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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 廃棄物処理

 清潔法の実施

 溝渠・水溜り・塵芥・便所・糞池などの清潔法の励行は、防疫の有力な手段として、明治一二年六月の「虎列刺病予防仮規則」や一二月の「府県・町村衛生課事務条項」で提唱された。本県でも、明治一三年八月二三日の「町村衛生委員職務概目」で、一般の健康に関する諸場掃除及び新築修繕の良否に注意することを挙げ、一一月二九日の「町村衛生委員事務取扱手続」で、市街道路・飲水・下水水道便所肥溜汚物溜・学校病院会社囚獄旅籠屋借家芝居貸座敷湯屋温泉場・市場製造場畜場魚干場の「諸場」単位に掃除改良の清潔法を指示した(資近代2 二一四・二二三)。また明治一六年二月二〇日には「路傍厠せい(囗がまえに靑)取締規則」を定めて、公衆便所の届け出を義務づけ構造基準を図付きで示した(資近代2二四二~二四三)。
 明治二〇年代に至り、町村役場や民間でも清潔法への取り組みが見られるようになった。
 明治二〇年九月、松山市街小唐人町二丁目外二四か町連合戸長役場では清潔法実施委員会を組織した。最初の仕事として地区内の溝を整備し下水を清潔にするため、委員会では陶製の樋管・松板・切石泥壷蓋・石灰などを一括購入して市民に安く分配することにし、同年九月一四日海南新聞紙上で業者に入札広告を出した。しかし、戸長役場が商売をすることはまかりならぬと県から叱られ、九月三〇日に慌てて広告を取り消した。同二二年五月には本町一丁目の町民たちが「清潔法実施規約」を申し合わせた。家屋は床下に至るまで常に掃除し空気の流通をよくすること、井泉は汚泥を凌へもし損所あるときは速やかに修繕を加へ汚水浸透を防ぐこと、厠は時々汲み取らせ糞尿が漏溢しない様致すべきこと、道路又は邸内に沿うた下水路は汚物が溜滞しない様町村内関係の者の協力をもって毎月一回もしくは二回浚渫をなすべきこと、邸内は雨水の溜滞しない様水吐けをよくし乾燥させること、塵芥は堆積しないようにすることといった内容であった。
 こうした町民の動きに対応して、松山市街連合会は、汚水排除のため数千円を投じることと塵芥処理のため囚人雇用を県に請願することを決議した。前者は公会堂建築に流用されてしまったが、後者は県の認可するところとなった。しかし囚徒による塵芥処理は監視上間題があったので一年足らずで中止された。明治二二年一二月の松山市の誕生とともに市街の環境衛生は市役所衛生課が担当することになり、同二四年から車三台でもって市内の塵芥を集めて立花町字木小屋口、三津口町字三津口、御宝町出口など所定の場所一〇か所に運び、農家に肥料として分与した。さらに同二六年市内六六か所に公共便所を設け、同二七年八月には蒸気消毒器を購入して市内各所の溝渠を掃除することにした。
 県当局は、伝染病流行の際には消毒的大清潔法を行うよう訓令してきたが、清潔法を定期化するため明治二九年四月一一日「清潔法施行規定」を定め、清潔法を定期・臨時の別に分けてその実施内容を指示した。つまり定期清潔法を一月から三月の間に、臨時清潔法を伝染病流行の際、あるいは流行の兆しある時にいずれも市町村長の指令で施行する、清潔法は家屋・建具・畳敷物・家具・衣類・夜具・井泉・下水路・塵溜・便所・汚水溜・納屋・厩牛舎などに実施する、家屋は天井・鴨居・棚・床板などのちりほこりを払い、柱・敷居・縁などを拭浄し、床下はちりほこりを掃除した後、湿気を除くため乾いた砂か石灰を撒布する、畳・敷物・建具・家具・衣類はちりほこりを払い日光にさらす、井泉は泥を出し傍らの洗場などを修繕する、下水路は破損を修繕し水路をさらえ石灰乳で消毒する、塵溜は清潔に掃除し塵芥を焼却する、便所は清水で洗滌し石炭酸水石灰乳で消毒する、納屋・厩牛舎などの清潔法は家屋に準ずる、公共に属する下水路や水溜などの清掃は市町村で施行することなどについて規定した。同日、郡市役所・町村役場・警察署に対し、「清潔法施行規定細則」を布達し清潔法の施行区域、期日は市町村長、警察署長が協議して定め、衛生組合長に命じて清潔法実施要領を住民に懇示させる、清潔法施行の際は市町村吏員が指揮監督に当たり衛生組合長が督励する、市町村長・警察署長・郡吏は清潔法の実施状況を臨検するなどを指示した(資近代3 一二五~一二六)。

