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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 結核予防の開始

 愛媛県の結核患者

 肺結核症が死亡率の高い伝染病であることは早くから解っていたが、ドイツのコッホが結核菌を発見したのは一八八二(明治一五)年であった。この年わが国でははじめて結核実態調査を行いその後の対策のないままに結核死亡統計の集計のみ続けられた。愛媛県内結核病者の死亡数は表3―6のようであり、明治二〇年代は一、一〇〇人前後、明治三〇年代は一、六〇〇~一、九〇〇人の死亡を出している。人口一万人に対する結核の年次死亡率は表3―5のようであり、おおよそ二〇人前後の死亡であった。県都松山市の明治三〇年代の死亡数は一〇〇~一九〇人で、対一万人の死亡は四一人と高く、とりわけ明治三三年と同三八年はおおよそ五三人で、全国有数の結核流行地であった。
 これら結核の予防策として明治三七年四月の「肺結核予防に関する内務省令」が挙げられるが、これは喀痰処理を目的として公衆の集合する場所に痰壷を設置すること、痰の消毒、結核患者の居住した部屋、使用した物品の消毒などを命じた極めて素朴な政令にすぎなかった。

 結核予防協会の設立

 大正時代に入ると結核予防はようやく本格化、結核予防協会が各府県に結成された。日本結核予防協会は、大正二年二月政府の後援で北里柴三郎・志賀潔らを発起人にして誕生した。愛媛県でもこれと同じ時期に結核予防協会結成の動きが起こり、衛生課で検討を重ねて九月末に衛生課長林玄吉・松山医師会長添田芳三郎らを委員とする発起人会を開き、以後たびたび会合をもって大正三年二月一六日に「愛媛県結核予防協会規則」を定めた。同規則では、「結核病を予防し之が絶滅を図るを以て目的」として協会を設立し、事務所を警察部衛生課内に置き、会員希望者は一時金五〇銭を添えて申込書を提出、会頭に知事を推戴し副会頭・理事・評議員の役員は会頭が指名するとした。
 こうして準備整ったので、大正四年一二月三日県公会堂で発会式を挙行、会頭に予定された県知事深町錬太郎ら三五〇余名が出席、副会頭に本間警察部長と添田県医師会長を選んだ後、官民一体となって結核予防に努めることを申し合わせた。この発会には、来賓兼特別講師として北里柴三郎・志賀潔の両博士が来松した。両博士の講演会は式典の後午後一時四〇分から三番町の寿座で開催され、志賀が「結核は如何にして起るや」、北里が「肺結核の蔓延及び予防」と題して演説を行い、二、〇〇〇余名の聴衆に感銘を与えた。志賀・北里両博士は翌四日県医師会第二回総会でも講演した。
 この結核予防協会には、県会の決議で県から相当の補助金が与えられ、県内外の財界などからも寄付金が集まったが、一般会員が目標の一万人に達せず、また具体的な事業内容を欠いでいたため、発足当初の数か年の活動は低調であった。予防協会はこれを反省して大正七年一一月に役員会を開き、翌八年から開始する事業として、印刷物の配布・絵画の掲載・講演会展覧会の開催・幻燈及び活動写真の利用などにより結核予防に関する知識の普及を図る、結核患者の実態を把握する、結核患者を取り扱う看護婦を養成し一般看護婦に対しては結核に関する特別講習会を催す、結核患者の居室及び衣服・寝具・器具を消毒するため県内各所に消毒所を設ける、結核の予防治療に関する相談所を設置する、一般開業医師にゆだねて結核早期診断所を設ける、結核患者の保護方法を講じるため結核療養所の早期実現を図るなどを決めた。これら事業の準備金としては県内外の資産家に一〇万円の寄付を仰ぎ、一般会員からも五円以内の寄付金を集め合わせて会員倍増に努めることにした。資金は容易に得られず、会員も大正一一年三月時でやっと一万人を突破して一万〇、三六八人(正会員八、八五二人)となった程度であったが、事業は衛生課の支援と医師会の協力によって次第に振興した。

