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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 コレラ・痘瘡

 大正五年のコレラ流行

 コレラは明治三五年の大流行以来鳴りを潜めていたが、大正元年九月九州方面に出漁していた漁民や若松で石炭運搬をしていた船員を通じて本県にもたらされ、越智郡魚島・西宇和郡三崎村・磯津村・喜多郡内子村などで散蔓した。この年患者五二人・死者二一人を出した。
 大正五年のコレラ初発患者はコレラ流行地であったフィリピンのコレラから日本に来た布哇丸の船中に出た。この船は長崎・神戸・四日市・清水の各港を経て七月に横浜に入港したのであったが、八月八日に長崎に五人の患者を出し、一二日に横浜、一四日に熊本・千葉、一七日には東京・大阪・北海道に患者が散発、本県でも二二日温泉郡西中島村で大阪から感染したと思われる患者が死亡した。この患者は、九月一〇日長浜町から和船に竹二〇〇束を積載して大阪着、竹を問屋に売却して一五日安治川口を出発、帰途船中で盛んに吐瀉、苦痛を忍んで二〇日長浜に着き二一日船夫三人を雇って和船を操り中島の吉木に帰ったが、病勢悪化二二日朝疑似コレラ症で死亡した。中島は大騒ぎとなり、県警察部の永富衛生技師・安藤警部補・三津浜警察署長らが警察船愛媛丸で同地に急行した。長浜町でも患者を送った船夫三名を隔離、二三日大消毒を施した(大正五・八・二四~二五付海南新聞)。今治・三津浜港では入港中の船舶下船者にコレラ患者発見の通報で船中大消毒や乗客・船員の隔離、健康診断におおわらわであった。二四目コレラは越智郡弓削島に発生、石炭・塩を積んで大阪に行き安治川支流西成川に繋留した後帰島した船主が一九日から気分が悪くなり下痢吐瀉を繰り返したがそのまま放置、二三日夕方医師を招いて診断を受け二四日疑似コレラと確定すると同時に死亡、長男の幼児も感染死去した。この船主と一緒に乗船した生名島の船員も罹患した(大正五・八・二・八付海南新聞)。越智郡島方のコレラは新居郡神郷村・新居浜に飛び
、二七日には温泉郡興居島沖に碇泊中の船舶から、二八日には高浜にも発生した。高浜のコレラは、佐賀関に出漁していた新浜村新苅屋の漁船が持ち込んだもので、帰途二六日午前一一時ころ船主が吐瀉を始め午後三時船中で死亡、二七日高浜に帰港したところを三津署が臨検して全員の上陸を禁止、検鏡の結果船員の一人が罹病していることが判明したので全員を隔離した。三津浜港では帆船・漁船に至るまで検疫を強化することとし、生魚食用の禁止が県衛生課から市町村に通達された。また松山歩兵第二二連隊では二八日以後在営兵と外来者の面会を禁じた(大正五・八・二九付海南新聞)。
 八月三一日には松山市内にもコレラ患者が発生、市当局は九月五日予防事務所を開設、専任事務員二人を任命して予防消毒に努めさせ、患者発生地域内居住者と関係吏員警察官等一五八名に予防注射を施行した。また、市民に「戦慄すべきコレラ病」という刷物を配布して、過飲過食や生水の飲用を戒め、井戸の修繕、室内外便所の清掃、蠅の駆除、遊泳禁止などの予防心得励行を呼びかけた。興居島では九月に入り鷲ケ巣に一四人の患者が発生、予防撲滅は困難であると案ぜられたが、青年会が立ち上がり部落内の清潔法から四㎞余りの海岸の藻屑まで掻き集めて焼却するという奉仕で、蔓延を阻止することができた。また浮穴村森松や道後村持田でも青年会が清掃や交通遮断の張り番を務めて活躍した。
 猛威を振ったコレラは一〇月になると急速に衰え、一一月をもって止んだ。「海南新聞」一〇月六日付は「悪疫と系統」と題する社説を掲げ、「温泉郡の患者数は今や百五十名を超過し、郡内四十四ケ町村中十四ケ村を除く外は総て其発生を見ざるなきに至りたり」とこの度の流行が特に温泉郡で猛威を極めたことを強調している。その伝染の状況を見ると、生魚その他の食物による伝染五割強、交通または家族関係による患者との接近伝染二割五分、海水の媒介による伝染二割弱と分析している。その系統は、大阪系興居島・西中島村各三人・三津浜町一人、興居島沖大典丸系興居島一五人・三津浜町二三人・生石垣生新浜一四人、これに佐賀関係など十数名の患者を加えて病菌が漸次蔓延伝染して二〇数町村に及んだと、その系統を明示した。論者は郡当局の熱心な調査によって伝染の状態・系統の概略が明確になったとして郡町村当局や警察官の防疫に対する取り組みをほめ、これに反する患者の隠蔽や迷信による町村民の怠慢がコレラ蔓延を助けたと非難した。
 また同新聞一二月一二日~一三日付は「コレラ代十万円」という記事を掲げ、愛媛県がこの年のコレラ流行に要した費用を推計した。それによると、県予防費約一万五、〇〇〇円、市町村費約二万円、国の人件費約一、〇〇〇円、郡費約一、〇〇〇円の計三万七、〇〇〇円で、これに患家の出費を加えると五万円以上になる。またコレラ流行による損害は三津浜魚市場だけで二万円というからこれに高浜・郡中・松前や東予南予の損害を合わせると五万円以上となり、合計一〇万円以上という驚くべき金額になるとしている。この記事の中で郡別に患者・死亡者の数をまとめている。公的な統計書によるこの年の患者数四二六人(うち死者二四四人)よりは疑似患者も含めているのかいささか多いが、表示すると表3―2の通りである。この年のコレラは明治二二年の衛生統計開始以来明治二八年、同二三年に次ぐ三番目の大流行であり、大正・昭和期では最高の患者・死者数であった。

