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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 戦時厚生事業の展開

 軍事扶助

 戦争による傷病兵や戦死者遺家族の生活困難を救う法制は明治時代からあった。日露戦争に際して明治三七年四月「下士兵卒家族救助令」が公布され、大正六年七月には「下士兵卒家族救助令」を廃して「軍事救護法」を公布、翌七年一月より施行した。当時戦傷病者は廃兵と呼ばれ、大正初期には全国で三万人を数え社会問題となり、一般の傷病者も廃兵のような服装をして街頭に立ち、物乞いをする姿もみられた。「軍事救護法」は戦傷病者やその遺家族を救護する目的で立法化され、昭和一二年三月に改正されて「軍事扶助法」(同年七月一日施行)となった。
 改正の要点は、法律の名称を改め、傷病兵及びその遺家族の範囲を広げ、現役兵や応召中の下士官兵の家族に対する扶助継続を認めるとともに扶助を受ける条件を緩和したことにあった。このため扶助事務が増加したが、国や県の指示で市町村長が積極的に軍事扶助事業を進める体制が採られるようになった。本県では、同年八月の調査によると従来の「軍事救護法」適用者が三〇七家族・八九二名であったが、「軍事扶助法」施行後は七、一五六世帯・二万三、〇三六人、翌一三年度は一万二、九八七世帯・三万七、八七〇人が扶助を受けた(表2―17参照)。また同年八月以降は二万五、七六三人の出征兵士と一一万七、一一六人の留守家族が見込まれた。これより先、昭和一二年七月二日県当局は「軍事扶助法施行細則」(資社経下四二九)を布達して、生活扶助・生業扶助・医療救護・埋葬費などの支給基準を示し、同年七月二一日には県下市町村長会議を県庁で開き、「愈々事変突発シ管下二於テモ動員下令ヲ見ルニ至ルヤ、之等出征軍人遺家族等ニ対スル慰藉及扶助ノ徹底ヲ期シ、以テ銃後ノ護ヲ堅クシ、兵役ノ大任ニ服スル者ヲシテ後顧ノ憂ナク奉公ノ誠ヲ致サシムベク各般ノ会議ヲ開催シ、(中略)最善ノ努カヲ傾注シ、以テ軍事扶助事業ノ完璧ヲ期スルト共ニ今後持続スベキ時艱ノ克服ニ邁進」するよう指示した。また、同年八月九日、県学務部は(1)応召者の調査並びに軍事扶助の徹底、(2)市町村の活動の督励(扶助申請手続の迅速化、市町村長・方面委員・各種団体などの活動督励)、(3)各種扶助団体の強化並びに連絡統制、(4)軍事扶助の趣旨の徹底(軍事扶助徹底週間の設定・講演会・映写会などの開催)、(5)軍事扶助資金の造成、(6)応召者遺家族の福利増進(職業紹介所の活動督励、生業資金の貸し付け又は斡旋)、(7)戦死傷病者並びに遺家族の慰問、弔慰、(8)軍事扶助督励班の設置、以上八項目からなる「軍事扶助事業実施要綱」を作成し、この事業を社寺兵事課、教育課、衛生課、社会課で分担し、県下に浸透させる態勢を整えた。
 事業実施要綱にそう施策は次々と実行に移された。同一二年八月一九日には県学務部長名で県下の方面委員に宛て、日中戦争に伴い出征する兵士の激励はもとよりその家族や遺族の慰藉と扶助に遺漏なきよう督励すると同時に、「受持地域内ニ於ケル出動又ハ応召軍人ノ家族遺族ノ名簿ヲ作成シ、其ノ生活状態ノ査察ヲ為シ、進ンデ各般ノ相談ニ応シ、常ニ市町村其ノ他軍事扶助団体等ト協調連絡ヲ保チ」、「銃後ノ護リニ万遺漏ナキヲ期セラレ度」との通達を発した。こうした軍事扶助事業督励に関する県通達は、市町村長はいうまでもなく、各職業紹介所、軍人後援会、連合婦人会、連合青年団、小学校・中等学校、応召者の在籍する工場及び会社などにも及んだ。このうち、愛媛県連合婦人会長兼愛媛県連合女子青年団長高浜淳は、同年八月一〇日付で「重大なる時局に直面し県下婦人会員並女子青年団員に告ぐ」という文書を出し、(1)「忠孝一本、祖孫一体の国情に鑑み、益々敬神崇祖の美風顕揚に努むること」、(2)「あらゆる機会を促へ時局の本質を正確に認識し進んで国論の統一に協力すること」、(3)「喜んで銃後の諸任務に服し、国防第一線に立てる男子をして後顧の憂なからしむこと」、(4)「子女の教養に意を用ひ特に其の体位向上に努力すること」、以上四項目を指示した。なお、これら各項目には実行事例が付されているが、(3)の項目に関しては次の七例が列挙されている。
  (一) 派遣軍人の送迎、遺家族慰問、家業幇助
  (二) 傷病軍人の慰問
  (三) 派遣軍人に対する慰問状、慰問袋の発送
  (四) 恤兵金品の募集
  (五) 軍需品、食料品の生産拡大及節約運動
  (六) 防空、防護、看護、救護の演習参加
  (七) 其他事変に関する国家的又は地方的事務の担当
 こうした県下の軍事扶助事業の概況をみると、戦死傷病者やその遺家族の生活困難を救うという本来の目的より、銃後活動の一環としての軍事扶助の色彩が濃厚となり、また方面委員を主とする社会事業家の活動も、軍事扶助・軍事援護を主とするいわゆる戦時厚生活動へと移行し始めた。

