データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 民俗の地域性

 民俗区画

 愛媛県が東・中・南予の三地区に区分されることは既に述べたが、相馬正胤は人文地理の上からはこれを次のように細区分している。東予を宇摩圏、新居浜・西条圏、今治圏の三地域に、中予は松山圏の一地区に、南予は八幡浜・大洲圏、宇和島圏の二地域に区分するのである。
 この区分は民俗のうえでも通用する区分であると思われるが、なお若干の差異があると考えられるので、以下これについて民俗事象によって述べておきたい。
 民俗事象のなかでも、年中行事、農耕儀礼などは最も伝統性が強く、普遍的であると考えられる。よって年中行事の「田打正月」を事例に本県の民俗区画(文化圏)を考察して見たい。
 田打正月とは、年頭における農耕開始の予祝儀礼で、「鍬初め」とか「地祝い」と一般にいわれている年中行事である。両者は同じ趣旨の行事でありながら日時を異にし、鍬初めは二日であり、地祝いは一一日である。四日、七日などの例もあるが、これは特別な家例であるので除外する。従って地域的には二日ないし一一日に集中しているのである。本県の場合、二日の鍬初め地域と一一日の地祝い地域が比較的明確である。高縄山麓下の旧風早郡以東で、宇摩郡を除く地域が地祝い地域で、これに対し風早郡以南の松山市・伊予郡・伊予市・温泉郡東部を含むいわゆる道後平野は二日の鍬初め地域である。南予も二日にしている地域であるが、道後平野のそれとはいささかタイプを異にしている。これを「掘初め」型と呼ぶことにする。
 その型式をもう少し具体的に言うならば松山地方では二日の早朝、田にシデをつけた笹か萱の穂を立てる。田を二鍬三鍬打ち起こし、山草を敷いて餅・田作り・みかんなどの供物をして豊作を祈る。それは戸主がする。この笹や萱の穂はいわゆる神の依り代であって、これを家族数とか牛を含めた本数だけ立てる。細部については多種多様であるので略すが、形式的には以上のようなことである。
 これに対し、掘初めは松山地方のそれとほぼ共通しながらも、供物の扱いが違うのである。すなわち、ヒキアイ(地縁)の村童らがやって来てこの供物を掘り出して回るのであり、一種の宝探し風な習俗となっているのである。これを若連中がした土地もあったそうであるが、それを「餅掘り」といっていた所もある。
 東予の地祝いは、一一日早朝、松の枝や萱の穂の依り代を立て、供物をする。一枚の田で行う所もあるが、所有田のすべてで地祝いをして回る所もある。途中人に会うのをタブーとしたり、無言を強要されていて極めて儀礼意識が強い。しかし、同じ東予ながら宇摩郡地域は二日であって確然と日時を異にしているのは注意される。
 田打正月のことは年中行事の項で詳述するつもりであるが、要するに本県のこの民俗には、二日型と一一日型があり、二日型には「鍬初め型」と「掘初め型」の二タイプがあることが認められるのである。すなわち、中予の鍬初め型は予祝儀礼性が強く個人的である。これに対し南予のそれは掘初め型で、地縁共同体的であり、かつ娯楽性が濃厚である。そして一一日の地祝い型は儀礼意識が強く東予偏在の民俗となっている。なお、先述もしたように、宇摩地域は二日であり、香川・徳島のそれと類似共通するので香川の民俗圏に所属すると考えられる。

 民俗の地域性

 民俗の地域性(民俗文化圏)は民俗文化の分布の問題になるわけであるが、近年民俗地図や民俗文化財分布図などが作成されて注目されるようになった。本県でも昭和五五~六年の二年にわたり国庫補助事業費を受けて『愛媛県民俗地図』が作成されているが、これは本県の民俗事象を分析理解するのにたいへん役立つものである。調査者の民俗観から徹底を欠いだ面があったりして不備粗漏の部分もないではないが本県の民俗の位置づけが鳥瞰できる最初の資料として高く評価できるものである。
 さて、本県の民俗文化の地域性は、一応、東・中・南予の三地区に区分できるのであるが、東予は宇摩郡地域を除いて新居浜市から北条市に及ぶ地域であり、これを「東予民俗文化圏」と呼ぶことにする。中予は松山を中心とする道後平野部の極めて狭小な地域であるが、これが「中予民俗文化圏」である。南予は道後平野を限る南の山麓、つまり伊予市から以南の広域であってこれを「南予民俗文化圏」と呼ぶことにする。ただし、この文化圏はおおよその概念範囲であって截然とした区分があるわけではない。いわゆる接触地文化かあって、そのような場所には両者のダブリ文化があったりするのである。以下、個々の民俗事象を挙げて、民俗の地域性を眺めてみることにしたい。

