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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 コレラ

 明治一〇、一二年の流行

 幕末に猛威を振るったコレラは、明治一〇年から一二年に大流行して多くの死者を出し、防疫体制を成立させる契機となった。
 明治一〇年七月中国の廈門で流行したコレラは、九月長崎に入港したイギリス船によってもたらされた。同船の水夫二名がコレラで死亡、その埋葬に立ち合った日本人から患者が続出、長崎から熊本・鹿児島に広まり、これが西南戦争に従軍した兵士によって急速に全国に伝播した。明治一〇年一〇月一八日付の「海南新聞」は、「県下高松にてはコレラ病追々伝染し、本月一日より一〇日までに二四名発生し、中一二、三名は鬼籍に入りたり、多くは鹿児島より帰りし兵士の由」と報道しており、一〇月には県内にも蔓延しはじめたことが知られる。
 愛媛県は明治一〇年一〇月六日付布達で「鹿児島県下桜島其他横浜神戸長崎等ノ各港ニ於テ虎列刺病流行之趣ニ付当県ニ於テモ予防方ニ着手候」と防疫の開始を宣言、コレラ病感染の兆候ある者は最寄り警察署に速やかに届け出、「門口へコレラ病者アリト大書シタル紙札ヲ貼付」して出入を禁ずると指示した。同月一四日には消毒薬石炭酸について、「該病ヲ恐ルノ余り服用シテ其毒ニ当リ」「小瓶ニ貯へ鼻へ嗅キ候」など用法過誤の趣があり、元来劇剤であるのでみだりに使用販売しないよう注意した(資近代1 六一〇)。
 政府は八月に太政官布告「虎列刺病予防心得」を出し、患者の届出・報告・隔離・船舶の検疫・交通遮断など諸種の制限事項・消毒法・予防上励行すべき諸行為について規制していた。本県は、一〇月一二日付布達でこれを伝達、その中の「各自に注意すべき養生法」では、胃腸の健康な者は感染することまれであるから流行に際しては飲食を節用し過労を慎しめ、食料は穀物・牛羊鶏の鮮肉・馬鈴薯のような澱粉を含む根菜類が良く、十分煮蒸焼炙等の調理を経ること、果物の不熟なものは忌むべきこと、飲水に注意し衣服を清潔に冷浴を避けること、コレラ患者の見舞いを避けること、やむを得ず見舞った後は石炭酸水で洗浄すること、などと記していた。これに付随して県は、一〇月中に「虎列刺病予防ニ付示達」とか「虎列刺病者取扱方」などを出して、患者届け出を怠った家人は無給で近隣避病院患者の看護人を申し付ける、感染者は速やかに避病院に入院、避病院・病家に入った警察官・医員は厳重に消毒すること、死亡者は深夜埋葬し触れた品物を焼却すること、などと指示した(資近代1 六一〇~六一一)。
 こうした指導も実際に当たっては功を奏さなかった。宇摩郡上分村(現川之江市)では、一〇月一二日宿屋渡世石川方で高知県に向かう途中の長崎県士族某がコレラ病の疑いありとの申し出で、上分村組頭合田多玄次は川之江分署・三小区医務所に届け出、二等巡査松本翁や合田らの立ち合いで、石川馬陵・高橋健斎の両医師が患者を診察「下痢甚シク米ゆすぎ(さんずいに甘)汁之如キ汚物ヲ下シ脈沈微手足厥冷嘔吐シテ
渇ス」と劇症のコレラ病と断じたので、字城之谷という人家より七、八町離れた所へ仮小屋を夜通しで設営翌朝患者をそこに移して隔離した。その後患者も快気に向かったので松本巡査・合田組頭とともに実地点検を等閑にしていたところ、二〇日に松山病院医員今井鑾・西条警察署警部代理二等巡査拝志義虎が実地点検、仮小屋に設けた便所の汚水が近くの谷川に流れ込んだことが推測されるなど「不都合尠ナカラス」と指摘された。このため、第八大区(宇摩郡)区務所は区内に生水の飲料使用を禁ずる布告を出すなど非常時態勢を施いて大騒ぎとなり、松本巡査と合田組頭は「自己ノ不注意ヨリ不都合ヲ醸シ候段深ク恐縮ノ至リ」と進退伺を提出する始末となった。
 一〇月二四日に県衛生科が発表した伊予国コレラ死亡表によると、第八大区(宇摩郡)一、第九大区(新居郡)一、第一三大区(温泉郡など)一、第一六大区(喜多郡など)二の計五名となっているから、第八大区では先の患者が死亡したのであろう。同月三一日付の本県(讃岐・伊予)コレラ病患者は旧患一八・新患三〇、うち全癒一・死亡二五となっており、現患者二二、うち劇症一四・緩症八で、「劇症ニシテ危篤ノ者至テ多ク緩症ニシテ快癒ノ者甚タ少シ」と報告されている。一一月一五日の「予讃虎列刺病新旧患者死亡及全癒表」を見ると、患者二四人のうち死亡一一・全癒三・治療中一〇で治療中の者も追々回復に向かいつつあるとあって、やや病勢の衰えた様子が窺える。
