データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)
二 衛生行政機構の整備と警察部移管
衛生課の設置
庶務課衛生掛は明治一三年一月独立して衛生課に昇格した。これは、公衆衛生活動の振興と年々流行する伝染病に処するために衛生事務強化の必要を感じた政府が府県に衛生課設置を指示したことによるものであった。初代衛生課長には衛生の大意に通じている伊佐庭如矢が就任、衛生課には医事を取締る医務掛、飲食料取締・清潔法注意・病災予防にあたる衛生掛、衛生統計を作成する統計掛が置かれた。
中央指令による衛生課の設置は、愛媛県にあって医師を動員する衛生医事体制から官吏による全国画一的な衛生行政体制への移行を進めるものであった。衛生課とともに設置を指示された地方衛生会・町村衛生委員も明治一三年中に施行された。
地方衛生会
明治一三年三月八日、愛媛県政創成期にあって特色ある施策を展開した岩村高俊は内務省戸籍局長に転じ、後任の愛媛県令には関新平が就任した。この県令の交代期には三新法体制下の政府規制が強化されて地方長官による創意性は許されなくなり、岩村県令の下で生み出された愛媛県衛生医事体制は中央規制による衛生行政の中に埋没してしまった。
明治一三年四月一四日、愛媛県医事会議に代わる衛生医事事項の審議機関として衛生会が設置され、「地方衛生会規則」が布達された。この規則は前年一二月の太政官達と変わらず、地方衛生会は地方衛生の全体を視察し人民の保健増進を目的とした県令の補助機関で、医師三~五名、県会議員三名、公立病院長・同薬局長・衛生課長と警察官一名をもって構成する、委員の任期は二年で、会議は少なくとも毎月一回開き、衛生上に関する布告、布達を実施する方法、県で発行すべき衛生に関する布達の草案、知事より発した議案並びに中央衛生会・内務省衛生局の尋問にかかわる事項を審議するなどを内容としていた。
初代の地方衛生会委員には、小林信近・石原信樹・窪田節二郎(以上県会議員)、渡辺悌二郎・和爾隆吉・三井庄三郎・山根文策・谷世範・小山徳次(医界・公立病院関係者)らが選任され、衛生課長小川直助らを加えて明治一三年八月に県庁で初会合を持ち、隠蔽患者発見手続の件などを審議した。その後の衛生会は月一度の会合は催されず。年に一回開かれる程度になり、地方衛生会規則も明治二〇年五月に廃止されたが、衛生会そのものは形骸化したままで存続した。明治二一年二月二〇日の会は、地方衛生会議事規則・揉治営業取締規則改正・売薬取締規則・産婆取締規則案などを審議し、原案を承認している。翌二二年には委員の改選があり、県会議員都築温太郎・高須峯造・藤野政高、松山病院長鳥居春洋・同院薬局長今村伝太郎、松山の開業医添田芳三郎、宇和島の開業医新宮修誠が選出された。この衛生会も、明治三六年に行政整理の対象となって廃止された。
郡医と町村衛生委員
県は明治一三年八月二三日、戸長役場所轄の行政町村ごとに町村衛生委員を配置することを告示した。委員の任期は二年を原則とし、その町村に本籍のある二五歳以上の男子の中から町村会で公選する定めであったが、なるべく不動産を所有し少しは衛生の心得ある者を選ぶことが期待された(資近代2 二一三~二一四)。同日、管内の出産死亡取り調べ、諸場掃除など健康に関する環境保全、飲食料粧飾料の注意、薬舗製売薬家の取り締まり、埋葬火葬及び同場の取り調べ、人畜流行病の予防消毒、種痘普及、地方風土病の取り調べ予防、貧民救療、風習と健康関連注意などを列挙した「町村衛生委員職務概目」を布達した(資近代2 二一四)。この職務概目の事務取扱手続は一一月二九日に郡町村・衛生委員に示された。例えば、「一般ノ健康ニ関スル諸場掃除及ヒ新築修繕ノ良否ヲ注意スルコト」については、市街道路は常に泥芥などを掃除する、井泉河川は一年に少なくとも一回さらえる、下水道・便所・肥溜などは一月三度以上掃除する。学校病院会社・旅寵屋芝居小屋貸座敷湯屋・市場製造場畜場魚干場などの衛生状態に注意する、家屋の換気を監察するなど、「種痘普及ノ事」は、種痘所から接種日の通知があれば生児の父兄に告示し必ず接種するよう懇諭すること、貧困者は戸長と協議の上種痘手数科を無料にすることといった内容であった(資近代2 二二三―二二六)。
