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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

6 麦作と畑作の儀礼

 稲作の裏作として栽培された麦作については稲作ほど儀礼は存在しない。旧六月一日の歯固節供の焼餅、半夏生のうどん、盆のそうめんなど麦とかかわりのある行事食品が挙げられはするけれども、麦作儀礼と見るにはちょっと根拠が薄弱なように思われる。

 麦ほめ

 麦作儀礼といえば、「麦ほめ」をいうべきであろう。「麦よし」ともいい、麦のできをほめる予祝儀礼である。中国地方の山間の村で、正月二〇日を「麦の節」とか「麦正月」といって、麦飯ととろろ汁を食べ、麦畑に出て「今年の麦は出来がようて、背から腹へ割れるべよう」とか「やれ腹ふとや、しえご割れや」などと唱えた。シエゴは背のことで麦の実が満ちた状態を形容した言葉だそうである。高知県の山中の寺川郷でも四月末に穂の出た頃、寅の日に村民が集まって「畝の麦は谷へなびけ、谷の麦は畝へなびけ、鎌を研いで待ちよるぞ、さってもよい出来でござる」とほめたということである。
 本県でも麦ほめは各地で行われており、二〇日正月の行事になっている所が多い。松山市居相町では、枇杷の葉を腰にさし、麦畑を「麦がようできました」と唱えながら麦踏みをして廻ったという。二〇日の朝、雑煮をつくって神をまつり、仕事を休んで麦ほめをしたのである。同様の風は伊予郡砥部町の山間部でもしていた。
 伊予市本郡では、二〇日早朝、戸主がチョウナ鍬をかつぎ、所有の麦畑全部を、「麦よーし、米よーし」と唱えながら麦畑の畦を歩いて廻り、帰ってから雑煮を食べた。しかし、これにはいま一つの方法があって、それは問答形式であった。一人が前記の呪言を言うと、他の一人がそれに答えて「できます、できます」というのであった。これは小正月の「成木責め」の作法に似ている。
 麦ほめに鍬を持ってする風は松山市桑原あたりにもあった。そのときは「麦がようできた、ようできた」と言うのであるが、しまいに屁をひって帰ったということだ。同市小野地区では裃を着用し、扇子をさし、随分いかめしい構えで麦ほめをしたと聞いている。これは特定の家の家礼であったかも知れないのであって、その扇子は伊勢参宮をしたときの扇子であったという。
 北条市河野地区では、お荒神様の御幣を持って行き、「よその麦より、うちの麦がようできますように」と唱えていた。温泉郡重信町でも、二〇日正月には麦飯を腹一杯食って麦畑に行き、「麦がようできた、ようできた」とほめて廻った。あるいは「麦ふとった、腹たった」と唱えた家もある。「腹たった」は満腹したという意である。また「やれ腹ふとや、麦ふとや」と唱える者もいた。同町志津川では「麦も腹がふといか、わしも腹がふといぞ。おお、お前もようできたねや」と言っていた。
 とにかくほめることに意味があったのであって、上浮穴郡久万町などでは、「麦よし、麦よし」と唱える風習であった。久万町下直瀬や砥部町大平では「麦がようできた」とほめていた。ただし、久万町では、二〇日正月より二月三日に行う所のほうが多かったそうである。
 温泉郡川内町南方では「やれ腹ふとや、麦よしよしや」、同町則之内では「厄払うことや、麦よし麦よし」とか、「厄払うことや、麦よしよし」などと唱えた。さらに同町松瀬川では「腹ふとふと、麦よしよし」と唱えながら麦踏みをしてもどったという。同じような唱えごとは伊予郡広田村総津あたりでも言っていた。総津では、二〇日正月の朝、餅を腹一杯食べて麦畑の雪の上を「やれ腹ふと、麦よし、麦よし」と唱えたという。麦ほめのことを一名「麦よし」というのは、この唱え言からいわれたものである。
 また変わった言い方では、松山市石井地区で、戸主が麦畑の枕(横畝)に立って「この麦はようできた、よう青んだ」といって拝んでもどる風があったことである。さらに伊予郡松前町徳丸では「おけえても、こもうても、ようできました」とほめたという。「大きくても、小さくても」とにかくようできたといったのである。
 麦ほめの行事は、ほめる言霊のはたらきによって豊作が予想されたのでもあるが、前掲の資料でも挙げたように、神の依り代となる御幣、伊勢参りの扇子などを所持して行ったのは、やはり呪物のもつ霊能に期待する信仰があったからであろう。
 麦ほめは東予地方にも行われていた。西条市西之川では、正月二日の朝、楮殼三本を畑に立て、それに三本横木をわたして稲架形のものをつくり、供物をして「麦がようできますように」と豊作を祈願した。同市荒川では四日に、御幣を麦畑に立てて「出来た、出来た、ようできた、うねも谷も満ちおうた」とほめていた。また西之川に隣接する周桑郡小松町土居では正月初卯の行事で、西之川同様、稲架を設け、それに若葉とお飾りをつけ、橙、米、柿などの供物をして「うねに千石、谷に千石、ようできました」と祈念した。
 宇摩郡新宮村では節分にしていたという。麦飯を食べた後畑に出て「おお腹ふとや、麦ふとや」とほめたのである。
 とにかく、麦ほめは、以上見てきたようにその日腹一杯麦飯を食って、それにあやかるように麦の豊作をほめて祈念したのである。なお本行事の消滅したのはいつ頃かは確認しておらぬけれども、昭和初年までは行われたようである。
 なお、南予方面の事例を挙げておらなかったので補記しておくが、二〇日正月には麦飯を腹一杯食うという食習は各地で聞いているが、八幡浜市向灘では、麦飯を食うけれども、それを食べているところがオイブツサマに見えないと怒ると伝えており、かつその日は山へ行って「よう出来た」といってほめてもどったという。それから当地には、この日イノコが家を出て行き、一〇月一〇日に家にもどって来、まず最初の臼をなでるので、初亥の子に餅をつくという風習になっていたらしく、一つの農神観としておもしろい伝承だと思う。