 コレラの流行がようやく治まった同年一二月の第二回医事会議には、今回の防疫上の体験に基づいて「悪病流行ノ節予防普及」の議案が提出され、海港に検疫所・避病院を設置する、医師を予防掛にあらかじめ委嘱しておく、予防薬を各大区医務取締の居宅に準備する、予防療治活動で医師が病毒に感染死亡した場合には相当の手当を支給するなどが決められた。
 ところが、明治一二年三月に愛媛県を中心にコレラが流行するという非常事態に直面、県当局は試練に取り組言わばならなかった。「一二年中虎列刺病ノ県内ニ流行シ惨害ヲ逞クスルヤ実ニ三月ニ始マリ十二月ニ逗リ、其間感染ニ罹ル者無慮壱万四千四百余人ニシテ死亡スル者九千弐百余ニ上リ、二百八十有余日間人々其生ヲ聊ンセス、為メニ流離困朦ノ悲況ニ陥ル者亦尠カラス」と明治一三年二月四日付県布達で報告(資近代1 八一九)しているように猖獗を極めた。本県のうち伊予国は患者数五、二〇九人・死者三、三六二人というのが統計に現れた数であった。これを郡別に表示したのが表2―1で、松山を中心とした温泉郡和気郡や西条以東の新居郡宇摩郡などで大流行している。
 和気郡古三津村(現松山市内)では隔離病者三三人うち死亡一七人のコレラ患者・死者が出て八月上旬まで続いた。この間、七月「コレラ流行ニ付和気郡古三津村久枝学校当分休業仕候」と小学校休校の措置が取られ、五日付の県告諭に「方今虎列刺病流行既ニ県下ニ於テモ之ニ罹ルモノ殆ント千人、十ニ八九ハ死亡ニ立至リ尚追日蔓延シ目下溽暑ノ際此先如何卜想像ニ堪ヘス、勉メテ自治ノ策ヲ建サレハ竟ニ人姻ヲ絶ツニ至ルモ計リ難ク実ニ恐懼ノ至」りであるので、各町村ともに臨時会などを開いて対策を協議せよというのに応えて、村内を一二組に分けて予防係二名ずつを置き防疫に当たらせることを村会決議として報告している。コレラによる死者の埋葬については、「当村内ニ於テコレラ病ニ罹リ斃ルモノ之レアル時ハ兼テ相定メラレタル温泉郡別府村字弁天山埋葬地へ引埋メ来り候処、同所ノ儀ハ数名ノ死者ヲ埋葬致之レアルニ付テハ堀穴夫運搬夫ノ者等万一臭気ヲ嗅キ夫力為感染スルナキニアラスヤト恐怖候ニ付、自今後村内ニ於テコレラ病ニ罹り死スル者ハ当村字北山平風谷共有地ヲ墓地ト定メ該所ニ埋葬致シ度」と、感染を恐れ一般墓地でなく人家と離れた共有地を墓地と定めたいと伺い出た文書もある。
 コレラ病の埋葬地や避病院を設けるについては地元民の反対が強く各地で紛擾が起こった。温泉郡役所は衣山村民有草山をコレラ病埋葬地に充てようとして村民に示談したところ種々苦情を唱えて買い上げ交渉が容易に進まなかったし、今治町ではコレラ死亡者を近見村字石井に土葬していたところ村民が憤激してこれを阻止したという。県は死屍の埋葬地は流行急劇の際であったのでその場所の将来の利害について十分な調査をしなかったとして、コレラ終息後官吏に点検させたところ、「或ハ水源ニ関スル有リ、或ハ壊崩ノ惧アルアリ、或ハ海岸河川ノ附寄洲等ニテ逆潮洪流ノ為メ流失ノ患アルナリ」といった粗雑な有様で、甚しいも
のは消毒法を施そうとしたが、多額の費用を要するので容易に着手しがたい状況であった。県は土葬はいろいろの弊害があり火葬がよいとして、官立火葬場を久米郡朝生田村堤塘内空地に求め臨時金一、二三〇円で建築した。各所に設置された避病院も「事急劇二属スルヲ以テ、或ハ粗造ノ新築ナルアリ、人家ノ古物ヲ以テ之ニ充ツルアリ、一モ完全ナルモノ在ルナシ」で、ほとんどを破棄焼却させたと、「明治十三年県政事務引継書」は報告している(資近代Ⅰ 八二〇~八二一)。
 当時松山病院で医学修業中であった医師藤井雅郎は、コレラの防疫指導と診療のため西宇和郡を巡回した。その『西宇和郡巡回病床日誌』から、コレラ病蔓延下の民情を見よう。
 藤井医師は六月六日三津浜港を出帆、一度九州に渡って佐賀関から八幡浜へという船便によって西宇和郡に赴き、八日日土村で患者一九名を診察した。一名は難治、一八名は全治の見込みと診断、郡内では日土村が最も患者が多く四〇名に及んでいるので、村民の食料を問うと、上産の者は麦七分米三分を平食とし、中産の者は麦蕃薯或いは玉蜀黍等分の物を食い、下産の者は玉蜀黍甘薯など食すとの答えであった。未熟の麦や蕃薯などを平食とするのではこの病の跡を絶つことは難しいと考えた藤井医師は、戸長・組頭と協議して有志者を説いて八一円の金品を募り貧民に貸与して、新麦甘藷などの悪食を禁じた。