 小正月と盆行事

 正月と盆は民間の二大年中行事である。「盆と正月が一緒に来た」ということを言うが、正月と盆は二度の節季で、一年の半期を限定している。
 正月は元日中心の大正月と一五日中心の小正月の二部からなる。古くは月の満ちかけによって月日の推移を計ったので一五日の満月が重視されていたが、暦の発達によって一日が重視されるようになったと言われる。それで、正月行事も元日の方に引き寄せられていったのである。しかし、重要な正月行事はまだ小正月に集中しており、その傾向が顕著なのは本県の場合南予である。
 小正月行事といえば、①餅花・繭玉・粟穂稗穂・成木責めなどの予祝行事、②粥占、年占、③火祭り(左義長)、④小正月の訪問者に分けてみることができるが、本県でこれらの事象がよく残っているのは南予である。ただし、小正月の火祭りが盛大なのは東予であって、特色ある民俗を残している。トウドウサン、シンメイサン、左義長などといわれる行事がそれである。
 ところが南予には火祭りはなくて、粟穂・餅花・粥棒・鍬鎌様・成り木責め・かいつり・ほたるくくる・鬼の金剛(念仏の口明け)という大草履づくりなど多彩な民俗が展開される。
 盆にも小正月同様に火祭りが行われる。迎え火・送り火の大掛かりのもので、サイト・マンドなどといっている。正月の火祭りが子供組行事であるごとく、盆の火祭りも子供組が行っている。このサイトやマンドは東予民俗圏にあって、中・南予にはない。
 また盆には盆飯の習俗がある。ボンママ、オナツメシ、ハマメシなど土地による名称があるが、とにかく川原や浜辺に仮小屋を設営して、クドを築き、煮炊きして子供らだけで野外生活を楽しむのである。本県では南予のみに見られる盆習俗である。ただし、盆飯の風習はおもしろいことに東端の川之江市などにも行われていた。これは隣接の香川県や徳島県の民俗と通ずるものである。
 盆には臨時に盆棚(精霊棚)を設け、祖霊や新亡霊をまつるのが古風であるが、中・東予では新盆のみ特別の祭壇をしつらえる。しかし、南予では新盆でなくても座敷などに盆棚を構え、芭蕉の葉を敷き、笹竹・そうはぎ・ほうずきなどを用いて祭壇を飾り、先祖の位牌を並べ、供物を供えてまつる。餓鬼仏の供養も勿論するが、この施餓鬼棚を屋外に設けるのは東予一般の風である。なお盆のしまいの精霊流しを盛大に行うのは南予の海岸地域である。このように正月と盆行事には、南予と東予に特徴的な民俗が見られるごとく(表0-1)文化的な差異を顕著に認めることができるのである。

 農耕儀礼

 苗代の籾まきに際し、農神をまつるサンバオロシの民俗は県下一円にあるが、水口に立てる神の依り代は植物の枝や神札が一般的であるのに、南予地域には特別に石社と呼ぶ石を置く風習がある。この石社は代々伝承して伝えることになっている。なおまた田植終了後のサノボリに稲束を家の竃神(荒神)に供え、豊作を祈る風があるが、この習俗も南予だけの特色ある民俗になっている。
 旧五月節供と五月中の特定の日をもって牛の使役を禁ずる民俗がある。これは日本最古の農書『清良記』にも見えており、現在なお南予各地に顕著に伝承されている。あるいは五月二八日の降雨を「曽我兄弟の涙雨」とか「曽我の雨」というが、この伝承も南予民俗文化圏のものである。
 田植後の虫送り行事は全県的行事であるが、これを「実盛送り」と称して川上と川下が協同して行うのも南予の特徴である。東・中予では一集落ごとの行事になっているが、南予では上下集落が結束して川上から川下へと実盛送りをなし、実施底辺が広域的である。

 族 制

 「隠居制」というものがある。南予では長男が結婚すると間もなく親は二・三男等を連れて別家する。この別家を隠居というのであるが、一般にヘヤ(部屋)と呼ぶ。中・東予地域にも親が子に跡を譲って隠居することはあるが、地域の制度的慣習法にはなっていない。