 麦の穂掛け

 稲の穂掛けに対して麦にも穂掛けがあった。西条市加茂の千町などで見かけたのであるが、イヌ(戌)の日に荒神様など神前に麦穂二筋を結んで供えるのである。同じ風習は徳島県にもあるそうで、やはり戌の日に麦穂二本を、畑に刺した桑の枝にかけ、地神を祭り、家でも初麦を神に供え、残りを青ざしというものにして食べる風があるという。

 焼 畑

 県下では焼畑のことをキリカエバタ(切替畑)と一般に言っていた。ヤブヤキという語もある。林野の樹木を伐採し、焼却してその跡地を畑とし、無肥料で雑穀等を栽培する農耕方法である。栽培作物は、ソバ、ヒエ、アワ、アズキなどであり、後にはトウモロコシ、イモなどが作られた。明治中期からは三椏栽培がなされた。
 山焼きをした草木灰か肥料となり、二、三年はかなりの収穫が得られた。地力が低下すればそこを放棄して、他の林野に新畑を造成する。それで切替畑というのである。
 焼畑をつくるには、部落の共有山を利用するのが普通だが、個人の所有地でも、持主の許可をえればよかった。焼くときには、村がいっせいに協同でするのが普通で、秋伐木したあとを春になって焼く場合と、春伐木して夏土用後に焼く場合とがある。
 焼畑地域は予土国境の山岳地帯、とくに石鎚山から大野ヶ原にかけてが本県の焼畑分布の中心地帯である。焼畑を作るには通常①準備、②火入れ、③焼け跡の整理という三段階で作業を行い、続いて地ごしらえ、種まきの作業と行うのである。七月上旬に樹木を切り、八月上旬に火入れを行って焼畑を作ることをやぶうちといい、一○月に伐採して樹木を雪の下におき、翌春火入れを行うのをはたきりと呼んでいた。やぶうちは麦を作るための焼畑で、はたきりはとうもろこし、豆類、そば、ひえを作る焼畑である。
 伐採した木は小さく枝打ちし、山全体に広げて乾燥させこば焼きを行う。こば焼き前に山の神に安全と豊作を祈り、神酒をささげたものである。火入れに先立って伐採してある木を乾燥しやすいようにこば返し(木の枝を上下に返す作業)が行われ、山の周囲には幅約一間の防火線を切り、山火事を防ぐ作業も行われた。
 火入れは、よく乾燥をした時をみはからい、無風の曇の日の午後、山の上の方から竹ダイ(竹を束にしたたいまつ)で火をつけた。上の方から火をつけるのは、延焼の防止と土まで焼けるからである。火がおさまるのを待って、焼け跡の整理をした。まくりあつめ(焼け残った木を集めるための股木、一間くらいの長さ)で焼け残った木を集め、あつめ焼きをする。また、表土の流れを防ぐために、木の幹を使ってさえぎ(土どめ)を木の株やくいを打って作る。その後、うちあけ(焼跡を掘りおこす)を地掘り(唐鍬)でする。こうして焼畑を作った。焼畑はうねを作らないのが普通である。
 山焼きは一般に結(いい)でした。田植え、麦焼き(麦を収穫するのに穂首を焼き落とす作業)、火入れは、ふれまい(相手が食事を用意する)があった。その他のいいは手弁当が普通であった。
 いま少し、各地の焼畑事例を挙げておきたい。上浮穴郡美川村では、ヤマ、ヤブ、ヤキヤマ、キリバタ、キリカエバタなどという。春焼きと夏焼きがある。春焼きは、秋一一月頃伐採、春四・五月頃に焼き、とうきび・大豆・小豆を植えて一〇月に収穫。夏焼きは、六・七月に刈り、盆までにそば等を植える。二、三年して地力が低下してコナジになると三椏を栽培する。アラジから一〇年程たつと杉の植林をする。
