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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

3 田植儀礼―初田植とさんばいおろし

 田植飯

 田植は労働であって、かつ晴の行事であった。田植にかかる初日をサンバイハジメという。ナエオロシ(伊予市)、ハツサンバイ(喜多郡)という所もある。
 初さんばいには早朝から起き出て仕事にかかるが、それに先立って田植飯を炊き、農神(恵比須・大黒)を祭ってから田植にかかる。田植飯は正月に供えた白米を保存しておいて炊いたものであり、薪木は正月の幸木か門松を用いる。

 さんばいおろし

 初田植に田の神を迎える儀礼をサンバイオロシ、サンバイハジメなどという。宇摩郡地方ではオサイケという。サンバイオロシの地域は、中国・四国地方とその分布が広いが、サイケは香川県西部・徳島・高知の一部でいっている。
 さんばいおろしは、田の畦や水口に笹や樹木の枝を立てて依り代とし、祭場を設けて供物を供え豊作を祈願する儀礼であるが、供物は正月の供物を用いる所が多い。以下、県下各地の民俗を概観してみよう。
 事例1 宇摩郡新宮村 田植初めの日、田の畦にウツゲの木の枝を立て、その前に菅を立てる。苗束を置き、蕗の葉に供米を載せて供え、「千石も万石もできますように」と祈る。そのあと供えた苗を戸主によって三株だけ植え初めし、それから田植にかかる。田植が終わると「お水さしあげます」といって、植田に三返水をかける。なお、田植中は蛇を殺さない。
 また水口に萱三本の上部を縛って三又にして立て、その下に蕗の葉に白米を包んで神酒とともに供えたり、枇杷の実のよくついたのを供える所もある。
 事例2 宇摩郡土居町関川 正月のオイタダキサンの米をイリコなどとともに、各植田の水口に南天の葉を立て、それに供物をしてから田植をする。
 事例3 伊予三島市上猿田 最初の植田でオサンバイオロシをする。だからその田には小便をしたりして穢さないようにする。田の畦に、米・鰯など供物を柿やつげの葉に載せて供える。この供物を食べると田植が上達するといわれている。またオサンバイサンはその年の明き方にまつると伝えている所もある。「千石も万石もとれるように」「くろとり安うするように」など唱える。田植餅をつくってふるまう所もある。
 事例4 宇摩郡別子山村 ここでも初田植の植田に小便して穢すことを忌みた。サンバイオロシは植え終わってからする。ウツゲ・花菖蒲・あやめの花などをさし、一升桝に米八分目とイリコ・神酒などを入れて供える。田植終了にはオサンバイアゲをして祝う。
 事例5 東予市庄内地方では、サンバイオロシの日は川魚を獲ることを禁じている。田の神が魚の背に乗っているからだという。それで昭和初年頃まで、農家の子は川魚には絶対に手をつけなかった。各自田植が済むとオサンバイアゲをして田の神をまつる。また部落全体の田植が終了すると「総さんばいあげ」といって、村中で一日仕事を休んで祝う。そのとき田の水口に杉葉をさし、正月神の供米を散供して拝んで廻る。
 事例6 越智郡菊間町 サンバイハジメといい、正月の門松を薪木にしてサンバイ飯を炊き、サンバイ様に供えて田植の無事を祈る。田植が終わるとサンバイサンを降ろして廻る。各植田の水口に萱を立て、白米を供え、「おさんぼうさま、丈夫に元気に育てて下さい。一〇月の亥の子の日に箕に一杯、斗桶に一杯、餅をついてあげます」と唱えて豊作を祈る。
 事例7 越智郡大三島町肥海 正月二日にサンバイオロシをして米一升を供えるが、これを田植始めに祝って食べる。初田植には、正月一一日の地祝いに米といりこを白紙に包み、萱の穂束に結びつけたものを、最初の植田の水口に立ててサンバイオロシをし、それから田植にかかる。昔はこのときに子供が集まってきて「さんばいつかされ、さんばいつかさ」と言って祝って来ていた。すると半麦飯にささげの煮たのをかけてふれまっていた。
 事例8 東予市三津屋 水口近くに藁束を横たえ、これに杉か笹をさし、その周囲に散供をし、「おさんばいはん、よう米ができますように、ばんが巣を組むように、隣の田に負けんように、一〇月中の亥の子には箕に一杯、斗桶に一杯、桝に一杯、お餅をついてお願ほどきを致します」と唱えて豊作を祈る。
 事例9 北条市中須賀 植付後さんばいおろしをする。各植田に笹を立て、白米を供える。「露の玉よねさま、一粒万倍さま栄えますように、一〇月の中の亥の日にお帰りなさいませ。箕に一杯、斗桶に一杯、餅をついてさしあげます」と唱えて豊作を祈る。これを植田ごとにして廻る。
