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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 VYS運動と婦人ともしび運動

 VYS運動のおこり

 VYSとは、Voluntay(有志)、Youth(青年)、Social worker(社会事業家)の略である。VYS、即ち有志青年社会事業家による自発的な社会奉仕運動は、昭和二七年に愛媛県を発祥の地として生まれた。VYSはその後昭和三〇年代に入って群馬県・山梨県・長野県・岐阜県・岡山県などへ広がり、昭和五五年には全国二〇都道府県に四〇〇の組織(会員数二万余名)が結成された。更に日本へ留学した東南アジアの青年たちによって、帰国後その国々にもVYSの組織が生まれ、現在も活発な活動を進めている。
 戦後、児童・少年の団体は子供会や子供クラブの名で数多く結成されていたが、その運営は、資金上の問題、優秀な指導者不足などにより、必ずしも順調ではなかった。朝鮮動乱を機に我が国の経済復興の兆候が見え始めたとはいえ、家庭の境遇に恵まれず古鉄集めに精を出す少年や窃盗などの非行に走る少年も多かった。また社会の進展に大きな原動力となるべき青年たちも、戦争の傷跡を癒しきれずに虚脱と混乱の残る社会で、夢を喪失して退廃的な行動に流れる傾向にあった。
 昭和二七年四月、愛媛県民生部児童課では、こうした青年が児童の保護育成という社会福祉の分野に進出し、子供たちのために奉仕し、自らも生きがいのある人生を求めてほしいと願って、「子供会指導者講習会」を企画した。子供会組織率子供の遊び、青年団の実情を調査して青少年組織の育成を意図した「子供会指導者講習会」構想の説明を受けた民生部長松友孟は、子供会指導者講習会という一般的な呼称を用いず、VYS運動という新時代の新感覚を用いた名称を示した。松友は愛媛の風土の中に若さを見い出し、土壌が若いがゆえに行政の各領域中に未知の可能性があると考え、若さによってのみ支えることができる社会福祉事業を構想していた。
 VYSという新造語は、インテリとされる報道関係者にとっても耳新しい言葉であっただけに、関係者は各所で、「VYSとは、ボランタリーのV・ユースのY・ソーシャルワーカーのSの略称で、有志青年社会事業家のことです。」と説明し、青年の若い力を社会福祉に注ぎ入れて福祉の進展を図ろうとする理念を解説した。初期のVYS会員の中には、映画館など大衆の中でわざわざ「VYSの誰々さん」と呼び出してをかけてその名称を人々に印象づけさせた逸話もある。VYS運動が始まって既に三五年になるが、今日の盛況は会員の福祉活動・奉仕活動の成果とともに、VYSという発想の斬新さによるともいわれている。
 第一回VYS講習会は昭和二七年七月から八月にかけて、宇和島市石応の城西中学校(南予会場・七月二八日~三〇日)、喜多郡長浜町出石寺(中予会場・八月四日~六日)、新居郡角野町(現新居浜市)の角野公民館(東予会場・八月一一日~一三日)の三会場で約一五〇名の青年を集めて開催された。この時も、VYS運動とは子供会・仲良し会など児童の集団活動の善導を行う青年ボランティア運動であるという解説をつけて講習会を開いた。講習会は単に理論や紙芝居・人形劇の実技だけを教える場所でなく、朝のつどい・夕のつどい・キャンプファイヤーなどを通して参加者相互のふれあいの場ともなり、青年の魂の奥深く眠っていた理想精神を目覚めさせた。
 東予会場に集まった若者の中には、大橋伝・武田信寛・久保憲次・石川希代孝・河端皎・石川信年らがいた。講師の松友孟・矢野利春・桜井武男・武田哲夫・山本省三・近藤美佐子らの指導を受けた若き受講生は、それぞれの地域で青年団体や学校、公民館などに呼びかけて同志を募り、VYS精神の普及に努めた。また子供の世界にも飛び込んで行き、小グループの指導に力を注いだり、受講生が相互に情報交換をして自らのボランティアスピリットを止揚させた。こうした若者のエネルギーがその後のVYS運動の原動力となった。
 県下三会場での講習会に続いて、郡市町村単位での講習会も昭和二七年八月から二八・二九年にかけて頻繁に開かれるようになった。県下のトップを切って新居郡角野町主催の講習会は二七年八月二八・二九日に開催され、約四〇名のVYSが誕生した。次いで九月に越智郡桜井町の法華寺で今治・越智郡の講習会、一〇月には周桑郡や温泉郡で、その後も上浮穴郡・宇摩郡・北宇和郡・東宇和郡などで講習会を開いた。どの会場にも四〇~五〇名、なかには一〇〇名近くの青年男女が参加し、子供会指導や児童福祉の話を聞き社会福祉・社会奉仕について学んだ。これらの講習会でも菊池秀雄・石丸正博・白石俊・平岡光夫・妻鳥和教・平原猪佐美・二宮一・細川厚・土居俊介らがVYSとして研鑽をつみ、大橋伝ら第一回受講生とともに後の愛媛県VYS連合協議会の役員や指導者として活躍している。

