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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 寄生虫予防と風土病対策

寄生虫予防協会

 寄生虫病は、終戦後数年間、化学肥料の不足、家庭菜園の増加、駆虫薬の払底などで、検診者の七〇%以上が寄生虫保有者という高い蔓延率を示していた。昭和二四年八、九月に大阪医科大学に要請して県下三六か町村の調査を行ったところ、検診者の八〇%が寄生虫の保有者であることが発見された。
 県衛生部は、保健所を督励して市町村や学校を通じ集団虫卵検査と集団駆虫を行うとともに、昭和三一年六月寄生虫予防協会(会長桑原寛一を組織して検査の徹底と予防思想の普及啓蒙に当たることにした。しかし一般的関心が低いため寄生虫駆除運動は十分な効果をあげず、同三五年には検査人員一一万五、五三八人のうち三四・五%に当たる三万九、九九三人が陽性者で、全国第五位の高率を占めるという不名誉な記録を作った。県の予防課や寄生虫予防会は、寄生虫病が依然として農村病の主因になっていること、衛生知識が高いとされているところでも寄生虫については関心が低いこと、蛔虫用の駆虫薬を飲めば各種の寄生虫にも利き目があると誤解している者が多いことなどを反省して、今後の寄生虫対策は検便率の向上と駆虫指導を重視することにした。昭和三六年から三か年計画で徹底的駆除を行うことにして、この年温泉郡川内町など県下一一か町村を指定して集団検便・集団駆虫に努めた。同三七年には予防課内に寄生虫予防対策連絡協議会を結成して宿生虫と戦う県民運動を展開して県民に検便を呼びかけた結果、同三八年には総人口の四四%に当たる六六万人の県民が検便を実施した。
 県当局や指導機関の努力で、寄生虫保有者は昭和三八年度検査人員の二〇・九%、同三九年度一八・八%、同四〇年度一六・七%と年を追って少なくなった。昭和四一年度からは一層の成果をあげるために各病種別に予防策を講ずることにし、初年度には釣虫(一二指腸虫)モデル地区として伊予三島市ほか一三か町村を、蟯虫モデル地区として越智郡朝倉村を指定して、集団検査と集団駆虫による地域的駆除を進めた。

 肺ジストマとフィラリア症

 寄生虫病と関連して愛媛県の風土病に肺ジストマ(肺吸虫症)・フィラリア症がある。これらの寄生虫による患者は戦前にも存在したが実態のわからぬまま奇病として放任され、戦後になってようやく実情調査・治療指導が行われた。
 肺ジストマの調査は昭和二七年から本格化した。県予防課は、中間宿主であるモクズガニが生息し、一、〇〇〇人以上の感染者がいると推定される南予地方の肱川・岩松川・広見川周辺の総合調査を大阪大学医学部病理学教室に依頼した。阪大医学部調査班は七月南予に入り、カニの分布状況調査、咯痰・糞便による虫卵検査・集団検診による皮膚反応検査、レントゲン撮影を行い、肺ジストマ保持者にはエメチン・ズルファミン製剤を投与した。翌二八年には近永病院をモデル病院に指定し、卯之町・岩松・宇和島・野村保健所の協力の下に臨床研究がなされ、同三〇年には御荘町で大々的な検査を実施して皮内反応陽性者の四五%から虫卵を検出した。
 肺ジストマが喧伝されると、上浮穴郡久万地方にも患者が発見され、さらに昭和三一年には伊予郡双海町上灘で多数の川カニから病源虫が見つかったので、同地区にも相当数の肺ジストマ患者がいるものと推定された。県衛生研究所と伊予保健所が調査に乗り出し、小中学生六〇〇人について皮内反応を試みたところ二九人が陽性で、そのうちの五〇%近くは肺ジストマ患者と考えられた。県衛生部はこれを重視して、昭和三一年に県下の小中学校児童生徒五万一、八六五人を対象に肺ジストマ集団検診を実施し、大洲市と東宇和郡にまたがる肱川、八幡浜市の双岩川、北宇和郡の岩松川・広見川、南宇和郡の僧都川の流域に濃厚な流行の存在を認めた。流行地域の保健所・市町村・官公立病院を母体とした愛媛県南予地区肺吸虫症対策議会が結成され、千葉大学医動物教室に肺ジストマの疫学的研究を依頼した。千葉大学横川教授らは昭和三四年一一月二一日から三日間にわたり津島地区民全員を対象に皮内反応、血清検査、レントゲン検診などの総合的調査を実施、およそ一、〇〇〇人の住民のうち二五~三〇%の者が肺ジストマに感染しているのを見出し、肺ジストマによる人体の影響として、人体に貧血・喀血などによる一般障害を与えていること、脳内・脊髄内迷入によるてんかん症状・知覚運動神経麻痺が存在することなどの調査結果をまとめた。
 県当局は、この予防策として流行地域の川カニ捕獲を進め、住民に「カニを食べるな、カニにさわるな」と呼びかけ、病状の確実な者については地元病院と協力して塩酸エメチン注射などによる治療に着手することにした。さらにビチオノールが肺ジストマの特効薬であることが明らかになったので、国立愛媛療養所に二一名の小中学患者を入所させて臨床治療を行ったところ、全員陰転の好成績をおさめた。昭和三八年からは五か年計画で肺ジストマ撲滅を目標に双岩川・岩松川・僧都川流域をモデル地域に集団検診・集団治療などを本格的に実施し、成果をあげた。
 もう一つの風土病フイラリアは一般に「草ふるい」とか「象皮腫」とか呼ばれ、三崎半島地域に比較的多い寄生虫病であった。県衛生部は、昭和三三年以降東京大学伝染病研究所佐々教授の指導の下に、西宇和郡三崎町瀬戸町・八幡浜市大島などを重点地区として検血を実施し、保虫者にはスパトニシンを投与するとともに、フイラリア子虫の媒介となるアカイエ蚊の駆除のため残留噴霧方式による薬剤撒布を行った。三崎半島住民の集団検診は昭和三六年いちおう終了したが、これにより二万二、八七二人の検診者のうち二一二人(一・五五%)の保虫者が発見された。
 県当局は、この調査状況を東大伝研と共同で「風土病との闘い」という学術科学映画にまとめるとともにその予防撲滅対策の強化を厚生省に訴えた。陳情の結果、昭和三七年に五〇〇万円の国庫補助を得たので、県医師会・陸上自衛隊の応援で、喜多郡・大洲市・上浮穴郡、温泉郡と越智郡の島嶼部、宇摩郡の奥地など六八市町村五九八地区を対象に集団検診を実施し、フイラリア症の分布状態の把握につとめ、保虫地区には一斉投薬と媒介蚊駆除の薬剤撒布を作った。この結果、昭和四〇年には県内には二人の保虫者しかいなくなり、フイラリアはいちおう撲滅した形となった。
 肺ジストマ・フイラリアのほかにレプトスピラ症という風土病があった。南予地方ことに南宇和郡の漁村が感染地帯で、一、二週間発熱し熱黄症の病状を伴うので、「秋やみ」・「秋ぼけ」などと俗称されていた。