 結核予防法の制定

 工場・軍隊・学校などで結核が問題視されて来たので、政府はこれに対応して大正八年三月二七日「結核予防法」を制定、一一月一日から施行した。この法は一五か条からなり次のように規定した。
結核菌に汚染された家屋物件の消毒を医師の指示を受けて実施する。業態者または感染のおそれのある場所に住む者の健康診断を実施する。結核患者が接客業に従事することを禁止する。病毒に汚染されまたは疑いのある物件の売買授受を制限及び消毒する。学校病院製造所その他多人数の集合する場所に予防上必要な施設を設ける。主務大臣は人口五万以上の都市その他の公共団体に療養所の設置を命じることができ、その場合相当の国庫補助を与える。療養所には療養の途なき者を入所させる。結核患者で従来禁止措置により生活できなくなったときは生活費を支給する。
 県当局はこれを受けて翌九年一〇月一六日に「結核予防法施行細則」を発布した。同細則は、医師が結核患者を診断あるいは死体を検案したときは警察医の検査に供すること、健康診断を行うべき接客業とは旅館・下宿屋・料理店・貸座敷・理髪店・産婆・芸娼妓・雇仲居・鍼灸按摩術・物貸し業・寄席などとする、医院の病室・患者控室・飲食店・貸座敷・学校幼稚園・孤児収容所・社寺・銀行・海水浴場・公会堂・青年会場・説教所・教会に痰壺を設置する、貧困患者の生活補助費として市街地の者に三〇銭・市街地以外の者に二五銭以内を支給すると定めた(資社会経済下七〇四~七〇六)。

 療養所設置の動きと消毒所

結核予防法が制定された大正八年には内務大臣は長崎・広島両市に対して療養所設置の命令を出し、その後も毎年二、三の都市に設置を指示していた。大正一〇年度に一、三四九人の県内結核死亡者を数え、そのうち松山市は人口一万に対する結核死亡率が四七・一を示して全国一の不名誉を負っていたので、県当局は近く松山市に対して療養所設置の命令が出るであろうと予測していた。しかし内務省からの指令はなく、県・市当局も独力で設置するほど積極的ではなかったので公立療養所は誕生せず、わずかに大正一四年昇田栄・門田稠紀が私財で梅津寺に設立した私立結核療養所(現菅井病院分院)が設立されたにとどまった。また日赤愛媛支部病院は大正八年、二番町に病舎を新築するに際し結核隔離病棟を付設していた。
 結核予防法に基づく消毒所については、愛媛県結核予防協会がその事業の一端として大正一〇年以来県下各警察署・派出所に消毒所を設置し、消毒所長には警察署長・派出所長らを委嘱してきた。昭和三年までに県下に設置された消毒所は松山市・三津浜町・今治市・西条町・三島町・郡中町・大洲町・内子町・長浜町・八幡浜町・卯之町・野村町・宇和島市・松丸町・御荘町・北条町・角野町など一七か所に及んだ。消毒所利用の費用は結核患者使用の物品や患家の消毒はすべて無料であったが、患家の消毒に至ってはほとんど顧みられていないと海南新聞は批判している。