九日川之石浦へ出張、同浦は患者五名うち三名死亡、全治一名・未治一名で、未治者を診ると、「脈指頭に応し難く体温摂氏三三度二歩、四肢転筋、皮膚弾力を失し人事不省にして甚だ危険の症」であったので、検疫医安部貞諒と相談して調薬を考慮したところ快方に向かった。一一日、大久浦に出張、同浦の患者数一三名、うち死亡八名・全治二名・未治三名、三名を診て、柿下医師と相談して薬を投与した。藤井医師は巡回の感想と防疫応急処置を次のように記す。「人民の頑愚、実に言語に絶えたり、警察官吏或いは医員を見れば、家に去り戸を閉し潜伏し、巡査、医員出張するとも更に投宿するに家なし、依って村外に馬捨場あり、該所へ医員出張所を設く、人家を隔る事五六丁、茲に使丁の設けもなくして、医甚だ困難、因て村民を招集し、朝廷の御趣意を諭し、兼ねて虎列刺病原因の懼るべきを主とし一昼夜説諭を加え、漸く朝廷恩沢の深さを悟解銘心す、依って有志の者に金員を募らし、非常予防の救助金を設く、」
 一二日には三机浦に赴き、一四日宮内村、一八日野田村に出張、これらの村浦には新患者はいなかったので、戸長と議し村民を招集して説諭を加え、非常予防救済金を募集した。このように、藤井医師はコレラ患者の手当をしながら、貧困による粗食が悪病蔓延の原因になっているとして募金救済を企てたりした。
 患者に接触する医者は感染するおそれは十分にあった。防疫に従事した医事で殉職した者は筒井周平外四名に達していた。七月一〇日付の県令告諭が、「医中ニ一種ノ悪幣ヲ生シテ徒ニ病ニ托シテ之ヲ顧ミス、故ヲ以テ往々医ノ一診ヲモ経スシテ鬼簿ニ登ルモノアルノ風聞之レアリ、実ニ駭クヘク又歎スヘキノ至ナラスヤ、夫レ医也者ハ人間司命ノ任ニシテ常ニ仁恕博愛人ノ信託ヲ受クヘキ身分ヲ以テ斯クノ如キ怯懦鄙劣ノ所業ナキハ呶々ヲ待タス」(資近代1 八一二)と述べているように、診療を忌避する医者も少なくなかった。
 また警察官は管内に伝染病が発生すると、患者の隔離、清潔法の実施、死者の埋火葬、汚穢物の焼却埋設の監督など防疫の陣頭に立たされたので、医者同様職に倒れる者がいた。一二年のコレラでは松山警察署管下の久米地区鷹ノ子分屯所に勤務していた巡査水野忠家が予防救治中に感染、七月六日に亡くなった。一二年のコレラの発源地が松山といわれただけに県令岩村高俊の心労も大きく、防疫に日夜尽瘁しているうちに七月下旬罹患、七月二九日引籠りを宣言して二〇日間の闘病のすえ快癒した。
 コレラの流行が頂点に達した七月には県布達は防疫関係で占められた。この時期には政府は各県のコレラ予防体制の指針となるべき体系的法規を制定していなかったので、県ごとに防疫体制の格差があり、全国的な防疫網を敷く上で不備であった。衛生事務を所管する内務省はこれを是正するため、同一二年一月にコレラその他の伝染病予防法規を草案し、その制定方を太政官に上申していた。この公布を見ないうちに明治一二年のコレラ大流行が始まったから、予防法規中コレラに関する部分を抜粋して六月二七日「虎列刺病予防仮規則」として発布した。この仮規則は、検疫委員の設置、避病院の建設、患家の標示、患家などの交通遮断、汚物物件の処分禁止、清潔、消毒方法の施行、患者の死体の処置、官庁学校における予防方法などについて規定したものであった。本県はこれを七月一三日に県内に伝達するとともに「虎列刺病予防仮規則公布ノ旨趣心得方」を示した。この心得方は、貧困者でコレラにかかった者の夜具や衣服は買い上げること、患者の吐瀉物病毒に汚染した物品の埋設焼却消毒は取扱い人夫に託すること、患者を病院に死者を埋葬地に運搬する場合は患者または死者を戸板にのせ病毒の散乱しないよう四方にこもをまとい、正規の小旗を立て、運搬人はよく消毒すること、消毒薬は最寄りの売さばき店で購求する。ただし貧困患者は戸長に申し出て施薬切手をもらい無料で薬品を受け取ることなどと指示した(資近代1 八一三)。
 ついで、七月一八日には県民を対象に「虎列刺病予防心得方」を諭達、「方今虎列刺病流行スルニ於テハ其毒えん空気中ニ散漫シ人々孰力此気ヲ呼吸セサラン、然ルニ常住坐臥ヲ同フスルモ尽ク之ニ感染セサルモノアルハ平素摂生予防ノ至ルト至ラサルトニ因ルハ論ヲ待ス、夫レ摂生スレハ虚弱ノ人モ感染セス、摂生セサレハ健剛ノ人モ亦感染ス、」として、予防の注意「一ツ書」を示した。一つ書きとは、各自養生すること、甘瓜西瓜の類を食べないこと、古い魚介鳥獣の肉を食べないこと、汲み置いた水や雨水を飲用しないこと、過度の閏房を慎しむこと、冷水浴及び遊泳をしないこと、住いを清浄に空気の流通を良くし汚物塵芥糞尿などの掃除を怠らないこと、患者に近付かないこと、旅行の際は石炭酸予防を行って出発すること、コレラ病と疑われる時はその人を安臥させ湯で身体を温めること、吐瀉が激しい時には新鮮な辛子細末三握りを湯で練り布で腹部脚掌に数時間貼り付けること、僻地のため直ちに医者を招くことが出来ない場合は戸長役場より丸薬をもらって服用し医者を待つこと、といった内容であった(資近代1 八一三~八一四)。