右の県指令に基づいて、明治一三年九月ごろには各町村ごとに町村衛生委員が選出され、任期や給料なども定められた。任期は概して二年が多く、給料は市街地はほぼ一か月五、六円から七、八円であったが、村によっては一円以下のところもあり、また伝染病流行の時だけ衛生委員を置いて日当を支給する町村もあった。野間郡浜村外二か村(現菊間町)戸長役場は、浜村長坂村西山村三か村に衛生委員一名を置き、任期を三か年とし一か月三円の給料を支給するといった「衛生委員々数并給料及職務取扱費支弁法」を連合村会に提出、議会は戸長給料を一円に修正するなどしてこれを認めた。また郡役所には衛生主務書記が配置され、町村衛生委員から送付される報告書をまとめて県庁へ伝達する、町村衛生委員を指揮監督するなどを職務とした。
こうして行政町村に衛生委員が設置されたが、その経験と認識不足のため十分に活動せず、県庁に提出する報告書も遺漏や誤謬が多かった。関県令は明治一四年六月七日に告諭を発して、日本の富国強兵のために衛生事務がいかに重要であり、衛生委員の責務がいかに重大であるかを説き、奮起を促した。具体的には、次のような内容であった。
およそ人が健康であるかどうかは事業興廃、人智開否の岐路である。もし人が虚弱多病であれば、智力を発揮し筋力を使うことは出来ない。そのため家は衰え国は大きな損害を受け、人間の幸福国家の富強を望むことが不可能になる。人間が自己の身体を愛護し、健康を保全することは何よりも必要である。ところが現状では、大衆は自衛自愛の念が極めて薄く、病死人が出れば恐がくするが、時とともに恐怖を忘れてしまう。まして病人が平癒でもすれば人々は安堵し、病気の原因を探究してこれを永遠に避ける方法を求めることをしない。これらの現象はひとえに衛生に対する無知からきている。こうした世人の夢を覚醒し、諸般事物の得失利害に注意させ、健康を損ない疾病を起こす原因に関心を呼びさますことが急務である。このことを推進するために衛生会議・衛生課・衛生委員を設けているのであり、ただコレラ流行の時にのみ活動するためのものではない。ところで、これら衛生委員の興廃は、もっとも大衆に接している衛生委員の深浅厚薄如何にかかっているといっても過言ではない。衛生委員はよく衛生法を考究し、常に各地の景況を観察し慣習を探り、利害得失の実証を列挙して判然黒白を弁ずる素質を備えるとともに、衛生未発達の幣害を衆人に明示するがごとき心得を持たねばならない。各委員は深くこの意を自覚し、決められた衛生に関する通信報告を怠らず、正確に伝えられよ。そうすれば、地方衛生会でその利害得失を審議し、衛生課でこれを実施することができ、衛生事業の基本が定まり、災害を未然に防ぎ、国家衰耗の源を絶つことも可能になる(資近代2 二二七~二二八)。
この県令告諭を緒言にして「衛生事項通信手続」が町村衛生委員に示された。これは衛生通信事務の円滑正確を期するため郡役所管内の町村を三部ないし五部に分け、その部内の衛生委員の公選によって郡役所衛生係と町村衛生委員の中間に通信担当者を配し、衛生委員の通知する事項を取捨して自己の意見を付し事の緩急に応じて通信の役割を担わせるもので、通信事項は出産死亡流産疾患の傾向、衛生状態、伝染病流行の兆ある病気の景況、脚気肺疾癩病梅毒患者の増減、伝染病の詳報、医療施設の状況、種痘普及の実情、管内人民の衛生思想、学校など公共施設の衛生状態などで、統計、図表などを適宜入れることとしていた(資近代2 二二七~二三一)。どれを受けて、越智郡役所では郡内町村を七部に分けて通信委員の受持地区を定めた。