 結核予防の啓蒙運動

 大正末期から昭和初期にかけて結核予防対策として活発に展開されたのは結核予防知識普及啓蒙のための宣伝活動であった。大正一三年二月五日愛媛県公会堂で開かれた四国四県結核予防事務打合せ会では、四国は気象上から保健には天与の楽土であるにもかかわらず結核病が多いのは住民の予防衛生知識の欠乏にあるとの結論に達し、四国四県は協調して啓蒙運動を実行することを申し合わせた。同年一〇月宇都宮市で開かれた第一〇回全国結核予防連合会にはこうした意見が結集され、大正一四年から毎年三月二七日つまり結核予防法が発布された日を結核予防デーとして一大啓蒙運動を全国一斉に挙行することになった。
 愛媛県衛生課と結核予防協会は警察署衛生事務関係者や医師会の役員を交えてしばしば準備会を持ち、予防デー当日は自動車パレードや仮装行列を行い宣伝ビラを配布する、予防ポスターを警察署派出所や目立つ場所へ掲示する、予防しおりを印刷して小学校児童を通じて各家庭へ配布する、結核予防標語を募集して入選作を布に大書して警察署や活動写真館の幕に掲げ、また新聞記事の見出しに使用してもらう、主として接客業者を対象にして医師を講師とした衛生講話会を開く、工場は休業して清掃日に充てる、警察官を動員して飲食店・料理屋・宿屋・活動写真館・工場の衛生状態を検査させるなどの実施要項を決めた。
 予防デー当日、松山市では市内各所で仮装自動車パレードを行い宣伝ビラ五万枚を撒布、婦人会は予防標語のリボンをつけた鈴蘭の造花三〇〇個を作って松山駅前・一番町停留場その他の目抜き通りで通行人に販売、武徳殿や道後松ケ枝町女紅場では衛生講話会が開かれ、各工場とも一斉に休業して大掃除を実施した。各地でも同様の行事が展開されたが、今治市の労働総同盟今治支部員三〇〇余名による示威運動、三津浜青年団の仮装行列、内子町の小学児童による旗行列が衆目を集めたという。
 この日、「海南新聞」・「愛媛新報」とも予防デーの意義を大きく報道して宣伝に寄与した。ことに愛媛新報は〝宣伝記念〟と称して一、二面を結核に関する記事で埋めた。一面には、「けふは結核予防デー 結核は家を亡ぼし国を倒す お互に結核をこの社会から無くしませう」の見出しをつけて、県衛生課長野本正二郎の「結核予防の話」と題する結核の惨害、伝染経路、初期症状、予防事項の詳細な説明を掲載した。二面には県医師会長山内正雄・県薬剤師会長小倉益太郎の談話や「ケッカクの多少は文明の尺度なり」「ケッカクは身を亡し家を亡し国
を亡す」「最善の療法より平凡の予防」「文明の人は路面に痰を吐かず」「肺病の痰は火なき爆裂弾なり」などの格言をのせている。さらに同紙は「結核予防デー」と題する社説を掲げ、結核予防デーは時宜に適した企てであるが、これを行わねばならぬのは社会の人が予防に無関心なのに原因していること、結核は貧困と相関関係にあるのであって、当局者は宣伝ビラをまく外にこの根本的事実に着眼しなければならないこと、結核予防協会の任務は重大であるのに基金意のごとくならないのはこれを支える社会の人々に結核に対する自覚が足りないことを挙げ、結核なき健康な社会を作るべくお互いに努力しなければならないと結んでいる。
 この予防デーは翌大正一五年から四月二七日に変更され、引き続き啓蒙運動の行事が繰り広げられた。予防デー当日に松山市では河原町・柳井町・湊町・道後の各少年団の楽隊を先頭にして市内や道後湯之町を行進して二万枚のビラを配布した。その宣伝ビラには、「空気と日光 ほんに両手に花とはこれよ、清い空気に日の光」「運動水も流れにや汚るが常よ、動かぬからだに虫がわく」「悪習改良 やぼを言はずに改良さんせ、盃やったり貰ったり」「死病 ひらけた医術の手術も知らず、不治の病と誰がいふ」「早期治療 はやく見つけて手しをにかけてやがてうれしい春がくる」といった文句が書いてあった。以後、毎年四月二七日に同様の行事が励行され、次第に県民に結核予防思想が普及していった。
 昭和三年の予防デーの運動計画は、三〇万枚の宣伝ビラと三、〇〇〇枚のポスターを作成して配布する、県下の自動車と馬車・人力車は三角形の結核予防旗を必ず立てる、県下各警察署は四八〇名を動員し、三七台の自動車を使い市町村公共団体その他有志の寄贈になるリーフレット三〇万枚を撒布する、結核予防の宣伝映画を二市七か所の常設館で一般映画の幕間に併映する、県下二〇〇余か所の会場に各小学校・工場・宿屋・湯屋・料理屋・飲食店・貸家主などを集め講話する、民間では医師会を中心に消防組・保安組合・衛生組合・看護婦会・青年会・処女会・主婦会などが応援する、工場はおおむね休業し清掃デーに充てる、宿屋・料理屋などは夜具・座布団の日光消毒を行う、警察署は宿屋・料理屋・飲食店・工場などの一斉取り締まりを施行するなどであった。特に接客業者に対する啓蒙に重点を置き、二七日正午から武徳殿に市内の芸妓・置屋・料理店営業主ら四〇〇余名を召集して、毛利松山署長から結核予防の注意を促し、結核の知識に関する鎌田医師の講演があって盛況であった。同じ日、温泉郡湯之町では午前九時から道後公会堂に湯之町の芸妓・宿屋・料理屋・飲食店・理髪店などの営業者並びに按摩業者らおおよそ五〇〇名を召集して結核予防に関する講演会を開催、毛利松山署長と八束医師が講師になって結核知識の普及に努めた。
 昭和四年の春は、「協力一致、此の亡国病を駆逐しよう」を標語として再び大々的な啓蒙運動が展開された。新聞は、「今日ぞ予防デー 結核の大征伐 全県で宣伝クラベ」「結核は亡国病 痰は火なき爆弾 二七日の予防デーに今治署の宣伝膳立」「結核を退治せよと今日全県で一斉に宣伝 ビラまき、講演、活字など賑ふ晴れ亘る予防デー」「亡国病結核を撃てと全県下の予防宣伝 晴の日曜日大童の活動 ビラまきや講演会」「大童となって結核予防の宣伝 宿屋・カフェーなど一斉取締る 意気込む松山署」「県下をあげて結核菌を総攻撃 鳴物入りの大々な宣伝、今日の予防デー」などの見出しで一大キャンペーンを張った。医師会もこれに協力してこの啓蒙運動の先頭に立った。松山医師会では、松山署の武徳殿で接客業者・一般住民に対し菅井医師が、道後では女紅場で久保医師が講演を行った。今治医師会では医師が分担して各小学校を会場に衛生講話を実施した。
 昭和七年四月二七日の結核予防デーの行事も、宣伝ビラの配付または撒布、ポスター掲示、自動車宣伝、県郡市医師会長らによる講演会開催、宣伝小旗の使用、新聞宣伝、雑誌宣伝、接客業者に対する一大臨検、工場に対する予防思想の普及、臨時清潔法及び消毒の施行、消毒の奨励などであって、従来の方法と大同小異であるが、「懸賞誤字脱字捜し」と称して、結核予防に関する文書のうち誤字脱字などを発見した者に対し賞金を与えるクイズ宣伝法で宣伝ビラの解読徹底の工夫をこらしたりしている。
 このように、結核予防の重点は結核に対する知識の普及のための啓蒙運動と感染隔離・早期発見・早期治療にその目標が置かれた。早期発見のための施設としては、昭和七年に松山・宇和島・八幡浜・角野の五か所に健康相談所が開設して、結核予防と患者の相談指導診察に従事していた。早期診療については、結核予防協会が県医師会を通じて七〇〇名の医師に委嘱、患者が各市町村役場・警察署・巡査駐在所に配布してある早期診断券を持参すれば優先診断を受けることができることになっていた。また貧窮者に結核隠蔽の傾向があるところから、健康相談所で診察した結核患者で医療の資力がない者に診療券を交付、公私立病院・開業医にこれを持参すれば公費で早期診療を受けられるようにした。患者の隔離治療のための療養所のみは関係者の多年の要望にもかかわらず容易に設立されなかった。

