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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

第一節 民俗から見た愛媛県

 時代の変遷と民俗

 民俗とは民間伝承をいう。常民のあいたに日常的・集団的・類型的に三世代以上にわたって、くりかえし伝承して来た言葉や行為、または観念を民俗というのである。またそのような常民の社会を民俗社会といい、この民俗社会に伝わる基層文化を民俗文化=生活文化というのである。すなわち民俗文化は地域社会の人びと(常民)によって普遍的に共有的に理解伝承されている生活文化ということになろう。
 歴史をはじめ人間世界のものはすべて時代とともに変遷してゆく法則性をもっていると思うが、しかし何もかもが根本的に変化してしまうということはない。物ごとには表層面と基層面の両面性がある。一般に変化・変遷するのはこの表層面であって、これは流行性のしからしめるところである。しかし、一見変化に見えてそうでない部分がある。人間の内面にある意識などはなかなか変化しにくい性質のものであるが、文化のようなものも基本まで根本的に変化一変してしまうことはない。例えば基層面から根こそぎ変化してしまったりしない。文化はすべて基層文化としての民俗を内包しておるとともに不易流行性があり伝統性を保有していて、再生復活を見ることは歴史の証言するところである。
 しかし、民俗も時代によって変遷する。このことはだれもが体験ずみのことである。いつの時代においても古風と今様、不易と流行が並存していることは人の知る通りである。新しい風俗が発生すると今までのものが古くさくなり、その新しいと感じたものも普通のものとなるというふうに、民俗は変わっていくのである。民俗の変遷はいろいろの原因があって簡単でないと思うが、人が気がつかないうちにいつとはなく変わっていくこともあるし、ある激変ともいうべき現象があって、ある時点から急変する場合とがある。その一番最近の事例は、いうまでもなく第二次世界大戦を境とした前後の民俗の変遷である。
 さて一般普遍の状態で民俗を変遷させる動因の一つは経済生活の変化である。技術革新による生産手段の変化から民俗が廃退した事例は私どもの経験ずみである。例えば農村や山村の過疎や離村現象から、村祭りをはじめ村落行事が行われなくなったり、若者離村によって伝統の民俗芸能が消滅した例などは多い。
 農業の技術革新から農家の家畜飼育が姿を消してみたり、運搬具、農具などが不用になったりした。昭和四〇年代からこの現象が急速化したが、それまでの日本の農業にはまだ明治当時の農業の亜流が遺っていたのである。今日、民具採集が注目されて、それらを蒐集保存する資料室の必要が強調されるようになったのは、人々がこうした変遷の実態を体験したからである。
 かつて家の生活の中心をなしていた囲炉裏がなくなった。囲炉裏のない生活からは座順や座名が不明になり、自在鉤がもう分からなくなった。ましてや火の管理のことや神聖性の問題、自在鉤のタブーやこれに失物を見付けるまじないをしたことなどは、家庭の伝承から完全に忘れられていくに違いないであろう。世代の断絶という家庭内事情もあるけれども、物自体が無くなって来ると、その物を通じての民俗そのものが消滅することは止むをえないことである。
 出産や葬式も近年変わりつつある。以前は家の一隅を産部屋にして出産し、産婆がとりあげるのがあたりまえであった。そのための儀礼や手続きもあって出産が家を挙げての重大関心事だと誰にも理解できていたと思うが、現代のように産院や病院出産になると、何となく人まかせのような感じになったり、儀礼そのものも略される傾向になる。すなわち産飯を炊いて産の神を祀ったり、エナに関する扱いの民俗なども不明になれば、エナ塚も不用になった。
 葬式も以前は野道具一式をヒキアイが出て製作し準備していたから、それに伴う習俗があったが、いまは葬儀屋がやるため最小限度の民俗が残っているに過ぎない。結婚式もそうである。結婚式場が設備されて両家がそこに出向き、出合いで結婚式を挙げるようになったことで、婚礼は夜のものという通念が否定され、嫁の婚家への出発に先立って行われていた聟入りの儀式もなくなったのである。足入れ婚である「奉公分」と呼ぶ結婚型式がかつて本県の喜多郡や東宇和郡内に行われていたが、これなどは社会の近代化によって改善を見るのは当然としても、結婚式は昔に比べ随分変化したものである。
 しかし、葬式にしろ結婚式にしろ変化したのは事実であるが、何も彼もが変化したのではない。つまり、形、やり方は変わっても、葬式の場合だと死者を弔うことや会葬の儀礼などは依然行われているし、結婚式でも夫婦になったことの社会的承認の機会であるという根本の民俗は別に変わっていないのである。
 このように見て来ると、民俗には古風と現代性が併存していることが分かる。過去と現在とが重層的に共存しているところに民俗の特性があるのである。これがまた民俗を研究し調査する理由にもなっているのであって、民俗文化が生活文化といわれるゆえんでもある。和歌森太郎が『宇和地帯の民俗』(昭和36年刊)の序編で言っているように、伝承的なもののもつこれが性質であって、われわれ日本人は元来古くからもち伝えて来た型を、その時代に適合するように、再生させたり、何かの突然の事情によって、新しいスタイルで噴出させたりするものなのである。そこでわれわれは伝承の比較考察を通じて、一面では日本人の生活意識の核をさぐりあてるとともに、他面その支えられてきたあいだの時代性を過去のある時代の、文献史料の上でくみ取れぬような生活形態と心情とを具体的に描き出すことが可能になって来る。わが愛媛県には、まだそのような民俗が豊富に伝承されていることを永く民俗資料の採訪生活を続けて来て私は体感しているのである。以下愛媛の民俗について概観してみたい。