 民俗芸能

 民俗芸能くらい伝播と交流がはっきりしているものはなかろう。まず南予を代表する芸能では「鹿踊り」「伊勢踊り」がある。鹿踊りは、宇和島藩主伊達氏の関係で、仙台からの移入ということになっているが恐らくそうであろう。また伊勢踊りは土佐から伝来したことになっている。これは伊達氏の政治的奨励によるもので、藩内の各村に神明社を勧請させ、伊勢踊りを奉納させたという歴史的背景があったようである。いずれも南予地域の宇和郡内と喜多郡の一部に伝承されているものである。
 鹿踊りは、宇和島城下が八つ鹿で、周辺地区が七つ鹿・六つ鹿・五つ鹿であるのは意図的、政策的のものだと言われているが、芸能的価値がある鹿踊りは周辺地域のものに認められ、原初の風格を伝えるものが多い。宇和島は優美で様式化しているのに対し、地方のそれは写実的で雄壮である。
 つぎに盆踊りについて見てみよう。盆踊りといえば輪踊りの口説きが普遍的であるが、南予宇和海の盆踊りは念仏踊り系で宗教色が濃い。宇和島市蒋淵のトントコ踊り、同市遊子津之浦のいさ踊り、同戸島と嘉島のハンヤ踊り、南宇和郡城辺町久良の能山踊りなどあるが、いずれも御霊信仰という共通の発生事由をもつのが特色である。なお盆踊りではないが、西宇和郡瀬戸町大久のシャシャン踊り(旧八月一日)もこの系統の芸能である。
 また主として東宇和郡内に分布する芸能で盆の施餓鬼会の「念仏楽」がある。大太鼓と鉦による大楽奏の念仏行事で荘重な念仏の調べが心を洗ってくれる。南予における異色の芸能といえよう。
 花取り踊りも南予民俗文化圏を構成する芸能である。この芸能は高知県と境を接する地域だけに分布していて、接触地における民俗文化の代表ともいえる。北宇和郡三間町曽根、南宇和郡一本松町正木・増田・東宇和郡野村町岡成、城川町下相などに現存するが、北宇和郡日吉村節安、上浮穴郡面河村相之峰、柳谷村西谷などにもあったが、とにかく北宇和郡・東宇和郡に分布が濃密である。また伝承由来についても厄除け、災害除けなどの祈願目的から土佐のそれを移入したと伝えている。ただし、修験道の影響がある。特に増田と下相のそれには強く現れている。前者には善久坊、南光坊の「山伏問答」、青竹割り、しめ縄切りなどの儀礼があり、後者には「三角踊り」と称する露払いがあり、また禁忌性も強いので山伏の関与が考えられる。

 中・東予の民俗芸能

 南予に比べて中・東予は民俗芸能の乏しい地域である。温泉郡重信町麓の楽頭、松山市福見川の提婆踊(御祈祷)は福見山を隔てての同系の芸能である。東予では丹原町田滝のお簾踊り、トンカカサン(新開節、新崖節、浸鎧節)及び木山音頭である。それが同じ東予ながら文化圏としては埓外にある宇摩地区には、土居町小林の薦田踊り、新宮村の鐘踊りなど念仏踊り系の宗教色の濃い芸能があり、しかも香川・徳島とで芸能圏を構成している。

 神 楽

 南予地方はいまもって神楽の盛行している土地柄である。大洲市・喜多郡・東西北宇和郡内の春祭りは神楽で賑わう。国指定の文化財である「伊予神楽」をはじめ「河辺鎮縄神楽」(県指定)「川名津神楽」など数組の神楽組がある。南予諸地域では、神楽=祭り=生活が一体的に生きつづけていると言える。
 中予も以前は神楽が盛んであって、各地区の神職団によって行っていたが明治以降急速に廃れたものである。現在松山市の神職による「惟神会」継承の里神楽がある。東予も中予同様で、大三島の「大見神楽」が残っているだけである。どの神楽もそれぞれにバラエティーに富む地域に結びついた演技があったりするのであるが、伊予神楽はテンポが速く、他の神楽はどちらかというと悠長である。中予の神楽は提婆の演技「鬼神問答」に特色があり、東予の神楽は「荒神神楽」系であった。

 獅子舞

 獅子舞は最も普遍的芸能の一つで全国的にあるが、本県の場合およそ次の六系統の分布相が認められるであろう。ただし、南予の鹿踊り(一人立のシシ)を除いていわゆる二人立のシシである。
  (一) 松山系-松山・伊予・温泉・上浮穴・北条・長浜・中島町元怒和・中山・広田〈乱獅子〉
  (二) 丹原系-丹原町・東予市〈ムカデ獅子〉
  (三) 今治系-今治市・大西町・菊間町・波方町・朝倉村・玉川町〈継獅子〉〈太神楽系〉
  (四) 宇和海系―宇和海沿岸の各地に分布、大洲市平野〈唐獅子〉
  (五) 讃岐系-川之江・西条市黒瀬・荒川
  (六) 大三島系-大三島町宮浦・宗方・肥海・野々江、伯方島などにあるが、それぞれ異質の特色をもつ。
 大略右のように分類できるが、特別大三島地区の獅子は各地それぞれに独自性をもっていて分類しがたい。また同じ宇和海側でも北宇和郡津島町に風変わりな獅子舞があるなど本県の獅子舞は多種多様である。松山市古三津には「虎舞」があるが、松山系獅子舞の狩人の変型である。

