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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 火災と海難

 明治期の火災の状況

 消防の組織及び装備が未熟であった明治期においては、火災は大きな被害をもたらした。明治四四年一一月、県は「火災予防ノタメ消防組設置ノ件」(県訓令第五二号)を各郡市町村に達したが、その中で盗難による被害と火災による被害とを比較し、火災による損害がいかに大きなものであるかを指摘している。それによれば、明治四一~四三年度間の盗難は年平均で件数が二、八七〇件、被害額三万二、九九八円余に対し、火災は三〇五件、損害見積額一〇万〇、七九〇円であるとしていた。『愛媛県警察史』の集計によると、明治一三年から同四五年までの三三年間に発生した家屋火災は、一万一、七〇六件、被災戸数一万六、二五三戸で、焼死者一四〇人、焼失面積五七万五、〇三七平方mに達していた。原因をみると、かまどの火の不始末がトップで、以下、たき火及び灰類、灯火、タバコの不始末、炉火の順となっている。

 おもな火災

 〈宇和島須賀通りの大火〉 明治八年四月三〇日午後一〇時過ぎ、宇和島市街須賀通りの士族倉橋一海方から出た火は、おりからの西風にあおられて大火災となり、六時間にわたり燃え続け、翌五月一日午前四時ごろ鎮火した。延焼戸数は百余戸と記録されている(愛媛県紀)。
 〈松山魚町の大火〉 明治一三年一一月一六日、松山魚町三丁目から出火、一〇三軒を焼失、死傷者六人を出した(愛媛県警察史)。
 〈越智郡肥海村の大火〉 明治一四年一月三〇日、越智郡肥海村に大火があり、一一〇戸を焼失した(愛媛県警察史)。
 〈西宇和郡神松名村の大火〉 明治三四年一一月二八日午前一〇時ごろ、西宇和郡神松名村大字名取字里で農家の納屋より出火、おりからの強い西風にあおられて大火災となり、二〇四戸を全焼、午後三時ごろようやく鎮火した。出火原因はかまどの火と推定されている。
 この大火のため、約二百戸の名取部落では、一七八戸八八八人が罹災する惨状となった。警察では、急報に接し八幡浜・松山署から警部・巡査を派出、県警察部からは保安課長らを派遣し、五七戸の仮小屋建設や救護に当たらせた。
 同年一二月二日、天皇・皇后両陛下から被災者に対し、救恤金二五〇円の下賜があった。