 汚物掃除法と掃除監視吏員の配置

 府県で清潔法の励行が進められている時、政府は主として都市とそれに準ずる町村の環境衛生を改善することを意図して、明治三三年三月六日「汚物掃除法」を制定公布した。この法は、汚物とは塵芥、汚泥・泥水・糞尿をいうと定義し、市内の土地所有者使用者と市に汚物を掃除する義務を課し、汚物の掃除と清潔保持の方法及び施設に関する事項は市当局の決定にゆだねると定めていた。ついで、これの付属法規として「汚物掃除法施行規則」を八日に、「掃除監視吏員の組織権限」を九日に公布した。
 本県は、同年三月二二日、これらの法の適用地域として松山市・越智郡今治町・温泉郡三津浜町・北宇和郡宇和島町を指定、これらの市役所・町役場の衛生課に掃除監督吏員(監督長一人・監督一、二人)を配置、巡視人(市六人・町二人以上)を雇用することを命じた。また掃除巡視人には年齢二一~五〇歳の志願者の中から刑法衛生法規に通じ、文章をつづり算術加減乗除をなし、楷書行書を書き得る者を採用し、絶えず市街町内を巡視して汚物掃除法の遵守と掃除の励行をよびかける、視警簿に巡視事項を記し掃除監督吏員の検閲を受ける、廉恥を重んじ謹慎懇切であること、職務に関し慰労または謝礼などを受けてはならないなどの服務規律を課した。ついで、翌二四日指定市町村に「汚物掃除法施行細則」「汚物掃除法施行規則同細則取扱手続」を布達、溝渠を築造する者は漆喰または不浸透質のもので造り、周辺を地盤より高くすること、溝渠の汚水を公共溝渠に排泄する装置は暗樋とすること、工事落成の際は使用前に市役所・町役場に届け出て検査を受けること、塵芥容器は木材または鉄などで造り、覆蓋を設けること、市町村は掃除義務者の集めた塵芥を一週三回以上排除する方法を講じること、市町村で塵芥溜・塵芥焼却場を設置するときは場所・構造・仕様書を添え県庁の認可を受けることなどを指示した(資社会経済下 七二六~七二七)。なお、掃除監督吏員・巡視人の服装は、六月九日の布達で明示された(図2―1)。
 これらの汚物掃除法規に従って、松山市は九人の掃除監督吏員と巡視人を任命した。塵芥取除け焼却については業者に請け負わせ、毎日人夫六人以上を出し日々各所を巡回させて、三日ごとに市内を一周させる契約を結び、塵芥汚泥の置場及び焼却竃を四か所に設置することにした。しかし業者の請負が巧く進行しなかったとみえ、同三五年塵芥蒐集人夫八名、溝渠人夫四名を常雇して、隔日の塵芥処理と一か月ごとの溝さらえに従事させている。この常雇制も掃除人夫の備えが十分でなかったためその成績上いまだ遺憾の点が少なくない(松山市事務報告書)として、明治四二年から塵芥収集を再び業者に委ねている。県衛生技師矢野静哉は、松山市の下水排水が十分でないため土地が湿潤し汚物を止め、汚物が腐敗醗酵して市街至る所一種異様な臭いを発し、蚊の発生や伝染病毒の好適地となっていると新聞(明治四一・一〇・二〇付け愛媛新聞)紙上で指摘しているように、不衛生な環境のままに放置されていたのが実態であった。
 屎尿処理については、県は明治三八年二月四日に「屎尿汲取運搬取締規則」を定めて運搬容器・用具などを規制し・当分松山市・道後湯之町・三津浜町・今治町・宇和島町に適用することにしていた。

図2-1 掃除監督吏員・巡視人の服装

図2-1 掃除監督吏員・巡視人の服装