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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 社会事業行政の変化

 救護法時代

 大正期、我が国の産業界は第一次世界大戦による好景気で近代化が一段と進み活況を呈したが、戦争終結によるヨーロッパ諸国の生産力回復とともに戦後恐慌に陥り、更に関東大震災による打撃など困難な状態を払拭できないまま昭和期に入った。昭和初期もまた金融恐慌に見舞われ、県下でも今治綿業界の不振で昭和二年一月、今治商業銀行が三週間の休業を発表し、これが県下に一三支店を有する有力銀行であったために県民を不安に陥れた。この年伊予絣業界も不況で、一か月間の休業を実施して数万人にのぼる織子の賃金が未払いとなった。その後も世界恐慌の波にさらされた我が国では、金解禁を断行して貿易の回復を図ったが、輸出は減少し正貨は海外へ流出した。このため企業の操業短縮、倒産が相次ぎ失業者が増大、各種農産物価格も暴落して農村の不況も深刻化した。
 こうした情勢下、社会事業関係者や一部の有識者の間では、家族主義や隣保扶助に依存した慈善救済から脱して、社会連帯の理念にのっとった新制度を樹立すべきであるとの要望が高まり、政治行政上は「恤救規則」体制を維持していくべきだとする人々と対立した。政府は大正一五年六月、社会事業調査会を閣議決定による内務大臣の諮問機関に格上げし、翌月、これに「社会事業体系二関スル件」を諮問した。同調査会は社会事業を、一般救護・経済的救護・失業保護的施設・児童保護事業の四つの体系に分けて調査研究し、昭和二年六月答申した。
 昭和三年当時、田中義一政友会内閣が政権を担当していたが、この年の総選挙で与党政友会と野党民政党はわずか一議席の差となった。政友会は政権を維持する必要上、武藤山治の実業同志会(議員四名)と提携する必要があり、両者の政策協定中に、生活困窮者の救済方法を設けることという項目を入れた。既に「恤救規則」に代わる新法制の準備を進めていた内務省当局は、政友会と実業同志会の政策協定項目に目をつけ、昭和四年三月、帝国議会に「救護法案」を提出し、翌四月二日に可決された。「救護法」の制定は時流の当然の要求であったといわれるが、むしろ「政治的偶然」で成立したものでもあった(『内務省史』)。
 「救護法」が制定されたものの、昭和四年七月田中内閣が辞職、これに続く浜口内閣も緊縮財政のために「救護法」は予算措置が講じられなかった。施行を請願する全国の方面委員や社会事業関係者の運動を受けて、「救護法」が施行されたのは昭和七年一月一日からであった。
 この法律によって「恤救規則」、「棄児養育米給与方」、「三子出産ノ貧困者へ養育料給与方」は廃止された。「救護法」による被救護者の資格条件は、(1)六五歳以上の老衰者、(2)一三歳以下の幼者、(3)妊産婦、(4)不具・廃疾・疾病・傷痍その他精神又は身体の障害により労務を行うのに支障ある者、以上のいずれかに該当し、かつ、それらの人々が「貧困のために生活すること能はざること」とされ、隣保相扶が後退し公的救済が前面に出た。また救護範囲も拡大し、生活扶助、医療救護、助産救護、生業扶助、埋葬費支給を決め、これらの費用も国・県・市町村が一定比率で分担し、養老院、孤児院などの救護施設設置をも盛り込んだものであった。だが、要救護者に救護請求権を認めないという欠点を有し、こうした状態のまま昭和二一年九月に旧「生活保護法」が公布されるまで、いわゆる救護法時代が続いた。
 「救護法」を補足するものとして、昭和八年四月児童保護のための「児童虐待防止法」、同年五月従来の「感化法」に代わる「少年教護法」、同一一年一一月、方面委員制度を法制化した「方面委員令」などが公布され、昭和一二年三月には母子家庭の扶助を定めた「母子保護法」、傷病兵及び遺家族の救済範囲を拡大した「軍事扶助法」が制定された。また昭和一三年四月には、戦時体制の中で経営難に悩む民間社会事業団体の助成を目的に「社会事業法」を制定、昭和一七年二月には「戦時災害保護法」も制定された。
 この間、失業者救済も大正期以来の職業紹介事業、授産事業のほかに、昭和期には救農土木事業も実施され、また昭和二年三月公布の「公益質屋法」による少額低利金融も行われて失業者や低所得者の生活安定が図られるようになった。