 祭 礼

 伊予の祭りの特色は、芸予諸島から高縄半島の地域に中世的祭りの遺制と見られる頭屋制の存在することである。それに関係した中世文書もあったりするが、この問題はあとで述べることにして、ここでは祭礼の地域性を言うことにしたい。
 祭礼はおよそ①宵祭り ②本祭り ③小祭りの三段階をとる。宵祭りをヨイノモシ(宵の申し=申しは祭りの意)、本祭りをジンジ(神事)または神楽という。小祭りは本祭りに対し末社の祭りをいうこともあるが、大祭の慰労休息ということで後宴をいう。それをアトマツリ、ウラツケ、ゴシンドウ、ネリヤスミなどという。
 本祭りは神輿渡御の日で、オネリ、オナリなどいうのであるが、この祭礼も後述することにしているので、ここでは秋祭りに限定し、その風流の面から県下祭礼の地域的特色を眺めてみることにする。風流というのは祭礼の練り物のことである。祭礼の神幸祭に必ず付属し、供奉する行列の出し物を言うのである。
 本県の秋祭りのトップは芸予諸島で旧八月一五日の祭礼である。ついで地方に移り一〇月六、七日の松山地方祭。それより周辺地域に移動して東・中予は一〇月中に終了する。このあと上浮穴と南予の宇和地帯などが一一月にあって県下の秋祭りは終了する(祭日の地域性)。
 元来、祭りは神が他界(聖なる世界)からムラやマチに来臨し、人びとの饗応をうけて幸福をもたらして帰る約束の日である。神幸(神輿渡御)はその神の道行きを模式的に再現して見せたもので、神霊を神の輿(乗り物)に奉じて神社からお旅所へ、あるいは頭屋や新築家に奉迎して神饌を饗し、芸能を奏すなどして神霊をもてなし、結果として幸福や豊作を約束してもらうのが祭りである。
 神は降りて来てほしい時に招ぎ代(依り代)を立てて招べば飛来してくれる性格をもつ。祭りにシメナワを新しくするシメアゲ・シメオロシをするのはそのためである。これをオハケオロシという所もある。幟を立て、提燈をともすのも神霊奉迎の設備であり、聖域の標示である。幟が立たねば祭りにならぬ、と松山地方では言い、まず祭りには幟が立つ。幟は祭りの標示物の最たるもので、祭りの雰囲気をひしひしと感じさせてくれるものがある。この幟にも地域性が見られておもしろい。
 祭礼のことは別章で述べることになっているから、内容の詳細については略す。従ってここでは民俗の地域性としての祭礼の概観をすることにとどめたい。一応、東・中・南予に分けて記すことにする。
 東予の祭礼の特徴は、太鼓台、壇尻などで賑わすことである。新居浜の太鼓台(御輿太鼓が古名)、西条の屋台壇尻が象徴的である。宇摩地区には土居町の船壇尻と三島・川之江の太鼓台がある。本来これらは神輿に供奉するものであるが、今ではこれが祭りの主役のように演じている。
 今治・越智・周桑地域の祭礼は、奴と獅子舞が出る。今治・越智郡は曲芸風な継獅子と奴行列。周桑地区はムカデ獅子に奴である。しかも、神輿に随従した芸能として演出されている。
 北条市は獅子舞と笹壇尻。鹿島祭りの櫂練りがある。神輿投げのフィナーレもある。松山祭りとそれに続く中通り祭など中予地区の祭りは獅子舞と神輿だけである。
 総じて東・中予の祭りで言えることは、さきにも触れたように新居浜・西条祭りは風流が派出に出すぎて神祭の面が陰にかくれた感がある。北条祭りでも笹壇尻は神輿不在中の賑やかしになっているのである。これに対してその他の地域のものは、神輿渡御と芸能が従属関係にあって演じられ、神に捧げる芸能の意識が残っているし、神祭の儀礼性が十分に認められる。しかし、もう一つおもしろいのは壇尻のない中予のような祭りは、神輿の鉢合わせ、つかき合い、長柄折りなど祭りの双分制を生かしたムードの盛り上げ方や神輿を用いての演技披露をする。神輿を投げるのもその一例であるが、差し上げたり、投げ上げたり、回転したり、横に倒してかいたりなど、力と技で神輿ぶりを演出し観衆にアピールする。勝岡八幡神社の一体走りはその典型的なものである。要するに儀礼性と競技をミックスした祭りが中予の祭りの特徴と見たい。
 南予の祭りは大名行列風な供奉行列に、鹿踊り・牛鬼・四つ太鼓・相撲練り・屋台・壇尻・牛鬼、その他儀器としての弓矢・鉄砲・幟などが供奉して神幸の行列を美々しく見せる。お旅所では各種芸能の奉納があって、それから神社に還御する。祭りの儀礼性を完備しているのがその特徴と言えよう。なお、南予の祭礼にはオハケの民俗が残っていて注目される。これは東予の頭屋制とともに本県における祭祀習俗の貴重な文化遺産である。
 なお、本県の祭礼で別格に挙げなければならぬのは、芸予諸島や海岸の神社の櫂練り(櫂伝馬)である。船踊りともいうが、これも一つの特色ある地域性を構成していると見られる。神輿渡御を海上に移すことによって発生したパレードである。