 県医師会の結核予防活動

 大正初期から昭和初期にかけて国民運動として展開された結核予防で、県医師会は専門的立場からいろいろ助力した。大正四年一二月の県医師会総会では「結核病予防の目的を以て営業者に対し一ヶ年二回以上健康診断施行の儀」を建議することを決議し、理髪営業者及び同職人・芸妓及び仲居、料理人、菓子製造職その他これに準ずる者は、感染源として特に重要であるので、適当な方法により一年に二回以上健康診断を実施して早期発見に努めるよう申し入れた。同一三年一〇月の県医師会総会では県の「結核予防思想普及徹底に関する意見」を求める諮問に対し「活動写真・講話・ポスター・ビラ・衛生展覧会・新聞雑誌の利用・予防法の小冊子を患者の家庭に配布するなどして予防思想を普及徹底せしむべし」と答申することに決した。なお、この年の総会は、「一般に対する花柳病予防思想啓発に関する意見」「汎く一般公衆に対する保健的運動の奨励に関し、本県に於て適切なりと認むる方法如何」の県諮問に対する答申案審議も行われた。また同一四年三月の総会で「農村保健状態改善に関する意見」答申を求められるなど、結核予防に限らず保健衛生全般にわたって県医師会は県当局から頼りにされた。
 昭和六年四月の総会は、内務大臣が日本医師会を通じて諮問してきた「現下正態の実情に鑑み、急速に実現し得べき結核予防上の適切なる方策如何」に対し、結核に対する知識の普及、個人抵抗力の増進を図ること、伝染の危機を徹底的に防止すること、有効な予防注射薬を完成することなどを答申した。同九年三月の総会では、結核予防の根本は早期発見・早期治療・感染源隔離・消毒を第一義とし、そのためには予防上の施設の拡充整備を行う必要ありとして、結核療養所の設置・結核相談所の充実・委託診療医新設などを盛り込んだ「結核予防法改正ニ関スル意見書」を提出した。また同一五年三月の総会で、皇后陛下の結核予防治療のために御内帑金下賜の令旨に感謝して、結核撲滅に邁進する決意を披歴し、厚生大臣諮問「現下の時局に鑑みこれに対応せる結核予防対策如何」に対して、栄養問題・健康診断・生活改善を中心とした答申を行っている。
 こうして県医師会は、政府・県の結核予防に関する諮間に答え、決議・意見書の形で対策を助言するかたわら、各医師が結核予防デーなどに参加して予防知識の啓蒙宣伝に努めた。県会では、県医師会長山内正雄や山田庄太郎・岩崎虎雄ら医師出身議員が結核予防の強化を訴え、県立結核療養所の設置を迫った。

表3-5 愛媛県年次別結核死亡率

表3-5 愛媛県年次別結核死亡率


表3-6 愛媛県内肺結核死亡数(男/女)

表3-6 愛媛県内肺結核死亡数(男/女)