 軍事援護

 昭和一二年七月日中戦争が勃発すると、急激に多数の将兵が応召され、施行されたばかりの「軍事扶助法」の該当者が激増した。そこで同年九月の帝国議会では、一挙に一、五〇〇万円の軍事扶助費が追加計上され、また従来の社会局社会部の機構では軍事扶助事業が十分に行えないとして、同年一一月一日社会局に臨時軍事援護部を発足させた。軍事援護事業とは、単に「軍事扶助法」による扶助のみならず、帰還軍人の援護、傷痍軍人の保護と教化、既存の各種援護団体を改組又は統合した銃後奉公会の活動促進、出征軍人に対する慰藉と慰問など広範なものであった。こうして昭和一二年一一月以降、従来の軍事扶助事業に代わり、軍事援護事業の名のもとに、軍人遺家族及び戦傷病者に対する積極的な救護が行われるとともに銃後活動の拡充も図られた。
 本県では、昭和一四年度(四月~一二月までの統計)、軍事扶助法によって一万二、七二七世帯に六六万余円が援護されたが、これ以外に昭和一四年四月~一二月までの召集解除者九、一六五人中二、三五七人に対する生業・生活・医療の援護事業や恩賜財団軍人援護会県支部などの諸事業があった(表2―18参照)。これら援護措置は方面委員の調査に基づくもののほかに、各市町村銃後奉公会や県の出先機関に設けられた軍事援護相談部で取り扱われ、昭和一四年末には県の相談部に一二名の遺家族指導嘱託がいた。同年末における日中戦争開始以来の本県の傷痍軍人数は、傷痍五一三人、結核及び胸膜炎四五六人、精神病三六人、その他の疾病六二人、計一、〇六七名であり、日中戦争以前の傷痍軍人一四七名を加えると一、二一四名になっていた。彼らは大日本傷痍軍人会愛媛県支部や県当局の世話で、温泉郡南吉井村(現重信町)見奈良の傷痍軍人愛媛療養所や新たに開設された傷痍軍人別府温泉療養所などで治療を受ける一方、自宅療養などを行う軽度の者に対しては医療費支給のほかに、授産活動を勧めるなどの方法で社会復帰が図られた。
 軍人遺家族に対する援護も生活扶助給与のほかに、各地の銃後奉公会や産業組合が経営する授産場や共同作業場での授産活動が盛んになった。表2―19に示したように、昭和一五年二月までに二七の軍事援護施設が新設あるいは増設され、これに宇和島市民共済会の授産場のように軍人遺家族を入所させる措置を講じたものを加えると当時三三の援護施設が、県の軍事援護事業助成金を受けて県下に生まれていた。これらの大半は民家を借り入れたり、学校や役場の一部を作業場に充当したもので応急の施設が多かった。
 昭和一五年二月時、新居浜市ミシン縫裁共同作業場は旧金子村役場を使用し、戦没軍人遺族四名、応召及び現役軍人家族二五名、計二九名が、広島陸軍被服支廠発注の軍用襦袢などの縫裁作業をしていた。授産開始後四か月間は見習いであるため、賃金は一日約三〇銭であったが熟練すると一円前後の収入を得る婦人もいた。従業員は毎朝始業前宮城並びに神宮の遥拝を行い、同時に戦没者の英霊に対して黙祷し、前線の将兵の武運長久を祈願した。西条町軍事援護共同作業場では軍人遺族三名、留守家族一三名が製縄作業を行ったが、この外、製縄機を給与されて自宅の庭先で作業するものも二〇世帯あった。製品は住友をはじめとする近隣の工場に特約納入し、原料の藁は豊富に産したため経営は順調で、熟練者は一人一日約一円三〇銭の賃金を得た。
 こうした授産活動は昭和初期の授産活動とはその発想が若干異なり、時局に対応した軍人遺家族の救済という面のほかに、「授産施設ヲ設ケマシテ、之ニ遺族家族ヲ収容シ、銃後生産拡充ノ見地ヨリ勤労作業」を行うという面を有していた。授産場は公的には軍事援護施設と呼ばれ、その事業内容も真綿を用いた軍用防寒外套・軍用襦絆などを被服廠の注文によって製造納入されるものが増えていった。