 各郡役所は、相次ぐ県達を受けて防疫に大わらわとなった。野間風早郡役所は、七月一日、郡内の北条・菊間・波止浜・島嶼部諸港に入船の者は本月五日以後、「医員ノ診察ヲ受ケシメ感染ノ憂無之ト認メ」た″健康証〟を提示しなければ上陸を許さず、宿屋営業者もこの証書のない者は宿泊させてはならないと郡内戸長役場に指令した。七日には、当県内各地において虎列刺病益々蔓延の勢いであり、既に当管内風早島のごときは一時消滅したけれども、近日に至ては続々再発して辻・別府・浅海・種などの四村に侵入し、自今の勢いでは各村落に及ぶのも計り難い状況にあるので、「目前該患者ノ出頭スルニ至り狼狽予防ノ道ヲ請スルモ已ニ一歩ヲ後レ候事故其効未ダ発セザル以前注意スルニ如ズ候間、既発未発ノ村方ヲ問ハズ猶一層注意致シ、侵入ノ憂ヲ防ギ蔓延ノ道ヲ絶チ候様精々尽力致シ各人民ヘモ漏レザル様説諭ニ及ブベシ、」と、郡長長屋忠明名で戸長役場に注意を促した。合わせて、万一村内にコレラが発生追々蔓延の勢い益々盛なる時は教員と諮って小学校臨時休校の措置を取るよう指示した。九日には消毒薬石炭酸の無益な撤布を戒め、一〇日には屍体はなるべく火葬にするよう説諭せよと命じ、一一日には貧困な患者は官費で療養手当を支給するから不都合のないように取り計らえとした。また一〇日には七月五日付の県令告諭を伝達して、「主旨ヲ体シ予防普及候様精々尽力致ス可シ」と戸長を励ました。七月一三日付で「虎列剌病予防仮規則」や同旨趣心得方が布達されると、同郡役所はこれに付随して、二九日に「当村に虎列刺患者あることを知れば直ちに検疫委員に報知し専ら予防消毒に注意し他への伝播を防止すること、患者の家族は患者治癒あるいは死亡の後は十分に消毒法を行い、一週間経過の後検査委員の認可を得たものでなければ他人と交通を許してはならない、吐瀉物あるいは病毒に汚染した物品を埋却焼却するには毎日二回検疫委員の定めた場所で焼棄すること、人夫は一日金五拾銭以内であらかじめ雇い入れて置き追て病家から取り立てることといった郡達を出した。同様の防疫に関する郡指令は越智郡役所の郡達などにも見られる。
 明治一二年のコレラ対策に追われた県当局は、コレラ終息後頻繁に出した防疫関係例規の整理を行い、明治一三年六月四日「虎列刺病予防心得」を制定公布した。この予防心得は、戸長は医師の届けを受ければ速やかにその病家につき予防消毒の方法を懇諭すること、かつ同時に郡長及び最寄り警察署に届け出なお接近町村の戸長にも通知することといった発病者通知の事、郡内発病の地名及び病者死者の人員などを毎日郡長は相当の場所に掲示するを要す、戸長は接近の地方に虎列刺病発生の通知を受けたときには予防の方法を説諭し、侵入の後に及んでは病家に親接して患者の引き分け方吐瀉物の始末及び消毒の方法などを懇切に周旋せよ、警察官吏は発病者の報あるときには直ちにその門戸に病名標を貼付し、外は往来物品の出入吐瀉物汚穢物などの放棄方病者死者の運搬もしくは火葬埋葬など相当の取り締まりをせよ、治療は専ら各自信用の医師に任すべしなどの管内に発病者が生じた時の処分の事、流行の兆しがあって避病院又は仮病室を要する見込みがあるとき予めその町村あるいは連合町村の協議をもって用意をせよ、避病院の位置は人家に接近せず運搬の便のよい地を要し井泉河流の近傍あるいは往来の多い路傍などに設けてはならない、避病院を新たに構造するときは床を高くし壁に代えるに板羽目を用い洗浄に便にせよ、避病院は重症軽症及び回復期の病者を区別して分隔、四畳に一人を置くを常とし、別に清浄な屍室を設け患者が死亡したときは直ちに屍室に移し決して病室に置いてはならないなどの避病院位置構造の事などを示した。このほか、自家療養避病院人区別の事、避病院中取扱方の事、避病院病者退院の事、病者死亡など運搬の事、火葬埋葬の事、流行地よりの船舶検査及び陸揚荷物の事、浄除清潔法の事、消毒薬の事など具体的に指示している。この虎列刺病予防心得によって、愛媛県ではコレラに対する予防体制が法制上整ったといえよう。