 大正九年のコレラ流行

 八月一九日の「海南新聞」は、「県公会堂に虎疫発生」の見出しで、中等学校教員の検定試験を受けていた新居浜小学校の教員が、一八日の午前九時ころ到着後間もなく通便一回と吐瀉をしたので他の受験生が試験官に報告、医師の診断したところ疑似コレラと判明したので直ちに同人を隔離、県公会堂一帯を交通遮断して大消毒を実施、受験生三〇人も隔離病舎に入れて糞便検査を行った。この受験生患者は一七日に自転車で新居浜を出て温泉郡川上村まで来て宿屋に一泊、玉子とじと胡瓜もみに煮干をかけたものを食ったというので、松山署員が川上村に急行、宿屋付近の大消毒を行った。ちなみに患者はごく軽症なので恐らく回復するであろう、という記事を載せた。
 この教員は疑似コレラであったが、九月六日には北宇和郡に真性コレラが発生、宇和島地方を中心に猛威を振い、西宇和郡・喜多郡・温泉郡と蔓延、年間一八五人の患者を出し、このうち一二三人が死亡し、一一月に止んだ。患者・死者ともに一〇〇人以上を超えるコレラの流行はこの年が最後となった。

 大正一四年のコレラ流行

 今治市新町で仲仕業の男が九月一九日午前二時に発病し、午後零時半死亡、医師の診断の結果、疑似コレラと判明、県衛生試験場で検鏡の結果真性と断定された。折から神戸・岡山地方にコレラが発生しており、県衛生課でもコレラ予防の訓令を発した矢先の出来事であって緊張、新町一帯の住民九〇人に対し検便を行ういっぽう、市内の旅館・料理屋・飲食店の各組合長を集めて、食膳に生魚を出さぬこと、食器の消毒をすること、営業人使用人に予防注射を実施することを申し渡した。しかし二三日には三人が発病うち二人はその日死亡した。隔離療養中の一人は消毒人夫で最初の患者から感染したものと察せられた(大正一四・九・二一~二四付海南新聞)。今治の発病は生魚を食したことによると見られたので、二四日付県報で危険と考えられる越智郡の海域に限り、漁撈・遊泳・海藻採取・河海水の使用及び飼養生魚の販売禁止などを通達した。
 これより先一八日、松山市末広町滞在の三津浜の女性が吐瀉を頻発して重態に陥った。県衛生課で細菌検査をしたところコレラ疑似菌が発見されたので、二一日末広町の付近二〇戸を交通遮断し予防消毒に努めた。この患者は真性コレラと決定され、原因は朝鮮から来た氷詰の鯵に病毒があったものと判明、刺身その他生魚の食用に注意の要ありとして松山市・道後湯之町の料理屋・飲食店・宿屋貸座敷営業者を集め、当分の間刺身魚を客に出さぬこと、蝿の駆除などを警告した(大正一四・九・二一~二五付海南新聞)。また温泉郡東中島村でも女性が発病後一日で二三日未明に死亡、汚物検査の結果真性コレラと確定した。彼女は去る一五日今治に行商に行っているので同地で感染したようであった。今治では消毒人夫や生魚を食べた漁夫などが罹患、二五日には越智郡桜井町にも二人の患者が出た(大正一四・九・二五~二六付海南新聞)。三〇日には越智郡波方村の船員の家族三人が郡中港で鉱石を積み込むために来て碇泊中に発病、糞便検査の結果コレラ疑似菌が発見された。同地の海岸に汚物を流した形跡があるので、伊予灘も危険地帯となった(大正一四・一〇・三付海南新聞)。
 一〇月四日付の「海南新聞」は、九月一九日今治に発生して以来のコレラ病は一七人の患者と一〇人の死亡者、五人の保菌者を出して蔓延中であり、県警察部は秋祭りを自粛せよと市町村に通達したと報じた。また一〇月六日付では、「松山警察署・市役所が協力して、松山市は全く虎列拉病で包囲されている状態である、何時如何なる機会に病毒が侵入するやも計り難く、極めて不安の状態なので、市民は此際自衛的に虎列拉予防に努めることが肝要であるから、六、七の両日の地方祭も例年と異なり、此時節に就ては各自は次の如き事柄を特に注意せねばならぬ、一 生魚料理したる器物は熱湯をかけること、二 祭典の為め客の往来は遠慮すること、三 暴飲暴食は慎しむこと、四 コレラ有病地の旅行を差し控へ又有病地から来る人に注意すること、五 速に予防注射を行ふが肝要なり」といった宣伝ビラを市内各戸に配付して警告していることを報道した。さらに八日付では、松山市の秋祭りは市外の客筋は「松山地方祭には行きたいが行って虎列拉病に冒されてはならぬ」と警戒し、市内の商店は寂れて売れ行きが悪く、三津浜地方も客足がないと、コレラ渦中の秋祭りの寂しさを伝えた。
 その後のコレラは一〇月中旬には伊予郡一七人、喜多郡一一人というように南へと移動する動きを示して心配されたが、一一月に入って終息した。「海南新聞」一一月五日付は「現在では保菌者もなく各郡市共安心の胸を撫でるに至った」と記して、終息を言言した。この年の県内コレラ患者は四八人、死者三三人で、全国第六位の罹患者数であった。郡市別患者数は表3―3のようである。