 VYSの活動と毛山ヒュッテ

 松友孟や近藤美佐子らによって愛媛の若い土壌に蒔かれたVYSの種は各地で芽を出し始めた。昭和二八年一月二一日、次のような「VYS綱領」が制定された。

      VYS綱領
  わたくしたちは、青年社会事業家として社会の福祉と子供の幸福のために、次の三つの綱領を実践します。
  一 友愛 VYSは温いおもいやりと誠実をもって凡ての人の友となります。
  一 奉仕 VYSは常に弱いもの不幸なもののために、よろこんで力となります。
  一 理想 VYSはえらばれたという自覚を常に持って、社会的理想実現のために、励まし合います。

 この綱領に基づくVYSの子供会指導は、従来の人格と識見を備えた教育家や社会事業家による指導とは、その方法を異にしていた。青年たちは子供の仲間として活動し、無意識のうちに共感を与えながら子供会の輪を広げていった。こうした中で、昭和二八年一〇月一日、多くの県民の期待にこたえて県立道後動物園が開園し、昭和三三年七月には園内にこどもプールも完成した。この動物園設置や諸施設の拡充にも児童の健全育成を図る県当局とVYSの働きかけがあった。昭和三七年二月発行の「VYS月報」には、男の子ばかりのグループがVYSリーダーと一緒に、メリケン粉で真っ白になってドーナツを作り、上級生の送別会をした活動、造り酒屋から大きな酒桶をもらって来て、入口や窓をつけて「児童文庫」を作った周桑郡三芳町VYSの活動、子兎を子供会員が分け合って育て、その売り上げ金でキャンプに行く「ウサギ組合」の活動等々、多彩な子供会指導例を掲載している。
 VYS運動は、その中心活動が子供会指導にあったが、青年のエネルギーは他方面にもこの運動を発展させた。「どんな山奥にでも、どんな島にでも、VYSの光りをともそう」を合言葉に、宇摩郡VYSメンバーは昭和二八年五月の子供の日を中心に、県内一七か町村を巡回し、その地域の青年と一緒になって子供会を開催し新たなVYSメンバーを得ていった。この巡回子供会の運動は「渡り鳥巡回子供会」運動と呼ばれ、昭和30年からは東予・中予・南予各地に拡大し、スライド映写会・人形劇・童話会の外に地域青年との懇談会なども開かれた。この渡り鳥運動児童文庫の運動が発展して、愛媛県が「移動児童館車青い鳥号」を昭和三五年四月より運行させた。この初代青い鳥号はキッチンカーを利用した応急のものであったので、昭和三七年五月には巡回子供会専用車(二代目の青い鳥号)を購入、人形劇の舞台・紙芝居・楽器・スポーツ用具・図書などを満載し、VYSリーダーが乗り込んで各市町村を巡回して子供たちに夢を与えていった。
 VYSの海浜救護活動は今治市の天保山海水浴場の応急救護所が最初である。今治市・越智郡のVYS数名が昭和三〇年七月二六日から八月二二日まで、天保山海水浴場に交替で詰め、怪我人・病人・溺者ら一六八名の応急手当を行った。翌年には天保山の外に唐子浜にも救護所を設け、三七二名を救護した。