 愛媛県社会課の変容

 大正一〇年愛媛県内務部に創設された社会課は、大正一五年に学務部に移属し、賑恤救済の行政事務のほかに勤倹貯蓄運動、地方改善事業などの教化事業、海外移住組合(昭和二年九月二一日設立)の指導と助成、住宅改善と公設住宅の供給などを担当した。昭和四年には公私経済緊縮運動が開始され、社会事業行政の充実を期して社会課内に社会事業主事二名を置いた。昭和九年度の県社会課職員数は、課長一、社会事業主事二、同主事補六、書記二、嘱二、雇二の計一五名となっており、昭和一四年には二五名に増加した。
 こうして、本県の社会課もその課員が増え社会事業行政も充実したかにみえたが、社会事業本来の性格を徐々に失っていった。すなわち、昭和初期からの経済恐慌と市町村財政の窮迫の中で防貧的社会事業が後退し、満州事変勃発以来の準戦時体制と日中戦争の長期化による国家総動員体制のもとで、本県の社会事業も国策にそって軍事援護を第一とする翼賛的傾向を強めていった。
 昭和一七年七月一日愛媛県学務部社会課は厚生課と改称、次いで同年一一月一日には内政部兵事厚生課となり、大正一〇年以来二一年間独立を保ってきた社会行政は、召集・徴発・徴集などを職掌とする兵事に吸収された(表2-7参照)。また同一七年七月一日の行政機構改革によって、県行政の実施機関としての地方事務所が県内九市町に拡充されたが、ここに軍人援護相談所を置き、地方事務所長が相談所長となって軍人遺家族や傷痍軍人の援護相談に当たった。
 昭和初年から一〇年代にかけて、「愛媛県方面委員設置規則改正」(昭和二年四月)、「公益質屋法施行細則」(同二年八月)、「農漁村不良住宅改善奨励規程」(同三年九月)、「救護法施行細則」(同七年一月)、「児童虐待防止法施行細則」(同八年九月)、「少年教護法施行細則」(同九年一〇月)、「軍事扶助法施行細則」(同一二年七月)、「母子保護法施行細則」(同一三年一月)、「社会事業法施行細則」(同一三年九月)など一連の社会事業関係法が県下でも実施された(資社経下四一七~四三七)。これらの法令に伴う社会事業関係費の推移は表2-8に示したが、その額は年をおって増加し、昭和一三年度は昭和二年度の五倍強になっている。歳出総額に占める割合も〇・四%から一・三%に上昇した。しかし、社会事業関係費の伸び率以上に県歳出総額が膨張したためその割合は一%を下まわることが多かった。なお、大正期における社会事業費の推移の項で既述したように、特別会計からの社会事業関係費(表2-9)は昭和期に入っても続いており、一般会計より支出する額の五~六倍の金額があった。