 事例10 温泉郡中島町 萱と蓬を一緒に結んだものをサンバイ様と称し、これを植田毎の中央に立て、米を供え、「田の畦からもギシからも、よくできなされ、正月の初亥にはお帰りなさい。できるだけ大きな餅をついて待っています」と唱えて豊作を祈る。
 事例11 松山市伊台や五明地区では、田植始めに苗五くきを植田の畦に供えて豊作を祈る。笹の依り代を立てる。同市久谷地区でも、植田の中央に、茗荷・蕗・笹または牛王神札を立て、その周囲に苗九株を植える。干柿・米・蜜柑・煮干などを供える。家によっては必ず魚章を供える慣例の所もある。苗の活着のよからんことを祈ってである。
 事例12 伊予市宮ノ下 田植最初の日を「苗降ろし」という。一番大
きな田の真ん中に笹を立て(これをサンバイサンという)、正月の供米などを供えて豊作を祈る。この供米を伊予郡松前町出作ではオンブクと
いっている。やはり大きな田の中央でサンバイオロシをする。
 事例13 上浮穴郡久万町父二峰 田の中央部に笹を立て、その前に三くろの苗を植え、供物をして豊作を祈る。そのときさんばいさん降ろしの歌をうたう。「さんばいは笹のものぞよ、さらりと笹でおろした」と歌う。
 上直瀬では、田の中央に稲一束を置き、煮干、干柿をこの稲束の上に載せ、「おさんばいさま、今日は田植でございます。どうか亥の子の時にはもんて下さい。お餅をついて祝います」と言って豊作を祈る。田植がすめばオサナボリの祝いをする。オサナボリ祝いは一家内でやる祝いである。同町上野尻では、大きな田の中央にオツゲの木を立て、苗五把・七把・三把など奇数株を植え、その上に正月餅で作ったヘギモチを供えて豊作を祈ってから田植にかかる。田植中、このさんばいおろしの場所に行き当たった早乙女が、供物をとって食べることになっている。
 事例14 伊予郡広田村総津 田植中、適時に田の畦に南天の枝を立て、萱を結んで三又にしたものを置き、重箱に供物を入れて供える。供物はあとで皆で食べる。この萱を三又に結んで置く風は、同郡中山町や喜多郡内子町などの内山地区および上浮穴郡久万町などに見られる習俗である。
 事例15 喜多郡肱川町 小薮では田の畦に栗の木を立て、柿、栗、あられ、かきもちなどを供えて豊作を祈る。供え物はあとで田植人に投げ与える。これを食べると夏病みをしないという。同町予子林では栗の枝か枇杷の枝を立て、苗三くろを置く。苗の一部は分けて荒神にも供える。
 事例16 喜多郡内子町 茗荷の葉三枚と蕗の葉を添えて畦に立て、かきもち、煮干、米を供える。萱を立てる所もある。供物は早乙女がとって食べる。萱の三又を作って置く風もあるが、それをここではシンチョウと呼んでいる。
 事例17 西宇和郡伊方町加周では、農神をヤマエベス(山恵比須)と呼んだ。先祖伝来の田の畦に竹を立て、苗三把と正月餅を供えて拝む。別に一把の苗を家に持ち帰り、三宝荒神に供える。この苗は熱さましに効能があると伝えられている。八幡浜市双岩あたりでは、田の畦に栗の枝かツゲ・クヌギの枝などを立ててサンバイオロシをする。早苗を供えるが、家の荒神様にも供える。
 事例18 東宇和郡城川町では、栗の枝を畦に立て、苗九くきを三列平行に植え、かきもち、煮干、小豆飯などを供える。あとでかきもちを田の中に投げる。それを早乙女が拾って食べる。同町高川地区では、サンバイゼマチと呼ぶ固定した田があり、栗の枝を立て、餅・干柿・酒・煮干などを供える。供物はあとで皆で食べる。
 事例19 東宇和郡野村町惣川では、柿か栗の枝を畦に立て、苗三くろを植え、かきもち、干柿を供える。供物はあとで早乙女が食べる。夏病みしないという。田植の終った晩にはサンバイサンの飯を炊き、大盛飯にしてオイブツサンに供える。これをあとで皆で食べる。なおもち苗二束をオイブツサンに供える。
 事例20 宇和島市付近では、田植開始の日をオオダという。赤飯を炊き、神酒とともに供えて豊作を祈る。栗か樫の木の枝を山から採って来て畦に立てサンバイオロシをする。
 事例21 南宇和郡城辺町では、栗と樫の枝をオイノベカズラで縛り、田の畦に立ててサンバイオロシをする。「九里八丁、貸しまわるように、家を生い延べて行くように」との意からだという。同じ趣意は宇和島市でも言っている。正月の供物を保存していて供える。
 右煩雑と思ったが、県下の田植儀礼におけるサンバイオロシの民俗を、東・中・南予に亘って概観してみた。子細にはまだいろいろ変わった事例もあるが、一応県下の状況はこれで掴めるであろう。