 職業紹介事業の後退

 昭和一三年一月一一日、内務省社会局が廃され、厚生省が新設された。厚生省の設置は当時の陸軍からの強い要請であり、その発想は健民健兵を意図した国民体力の向上であったといわれる。昭和一二年七月、閣議は「保健社会省」として新省設置を決定し、衛生行政と社会行政を担当させる方針であったが、枢密院の審議の過程で、新省に簡易生命保険や郵便年金に関する事務をも包含させることになり、厚生省と名称を替えた。厚生省発足時は日中戦争開始より既に六か月を経過しており、戦時態勢が強化の一途をたどっていたため、厚生行政も必然的に戦時色を濃くしていった。
 昭和一六年一月、厚生省に職業局が設置されて非常時下の労務動員計画が総合的に推進され、更に同月「人口政策確定要綱」が閣議決定し、八月一日には厚生省に人口局が新設された。これら二つの局の新設には、国民を「人的資源」とする考え方が根底にあり、個人の幸福は国策遂行のために犠牲にされ、本来の社会事業理念は歪曲されて労務動員・人口政策・健民健兵策が事業の中心となった。
 昭和一三年までに県下に一四か所あった公営職業紹介所は、同年七月の「職業紹介法」抜本改正により国営に移管されるとともに整理統合が図られた。これによって今治市職業紹介所は近隣のものを統合して国立今治職業紹介所となり、その事務所を市役所内から大正通りの帝国在郷軍人会今治第一分会に移して、昭和一三年一〇月一八日に業務を開始した。業務は一般軍需労務要員、海軍及び陸軍作業庁要員、広海軍工廠見習工などの募集と充足を中心とし、帰郷軍人・傷痍軍人の保護、応召者遺家族の職業保護、少年の職業指導と紹介をも行った(「今治職業紹介所業務概要」)
 昭和一三年以降の国立職業紹介所は労務配置政策遂行機関としての使命を有し、昭和一六年の職業局設置によってそれが一層強化されていったから、職業紹介を通して生活困窮者の経済的保護を推進してきた従来の社会事業としての職業紹介事業は後退した。