 種まきは、荒起こしをし、ウエネをつくる(畝たてはしない)。縦、横三尺間隔でとうきびを植え、その間に大豆・小豆等を蒔くのを言う。火入れは、火道をつくっておき、始め下方から火を入れて半分ほど焼き、ついで上方から火を入れる。これは山火事防止のためである。火入れに際し、酒宴をする。これを「山はじめ」といい、終われば「山じまい」の酒を飲む。
 伊予郡中山町では、ヤマバタ・ヤブヤキ・キリカエバタ・ハタゴなどといっていた。やはり、春焼きと夏焼きがある。種まきはスジマキとバラマキがあり、地形によって方法をかえた。傾斜の急な所はバラマキ、緩い所はスジマキが行われた。
 東宇和郡野村町の惣川地区でも焼畑をした。火入れが終わった後でヒモドシ(火戻し)ということをした。これは焼畑の呪術で、水をかけながら「イセチクサンチウチカド、オウチナサレタその目でも朝日が森の溜り水、一杓かければ消え行くぞや、アブラオンケンソワカ」と唱え、最後にロに水を含んで吹きかける。春焼きのあとはキビ・大豆・小豆を植え、夏焼きの時はトウモロコシを植える。
 越智郡玉川町の木地をはじめ、九和・古尾谷・神子森・大下・鬼原などでも焼畑をしていた。部落総出で火入れをしたが、それをテアワセ(手合わせ)といった。上木地では焼畑をヤマサク、キリカエバタといってモヨウ(共同)て焼いた。焼畑は二~三年連作すると地力が低下するので持主に返す。持主はそのあとへ造林する。
 伊予三島市の富郷地区でも焼畑はヤマサクといった。ヒエヤマとソバヤマがあった。ヒエヤマは八月下旬から九月上旬頃に切り返しをして火入れをする。このとき唱え言がある。焼け残った材をコズという。これは拾い集めて焼いてしまう。五月にヒエをまき、一〇月に収穫する。刈り取ったヒエはハデ(稲架)に掛けておく。収穫時期が麦まきと重複するためそれが終わってからハデジマイをする。そのあとへはハデモリといってシバ(カヤ)一束をハデサオに掛けておくのである。ソバヤマは肥沃な土地に限られていて、七・八月の間に切り返しをしておき、適当な日に火入れをするのである。そのとき「飛ぶ虫も這う虫もこの山に火を出すけん早よう逃げやアブラオンケンソワカ」と唱えた。

 獣 害

 山作を猪や鳥が荒すので、越智郡玉川町では布に油をしませたものを作り、これを畑の周囲に張って猪除けにした。石鎚山麓の中奥山などでは、太鼓・法螺貝などを鳴らし、また叫び声を出すなどして畑作を鳥獣の被害から守った。「八月の末、細野山に宿するに、日の暮方より、太鼓を打ち、貝を吹き、或は人声を揚て叫びよばわり、数千の兵卒攻め来るものの如く、甚だ騒動に聞こゆ。訝り問えば、伐畑という畠に、畑物・実を結ぶ頃より、凡そ四十余日の間、毎夜あの如くにし、暁に徹して守らざれば、一夜の内に猪喰いあらす。昼は猿より護り、夜は猪をおどす。この山中の御年貢にて候と答う。その辛苦憐れむべし。」と、『西条誌』の著者焼畑生活の一端を記録している。南予ではシシ垣を設けていた。またシシよけの呪法を伝えている所もある。