 明治一九年の流行

 明治一八年インド・中国各地に流行したコレラの病菌を七月に澎湖島から長崎に直航した船が運んで来た。長崎から九州一円に広がったコレラは中国から京阪・京浜にまで及んだ。さらに翌一九年には大阪から四方に広がり、広島・愛媛・新潟・神奈川・東京・秋田・青森の各府県に多くの患者を出した。本県は、五月一〇日付で近接府県並びに当県において虎列刺病が発生したので、この際吐瀉の二症を兼発した患者を診察した主治医は即刻その病名症候を詳記して、最寄り警察署・分署もしくは郡役所に届け出ることを指示した。同月一五日には、今やまた県下において東は大内寒川多度西は和気温泉伊豫などの諸郡に点々散発し、ようやく蔓延の兆しを顕した、「時気温暖ニ及ヘルヲ以テ宿年ノ余毒何レノ地方ニ潜伏スルアリテ如何ナル惨毒ヲ呈セン乎、深ク懸念スル処ナリ、」「目下ノ勢ヲ以テ推ストモハ又十二年ノ如キ大惨状ヲ再演スルモ図ル可ラス」と警告、「各自宜ク此意ヲ体シ老ヲ護り少ヲ諭シ、専ラ摂生清潔法等此際一層厳戒スヘシ」と県令関新平名で告諭した(資近代2 三五七)。また、鰯・蛸・蟹・エビザコ・イカナゴなどの販売を禁ず。当分の間神仏祭典・劇場などに人々が群集することを停止する、衛生上有害の飲食物販売を禁ずなどの通達を出し、六月九日には県庁内に検疫本部を設置した。検疫本部は一一月一八日にコレラ終息宣言をして閉鎖されたが、県内の患者は五、〇〇〇人以上、うち死亡者三、〇〇〇人以上にのぼったという。流行の頂点であった七月下旬の郡別患者日計表を挙げると表2―2のようである。