 口頭伝承

 伝説は全国に類似のものが、どこにでもあるものであるが、一つの県単位で考えてみると、ある特定の地域にしか分布しない伝説があるのに気づく。
 山姥 山中に棲む妖怪的存在の老女である。年の暮になると決まって正月の餅つきを手伝いに人里にやって来る。その身なりがほうけかやって穢らしいので、ある村では山姥の来訪を嫌い、それである年急に餅つきの日を変更して餅をついてしまった。すかをくらって山姥はその年は餅にありつけず死んでしまった。以来、崇りがあって村人は餅なし正月をすることになる。餅なし正月の由来譚として上浮穴郡では伝えているのであるが、単に妖怪視している伝承も多い。この山姥伝説は南予地域の各所で聞かれるが、中・東予ではその事例がない。また巨人伝説があるがこれも南予の伝説である。昔大人(巨人)がいて投げた石とか踏んばった足跡といった風の伝説である。
 椀貨伝説といって、川や池の淵、あるいは洞穴などの主に頼めば膳椀を借りられたという伝説がある。本県の場合は古墳に付随した伝説であるのを特徴とするが、これは南予にはなくて中・東予に普遍的にある伝説である。
 北宇和郡地方に「丹後但馬」といわれる化猫伝説がある。古猫が女に化けた伝説で、それを高名な猟師が年の夜(節分)にしとめるストーリーをもつ伝説だが、これも南予地域に通有する伝説である。
 昔話 今日一般に民話と呼ばれるようになった昔話は、伝説も含めて近年急に興味関心が持たれるようになった。各地域での採集再話や県ごとにまとめた民話・伝説集が出版されたりしてブームになっている。本県の昔話は雪国で聞かれるようなしっぽりした話は乏しく、短編のものか笑話が多い。しかし、話型の多いのは南予である。中・東予では採集もむつかしいが、南予は容易で話種も多い。
 笑話の一つでトッポ話というのが宇和海側にある。北宇和・南宇和の海辺の村に語られるケタ外れの大話である。かつては山間部にも語られていたようであるが、現在は海辺部に分布する南予独特の民話群である。
 哀れな末路を遂げた平家一門をテーマにした平家伝説は、西宇和郡保内町の平家谷、伊予市郡中の五色浜の伝説、上浮穴郡小田町寺村の八房の梅、面河村の鼓が滝の伝説などが知られているが、本県では石鎚山麓にもある。しかし、宇和海側のほうに特に多い。八幡浜が平氏の荘園であった歴史的背景も影響しているのであろうか、しかも南予では伝説が本来所有している信仰性を踏まえて存在しているのである。

 結 び

 民俗の地域性の問題をとりあげ、その民俗区画が設定できることを提示するとともに、個々の民俗事象を挙げてその具体的可能性を説いてきた。まだ他の民俗事象からも説くことができるのであるが、
一応の試案としたい。いま少し細分した区画を考えることもできるし、そうした区画-地域性の成立する民俗の民俗的背景、歴史社会的背景の問題などもあると思うが、今後の課題としたい。

図0-2 中四国の田打ち正月概要図

図0-2 中四国の田打ち正月概要図


表0-1 小正月と盆の民俗の地域性

表0-1 小正月と盆の民俗の地域性


図0-3 花取り踊り(太刀踊り)の分布

図0-3 花取り踊り(太刀踊り)の分布