 県下の田植儀礼

 県下の田植儀礼を通観して言えることは、まず第一は正月との関連性の強いことであろう。初田植の田植飯の米が正月神に供えた米であって、それがサンバイサンの米と称されていること、またサンバイ飯の燃料は正月の門松や幸木を用いること、さらに植田でのサンバイオロシの供物が正月の供物と一致していることなどである。すなわち、農神と正月神とのかかわりをこの民俗は明示しているわけであるが、農神即正月神の神観の存在を考えることができるのである。
 ○おさんばいの神はどちらからござるの 羽子板を橋にかけ 弓の矢を杖について 明き方の田からござるの
 ○おさんばいの神は何を着て降ろした 蓑に笠にたつくりにみかんをそえて降ろした
 温泉郡川内町に伝わる田植歌であるが、本来この民謡は各地に伝わる正月迎え歌である。それが田植歌に転用されたのだと思うが、農神と正月神の結合はこのようなかたちでも見られるのである。

 農神の依り代

 農神を勧請することをサンバイオロシといい、その方法の種々あることは各地の事例を挙げて説明したとおりであるが、その場所(祭場)は、田の畦・水口・田の中央などに構えられた。またそのさんばい降ろしの田は各植田ごとという事例もあるが、最初の植田で行っている例が多い。また特定の田が決まっている例―つまりいちばん大きな田、あるいはサンバイゼマチと呼ぶ田があって、そこでさんばい降ろしをするのであるが、本来はある特別の田を決めて勧請するのが古風であったと思う。
 農神のことをサンバイと呼ぶことは周知の事実である。しかしなぜそういうかは不詳である。本県におけるサンバイオロシの依り代は、笹がもっとも一般的であり、その外南予地方では栗・樫などの実のよくつく樹木の枝が用いられる。中予の山間部では茗荷・蕗などの植物が用いられる。また伊予郡広田村・中山町・喜多郡内子町などでは萱の三又を置くなど地域的な特色が見られる。萱の三又を作って置く風は宇摩郡新宮村にも見られる。新宮村では、萱三本の上部を縛り、三本足にして立て、その下に蕗の葉に白米を包んで神酒とともに供える。またウツギの枝をさし、苗二株を植えるという。
 サンバイオロシと笹との関係は、田植歌に、つぎのように歌われている。『愛媛民謡集』からその事例を挙げておきたい。

 ○おさんばいは笹でさらりと降ろしゃれ、お笹でさらりと降ろしゃれ。〈松山市〉
 ○おさんばいは笹でさらりと降ろしゃれ。〈北条市〉
 ○おさんばいは笹でおろせよ、笹でさらりとようおりる。〈伊予郡双海町上灘〉
 ○おさんばいは笹でおろせよ、さらりと笹でゆくように〈伊予郡中山町・喜多郡内子町〉
 ○五月さんばいさんは柴の葉でおろせヨー どこでおろそかヨー 畦の中ヨー〈越智郡上浦町井口〉

 おさんばいさんは農民には霊験あらたかな神として信じられていて、このような依り代を立てて勧請し、供物をして祭られて来たのである。
 上浮穴郡地方には変わった田植歌があって、次のように歌っていた。