 昭和三〇年の紫雲丸事件では、周桑郡三芳町の庄内小学校修学旅行生二九名が水死したが、県内各地のVYSは犠牲者の父兄へ慰めの手紙を送り、翌三一年には「南宇和郡の不漁にあえぐ漁村を救え」と松山市内各高校のVYSが街頭募金活動を行った。同じ三一年に東宇和郡野村町大野ヶ原開拓地の農作物不作に際しては、東宇和郡VYSが衣服・食糧を集め、雪を踏み分けて救援物資を運び上げた。こうした災害救助活動はその後も県内外を間わず広範に実施され、単に募金活動のみならず被災地へ赴き復旧・再建のための勤労奉仕を実施している点が注目に値する。
 VYSによる施設慰問活動例はきわめて多い。昭和二九年一二月今治市と越智郡のVYSは明るい越年運動を発足させ、サンタクロースの扮装に身をつつみ、整肢療護園や養護施設・保育園などを訪れ、プレゼントを贈り歌やゲームを楽しんだ。この運動は翌三〇年の歳末には県下各地のVYSに広がり約四、五〇〇名ものサンタクロースが施設などを訪問している。
 東宇和郡宇和町の川中一幸(現精神薄弱者更生施設希望の森施設長)は、VYS活動の一つとして昭和三〇年ころから盲人のための点訳奉仕活動を始めた。彼は「新平家物語」を完全点訳した経験を昭和三三年の第一回VYS大会で発表し、多くのVYSメンバーに感動を与えた。その後川中を講師とする点訳講習会が各地で開かれ、松山ライオンズクラブが点字板をVYSへ寄贈したこともあって、松山南高校・南宇和高校など高校VYSの間で点訳活動がさかんになっていった。
 鬼が城山の北に位置する毛山(標高一、〇八九m)には、昭和三三年一二月北宇和郡広見町の青年団員や養護施設近永愛児園の職員が建てた山小屋がある。これは近永愛児園の子らが野外活動に使用できるようにとの願いを込めて作られたもので、毛山ヒュッテと呼ばれ、一般の登山者にも親しまれていた。しかしこのヒュッテは木造であったうえに、一部の心ない登山者に荒らされ、寝袋などの備品も持ち去られることが多かった。昭和四〇年、山小屋の窮状を見かねた登山者は、近永愛児園長松浦温の呼びかけもあって、カンパを寄せるようになっていた。愛児園には土居俊介(北宇和郡VYS連絡協議会初代会長・現近永愛児園長)が指導員として勤めていたこともあり、毛山ヒュッテの改築計画を聞いて宇和島市VYSや三間町VYS・山岳会有志らも労力奉仕を申し出た。
 ブロック建てのヒュッテは昭和四〇年九月二六日に完成した。この年の三月一四日、前記VYSや山岳会有志八六名が九四個のブロックを毛山山頂まで担ぎ上げ始めてから、六か月間、休日を利用しての奉仕活動が続いた。こうしたVYSの活動を知った北宇和高校・吉田高校・宇和島東高校・宇和島南高校・八幡浜工業高校などの高校VYSや登山部員もこれに参加し、更に青年団員や中学生も加え、二七団体・延ベ一、二〇〇名余が、ブロック六〇六個、オート三輪車二台分の砂、セメント一五袋、鉄筋三六本、水道用パイプ二四〇m分など建築資材を運び上げた。毛山ヒュッテで行われた完成式で、近永愛児園主任保母宇都宮美智子は「アリのように、みんなががん張ってくれたばかりでなく、この式には、こうして集まってくださる」VYSや関係者にお礼の言葉を述べている。
 こうして近永愛児園児の宝ともいえる毛山ヒュッテは完成し、その後も大財次徳を隊長とするVYS郷土建設隊によるペンキ塗り奉仕(昭和四八年八月)、北宇和郡内のVYSや青年団による補修・修復工事(昭和五一年三月)が施されるとともに、近永愛児園・毛山ヒュッテを接点とした種々のボランティア活動や福祉理念の啓発活動が進められている。