県はまた「郡内衛生ノ全体ヲ視察シ人民ノ健康ヲ保持増進スル」ことを目的として各郡に衛生会設置を奨励、その規則を明治一五年一一月一三日に布達した。同規則によると、郡衛生会は、医師・連合会議員・戸長・衛生委員の代表各三~五名と郡役所衛生係で構成し、審議事項は、衛生上に関する布達などの実施方法、各地飲料水清潔方法、埋火葬場及埋火葬取り締まり方法、道路溝渠等清潔方法、種痘普及方法などであった(資近代2二三九~二四〇)。新居周布桑村郡役所は、この「各郡衛生会規則」を参考にしながらも郡衛生会の構成員は町村衛生委員と郡役所衛生係に限定、同一六年五月九日一〇か条からなる「衛生会規則」を管内に達した。
明治一四年六月二五日、県当局は内務省達「府県衛生課事務条項第五郡医配置ノ方法ヲ設クル事」の指示に基づき、三七人(讃岐一四・伊予二三)の郡医を配置した。宇摩二、新居一、周布桑村一、越智三、野間風早二、和気温泉久米二、上浮穴一、下浮穴一、伊予一、喜多二、西宇和二、東宇和一、北宇和一、南宇和一の割り当てであった(資近代2 二三一)。七月九日には「郡医職務心得」を布達し、郡医は受持郡内貧民の疾病施療とともに地方病並びに流行病の治療予防を職務とし、年三〇円の給料支給のほか伝染病予防治療に従事したときは若干の手当を支払うことにした(資近代2 二三一)。越智郡役所は、松木村医師矢内原謙一・米屋町医師楠岡重慶・瀬戸村医師国分郁造の三人を郡医に任じ、八月二二日に郡医の受持町村を告示した。郡医・町村衛生委員の設置に伴い、各郡医務取締と医務調査係は明治一四年七月一一日付で廃止、一〇月二八日には岩村県政時代に衛生行政の指針となった医事会議決議条件もすべて効力を失った(資近代2 二三二)。
こうして、関県政の下で地方衛生会・衛生課―郡役所衛生係・郡医―衛生通信担当員―町村衛生委員の新しい本県の衛生行政体制が成立した。しかしその中核をなす町村衛生委員は、明治一七年行政改革による整理の対象となって明治一八年九月一七日付で廃止され、衛生事務はすべて戸長が取り扱うことになった(資近代2 三五五)。
衛生行政の警察部移管
明治一八年一二月、内閣制度が成立し中央行政機構の大改革が行われた。翌一九年七月には地方機構を一新するため「地方官官制」が制定された。本県はこの官制に基づき、同年八月県庁行政組識の改革を実施、庁内に第一部・第二部(土木課・兵事課・学務課・衛生課・監獄課・会計課)・収税部・警察本部を設置した(資近代2二九一)。ところが、翌九月六日に至り衛生課を廃止し、衛生事務は学務課が担当することにした。
衛生課の廃止は、内閣制度発足に伴う行政整理の対象として全国的に実施された。これは政府の府県衛生行政に対する認識不足を示したものであり、明治二〇年のコレラ大流行などに際し防疫面でも支障をきたした。政府は明治二一年二月府県衛生課を復活した。本県はこれに応じて三月一五日「愛媛県庁処務条規」を改正して衛生課事務章程を定めた。衛生課は、県立病院・地方衛生会・公私立病院の監督、伝染病・地方病予防・種痘・検黴・獣畜病予防・飲食業などの公衆衛生、道路溝渠並墓地火葬場などの環境衛生、医師薬剤師産婆等の業務、薬品並売薬取締、屍体解剖、鉱泉取締、貧民施策、病院費衛生費の寄付に関する事項を所管した。
その後、明治二三年一〇月に至り地方官官制が改正されて県庁に内務部が新設、衛生事務は学務・兵事・戸籍に関する事務と共に内務部第三課で処理することになった。同二六年一〇月には地方官官制の全面的改正により、衛生事務は警察部保安課で取り扱われることになった。当時の地方衛生事務のうち最も繁劇な防疫事務は警察取締り的性格が強く、これまでも伝染病流行の際にはしば借りねばならなかった。こうした経験から、この際衛生事務を警察しば警察の力を行政の系統に入れて防疫に万全を期することになったのである。明治三一年一〇月には警察部の中に衛生課が設置され、昭和一七年に内政部に移るまで警察行政の一環として衛生事務を管掌した。