 民俗からみた愛媛県の位置

 本県は四国の北西部に位置し、東は香川・徳島の両県に、南は高知県に接している。また北は瀬戸内海を挾んで広島・山口両県に相対しており、西は豊後水道を隔てて大分・宮崎両県に接している。このため、本県には各方面からの接触による歴史的影響や刺激を受け、生活や文化の面でも相互に交渉をもって来た。
 ことに南予の宇和地帯は、豊後水道を隔てて九州に対している関係上、それへの志向性が民俗のうえでも強かったようである。鎌倉時代の一三世紀末から一四世紀初めにかけて文書や縁起類を総括してつくった「宇佐八幡宮託宣集」に、八幡の大神は、日向の曽唹峯にまず天降り、次いで伊予国の宇和郡に至ったと記している。九州と宇和地帯とを結びつける信仰伝承がつとに存したことを示すもので、瀬戸町三机や八幡浜市の八幡神社の縁起伝承にも九州との結び付きを示唆している。また三瓶町に九州寺の伝承があり、保内町宮内の三島神社の神像は宇佐の相撲人形の影響を受けたものと考えられ、八幡浜市五反田の柱祭りは九州の彦山の山伏によって伝えられた可能性が大きい。
 民俗から見た南予というのはあとに述べるけれども、森正史らによれば伊予市・伊予郡砥部町・広田村・上浮穴郡以南の広域を言うのである。この地域は本県民俗の宝庫であり、伊達藩の関係で鹿踊りのような東北の芸能が移入していたり、信仰伝承では和霊神を始めとする御霊信仰やタタリ神信仰、それに伴う民俗芸能があったり、民俗全般における吹き溜り的存在をなしているのである。
 また本県は高知県と接していることから、土佐との交流も深いものがある。幡多郡・宿毛市などは接触地の故をもって生活面の交流が見られ、一つの経済ブロックを形成していた感がある。東宇和郡城川町の各地に行われていた「花とり踊り」は土佐の「太刀踊り」を移入したものであり、本県の土佐境にはこの芸能が点々と分布するのである。上浮穴郡や西条市の石鎚山麓の村々の伝承でも土佐にゆかりをもつ伝承が多く、住民も土佐から入って村開拓をしたことを伝えている。例えば長宗我部元親の空墓があったりするのである。
 東部の香川・徳島の両県に接する旧宇摩郡は、後で述べるけれども本県の民俗から見て東予とは別枠をなしていると見られる。むしろ香川・徳島の民俗圏に属すると見るのが自然であろう。
 次に広島・山口両県と相対する瀬戸内海に眼を転じてみよう。この地域は芸予諸島とさらに高縄半島部の市町村になるが、一口に言って「安芸型」民俗の影響を認めないわけにはいかないのである。つまり芸予諸島づたいに地方に見られる諸民俗は広島県方面の民俗と共通するものがあり、明らかに南北ルートの文化圏を構築しているのが認められる。すなわちこれも後述するつもりであるが、弓祈祷・奴行列・頭屋制などである。これを芸予諸島型民俗と仮称するとすれば、この民俗は地方にあがって越智郡・今治市・道前平野を貫き丹原町の鞍瀬の谷に及んでいるのである。しかも隣接する小松町とは文化的境界を形成しているのである。
 また瀬戸内海の民俗文化については、これも後で述べるつもりであるけれども、もう一本、塩飽諸島からの東西文化ルートが考えられる。この民俗文化も地方文化に影響しつつ大三島において南北文化と合流しているのであるが、地方にあっては小松町が東西・南北文化の合流点になっており、いわゆる民俗文化接触地点になっていて注目される。
 次は中予民俗文化圏のことである。民俗上から見た中予とは道後平野部分に限定される区域である。民俗上でいう東予は北条市以東の新居浜市を含む範囲であるが、いわゆるもと北温と呼ばれた松山市北部付近は東予的民俗が混入して来ており、いわゆる接続地文化地域の様相も見られるのである。そうなると中予的民俗は松山平野の中の小範囲に限定されて来ることになるので、一つの中予民俗文化圏と見なしがたくなってくるようにも思う。それで東予と南予の間文化圏と見るか、接触地の複合文化圏と見るかなど議論の分かれるところとなろう。