 明治二三、二四年の流行

 明治二三年のコレラは六月下旬に長崎から発生して九州・中国から大陸に及び、八月には全国の患者数は九、〇〇〇人を超えた。
 県知事勝間田稔は七月八日にコレラ予防の告諭を出して、長崎市に発生したコレラには蔓延のおそれがあるので、三津・今治の両港で船舶検査をしている旨を伝え、各自が身体及衣服を清潔にし垢のつかぬようにすべし、飲食物はなるべく生の物を用ゆべからず、仮令煮たるものであっても暴飲暴食を慎しみ、胃腸の健康を計るよう諭した。七月一四日には沿海郡役所・町村役場・警察署に何時侵襲の程も計り難いので入港する船舶には注意するよう指示するとともに、コレラ患者が出た時の手続きを示した。
 八月三日、山口県下馬関辺りに出稼ぎして帰航中の越智郡西伯方村の船舶にコレラ患者が発生して二人が死亡、一人を隔離検疫した。九月二日には宇摩郡で患者が出て、新居・周布・桑村郡へと早い速度で蔓延し、患者総数一、二五九人、死者の数八八五人に達した。
 二三年のコレラ流行は年末に終息したが、県当局は病菌の越冬を予期して、翌二四年一月二七日の知事告諭で清潔法の励行を促した。二四年も山口・大分などの隣県でコレラは流行、七月一四日周布郡多賀村で二七歳の男、二九日越智郡桜井村で男、風早郡東中島村と和気郡興居島村で男各一人が罹患し、九月には患者四〇余人に及んだ。九月三〇日勝間田知事は、今にして人々注意して予防するのでなければ、また昨年のごとく惨状を現出するに至るとして、衣服や庭園居室の清潔、未熟の果物不消化物多飲多食その他腐敗に傾いたものを食したり水を飲むことの禁止など自粛を呼びかけ、もし不幸にして吐瀉などを催したときは、一時も速やかに医師の診察を乞い、消毒隔離など厳重に施行し余害を公衆に及ぼさないよう勉めることと告諭した(資近代3 一〇四~一〇五)。この年のコレラは寒冷の候になっても勢いが衰えなかったので、県はこのように多数の患者を見るをもって将来を占うとまた一二年の如き惨状を見るに至るかもしれないので、なるべく煤払いなどの際において充分注意をし、清潔法を実施するよう取り計らうことを郡役所・市役所・町村役場・警察署に訓令した(資近代3 一〇四)。この年の患者は二七九人、死者一九五人であった。

 明治二八年の流行

 日清戦争で日本軍が出兵していた遼東半島方面にはコレラが流行していて、凱旋兵によるコレラの侵入防止には十分な注意が払われていたにもかかわらず、二八年三月に大連から門司に帰航した船に患者が発生した。
 県知事小牧昌業は、三月二三日付訓令で、福岡県門司町でコレラ病患が発生し、漸次蔓延の状況であるので、県下各港において該地方より来た船舶には特に注意を加え、もし患者又は死者のあるときは、明治二七年本県令第四三号伝染病予防細則及び二四年本県訓令第四三号伝染病予防取扱心得により、それぞれ処置をするように指示した。さらに四月一二日には広島にも発生したので、広島県宇品港より入港する船を検疫するよう命じた。
 ところが六月一八日、東宇和郡卯之町の男某が広島県の親戚から帰るため宇品で乗船し三津浜に上陸、味生村を経て松山市に向かう途中、生石村でコレラの症状を呈して行き倒れとなった。松山警察署味生村駐在所詰の土肥鹿太郎巡査は、その死体の始末やら吐瀉物の消毒などを行って感染、二六日に殉職した。患者に同行していた家族の話では、宇品乗船の時からコレラらしい症状であったが、旅先の煩わしさをいとい、やがて三津浜に上陸、検疫所をくぐり抜けて徒歩でここまでたどり着いたというのであった。
 これより先六月一〇日、字品から帰航中にコレラと疑わしい症状で一一日新居浜村に帰った男が一二日に死亡。この男のばらまいた菌で新居周布桑村郡内では各地に感染者が続出した。郡達は六月一六日付で「一、桑村郡壬生川村大字明理川ニ於テ男一名発病本月十四日死亡、一、新居郡新居浜村ニ於テ男一名本月十五日発病目下治療中、一、同郡垣生村ニ於テ男一名本月十五日発病目下治療中、一、同郡飯岡村ニ於テ男一名本月十六日発病目下治療中」と報告、以後、一八日付で「新居郡神郷村大字郷ニ於テ男一名本月十七日発病目下治療中」、二一日付で「一、新居郡新居浜村ニ於テ男一名六月十六日発病目下治療中。一、同郡金子村大字新須賀ニ於テ男一名本月十九日発病目下治療中。」、二四日付で「一、新居郡新居浜村ニ於テ男一名本月二十一日発病二十二日死亡。一、同郡垣生村ニ於テ男一名本月二十一日発病目下治療中。一、同郡氷見村ニ於テ男一名本月二十一日発病二十三日死亡。」といった報告が七、八月と続き、一〇月三日の「初発ヨリ総数百三拾名、内全治九名死亡一一五名、目下治療中六名」の記事で終わっている。一〇月三日付の県告諭では、各自摂生の行き届いたことと気候の関係で今や発生患者の数大いに減少しもうすぐ撲滅に向かっているので、神仏祭礼諸興行諸賑を解禁した。しかし往年における事実にしてみてもいまだ全く安堵することができる時季ではないとして、各自摂生上予防の注意を欠ぐと、病毒再燃し不則の不幸を見るに至るも図りがたいとして、各自に自衛自戒を呼びかけた(資近代3 一一九)。この年の患者総数一、四三四人うち死者は九九六人であった。患者一、〇〇〇人を超える大流行はこの時
をもって終わった。