 戦時保育所と母親学校

 「大東亜戦争の性格は消耗戦であり、生産戦であり、科学戦である」といわれた。膨大な物資を消耗し、更にうち続く戦いに勝ち得るだけの物資を生産して補填しておく必要があった。従って戦時厚生事業は勤労力の動員を必要とし、職業局を設置して労務動員及び配置政策が体系的に実施された。
 こうした状況下にあって、男性勤労者の多くが県外に出ると、県内では婦人が「産業戦士」として挺身活動に駆り出され、新居郡垣生村(現新居浜市)では婦人のみによって生産を行う工場がみられ、生産増強の一翼を担っていた。このような工場は国の工場分散政策によって瀬戸内海に面した農漁村地域に増加し、一段と婦人の勤労動員が要請された。これら婦人の動員が活発化するのに従って、家庭における乳幼児の保育問題が浮上し、婦人が後顧の憂なく生産陣営に参加でき、また家庭に代わって乳幼児の健全な保育を徹底させる目的で、戦時保育所の設置が図られるようになった。本県では昭和九年に一六か所、同一七年ころには三五か所の常設託児所があったが、いわゆる戦時保育所としての性格を有するものは、主要市町付近にあった二〇施設ほどとみられる。
 戦時保育所の増設と「決戦保育」の遂行に当たって、県当局は昭和一七年度より今治市の昭安保育園を実習場とする厚生保母養成所を開設した。ここでは「今日の保姆は単なる保育技術を修得して園児の保育に当たるのみであっては、その使命を達する事は出来ない。園児の養護に、家庭の生活指導にまで積極的に働き掛け、国民厚生の実を挙げる可き厚生保姆であらねばならない」として、昭和一七年一六名、同一八年二〇名の厚生保母が養成された。また昭和一九年一月二八日には「愛媛県厚生保姆規程」(資社経下四三四)を施行し、厚生保母の待遇と素質の改善向上を図って「保育報国」に専念する措置を講じる一方、同年四月より厚生保母養成所を県の直接経営とした。
 大正期以来県内各所で開設された季節託児所も、昭和一四年以降急激に増設され、昭和一八年度からは一部落一か所開設の方針を立てて増設拡充が図られた。その結果同年の春季に九〇二か所、秋季は四二〇か所に戦時季節保育所が開かれた。この間、母親は食糧増産運動に専念して生産に従事し、厚生保母は婦人会員、女子青年団員、女学校生徒の保育実習協力を得て保育に当たった。しかし、これら保育事業の背景にも「国防資源の確保、戦力増強の一助たらしむる戦時季節保育所の開設」という時代の要請があった(「愛媛県における戦時厚生事業の動向」昭和一九年五月「厚生問題」所収)。
 昭和一〇年前後における本県の乳幼児死亡率は一四・八%から一七・六%の高率であった(表2―20参照)。「国家当面の重大時に際し人口増強の国策に則り、母性並将来母性たるべき女子青年をして婦人の天職を完ふせしむる為、之に必要なる乳幼児・児童一般に関する保健及保育上の知識を与ふると共に進んで時局認識の深化を図り、日本婦人として婦道の昂揚を促進して戦力増強に資せんとす」との趣旨によって、昭和一六年四月以降県内各所で母親学校が開設された。母親学校は愛媛県と大日本婦人会愛媛県支部が共同主催して乳幼児死亡率の高い地域を選び、昭和一六年度一一か所、一七年度一四か所、一八年度一〇か所に妊婦及び乳幼児養育中の母親を集めて開催された。会場は小学校講堂などが当てられ、農繁期を除いて毎月一回、午後一時から五時までとし、人口政策、健民方策、農村厚生事業、母性と小児の衛生、保育の実際、婦人修養などの議義科目が主となっていた。