町村では衛生委員が廃され、明治二〇年六月には郡医も廃止となったが、代わりに戸長役場管轄区域五名以内の町村衛生係を配置することが義務づけられた。七月一一日付の「町村衛生係設置準則」によると、衛生係は、戸長の指揮を受け、町村又は戸長役場管轄区域内伝染病の予防並びに救護に従事し、事件により県庁郡役所の主任官又は警察官の指揮に従う、伝染病の流行に際し又は流行の兆あるにあたり職務に服する非常勤の防疫官であった(資近代2 五五〇~五五一)。
衛生組合
明治二一年四月二五日、政府は、地方自治制度を体系化した「市制」・「町村制」を公布した。愛媛県は、市制・町村制を同二二年一二月五日から県下に施行することを告示、その前提としての町村合併を
進め、最初の市として松山市が誕生した。
市制・町村制告示の趣旨は衛生行政面にも影響をおよぼした。明治二三年一〇月、政府は「伝染病予防心得書」を改正、伝染病予防は原則的には市町村の負担する事務であるとして、市町村は適宜衛生組合を設けて防疫に当たることを期待した。内務省衛生局長長与専斎が、「此衛生組合は往時の五人組の稍大なるものにして、其組長なるものは五戸十家の推撰に依り、従前衛生委員の戸長然たり役人風たるの比にあらざれば相談も纏り易く勧告も入り易し、……是れ将に町村自治の原素なりと謂ふへき乎」と述べているように、衛生組合はわが国伝統の隣保組織を活用して防疫と環境・公衆衛生を促進しようとした。
本県は、翌二四年五月五日に従来施行していた明治一三年の「伝染病予防心得」を廃して新しい「伝染病予防心得書」を市町村に伝達(資近代3 一〇〇~一〇四)、あたえられた自治事業の最も緊急なるものは伝染病の病毒を撲滅して住民の生命財産を保護するにありとして、相互戒慎と扶助警護を目的とする衛生組合の設立を促した。
これにより、県下各市町村に衛生組合が組織されていった。桑村郡庄内村(現東予市)は、明治一八年に「伝染病予防法実施要項」を定めるなど衛生面に熱心な村であったが、早速各部落組長を集めて衛生組
合の設立を図り、飲料に不適当な水は濾過器を通して使用すること、伝染病患者の発生した家と交通を絶つこと、飲食物はなるべく熱煮することなどを明記した「庄内村衛生組合規約」を作り、これを遵守するために組合員は署名捺印することを申し合わせた。この規約に従い、明治二四年一二月までに庄内村を構成する且ノ上部落に一〇組、河之内に六組、福成寺に五組、実報寺に六組、黒谷に三組、大野に二組、宮之内に二組の衛生組合が誕生、組合員は合計五九人で各組ごとに組長・副組長各一名が選ばれた。東宇和郡貝吹村(現野村町内)では、大字鎌田三・中通川三・栗木一・西一の八衛生組合が組織され、飲料水は常に清浄な水を用いること、伝染病流行の際は飲料水を煮沸すること、家宅内は常に掃除し空気の流通に注意すること、伝染病と疑われる患者には家族は勿論組合員相互に注意し速やかに医者の診察を乞うこと、伝染病発生の際は村長の指揮を受け隔離消毒法などを組合員が共同協力して行い他へ伝染しないよう注意することなどを実施事項とする規約を定めて、各項を確守履行させるため組合員一同に署名捺印させることにした。
松山市は明治二四年に「衛生組合規則」を定め、大字単位に衛生組合を設定、組合は「常ニ隣保相親ミ患難相救ヲ以テ目的トシ、特ニ衛生上二関シテハ各家共同シテ左ノ諸件ヲ履行スヘシ」として、家宅内の掃除と空気の流通、清浄な飲料水の使用と混濁したものの濾過、家宅内外の小下水の掃除による汚水の疎通、屋敷内の塵芥の除去、便所掃除の励行などを挙げた。伝染病流行の際は消毒的清潔法を施行すると共に、組合長は、(1)患者の出と、(3)芥溜を掃除し病家から流れる下水の浸潤を防ぎ、溝渠の破損したものは速やかに改修すること、(4)飲食物はなるべく熱煮して用いること、(5)すべて下痢を発したものは速やかに医師の治療を受け、下痢患者の使用した便所には生石灰石炭乳又は石炭酸水をそそぐことの予防法を各家に告知することなどの指示事項を明記した。