明治三五年の流行

 この年のはじめから清国でコレラが流行し、わが国では六月一日に佐賀県で患者が発生した。たちまち九州・中国・四国・近畿へと広がっていき、本県には対馬沖で操業中の伊予郡の漁船にコレラ患者が出て死亡、その死体を載せて八月三日北山崎村海岸に帰着した者二人もコレラ疑似症にかかっているのが発見され、鏡検及び培養試験で細菌検査をし、コレラ菌を発見した。八月九日付告諭は、朝鮮・対馬地方に出漁するには、福岡、山口などコレラ病の流行した各県下の沿岸を通過し、途中所用のために上陸したことなどでその病毒を伝染させたと解説、今や真性コレラの病毒が県下にも侵入した以上は、一挙にこれを撲滅して余儘を留めないように努めつつあるけれども、なお各自においても爾後一層注意警戒を加え、自衛を怠らないことが大切であることを諭した(資近代3 三一一~三一二)。
 この年のコレラは統計書によれば越智郡を中心に二五〇人の罹患者が出、うち一四六人が死亡した。県当局は、日本におけるコレラ病流行の歴史を見ると、一度病毒が侵入すると常にその流行二年以上にわたり、次年の流行はかえって前年よりも劇烈なことが多いとの経験によって、一一月二〇日に告諭を出し、清潔法及消毒法などは「徒労ニ失セス、形式ニ流レス、最モ確実ニ最モ適切ニ之ヲ施行シ、以テ病毒ノ絶滅ヲ期スル」と同時に、飲料水及び下水などの改良を図り、あわせて飲食物の摂取その他各人自衛の法を守り、下痢症の疾患に罹ることのないよう深く留意警戒を加えるよう注意した。翌三六年七月四日にも県は告諭を再度発し、昨年本県下における同病患者は九一〇余名の多きに及び、その惨毒の状況実に寒心に堪えない、幸いに一時終息を告げたけれどもその余毒はなお存続し、本年再び流行の不幸を見るに至るときは憂うべきことになるので昨年一一月二〇日付をもって告諭を出し警戒を加えたところであるが、本年も暑気ようやく加えるとともに各地に疑似患者の発生が
少なくないと解説して、赤痢・腸チフスをも含めた伝染病予防に関する注意事項を箇条書きにして示した(資近代3 三一一~三一二)。幸いにこの年の真性コレラは一名に過ぎなかった。