 ○まだ今朝は霧の最中、静かに渡れよ石橋を、あさはかに声を鳴らせよ 鳴らさぬ声は 寝声ぞ

 これは朝歌と称して、この朝歌をうたっているうちにさんばい降ろしをするのである。北宇和郡日吉村下本では、「さんばい様よ、お笹でまつる」という田植歌を七回うたってさんばいおろしとしたということだ。
 つぎにさんばい降ろしには、苗を供える民俗のあることである。供物というよりも、苗そのものが依り代であったのではないか。さらに南予地方の特色として、この苗を三宝荒神や恵比須様に供えておく民俗があるが、やはり本来は苗そのものがサンバイではなかったかと考えられる。

 直 会

 さんばい降ろしに供物を供えているが、この供物は早乙女が最優先で食べることになっている。このことはかなり古くからの習俗であったのであろう。前掲の『農家業状筆録』に「〝三盃おろし〟とて芽柴・竹の内(子)を建て、正月に三宝に入たる米または有合の米にても持行(き)備(供)へ、又苗三把を備(供)へ、男子植初(め)、早乙女に田をうえさす。昼食のせつ三ばい祝(と)て飯を桝に人たると、御酒とを備(供)へ直し、早乙女よりいただき、夫より追々頂戴すといへり。」と記しているように、早乙女に直会の特権があったのは古くからのことのようである。それは田植の主力が早乙女にあったからであるが、早乙女はまた本来は農神に仕える女性(巫女)であったからであろう。
 以上は、初田植の儀礼性を概観したものであるが、農神を勤請し、供物をなし、直会をして、田植にかかるという一連の行為は一つの儀礼構造をもっていることが知られる。つまり、田植は単なる労働ではなくて、じつに祭りであったのである。

 さのぼり

 田植が終わって田の神に帰ってもらうことをサノボリという。「サ」の神が天に上る意である。それに対し、農神の降るのをサオリというが、本県ではサンバイオロシであって、サオリは通用していない。サノボリは、サンバイアゲ・サンボウアゲ・オサナボリなどといっており、二つの系統がみられる。サノボリの第一は田植が終わった日をいう。その日はご馳走を作り、早乙女の労をねぎらうので、各家ごとで祝うことになっている。サナボリ・サンバイアゲ・オサンバイアゲとも言う。
 いま一つのサノボリは部落一斉に田植開始をしたように、田植終了の場合にも部落一斉に休業する。これをタヤスミ(田休み)と称している。シツケヤスミともいう。それで、サノボリには家サノボリと村サノボリの二系統のあることがわかる。村サノボリである田休みは、地区内の田植が完了した時点で、部落総代や区長が触を出して一斉に休むのであって、田植後の慰労休日である。総サンバイアゲ、ノアガリヤスミなどともいう。以下、事例を挙げて、その辺の事情を見てみることにする。
 事例1 宇和島市祝森では、サノボリの晩には苗をきれいに洗って神棚に祭り、神酒・灯明などをあげて豊作を祈る。この晩は主人は風呂に入らない。また部落田植が終わると田休みをする。それが終わらぬうちは次の田草取りをやらない。田休みの日、樫の枝を植田の畦に立てて廻る。
 事例2 北宇和郡松野町目黒では、サンバイ餅を搗いて祝う。村サノボリの日にサンバイボテと称する、長さ八寸、直径三寸位の麦藁束を作り、それに枇杷の葉を突き刺し、竹の先に結えてサンバイ降しをした場所に立てる。当郡内では、たいてい「おさんばい講」と呼ぶ田植組があって、テガエ(共同)で各戸順番に田植をなし、一日で植え終わるようにしていた。朝、サンバイオロシをなし、夜にはサナボリの祝宴をする。その後数日して部落全体のサナボリ(田休み)をする。なお、共同田植のことを津島町や広見町ではイイレといっており、やはりおさんばい講を組織している。
 事例3 北宇和郡日吉村では、田休みをシツケ祝といい、柴団子をつくって祝う。また麦入りの赤飯・豆腐・野菜煮などの料理で酒宴をする。
 事例4 八幡浜市付近では田休みをノヤスミといい、団子・そうめんなどをつくって祝った。
 事例5 南宇和郡城辺町などでは、村サノボリは旧六月入りになっており、その朝、虫送りをする。七月と八月にも田休みがあって、そのときは寺で稲祈祷をする。また七月二〇日をシツケゴモリと称し、氏神でお籠りをする。
 事例6 北宇和郡広見町内深田でもサノボリには稲祈祷をする。シデをつけた榊を持って神社で伊勢祈祷(お伊勢踊り)をなし、その榊をあとで田に立てておく。このあと二番休み・三番休みがある。
 事例7 大洲市では、もとは半夏生の日が田休みであった。現在ではこの日に関係なく、日曜日などを田休みにしている所が多いようであるが、部落のお堂や集会場にそれぞれ手料理を重詰めにして持ち寄りお籠りをする。飯は五目ずしが普通であるが「おまきばっぽ」(柴餅)をつくる風もある。
 事例8 上浮穴郡久万町では、田植がすむと一家または近隣が共同で酒肴を持参して氏神や附近の小宮で「植えつけごもり」をする。また組内の田植がすむと「小休み」を行う。なお「大休み」といって大字部落全体が日を決めて休む。しかし、小休みは今ではしなくなったという。
 事例9 温泉郡重信町では、サノボリのあと部落単位で田休みをする。この日各植田の水口に笹(新竹)や青木(小米椿という)を立てて廻り、米・田作りなどを供えて豊作を祈る。また同町志津川では、高盛飯をつくって恵比須様に供える風があった。
 事例10 北条市保免では、サノボリヤスミといい、サノボリ団子(小麦粉団子)をつくり、オサンボウサマを始め家の神を祭る。家族でこの日を祝う。
 事例11 越智郡菊間町や大西町では、旧六月一五日をヤスミジキとかノアガリヤスミといい、各植田の水口に萱二本とグミを立て、正月一一日の地祝いの米を供えて廻る。お籠りをする所もある。
 事例12 東予市や周桑郡では、「総さんばいあげ」という。角田の水口に松葉をさし、正月のさんぼうさんの米を散供して廻る。お籠りをする。
 事例13 宇摩郡土居町関川では、サンバイアゲといい、各田に神酒を供えて廻り、豊作を祈願する。
 以上、くどいようであったが、サノボリの二重性について見てきた。つまり、本県の場合は、家単位の個人的なサノボリと、村落共同体の地域単位での村サノボリが行われているのである。村サノボリは単に田植の慰労日というものになっている所もあるだろうが、お籠りをする所もかなりあるし、かつ農神を祭るという儀礼性を多分に残しているあたりは本県の田植習俗の特色と言える。