 結婚奨励と優良多子家庭の表彰

 「決戦下の結婚は先づ結婚報国観念の確立と、求婚の視野を拡大する為めの公的斡旋機関の設置、結婚費用の合理化、迷信の打破、男子の収入による生活力の安定を欲する女子側の依頼心の打破、共稼ぎ観念の昂揚」という観念の下に、早期結婚が奨励された。昭和一八年一一月二日「愛媛県結婚奨励基本要綱」が策定され、市町村役場や主な事業所に結婚相談所を設置し、県庁内には中央結婚相談所を置いて県下の各相談所との連絡及び統制を図った。相談所には相談委員が置かれ、方面委員・婦人会幹事などを委員に任命し、一人年間三組以上の整婚を目標とした。相談所では男子満二一歳~三五歳、女子満一七歳~三〇歳までの人々を調査し未婚者登録簿を作成した。帰還軍人や傷痍軍人があれば縁談をもちかけ、また開拓民や海外移住者との結婚斡旋も進められた。また、未婚者のうち男は二五歳・女は二〇歳に達する一年前に「貴家の○○さんは明年になれば、人口国策によって要請されて居る結婚年令に達せられますから、宜敷結婚報国の趣旨に則り、健全なる結婚をせらるる様願ひ度」との「結婚通告書」を交付する計画も立てられた。
 一〇人以上の子供を出産し、親子とも元気で生活をしている優良多子家庭の調査は昭和一一年に実施された。愛媛県では、温泉郡の九三家庭を最高に、越智郡(六七)、北宇和郡(六六)、周桑郡(四九)、西宇和郡(四七)と続き、都市部は松山(一五)、宇和島(一四)、八幡浜(九)、今治(八)と下位を占めた。県下総数では五九三家族(子供の数六、一四〇人)となっていた。これら優良多子家庭は同年八月一五日、愛媛県社会事業協会総裁(知事大場鑑次郎)から表彰された。表彰状には「我が国乳幼児死亡ノ高率ナルハ国家将来ノ為甚ダ憂フベキ事ナリトス、然ルニ右者多数ノ子女ヲ挙ゲナガラ一人モ欠クル者モナク健全ニ之ヲ養育セリ、是畢竟育児ノ方法其ノ宜シキヲ得タルモノニシテ、児童愛護上他ノ範ト為スニ足ル、依テ茲ニ之ヲ表彰ス」とあり、昭和一一年段階の優良多子家庭表彰はまだ人口国策によるものではなかった(「愛媛社会事業」昭和一一年九月号)。
 人口国策に基づく厚生省の優良多子家庭表彰は昭和一五年度より毎年行われた。愛媛県の昭和一六年度の厚生大臣表彰伝達式は同年一一月三日、県会議事堂で行われ、一〇人以上の子供を満六歳まで元気に成長させた八四家庭(全国では二、一四五家庭)が表彰された。その内訳は温泉郡一六、北宇和郡一〇、松山市九、伊予郡七、西条市六、宇和島市五などとなっており、北宇和郡北灘村からは五家庭、温泉郡粟井村からは三家庭が表彰され、最多子数は一四名であった。被表彰者は県社会課長や学務部長から育児の労をねぎらわれるとともに、国を挙げて人口増強を努めている時局下にあって、「益々子宝報国に御専心あるよう」との励ましを受けた(「愛媛社会事業」昭和一七年一月号)。
 また、本県では昭和一九年二月一一日「皇民育成基本施設要綱」を制定し、昭和一九年一月一日以降の出生児に、誕生祝として県知事より祝詞に記念貯金通帳を添えて贈られ、その子が国民学校(小学校)に入学する時は、神社で「就学奉告祭」を行い社頭で県知事より就学祝として修身教科書「ヨイコドモ」が贈られた。また児童が国民学校初等科を卒業する際には卒業式に県知事告辞が贈られ、各学校ごとに神社に赴き、「卒業奉告祭」を行うこととした。これら「皇民育成」の基本観念は「惟フニ産土神ノ神意ニ依リテ生レ出デタル子ハ我子ニシテ既ニ我子ニ非ズ、斉シク皇国ノ大御宝ニシテ、天皇陛下ノ赤子タリ、之ガ身心ヲ健全ニ育成シ大君ノ御楯トシテ捧ゲ奉ルノ日ヲ期スルハ正シク神意ノ奉行ニシテ、親タルモノノ切願タルノミナラズ一般国民ノ責務タルベシ」(「皇民育成基本施設要綱前文」)というものであった。