 明治四二年とその前後の流行

 明治四〇年、コレラは福岡・山口・大分・兵庫・大阪の瀬戸内各県で流行した。一〇月二五日付県告諭は、周辺から本県に病毒が侵入する模様について、本県は有病地方との交通が常にひん繁であり、何時その病毒をもたらすやも図りがたいので、特に本年八月以来流行地方より来る船舶に対し、県下枢要の各港において検疫を行い、その他の市町村でも海陸共に夫々注意警戒を加えていたが、不幸にして病毒は遂に西・北・南宇和郡及び温泉・喜多の各郡に侵入し、前月一一日以後北宇和郡四名、西宇和郡六名、温泉郡に一名のコレラ患者を出し、ことに喜多郡長浜町などでは、本月一〇日以来六名の患者が続発し、うち四名が死亡し、ついで同郡粟津村でも二名の患者が発生した、病毒は已に四散してなお益々蔓延の兆しであると報告している。告諭は続ける。もとより当局は日夜鋭意画策専ら予防撲滅に全力を注いでいるが、元来予防の本である各自が注意摂生をするのでなければ完全にその目的を達することができない、しかるに往々いたずらに私情に駆られ、患者を隠蔽し、甚しいのは、患者の発生した船舶もしくは家屋に交通し、飲食を共にし、あるいは患者の排泄物を無消毒のまま海中に投棄し、その他病毒に汚染した物件を密かに河川で洗滌するなど、かえって病毒を散蔓させる行為に出るものがある、このような状況では到底予防の実効を期することはできない、この際各人協力一致してこれらの弊害を一掃するのは勿論、なお「左記各項」に注意し自衛上遣憾のないよう期すべぎである。左記事項とはコレラ菌は患者の糞便中に存し、また往々吐物にも混じることもあり、吐瀉物と共に排泄せられた菌は種々の媒介により直接間接他人に伝染する、例えば患者の吐瀉物に触れた手指の消毒を怠り、これをなめるかまたはその手をもって飲食物器具などを取り扱うときは、自然病毒は口腔に達し、あるいは吐物瀉で穢れた衣服などを洗濯すれば、その水はたちまち地中に侵入して井水に混じるなど、患者の吐瀉物は如何に徴量であっても病毒を伝染するので甚だ危険である、といったコレラ菌の伝染経路に始まり、暴飲暴食を慎しみ、不完全な便所・井戸を修繕するなど一四項にわたり具体的な注意をしていた(資近代3 五二八~五二九)。この年のコレラ患者は真性一九人・疑似一四人で、うち一五人が死亡した。
 明治四二年のコレラ患者は松山・温泉・周桑・越智・喜多・西宇和の一市五郡に散発し、その数六二人に及び、死亡者は四一人に達した。
 明治四三年一月の訓令では、流行の後の定期清潔法施行に当たっては最も留意警戒を加えなければならない、しかるに従来施行の成績に拠れば、とかく家屋内部の掃除にのみ重きを置いて、かえって厠せい(囗がまえに靑)井戸端流し先溝渠下水路芥溜など最も必要の部分に対し不充分であるので、本日から施行する定期清潔法は最も適切有効に施行せよと、郡市町村・警察署に督励した(資近代3 五三二)。このように定期清潔法などを厳重に励行させたが、暑さ過ぎた一〇月二日に松山市内の鉄砲町の婦人が突然に腹痛を起こし、数回の嘔吐を続けて、発病後わずか二時間で死亡した。医師は急性胃腸カタルと診断したもののやや疑わしい点があるとして警察本部に急報したので、警察医師が出張して精密検査の結果疑似コレラ菌を発見、死体は直ちに火葬に付した。ところが同じ日、水口町に住む銀行の不寝番がコレラの症状を起こしたので、雄群村の松山避病院に収容したが翌日死亡した。直ちに患家の消毒や銀行の徹底的消毒・大掃除を二日がかりで実施した。伝染の系統は銀行勤務の患者の三男が阪神方面から持ち込んだものであった。同人は前月二九日に死亡したが、生来病弱であったので医師は心臓結核として処理していた。最初の患者である鉄砲町の婦人は、この家の親戚で三男の葬儀に立ち合っていた。警察では三男を埋葬している御幸村の山越墓地を掘り返し検査の結果屍体からコレラ菌を発見、十分な消毒の上火葬した。コレラ患者が松山市内の繁華街に発生したので市民は恐怖し、折から秋祭であったので松山署は一部地域を交通遮断して警戒に当たった(明治四
二・一〇・四付 海南新聞)。
 これとは関係のない少女の患者が六日に三津浜で発生した。四・五日前に到着した大阪からの貨物に病菌が付着していたものと推察された。このようにコレラはいろいろな系統で侵入し、松山・温泉・新居・宇摩・伊予・西宇和・北宇和と一市六郡一〇か所で散発したのであったが、防疫措置が行き届き、患者二六人・死者一八人で食い止めた。
 明治二二~四四年間各年度の愛媛県内のコレラ患者及び死亡者をあげると表2―3のようである。病原体が明らかにされ、予防措置特に港の検疫が行き届くようになり、コレラが猛威を振るうことが次第に少なくなったことを示している。

表2-1 明治12年コレラ患者数

表2-1 明治12年コレラ患者数


表2-2 コレラ患者郡別日計表(明19.7.22―31)

表2-2 コレラ患者郡別日計表(明19.7.22―31)


表2-3 愛媛県下のコレラ患者と死者

表2-3 愛媛県下のコレラ患者と死者