 泥うち

 田植に関連して「泥うち」という特異な習俗があった。これは南予地方にのみ見られたものであってドロヌリともいい、高知県でも見られた。早乙女が通りがかりの人に泥を打ちつける特権を認められていたのである。ただし相手は男に限られていた。
 例えば、北宇和郡津島町岩松では、田植中にその場を通りかかった男があると、早乙女たちが「祝います」と言って泥苗をぶっつける風があった。同郡日吉村でも、通行人がもし早乙女をからかったりすれば、皆で包囲して頭から泥を塗りつけていたということである。とにかく早乙女に物さえ言いかければ、文句なしに泥塗りをしたというのである。それで東宇和郡では「五月おなごにほつがうな」ということを言っていた。東宇和郡内でも泥打ちの習俗が見られたのである。
 さて、この習俗はかなり古くから行われていたようで、『親民鑑月集』にも見えている。すなわち、

 今度の踊には、村々里々の風流いたしけれ共、(中略)田夫の業を御覧に入度こそ候へ。(中略)五番に苗を荷ふ形、又すぐれたる小女房共三十人早乙女の姿をして、笛・太鼓・かっこ・しゃう・ひちりき・手拍子にてはやし立て一手植て引続に昼めしを運ぶ体をし、かろうとのふた、水桶などにどろを入来て、女とも手に手に取どろ打ちて参するとて、御前を初め四方八方へ打ちちらしけれども、見物人へ当らず仕舞でさっと引けるは、中々気もきれて片腹いたく、よどみには上もなき見物にてあれは、(以下略)(「清良記」巻七之下、土居伊豆清宗農被勇事)

とあるのがそれである。なお前後してしまったけれども東宇和郡野村町では大正年間までこの泥うちが行われたそうである。田植のときに、女に滅多なことを言う―つまりほつがうと泥をぶっつけられたのである。また喜多郡肱川町予子林などでも、早乙女をてがう(からかう)と、泥のついた稲苗をぶっつけられたと聞いている。何でも一言男性が言えば泥打ちをしたとのことであり、わざとする風でもあったのである。