 愛媛県VYS連合協議会の結成と組織の全国化

 昭和二七年に約一五〇名で出発したVYS運動は図3―4に示すごとく二七年度末には登録会員一、○○○名を超え、三〇年度末には四、五〇〇名、昭和三四年度のピーク時には六、七〇〇名を数えていた。こうした中で、それぞれのVYS会は相互の連絡提携や事業援助を図り、より一層社会福祉の増進に貢献しようと、昭和三一年四月一五日愛媛県VYS連合協議会を結成し、初代会長は大橋伝が選出された。県連は結成当時、活動資金に苦しんだ。県連の初年度総予算は分担金収入の二万八、〇〇〇円だけであった。役員会の旅費は一人分を二人で分がちあい、昼食代は各自のポケットマネーで賄った。VYSがボランティアである以上それが当然のことであり、創設時からの指導者である近藤美佐子も「官費の補助をアテにするようになってはボランティアの堕落である」「仕事(活動)をすれば金は必ず後からついてくる」と励まし、県連役員も近藤の厳しい助言にこたえて次々と新企画を出して難局を打解した。
 即ち従来の活動に加えて高校VYSキャンプ(昭和三一年七月桜井大崎海岸で実施)・母子家庭の中学生のためのキャンプ(昭和三一年八月温泉郡VYSが先駆)・キャンプリーダー講習会(昭和三四年七月)・肢体不自由児のための海浜療育キャンプ(昭和三五年八月)・養護施設児童のためのキャンプ(昭和三六年)などのキャンプ活動や友情年賀絵はがきの頒布協力、公園や駅の清掃美化活動・老人ホーム慰問などが始まった。
 また、昭和三三年三月二二日には第一回愛媛VYS大会が松山東高校講堂で開催され、翌三四年の第二回大会には厚生省児童局の中山茂を迎えて「児童福祉と集団指導」と題する講演を聞いた。なお、この第二回大会には京都府や福島県など県外のVYSも参加している。大会における研究発表は各地域での活動実践の大きな指針となり、この意気の高まりによって県連の運営も軌道に乗ってきた。しかし昭和三〇年代後半からの高度経済成長期に、愛媛県でも青年の大都市流出が激しくなり、登録会員数の減少をみるようになった。このため昭和三六年度からは中学生を対象としたジュニアVYS育成の企画を立てるとともに、大学生を対象とした大学VYSも昭和四一年三月に誕生した。更に、VYS結成時より一六年を経過した昭和四三年五月には、VYSのOB会も結成されて活動への助言やVYSの育成分野で活動するようになった。
 愛媛県で発祥したVYS運動はその普遍性と若さ溢れる実践力に裏付けられ、他府県にも共鳴者を得、海外にもVYSに参加する青年が見られるようになった。表3―24で示すように福島県では昭和三二年に、山梨県には昭和三四年にVYSのグループが結成され、以後昭和四四年までには全国二二都道府県に広がった。これらVYS運動の全国化の背景には、愛媛県VYS運動一〇周年記念大会で提案された「VYSの全国組織をつくろう」という意見を聞いた県当局が他府県へ働きかけたことや、県外へ進学・就職したVYS員の活動によるところが多い。また、昭和四三年八月二四日には、本県の提唱により全国VYS連絡協議会が東京で結成され、事務局を全国社会福祉協議会内に置かれるようになった。
 VYS運動の海外への広がりは、昭和四二年頃から活発化してきた政府の青年海外派遣事業にVYS代表者を推薦したことから始まる。昭和四六年二月、第四回「青年の船」リーダーとして東南アジア諸国を見聞した愛媛県VYS指導者窪田弘(現愛媛県VYS連合協議会事務局長)はインドネシア青年にVYSの理想を語り、オイスカ(OISCA産業文化促進機関)を通して来日した海外技術研修生や愛媛大学などへの留学生とも交流を深め、VYS運動を流布していった。昭和五〇年一二月にはインドネシア・マレーシア・インド・フィリピン・チベット自治区・ブラジルなど海外一〇か国で二七名の青年がVYS運動を進めるようになった。