 民俗文化の創造と復活

 昭和三〇年から四〇年代にかけてのいわゆる経済の高度成長時代は民俗の危機時代であった。すなわちふるさと文化の衰退と農村崩壊の危機感があったのである。
 昭和二九年、文化財保護法の一部改正によって民俗資料の保護が推進されることになり、ようやく民俗に対する政治的関心が向けられることになったが、経済成長のあおりを喰って民俗は悪習と見なされ、近代化に逆行するものとして敞履のごとく扱われた。
 その後民俗資料は民俗文化財に格付けられるようになり、民俗資料は、わが国固有の国民生活の推移を知り、またよき風俗慣習等を永く後世に伝えて行くうえに欠くことのできないものであり、またそれは、われわれひとりびとりの日常生活に最も密着したものである、との文化財的観点から調査、収集、保護が叫ばれるようになったのである。
 そのようなことから「民俗資料調査収集の手びき」が作成された。昭和四〇年のことである。以来、民俗調査もやり易くなり大衆化して来て同好者も増大した。
 本県においても民俗資料緊急調査を手始めに県内各地区の民俗資料調査を実施し、その報告書を刊行した。さらには白石知事の提唱する地域主義県政の三本柱の一つ「地方文化の振興」に基づき、地方文化遺産の保存伝承と新しい地域文化の発展を図り、ひいては豊かな人間性と生きがいに満ちた郷土づくりのテーマから、ふるさとの年中行事、民謡、民俗芸能、民俗文化財分布地図の作成などがなされた。
 これより先、本県民俗調査に先鞭をつけたのは森正史である。森は村上節太郎、和田茂樹らとともに「愛媛民俗学会」を設立し、民俗学の普及につとめ、かつ愛媛大学農学部附属農業高等学校に郷土研究部を設け、生徒を指導して県内各地の民俗資料調査を実施し、報告書を出してきた。まだ民俗資料に対する認識など一般になかった時代である。
 ところが現代では学校教育のうえでも、地域に根ざした教育の一環として地方伝統芸能の保存継承に着目し、昭和五五年度から三か年計画で高校生による保存伝承活動が推進されることになったり、義務教育においても「ふるさと教育」が重要視され、郷土読本の編さんや技術体験学習、文化財めぐりなどが盛んに行われるようになった。
 さらに、市町村誌の刊行、歴史民俗資料館や郷土室など民具の収集、展示施設の建設をはじめ、農村高齢者活動促進特別事業による生活誌編さん、あるいは義務教育における民話集、郷土読本の編集など、民俗に関する関心がこのところ急激に高まって来て、諸種の出版物を見るようになったことは、これからの民俗研究に大いに役立つものとして悦ばしいことである。
 これまで省みられなかった民俗が、文化財として、ふるさとづくりの教育資料として、コミュニティづくりに有効であることが認識されて来たことはうれしいことである。われわれは現代社会に生きて来て明らかに民俗が変遷することをこの眼で見、かつ変わるということがどんな意味をもっているかを知ることができたのである。
 そこで、何か失われていくかをよく考えなければならないのである。これをおしとどめたり無理に旧習を復活させようとしても不可能である。時代に生きる民俗はおのずから決まってくるのであって、それは形を変えて復活してくるのである。われわれは民俗の推移を見て、何が生じ、何が失われていくかをよく考えなくてはならぬ。近代生活のなかの民俗の意義をである。