データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 医療機関の増設と日赤愛媛支部病院の誕生

 公私立病院

 表3―12は、大正元年から昭和一三年までの公私立病院の病院数を示したものである。大正元年の公立病院は県立松山病院と明治四三年に設立された町立宇和島病院の二院である。翌二年松山病院は日赤愛媛支部病院に移管されたから、大正七年までの公立病院は宇和島病院のみであった。大正八年西宇和郡に町立川之石病院が設立され、同一〇年北宇和郡に村立明治病院・町立吉田病院が誕生したので公立病院は四院を数えるようになった。大正一三年に明治病院は閉鎖され、同一四年に村立俵津病院が加わって、大正一五年には市立宇和島病院・町立川之石病院・吉田病院・村立俵津病院の四公立病院が存在した。昭和二年に俵津病院が姿を消し、代わって同年に町立八幡浜病院が新設されて再び四院となり、以後一三年に川之石病院が私立病院に転換したが、他の三病院は公立病院として第二次世界大戦中も存続した。
 この期の公立病院のすべては南予に位置しているところに特色がある。「宇和島市がまだ宇和島町といった明治四〇年のころ、当時まだこの地方は交通機関なども発達せず、医療衛生の設備などとしても見るべきもの少なく、全く微々たるものであった。然しながら時勢の要求は心あるものをして公立病院設置の必要を痛感させずにおかなかった」(宇和島病院創立五十周年記念誌)「清家吉次郎が町長に就任した翌々年の大正八、九年頃、吉田町に病院を設立したらどうかという声が起った。吉田町と近傍の村々を対象として開業された医師は、明治大正にかけて何時でも七八人はあったが、外科・婦人科というような急速に人命を左右する所のものが欠けているし、又難病・稀有なる病気では郷民は困ることが多かった」(吉田病院小史)と両病院史は綴っている。二つの病院に代表される南予の公立病院は、医師の都市集中の傾向や無医村問題が論ぜられる中で、医療の僻地性克服を意図して設立された。
 私立病院は昭和恐慌を脱した昭和九年ころから顕著な増加が見られる。ちなみに増加前の昭和七年時私立病院の名称・概要を挙げると表3―13のようである。日本赤十字社愛媛支部病院・別子住友病院は別格として、今治市などで私立総合病院が設立し始めた。また昭和五年創設の今治脳病院、同七年新設の松山脳病院など特別専門病院もこの時期に誕生した。松山市の奥島病院は、九州帝国大学出身の医学博士奥島愛治郎が大正三年一番町に開業した医院で、当時開業医での外科専門医は珍しく、おおいに賑わったと言われる。

 日本赤十字社愛媛支部病院の開設

 県下医事衛生業務のセンター的な存在であった県立松山病院は、患者が減少して経営不振に陥った事情を背景に、明治四二年一二月の県会で松山病院廃止の動議が提出され、賛成多数で可決された。この議決を県当局はすぐには採用しなかったが何らかの対応を迫られることになった。
 愛媛県知事伊澤多喜男は、明治四四年一二月県会で病院位置の変更・内部改善などを検討していると答弁したが、大正元年一二月の県会でこれを日本赤十字社に譲渡して愛媛支部にその経営を移管することを
公表した。すでに日赤愛媛支部では支部長でもある伊澤知事の指示で大正二年を初年度とする三か年継続事業の新病院建設計画を明治四四年から策定していた。知事提案が県会で可決されると、支部は大正二年二月一〇日商議員会を開催、県立松山病院の無償譲与を受け四月一日より愛媛支部病院として開院することを決定した。同年三月支部長は支部病院院設立計画承認申請を本社に提出、三月二〇日付陸海軍両大臣の承認を経て本社社長が三月二六日設立承認したので、愛媛支部病院は全国一〇番目の日赤病院として発足した。
 支部病院は山上の敷地から平地の便利な土地に移転することが譲渡交渉条件となっており、県は松山中学校を他に移してその跡地へ松山病院を新設することにしていた。ところが松山中学校の移転候補地が松山市・学校関係者の反対で大きな紛争事件に発展、持田に新校地が決定するまでに月日を要したため、病院の新築移転が遅れしばらく小唐人町の病舎(現東雲学園地)業務を継続した。
 開設した支部病院は、内科・外科・産婦人科の三診療科とし、薬品関係について調剤科を置き、事務処理のため庶務係を置いた。病室は特別室・一等室・二等室・三等室・伝染病室・救助室に区分し、総病床数は県立の時より二床減じて六〇床とした。職員は、松山病院長からそのまま初代支部病院長に横すべりした粒良仙蔵はじめ副院長竹内琢馬ら医師八名、看護婦長俊野イワら看護婦一三名、事務員を含めて四五名であった。支部病院となってからは入院・外来患者共漸増し、支部からの補助金収入や人員抑制などの施策と相まって年々相当の剰余金が生ずるようになった。
 着工が遅れていた新病院の建設は、大正五年六月五二万五、〇〇〇円で五、〇六四坪余の松山中学校跡地を県から購入したことで緒につき、同年一一月一一日第一期工事の本館及び手術室などの建築の起工式を挙行、同六年七月には第二期工事の看護婦寄宿舎等の建築に着手、さらに同七年一一月には第三期工事に着工、同八年一月二八日竣工した。二月一四日約一、二〇〇人の来賓を招待、約八〇〇人が出席して盛大な落成式を実施した。支部病院は三月二六日新装なった二番町の病舎(現NTT社敷地)に移転、これを機に新しく眼科を開いた。
 延ベ一、二五七坪、洋館建てのハイカラな病院は地方としては第一級のもので、新病院に対する県民の期待と信頼は大きかった。大正八年中の患者数は、前年比で入院患者が二四%増の延べ二万一、五二二人、外来患者数は七五%増の延ベ一〇万九、一二二人を算する盛況であった。この年一一月には隔離病室九床・結核病室一三床も完成して結核患者を収容した。翌九年一月X線発生装置を購入、専任レントゲン技師を採用して診断上威力を発揮した。この年、院長に酒井和太郎、副院長・外科医長に永富一衛、内科医長に今川七郎、婦人科医長に浅田弘太郎を迎えて診療陣営を一新したことで、患者数はさらに一〇%以上の増加を示した。このため病室が不足したので、大正一〇年二階建病室一棟三二床を増築、入院は従来の約四〇%増の三万六、〇〇〇余人となった。翌一一年には産科収容室を設けて妊産婦入院保護の取り扱いを開始、産婆養成所も付設された。こうして業績は順調に伸び大正一二年一〇月に耳鼻咽喉科を、同一五年五月小児科、昭和五年四月皮黴科(同八年皮膚泌尿科と改称)を新設し、名実共に県下の医療センターとして成長した。
 日本赤十字社愛媛支部は、昭和二年から無医村の辺地を巡回する診療班を編成、この年温泉郡神和村・安居島・喜多郡青島の島嶼部や上浮穴郡の山村に出動、翌三年には東宇和郡下宇和村・貝吹村・高川村・喜多郡川辺・大谷・宇和川の各村、越智郡島嶼部の関前・亀山・渦浦・鏡・瀬戸崎の各村に出張、一日百数十名を診療して歓迎感謝された。また昭和三年八月温泉郡和気浜で虚弱児童のための保養所を開設して好評であったので、毎年夏季に開くことになった。

表3-12 大正1~昭和13年公私立病院

表3-12 大正1~昭和13年公私立病院


表3-13 昭和7年の私立病院

表3-13 昭和7年の私立病院