 おもな海難事故

 明治期におけるおもな海難事故について、『愛媛県警察史』を参考にしてあげると、次のようである。
 〈水雷砲艦千島の沈没〉 明治二五年一一月三〇日、帝国海軍の新鋭艦千島が釣島海峡を航行中、イギリスピーオー社所有の汽船ラベンナ号と衝突、沈没した。千島艦は、明治二三年一一月二五日にフランスで進水したばかりで全長七一m、幅七・七六m、排水量七五〇t、五、〇〇〇馬力で速射砲一一門と水雷発射管を有する新造艦であった。ラベンナ号が救助したのは、乗組員九〇人のうち艦長心得鎬木海軍大尉ほか一六人で、士官五人・下士卒六八人の計七四人が艦と運命をともにした。愛媛県では、一二月三日に記名漂着品の保管方と漂着死体及び漂着物件の取扱方について、訓第三一二号・第三一三号により指示をしている。
 なお、この事件は、いわゆる「ラベンナ号事件」として国際問題化するのである。日本側は責任は英船にあるとしてこれを海難審判に付したが、当時「日英修好通商条約」下における領事裁判権がイギリス側にあった。横浜の領事審判では、ラベンナ号船長以下全員無罪となった。この審判を不満とする日本政府は、翌二六年五月、ピーオー社を相手どり、横浜のイギリス領事裁判所に五〇万円の損害賠償の訴訟を起こした。裁判では日本側が勝訴したが、こん度は、英社が上海にあるイギリス高等裁判所に控訴、同年一〇月二五日、同裁判所は瀬戸内海を公海と認め、「日本天皇に責任あり」と判決した。このため、国論が沸騰し、問題は政治・外交問題に発展した。日本政府は、イギリス枢密院に上訴して争った結果、ようやく同二八年七月三日勝訴を得たのである。
 〈汽船三光丸の沈没〉 明治三〇年二月四日午前四時二〇分ごろ、風早郡難波村大字下難波字大浦の波妻ノ鼻沖合東北約二・二㎞の海上で、大阪商船会社所有の汽船三光丸(一九八・九六t)が、日本郵船会社所有の汽船尾張丸(六五六t)と衝突、沈没した。この海難事故は、酷寒期の暗夜であったことや尾張丸が三光丸の非常汽笛を感知せず救助活動を行わなかったため、乗客・乗員九三人のうち、六三人が死亡する大惨事となった。
 県警察では、三津浜警察署長が警察船第三愛媛丸で現場に急行し、沿岸住民の協力を得て生存者の救護と遺体の収容に当たるとともに、相手船の捜索を手配した。この事件は、松山地方裁判所で審理され、責任は三光丸船長にあるとされ、過失殺及び航行規則違反の罪で罰金一〇〇円の判決がなされた。なお、二月一八日、天皇・皇后両陛下から遭難者の遺族に対し、救恤金三〇〇円が下賜された。
 〈渡海船明徳丸の転覆〉 明治三〇年四月一六日午前一一時過ぎ、喜多郡長浜町の肱川河口で、激浪のため、渡海船明徳丸が転覆し、乗員二名を除き乗客の旅芝居一座の二四人全員が溺死した。遭難した一座は、座長萩野栄以下二六人で、伊予郡郡中村大字下吾川での興行を終わり、次の興行地である長浜町への渡海の途次にあった。分乗した和船二隻が、肱川河口の長浜港に入港しようとしたところ、干潮による潮流と北風にほんろうされ、沖合三〇〇mの地点で明徳丸が転覆した。当時、沿岸では近村の祭典のため救助船が出せず、長浜警察分署の救助船が出動したのは時遅く、わずかに船頭・船子の二名を救助するにとどまった。その後、沿岸住民の協力、警察船第三愛媛丸の捜索が行われたが、三遺体の収容にとどまったといわれる。
 〈汽船第一早速丸の沈没〉 明治三〇年五月一日午前一〇時三〇分ごろ、広島市早速勝三所有の芸予定期航路木造汽船第一早速丸(一二六t)が、釣島海峡で、韓国政府所有の汽船漢城号(七九六t)と衝突、沈没した。この事故で、第一早速丸の乗員・乗客八六人のうち、乗客二八人が溺死した。
 翌二日、届出を受けた三津警察署では、三津海務署とともに、生存者を乗せて入港した漢城号や第一早速丸の関係者の取り調べを行うとともに警察船第一愛媛丸を出動させ、捜索活動を行った。また警察部では、警部長・保安課長が現場入りし、警察船第二愛媛丸(宇和島)・第三愛媛丸(今治)の二隻を三津浜に回航させて、付近の捜索活動に当たらせた。
 同年七月七日、大阪地方海員審判所は、事故の原因を漢城号の過失によるものと審判した。
 〈明治四二年の南予漁民の遭難〉 明治四二年八月五日午後から翌六日朝にかけて、四国南部地方は台風に見舞われた。台風は、紀州沖を通過、九州中部を横断し東シナ海に出たものであった。当時、高知県足摺岬の沖合はサバ釣漁船が多数出漁中であったため、漁民数百人が溺死、行方不明となり、かつてない惨事となった。八日、御荘警察署から報告を受けた警察部では、警察船第二愛媛丸を南宇和郡から高知県幡多郡の海域に出動させるとともに、南宇和郡佐田岬以南の沿岸各警察署に対して漂流漁船の捜索を命じた。同日、伊渾知事は高知・大分・宮崎の三県知事とともに、呉鎮守府司令長官に対して救援を要請した。呉鎮守府ではこれを受けて、翌九日に水雷艇三隻を豊後水道と高知県海域に急行させるとともに、一二日には駆逐艦初春を加えて遭難漁民の捜索に当たらせた。
 愛媛県関係では、出漁者一三七人中、死亡一七人、行方不明五一人におよんだ。このうち、西宇和郡川之石村関係では、死者七人、行方不明三〇人となり、生存者は四五人であった。また、南宇和郡東外海村・内海村関係では、二二名全員が死亡または行方不明となった。
 翌九日、天皇・皇后両陛下は、愛媛・高知両県の遭難遺族に対する救恤金として、両県に各三〇〇円を下賜された。