データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

五 大日本婦人会

 大日本婦人会発足

 かねて昭和一六年八月二六日に大政翼賛会本部で大日本婦人会の結成準備会が開かれていた(「海南新聞」八、二八付)、昭和一七年二月二日婦人団体を統合して大日本婦人会として発足することになった。それについて、同年一月二九日の「愛媛合同新聞」は「大日本婦人会の発足」と題する社説をのせ、愛媛県下の女性に自覚を促した。「愛国婦人会は明治三四年(一九〇一)創立、出征兵士に後顧の憂ひなからしめんとする婦人報国団体であり、満州事変後挙国皆兵の精神に則って日本婦人が護国の実践を目的として国防婦人会が結成され、一方婦人の重責である家庭の向上強化をめざして連合婦人会が生まれた、以上のごとく、報国、国防、家庭それぞれの個性をもつのであるが、もとそれらは世界に冠たる日本婦徳からの発現である以上これらが又その一点に帰一することも極めて当然である。(中略)大日本婦人会一千万人の必勝体制整備には絶大なる期待がかけられている。」と県内の婦人団体へ統合の早からんことを呼びかけている。

 大日本婦人会愛媛県支部の発会

 婦人報国運動の中心となるよう期待されている大日本婦人会の県支部の発会を前に新役員が発表された。昭和一七年三月二日、支部長烏谷とみ(元国防婦人会県本部長)、副支部長阿部登美子(元愛国婦人会愛媛県支部副支部長)、顧問には船田操らが顔をそろえた。いよいよ、三月一五日県立松山高等女学校講堂において会員数二五万人を擁する大日本婦人会愛媛県支部の発会式が約千名の会員を集めて行われた。
     大日本婦人会綱領
  一、私共は日本婦人であります 神を敬い、詔を畏み、皇国の御為御奉公致しましょう
  一、私共は日本婦人であります 誠を尽し、勤労を楽しみ、世の為人の為に努力しましょう
  一、私共は日本婦人であります 身を修め、家を斉え、日本婦道の光輝を発揚致しましょう
 右のような綱領を掲げて出発した大日本婦人会がどんな活動をするのか注目されるところであったが、基本的には国防婦人会の路線で進むとされていた。結成から約一か月過ぎた四月二〇日、日婦県支部の運営方針の一環として「国防訓練に関する根本方針」が松山連隊司令部から発表された。
 先ず方針として、「挙国皆兵の精神に基き伝統の日本婦徳を修練昻揚し、特に家庭の強化、就中子女の教育、家庭経済の確立と共に応分奉公以て銃後を確保し、国防完遂の一翼として聖業翼賛に邁進せしむ」のであり、国防訓練はこの趣旨に鑑み婦人が国防上負うべき責務に関し深い理解力を身につけるため行うのであると述べた。次に、
 「一、国防思想の普及に依り国防上負うべき責務に関する理解を附与し之れが完遂に必要なる知徳を養成す
二、日本婦徳の修練昻揚と子女の教養」の「指導実施要領」を掲げた。この中では根本思潮として「兵営には女性なし、されど日本母性の愛と力とは充満す」と示され、「教育勅語並びに軍人勅諭の御聖旨を理解せしめ、国内戦士とし戦士の母たる観念の透徹」、「子女の精神教化と其体位向上」、「応召準備に亘る母性の決意と之れが子女に対する教養」を実践項目としている。つまり、戦争は次第に厳しい情勢になっており、四月にははじめて本土空襲もあった。出征兵士たちが戦死をする確率も高くなっており、銃後に憂いなく戦える体制をつくることが必要になってきたのである。妻の、母の愛情を励みとして戦場へ派兵され、お国のために、愛する人々のために潔く死んでいける子供に育て、自らもそれに耐える婦人となるべく覚悟を持だされたのである。さらに、
 「三、国防上負うべき責務に関連し団体的。(個人的)実践訓練」では、家庭防空の準備訓練(消防消火)、団体訓練、救護法などの実践が加わり、本土防衛の任務に婦人が重責を果たすべく訓練が始まると指摘、
 「四、家庭経済の確立と共に応分奉公を以て銃後を確保す」では、大東亜戦争の完遂のためには、経済上の逼迫による戦意の挫折などなきように、婦人としての強い自覚を持つことを要求している。さらに「欲しがりません勝つまでは」の精神の徹底を要求している。また、慰問・英霊の迎送・勤労奉仕などをあげている「愛媛合同新聞」四月二二日付)。
 同日の新聞に、日婦県支部では衛生法・救急法・瓦斯防護法を会員に指導するため、四月二二日から二か月間松山陸軍病院における瓦斯教育と救急法教官指導講習会に聴講生を派遣したという記事がみられ、国防訓練への第一歩を踏み出している。
 大日本婦人会松山支部はかねて支部長以下役員は決定していたが、ようやく五月三〇日松山国民学校の校庭で支部結成式を行った。幹部会員約一、五〇〇名が参集し、支部長船田操、副支部長栗田ハル子らを先頭に次のような宣誓をして決意のほどを見せた。「私共大日本婦人会松山支部会員一同誠心を以て互いに堅く結び合い温かい心と強い決意とを以て本会の目的とする修身斉家奉公の三大責務を実践し以て皇国婦人たるの真髄を発揮すると共に大東亜戦争完遂の為高度国防国家の建設に力を尽し以て戦時下女性の任務を完うせんこと」を誓い合った。
 昭和一八年に入ると、国防に非協力的な人たちへの避難が新聞にも目立ってくる。一月二八日の愛媛合同新聞は「華美な服装へ総攻撃」の見出しで日婦県支部の活動が取り上げられている。重大戦局下にあるのに、大金と時間を空費して得た電髪(パーマ)、毒々しい化粧と作業に役立たぬ高価な服飾、これらが放任されてよいのか、これらの非時局的風潮を打破するために日婦松山支部では改革運動を起こした。二月八日より松山市内三万人の会員が街頭に出て、檄文五万枚を用意し、街ゆく該当女性に配って猛省を促すことになった。
「一、目障りになる髪の結い方は絶対に排しましょう。一、化粧は目立たぬ程度に自粛しましょう。一、衣服は質素に在り合せで間に合わせ、新調は見合わせましょう。」の三項目を載せた檄文配布には、翼賛壮年団も全面的に協力することになった。
 同年、日婦会員は三二万人に達している。五月に「勤労報国隊整備要綱」が発表され、婦人たちも報国隊を組織した。『喜佐方村史』によると七月に大日本婦人会喜佐方村支部勤労報国隊を結成し、二七三名が隊員となり軽労働に従事した。
 昭和二〇年米軍の土佐湾上陸の可能性の言われるなかで婦人会の防空訓練も厳しさを増し、わら人形を相手の竹槍訓練も始まった。この年度の指導運営大綱では「如何なる場合に遭遇するとも、断じて殉皇の大義に生くるの覚悟を堅持すること」と決意させ、「大御宝として子女を育成し、喜んで皇国に捧ぐること」「小年女に対するお母さん運動を強化すること」の実践を通して日本の母としてなすべきことを強く求められている。この大日本婦人会も同年五月国民義勇隊の結成に伴い、発展的解消して国民義勇隊女子隊として発足することになった。そして、同年八月の終戦により、婦人会活動は中止になった。