 ジュニアVYSとVYS育成会

 昭和三〇年三月に第一回愛媛県VYS大会が開かれ、その後も毎年、県内各市・町に場所を替えて大会を開いた。昭和四三年一一月大洲市で開かれた第一二回県VYS大会では、組織の強化・VYS活動と会員の職業や学業の両立を図る方策などについて討議され、発足から一〇年・二〇年と時を経たVYS運動は社会環境の変化に対応しつつ、原点に立ち帰って新たな発展を期すようになった。
 VYS運動の後継者を育てる動きは既に昭和三六年から始まっていた。松山市VYS会長をも務めた窪田弘は、松山市の東雲VYSクラブ内にジュニア組織をつくり御幸中学校や道後中学校へも呼びかけて、四〇名からなるジュニアVYSを発足させた。主な活動は子供会活動や児童遊園美化の外に、知恵おくれの子供との「友だち運動」、愛媛慈恵会の児童との合同キャンプ、フラワーデザイン講習会などであった。このジュニアVYS運動も昭和三七・三八年にかけて県下に広がり、越智郡の玉川VYSもこの時、多くの中学生への活動参加を呼びかけた。こうしたジュニアVYSがやがて高校VYSや地域のVYSとして活動した。したがって県下のVYS構成員の多くを在学者が占めるようになっていった。こうした中で西条市の山田和一・順、松山市の大西康之・貴子、伊予市の谷崎歓三・英仁、北条市の横山峰子・博子など親子二代にわたって子供会の育成・人形劇や紙芝居に励む人々も多くなっている。
 昭和五〇年代は豊かな人間性を育てる教育が進められ、「ゆとりの時間」などを通して豊かな情操・連帯意識を育てる種々の教育実践が展開されていた。越智郡玉川町の玉川中学校では同校教諭森松夫(玉川町VYS会長)らによってVYS運動を学校教育の中に取り入れ、福祉教育を推進している。昭和五一年秋から玉川ジュニアVYS結成の準備を始めていたが、玉川町には昭和二八年以来のVYS運動の土壌があり、こうしたVYSからその歩みと活動内容の説明協力を得、また町当局・父兄の理解を得て、昭和五二年一月に七四名のジュニアVYS会員をもって発会式を開いた。いわゆる現代っ子である中学生向きに実践目標を設定し、例えば、「自ら考え、自ら実践」の目標は奉仕の主体者であることの自覚を、「一人一目標」は日々の実践の積み重ねを伸ばそうとするものであった。会員の勧誘は入学式場で毎年行われ、玉川VYS役員や担当教員から内容説明があった。玉川ジュニアVYSは図3―5に示すように地域社会を学習の場とし、老人ホームの慰問、町内全老人に年賀状を出す運動、清掃奉仕などのボランティア実践を重ねて、世の中から多くのことを学びとり、思いやりの心を培っていった。こうして育成されたジュニアは高校へ入学した後もその活動を続けることが多くなっている。
 昭和五七年三月、VYS運動三〇周年記念大会が県内外から関係者二、〇〇〇余名の参加を得て開かれた。会場の愛媛県民館では、県下で最初のボランティアによる国際公認ルールの綱引き大会が披露され、誰もが親しめる綱引きを県下に広めてなごやかな社会づくりに邁進する意気込みを示した。なお、昭和六二年一月には、三五周年を機に二一世紀の地域社会を担う新生VYSの育成を図るため近藤美佐子を会長にVYS育成会が発足した。