 大正六年、昭和八~九年の痘瘡

 愛媛県の痘瘡(天然痘)は明治四一年に猖獗を極めて以後途絶えていたが、大正六年に至り大流行した。前年秋香港から神戸に侵入した痘瘡は、近畿・北陸・九州に蔓延し、本県でも一月四日以来二月六日までに西宇和郡で五人、宇摩郡で一人発生、西宇和郡が二六人におよび宇摩郡二四人、新居郡一三人がこれに次ぎ、患者の出なかったのは松山市と上浮穴・南宇和の二郡のみであった。同年中における痘瘡患者は八二人、うち死亡者は一六人を数えた。その後大正八~九、一二~一三年とかなりの患者数を出したことは統計表3―1の示すとおりである。
 昭和三年三月一一日大洲村の製糸工女が発病した。患者は大正四年以来三回種痘を行っていたがいずれも不善感であった。一八日には三崎に発生、伝染経路は別府と推定された。この年の県内痘瘡は五人の罹患者(うち一人死亡)にとどまったが、大分県で一〇四人の患者を出すなど主に九州で大流行した。
 昭和八年四月三〇日、喜多郡南久米村に里帰りしていた八幡浜矢野町の女性の長男二歳の幼児が発病、五月八日朝医師の診断の結果痘瘡と判明した。八幡浜警察署は消毒・強制種痘実施など万全の備えでこれに臨もうとした矢先の九日矢野町吉井部落の三歳と二歳の姉妹が発病した。伝染経路については、別府に在住する姉妹の叔父が妻や長女と共に三月下旬吉井の生家に帰省の後一週間を経た四月一日二歳の長女が発病死亡したことに始まる。その死亡診断書には腸加答児と書かれていたが痘瘡の疑いがあり、また生家の六歳の二女も発病し一〇日前に顔面に痘痕を残して治癒していた。この二女も未痘児であったので、今回の伝染経路は別府であろうと推定された(昭和八・五・一一付海南新聞)。八幡浜の痘瘡患者はその後も増加したが、その中に小学生が二人含まれていて、うち一人は種痘不善感であった。この年の県内痘瘡患者は二〇人(うち死者四人)であった。
 昭和九年に入ると新居郡泉川村に痘瘡が発生した。村当局は直ちに伝染病研究所に痘苗を依頼し、二月三日に入手できたので、四日全村民・小学児童に臨時種痘を実施した。同村高須部落から新居浜の人絹工場に多数の女子工員が通勤している関係から、同工場の職員二、〇〇〇人に対しても臨時種痘を行い、隣接の町村も医師を動員して種痘を実施した(昭和九・二・六~七付海南新聞)。
 その後一旦終息したかに見えた痘瘡は、二月下旬再び泉川村高須に発生し、二月二六日には松山市でも大街道商店員が発病した。時を同じくして温泉郡粟井村では七二歳の老人男女二人が期せずして痘瘡にかかり隔離された。両人とも二月一二日に死亡した粟井村長の葬儀に手伝いとして行っており、村長の息子も痘瘡と診断されたところから、同家について詳細な調査が行われたが、東予との関連性を認めることはできなかった(昭和九・三・四~五付海南新聞)。痘瘡はさらに郡中・五明に飛び火した。特に五明の患者は警察官の検病戸口調査で発見されて真性痘瘡と診断された。この患者は粟井村長と姻戚関係があり、二月二六日輸尿管結石症で死亡した五明村助役も村長と姻戚関係があったのであらぬ疑いをかけられて消毒された。この年の患者総数は二二人に達して前年を上回った。

表3-2 海南新聞による大正5年のコレラ患者数

表3-2 海南新聞による大正5年のコレラ患者数


表3-3 都市別コレラ患者数(大正14)

表3-3 都市別コレラ患者数(大正14)