愛媛県の衛生組合設置は全国的にも早い方であり、明治二四年の時点で組合を置いている県は二七県に過ぎない。同二九年の「全国衛生統計」によると本県の組合数は約五、〇〇〇を数え、熊本県などについ
で数的にも先進県の中に入っている。衛生組合が普及してくると、組合の構成基準や規約の統一を図る必要が生じたので、県は明治二八年六月二〇日に「衛生組合準則」を定めた。準則は、衛生組合は三〇戸を
標準として組織する、各組合には組長副組長を置く、組長の任務は組合内を巡視して各戸に摂生法・清潔法を励行させる、飲料水・下水溜・下水溝・芥溜・便所・糞溜の改良を図る、伝染病の予防消毒に注意する、種痘を普及させる、組合員は組長の指示に従い一致協力して摂生法・清潔法・防疫に当たるなどの基準を示した(資近代3 一一八)。ついで県当局は明治三〇年の「伝染病予防法」制定を機会に衛生組合の設置を市町村に義務づけることにして同三一年九月一五日「市町村衛生組合設置規程」を制定した。同規程は「市町村内ニ衛生組合ヲ設置ス、其区域ハ市町村ノ定ムルトコロニ拠ル」(第一条)として、組合は家宅の内外・井戸・下水・芥溜・溝・便所の掃除改善の方法、平時及び伝染病流行時における各自の予防摂生確守の方法、伝染病患者発生の際役場に届け出る方法、医師の診察治療を受ける方法、衛生談話会開設の方法、衛生に関する法令周知の方法、組合に要する費用の収支方法などを内容とした規約を作成して一一月三〇日までに市町村長に提出し、郡長知事の認可を受けることを命じた。また衛生組合は、石炭酸水容器・石灰乳容器・如露、ブラシの器具、石灰酸・塩酸・生石灰の消毒薬を常備して非常時に対処することを指示し、組長副組長の任期は二年として組合内の公民から選挙することも規制した(資近代3 三〇三~三〇五)。
各町村は、この条例に従って従来の規約を改めあるいは新しい規約を作成して県に提出した。宇摩郡金生村(現川之江市内)の規約を挙げると次のようであった。まず前書きで「常時並ニ伝染病流行時ニ於ケル各自ノ予防摂生其ノ他衛生上必須ノ方法ヲ定メ之レガ実行ヲ期スルニアリ」とうたい、大字単位に一〇組の衛生組合を設け、「組合内各自ノ健康ヲ保持スルヲ以テ目的」として「相互ニ戒慎協同シ常ニ親睦ヲ保持シテ他故ニ関セズ左ノ各項ヲ履行ス」とした。各項とは、家屋・邸内を常に掃除し空気の流通をよくすること、飲料水は純良なるものを用い、不良のものは濾過または煮沸すること、飲料に供する河水泉などの水路は常に清浄に浚渫し衣類器物を洗滌したり汚水塵芥等を投入しないよう注意すること、井戸端は叩漆喰をもって汚水の浸透を防ぎ、下水溝は時々浚渫して塵芥その他諸物停滞して不潔にならないよう注意すること、芥溜は家屋または飲料水に接近しない個所に設け常に堆積しないよう注意すること、厠セイ(くにがまえに靑)は常に掃除して充溢または堆積しないよう注意し破損の個所は速やかに改造修補を加えること、伝染病流行時には乞食の徘徊を防ぐため施与を禁ずること、道路は清潔に掃除し埋樋または勾配を設け雨水など溺溜させないこと、毎年二回清潔法を施行すること、ただし伝染病流行のおそれある場合は臨時施行すること、伝染病患者・死者を認知もしくは思料するときは直ちに組長副組長に急報すること、伝染病患者が発生した時は相互に通報し交通しないこと、急病で死亡した者は医師の検按を受け病名の知れないうちはその家に行かないこと、以上のほか組長以下職員の示導した事項及び組合会議で決定した事項などであった。
相次ぐ衛生組合の規制は、組合本来の自治的性格を失わせ官製的画一化を強めることにもなったが、これによって県下各町村でほぼ大字単位に衛生組合が組織され、防疫などで活動する基盤が作られた。その後、衛生組合は互いに連絡を密にするため町村段階や郡単位で衛生組合連合会が結成され、衛生講話会や幼燈会などを行って衛生思想の普及を図るかたから、結核など慢性病予防にも活動の場を広げていった。