 愛媛婦人ともしび運動と愛媛県ともしび母親クラブ

 戦後の混乱からようやく立ち直りの兆しが見え始めた昭和二七年、日本女子大学で社会福祉学を学び愛媛県民生部婦人児童課に勤務した近藤美佐子は県内の婦人に〝ともしび″運動を提唱した。〝ともしび″は「暗夜の荒海をゆく船を導くはるかな灯台の光」、「砂漠をゆく旅人を道案内する北極星のまたたき」であり、すべての人々の心の中に輝く人間性の光である。主唱者の近藤美佐子は、人々がこの心のともしびを自覚し、ひとりでも多くの婦人が母性に目覚め、人々に希望・救い・喜び・やすらぎを与える力を強めてほしいと願って、婦人が身近な場で社会活動に参加し得る小グループ作りを呼びかけた。
 県内各市町村で、母子家庭・引揚者・生活困窮者などの援護に当たっていた民生委員は、近藤の提唱する婦人ともしび運動に共鳴し、婦人民生委員だけでなく男性民生委員の夫人や地域婦人会役員によって、婦人ともしび会という小グループが生まれるようになった。八幡浜市の民生委員村上タメ子の手記「ともしびの歩んだ道」(「えひめのともしび」愛媛県ともしび母親クラブ連合協議会発行)には、昭和二九年の県立八幡浜学園設置に際して「子供さん達を暖かくむかえるために、新しいお布団作りに、婦人民生委員十人程で何日も奉仕に行きました。四〇組程のお布団が出来あがった時、みんなの心に暖いものが通い合い、ともしびの光がお互いの心の中に輝いたわけです」と記している。こうした婦人ともしび運動は八幡浜市の外、松山市・北条市・川之江市・宇和町・城辺町などへも浸透し、それぞれの地で人徳のある婦人を核にしてその土台が築かれていった。
 昭和三三年一二月一九日、県下各地への婦人ともしび運動発展を期して愛媛婦人ともしび運動推進会議が愛媛県庁で開かれ、これにより、県下の婦人ともしび運動が本格化した。昭和三三年度末にはともしび運動登録者が五七九名であったが、ともしび運動講習会や集いを開いて啓蒙活動を行い、会を結成する市町も増したため、昭和三四年度末には一、八七一人、三五年度末には三、四一〇人と著しく増加していった。
 周桑郡小松町の小松町婦人ともしび会は、昭和四七年五月九日、民生委員を委嘱されていた堀江チズエを会長に、村上ハル子、秋山カツ子・塩崎トミらを中心に一一二名の会員をもって出発した。小松町では昭和三四年八月、婦人による子供会の育成を目的に親子会の開催や海水浴の実施をしているが、昭和四〇年頃から、〝ともしび〟の心を自覚した婦人の活動が少人数で行われるようになった。その後、町内の母子会・商工婦人会・農協婦人部などからこの運動に参加する婦人の数も増したため、堀江らは小松町福祉課長と相談、町内の婦人民生委員や各地区の代表二〇名とともに、婦人ともしび会の発足準備を進めた。昭和四七年、会の正式発足に際しては県婦人児童課係長であり婦人ともしび運動の提唱者である近藤美佐子を招いて、ともしびの理念を学んでいる。「小さな愛の心のともしびを、みんなの手で大きく輝かそう」と集った婦人たちは、その後、乳幼児健康診断の手伝い・保育所行事の手伝い・乳児院や養護施設の訪問・子供会行事の手伝いなどから、特別養護老人ホーム・重度心身障害児施設の訪問・交通安全運動への参加、海外の難民救援募金活動・国内の災害義援金募集活動・共同募金会への協力など、実に多彩な奉仕活動に参加している。特に老人ホーム等の訪問を通して、小松町内にも同じ境遇の独居老人・ねたきり老人がいることを再認識し、昭和四七年には、ナイロン袋に入れた煎餅を土産に家庭訪問を開始した。昭和五四年からは、小松町と小松町社会福祉協議会による在宅独居老人給食サービスが始まり、会員はボランティアとして、毎週水曜日に対象家庭へ昼食を運んでいる。また在宅独居ねたきり老人には、給食サービスの外に年四回季節にあった品物を持って訪問し、その際、掃除・洗濯・繕い物・手紙の代筆・本の朗読など身辺のこまごまとした世話を続けている。
 昭和四八年四月一日、国の提唱により児童館を活動の拠点とする国庫補助による母親クラブが愛媛県にも誕生した。愛媛県ではこの母親クラブの発足に併せて、県単独事業として、保育所を活動拠点とする「手をつなぐママさんクラブ」も同時に発足させた。経済の高度成長に伴い、核家族化・婦人就労の増加・出生率の低下などとともに児童の養育環境も大きく変化し、地域社会における連帯意識が希薄になってゆく中で、二つのクラブは婦人ともしび会と協力して児童公園・児童文庫などの設置運動や三歳児をもつ母親の勉強会なども進めていった。年若い母親クラブ員や手をつなぐママさんクラブ員、豊かな生活経験を有する婦人ともしび会員は三者一体となった運動をしようと、昭和五一年三月二三日、愛媛県ともしび母親クラブ連絡協議会を結成した。初代会長は松山市の村上寿子、二代会長は北宇和郡吉田町の清家小夜子が務め、昭和六〇年度末には、県下の婦人ともしび会一〇三グループ(約九、五〇〇人)、母親クラブ三〇〇(約二万二、〇〇〇人)、手をつなぐママさんクラブ九九(約一万二、五〇〇人)がこれに参加している。昭和六一年七月二三日には、県連組織結成一〇周年記念式典を愛媛県民館において、二、〇〇〇人の参加者を得て盛大に祝った。
 児童の健全育成を主目標に、三歳児と母親のつどいなどの親子交流事業、福祉施設訪問などの奉仕活動、育児子育て講座などの研修活動を行いながらも、常に〝ともしび″精神を根底に有する母親クラブは全国にも類がない。活動のすべてが上部組織の指導によるのではなく、会員やグループ員が独自のアイデアを出し、「いつでも、どこでも、一人でもできる」を合言葉にボランティア活動を進めている。

図3-4 年次別VYS会員数

図3-4 年次別VYS会員数


表3-24 VYS運動の広がり

表3-24 VYS運動の広がり


図3-5 玉川VYSの組織

図3-5 玉川VYSの組織