 隣保館と健民館

 昭和四年以来、「消費節約」・「生活改善」をスローガンとする公私経済緊縮運動が続けられていたが、慢性的な不況に悩む農村部では生活を切り詰め、健康・体力の低下を招くものもあった。昭和七年二月農林省は経済更生部を置き、農山漁村の匡救・産業振興民心安定・経済更生の諸策を展開していたが、こうした政策に併せるべく、社会事業調査会は、昭和一一年六月、隣保共助に立脚する農民の自力更生を打ち出した。これは、従来の生活改善・救護・医療保護・児童保護・職業保護などの諸事業を総合的に推進する農村隣保事業と呼ばれ、各地に社会事業の拠点として隣保館が設置された。本県でも、昭和一二年二月一九日八幡浜市公会堂で開かれた県下方面委員大会で、「本県農村の実情に鑑み適切なる社会施設如何」と諮問され、各市町村一か所ずつの隣保館設置が答申された。
 こうした総合的社会事業施設の設置計画は県当局や愛媛県方面委員連盟によって行われた。昭和一五年六月四日付「海南新聞」は「隣保施設に着手 第一回一一ヶ町村本極り」の見出しで、農村隣保施設を置く県の決定を報道した。県下の隣保施設は既成の公会堂、青年会堂などを拡張、あるいは新たに施設を建設して開館させ、社会事業関係者や看護婦・産婆・保母が常勤して、経済的保護、季節共同炊事、冠婚葬祭の簡易化、健康相談、人事相談、保育などの諸事業が行われるとともに教化事業の会場として利用された。
 松山市では、防貧施設の一端として九戸の救護家屋(更生家屋)を有し、方面カード登録者を入居させていたが、昭和一〇年一月、第二種方面カード登録者(かろうじて生計を支えているが、なんらかの事故に遭遇すると自活困難に陥るおそれがあると認められる者)の家庭が往々にして「子だくさん」なだめ生活に困窮するのをみて、保育園をも開設していた。隣保館を建設して社会事業の総合化を図る政府構想が打ち出されると、松山市でも授産事業と保育事業を合わせた社会事業施設建設を計画し、昭和一五年一二月市内西堀端通りに土地と建物を購入、同一六年七月一日、松山市隣保館設立準備組織を整え、翌年隣保館を完成させた。こうして松山市隣保館では、母親が授産を受けその子供たちは同じ敷地内で保育されるという状態がみられた。なお、松山市隣保館は昭和一七年一一月財団法人化し、戦後は社会福祉法人として、昭和六二年現在も救護施設丸山荘や保育園を経営している。
 昭和一七年、県社会課が厚生課、更に兵事厚生課と改称されるにつれ、農村隣保館は社会事業の拠点から厚生事業の拠点へと変化する町村もみられた。特に厚生省の健民健兵策を底流とする国民厚生事業により、全国各市町村に国民健康保険組合の設置が促され、昭和一八年度末には県下二四三市町村中、二二一町村に国民健康保険組合が結成された。これら組合は、単に医療費軽減の享有だけでなく、時局下の「戦力を培養し人口増強を企図する」健民健兵策の遂行にも当たった。このため県下二三〇名の保健婦は、方面委員後援団体や農村隣保館・銃後奉公会の管轄下から各町村国民健康保険組合の管轄下へと統一され、各組合に保健婦が一~二名ずつ配置された。
 このころ、隣保館の中には厚生会館と名称を変更するものもあれば、越智郡下朝倉村(現朝倉村)、富田村(現今治市)、西宇和郡三瓶町、東宇和郡俵津村(現明浜町)、北宇和郡吉田町などのように新たに健民館を建設した町村も現れた。このうち俵津村健民館は、村内の既設建物(一六・六坪)を改造したもので、この中に国民健康保険事務所、診療所(医師一名・看護婦二名)、保健相談所(保健婦二名)が同居し、約三千人の村民の健康管理を行った。特に母性と乳児の健康には意を用い、産前産後約三週間は無料で入所させ休養をとらせたほか、栄養士による栄養指導や共同炊事も行われた(「愛媛県に於ける戦時厚生事業の動向」「厚生問題」昭和一九年五月号所収)。
 隣保館や健民館とは別に、昼間、母親が生産増強に奉仕するため両親不在となる学童を対象とする保育は、昭和一五年四月より新居郡角野町(現新居浜市)で開始された。角野町は産業都市新居浜に隣接していたため、別子銅山や住友関係の工場勤務者が多く、角野国民学校では児童の一割が学童保育の対象となり、角野町婦人会や方面委員、町当局、学校が一体となって保育に当たった。しかし、こうした活動は、学童にとって学校の延長となり、また束縛感をもたらしたため十分な成果をあげ得ず、昭和一六年度からは町内の家屋を借り受け、家庭的な雰囲気の中で学童保育が行われるようになった。
 なお、新居浜市では、角野町の活動を参考にして、昭和一八年二月二五日新居浜家庭寮を開園させ、放課時より夕方まで(春夏午後六時半、秋冬午後五時半)、新居浜国民学校や宮西国民学校の学童保育を要する九四名を預かった(「愛媛県に於ける戦時厚生事業の動向」「厚生問題」昭和一九年五月号所収)。

表2-17 軍事扶助実施状況(昭和12年度・同13年度)

表2-17 軍事扶助実施状況(昭和12年度・同13年度)


表2-18 愛媛県の軍事援護概況(昭和14年度、ただし12月末現在)

表2-18 愛媛県の軍事援護概況(昭和14年度、ただし12月末現在)


表2-19 軍事遺家族援護施設一覧表

表2-19 軍事遺家族援護施設一覧表


表2-20 愛媛県における乳幼児死亡率

表2-20 愛媛県における乳幼児死亡率