によった。大洲城下には大渡・上渡・中渡・桝形渡・松ノ瀬渡の五箇所の有料横渡しがあった。なかでも大渡は往還の連絡渡しで二人の渡し守が隔日に勤務する藩営渡しであり、増水時には平船頭が加勢した。水位標木(定杭)によって船止めの水位が定められていたことは勿論である。横渡増水時渡賃は寛政八年(一七九六)五月「水増之節横渡賃定 一、桝形渡し定杭へ水越候者引可申、引水之節も右定杭之頭出候者早速渡船出候事、但右定杭者桝形渡し場南方へ為打置候・(古に又) 一、水増ニ而桝形渡引候節より弐文運賃之・(古に又)、但引水ニなり桝形渡し出候者壱文運賃之・(古に又)(以下略)」と規定され、大渡渡守については享保年間の定書が寛政一〇年(一七九八)九月に改定され「大渡守へ相渡有之定書 条々 一、大渡守明六ツ時より夜五時迄ハ壱人宛船ニ相詰、不依誰ニ渡可申限、夜四時已後も何時呼懸候者早速可罷出事、但船川端より二三間出ルニおいては呼候共戻し申間敷事(以下略)」と布令された。なお横渡は、町裏水上り四文・町裏より二尺五寸増水は八文となっていたので俗に増水に応じての運賃を、一文川・二文川・四文川・八文川と呼んだ。

 川ひらた

 物産物資の輸送は吃水が浅く、かつ舟底の平らかな川舟(ひらた<舟へんに帯>)によった。長さ二六尺五寸・幅五尺五寸・帆高二二尺の長い船で八〇〇―一〇〇〇貫積みであった。大正にいたるまで、川舟のための河港は四〇に余り、三〇〇艘以上の川ひらたが行き交っていた。明治初年までは年貢米を積む二人乗の大舟があったが、以後下りは農林産物を、上りは日用雑貨・肥料石油石炭などを運んだ。長浜まで八〇〇貫一日の下りは、上りでは四〇〇貫積荷で数日を要した。長浜での早朝の上げ潮にのり〝耳の端に問え〟といわれる程の熟練した経験によって風向を判断して加屋あたりまで溯航し、そこからは数艘のひらたを舫って曳船で瀬を上った。オモテダシ(揖取)がひらたを操船し、村人たちの加勢を得たりあるいは牛を使ったりして五〇mばかりの曳綱に曳かれて上った。川中に突出した岩や川瀬の暗礁はひらたにとっての難所である。危険を避けるためには慎重な操船と絶えざる心配りが必要であり、そこから祈念が生まれ、聖所意識が生じた。肱川町道野尾の辰ノロ権現、大洲市菅田の冠岩・下須戒の立神岩の前を過ぎるときには何らかの手向を捧げた。積荷の細片でも何でもよい。ひらたのうえにあるものを必ず投げ供えた。野村町坂石からの下りひらたは藤之原しおやの淵(将監淵)で神酒を捧げて念仏を唱えたという。
 大洲城下での一般商品の流通取引を支配していた竹田屋・奈良屋の二問屋のうち、竹田屋は城下のひらた問屋を命ぜられていた。その竹田屋がひらた支配を免ぜられてからは長浜の問屋と城下の商人の直接取引が生じ旧来の規定が守られなくなった。竹田屋吉右衛門は安永四年(一七七五)五月「私共両人船問屋よりひらた借受世話仕候様被為仰付下置候」と願上げて旧権を回復した。そこで、大洲藩は村々の川船に対して藩の役用を課していた村々半番ひらたの積荷制限が必要となり安永六年十月「村々半番ひらたへ相渡有之定書」「一、五郎村ひらた八艘、壱艘ニ付年中弐艘ツツ之役相勤可申候、五郎・若宮より之分者、何分之荷物ニ而も町荷之外者積可申・(古に又)。一、右両村上ニ而堅荷物積中間敷事。一、町・須合田・紫ひらた之義者、何方ニ而荷積候とも可為相対次第事」外二項の定書を発したのであった。

 筏 流

 筏師たちは組合・連中組織をつくり、山主から仕事を請負い共同(モヤイ)で仕事をした。幹事役を組長・主世話人・親方などと呼んだ。最盛期(大正-昭和初期)には臨時加勢者を含めると三〇〇人近くの筏師が活躍した。本川筋には坂石組(四六人)・長谷組(二二人)・横林組(三四人)・赤木組(三五人)・鹿野川組(二六人)・菅田組(七人)があり、支流の小田川筋には水元連中(一六人)・大瀬連中(三八人)・和田連中(二五人)・内子連中(八人)があった。
 筏は組み口(組み場)で組作業をした。宇和川口(坂石組)・赤石、三石(横林組)・舟戸川口、黒瀬川口(赤木組)・河辺川口(鹿野川組)・突合(水元連中)・川登、河口橋、成屋(大瀬・川登連中)が筏組作業場であった。筏はまず棚をつくり、その棚を連結して一流(一先)とした。長さ二間の木材を、裏木口を前にして幅六~七尺(小田川筋では約四尺)を船型に組み棚とする。一二~一六棚を連ねて一流とした。木材の計量単位をサヤといい、一寸角二間材を一サヤとする。最前部の棚は二〇〇サヤ程度の細棚で、後部ほど次第に大きくした。最後尾棚は二、〇〇〇サヤほどになった。平均すると一、〇〇〇サヤ程度の棚であった。一流の材量は概算トラック五台分程度になる。実際には二間材でも一四尺にとってあったので材量は二〇%増となっていた。一日に三棚の筏が組めれば一人前とされ、一流の筏組み作業は連結作業をも併せて一〇~一五人役を要した。棚は桟木と呼ばれる樫の横木に藤カズラで結ばれ、底面にアゴが出ぬよう平らかにした。アナグレ(ハグレマサカリ・メグリヌキ)と呼ぶ道具で木材の端に斜に穴をあけ、桟木を押し当て藤カズラを通し縛着した。イカダバリ(馬蹄型釘)が考案されてからは作業能率は倍増された。鹿野川や鳥首から長浜まで二日、坂石から三日、支流小田川の大瀬や内子からも三日が通常の筏流し日程であった。筏は二人で操作し、菅田付近からは交替で休み、加屋のあたりから二人棹さしになった。小田川の場合は内子で乗り継ぎし、鳥首の合流点で二流を結合し一流とした。筏組み場まではバラで流した。クダ流し・テント流ともいう。

 篠 川

 南宇和郡一本松町篠川ではバラ流しを川狩りといった。川狩りで命を落とした七人を供養した七人塚が藤ヶ駄馬の出合にある。長追や県境からは筏流しがあった。筏師は出し方と呼ばれた。県境からは炭俵三〇俵積みの長さ一五尺、幅六尺ほどの川舟があった。

図3-7 肱川の河港(大洲市誌)

図3-7 肱川の河港(大洲市誌)