 昭和初期の社会事業諸相

 昭和初期、愛媛県社会課は大正期後半と同じく、行政の基本線を社会事業の推進及び社会教化事業の推進の二つに置き、事業を展開した。大正一三年六月に発刊された愛媛県社会事業協会の機関誌『愛媛社会事業』も、昭和五年四月から社会事業と社会教化事業の連絡提携と県民の啓蒙を兼ねて月刊となり再出発し、同月一〇日、創刊号が発行された。発行の辞では、「優秀なるものは益々栄え、劣れるものは次第に生存圏外に置き去られ、貧富の懸隔をして益々大ならしむるの傾向がある、然も其優勝者は極めて僅少にして劣敗者は年と共に増加し、茲に各種の社会問題は続出し、終に社会の基礎を危くすると憂ひらるゝに至ったのである」と述べ、資本主義社会進展に伴う社会的弱者に対し、「社会は連帯の責任を以て最も敏速に之が治療を図らねばならぬ」と社会連帯による社会事業の必要性を訴えた。
 大正一〇年四月「住宅組合法」が公布され、小額の自己資金を有する者が七人以上で住宅組合を結成し、政府から低利建築資金の融通を受けることができるようになった。このため大正一一年一〇月に宇和島市の元結掛住宅組合、喜多郡の長浜町住宅組合が設立され、昭和五年の末までに県下に四二の住宅組合が設立され、三四八人の組合員に合計五五万余円の建築資金を貸し付け、住宅難の緩和に努めた。一方、大正一〇年以降公営住宅の建設も進められ、昭和元年までには県下二五か所に四九二戸の公営住宅が建設され、低所得者に賃貸した(昭和九年「愛媛県社会事業要覧」)。また昭和三年九月一四日には、「農漁村不良住宅改善奨励規程」(資社経下四二〇)が公布され、七戸以上の農家漁家で構成する組合に対し県から住宅改善奨励金を与えた。この制度は農漁家の台所・便所・井戸・下水道などの改善を図るもので、県は改善費用の二分の一を予算の範囲内で補助した。
 大正期後半の児童保護の高まりを受けて、昭和初期も児童保護事業が進展した。公設産婆は昭和三年度県下三七か町村に置かれていたが、昭和八年度末には四六町村に増え、私設産婆に比して低料金で出産を助けた。このうち北宇和郡には越智郡の一三か町村に次いで多い一一か町村(立間村・二名村・好藤村・日吉村・泉村・高近村・岩松町・畑地村・下灘村・蒋淵村・戸島村)に公設産婆が置かれ、妊産婦の保健衛生と出産児の正常な発育を期した。また、二名村(現三間町)では昭和四年九月から巡回産婆制度を発足させ、助産のほかに健康相談をも行った。このほか、松山市医師会は「無産者ノ無料分娩」を行う無料産院を大正一四年一一月に開院させ、昭和八年度は二五名を入院させている。
 昭和三年時の児童健康相談所は、新居郡氷見町(現西条市)の氷見児童健康相談所、日本赤十字社愛媛支部児童健康相談所など県下六施設であったが、昭和五年四月には大洲町斯道婦人会、同六年八月東宇和郡渓筋村(現野村町)が児童健康相談所を開設した。また、昭和五年二月、周桑郡吉井村(現東予市)は村立小学校で乳牛を飼育し村内の希望者に安価な牛乳を販売する牛乳供給所を設け、乳幼児のみならず村民の健康増進に役立てた。
 明治三二年の「行旅病人及行旅死亡人取扱法」に基づく救護事業も継続され、大正一二年度から昭和二年度までの五年間に旅行中の病人一八九名、同死亡者一一八名を救護又は埋葬した。これらの救護費用は当該市町村で一時立て替えておき、被救護者に支払い能力がない場合は県が負担した。昭和八年度の行旅病人及び同死亡者数は一〇二名もあり、県費から四、四九四円余を支出している。
 昭和恐慌からの立ち直りをみせ始めた県下の産業界とは対称的に、昭和九年前後の農村地帯は不況と異常な旱魃に見舞われていた。明治三〇年代に郡会議員や県会議員を歴任していた宇摩郡小富士村(現土居町)の安藤正楽は、当時、根々見振興会を組織して村内の危機突破を図り、農事勤勉を促す一方、自宅に窯を築き小富士人形を作製して郷土の特産品を開発しようとした。製品は彼の知人を通して東京で販売され、稀有の芸術品としての評価を得たが大衆受けせず失敗した。昭和一〇年、安藤は「凶旱釜蜘をいかんせん 飢餓領襟に迫る 寒燈土偶を製すれば 隣家啼児暗たり 夙く起き陶窯を焼けば 残月警鐘深し 奉仕す匡救の策 南山黄金に変す」の詩を作っている。
 窮乏する農山漁村の復興のために、政府は昭和七年六月以降、救農土木事業、農山漁村経済更生事業、農村金融の促進など体系的な時局匡救事業を進めるとともに、自力更生の精神運動も展開した。本県でも昭和七年度に県下三市二七三町村から九〇九件、総額一、八一二万五千余円の救農土木事業費の申請があり、このうち六八九件に対して総額一八一万五千余円の補助金を出した。
 昭和九年八月、本県は大旱魃の被害を受け、九月には室戸台風が襲来して県民生活に打撃を与えた。一〇月には松山市設職業紹介所に旱害や風水害の影響と思われる求職者が増加し、県下に欠食児童が増加した。県当局は「罹災救助法」に基づき救助を要する戸数と人員を調査し、県内で一万二二三戸、五万三、六八七人に一人一日白米三合五勺を一か月間給与する計画を立て、また窮乏農村救済義援金として三井合名会社社長・三菱合資会社社長・その他篤志家から内務省社会局を経て送られた一一万三千円余を資に一市八四町村の要救護者に一人一日一〇銭ずつを一か月間給与した。更に室戸台風罹災者への御下賜金、恤救金も皇室や各宮家から下され、これに満州国皇帝、各新聞社からの義援金や救援物資も届けられ罹災者に分与された(資社経下四八八~四九二)。
 なお、これらの社会事業諸施策以外に、失業者や生活困窮者に対する経済的保護、救護の措置が行政当局や方面委員などの手によって行われたことはいうまでもない。

 昭和三年養老の典

 昭和三年一一月一〇日、今上天皇の即位大礼が挙行された。この国家慶事に併せて、八〇歳以上の高齢者の長寿を祝して、盃や酒肴料を下賜する養老の典が全国で実施された。本県でも一一月一〇日を期して、八〇歳以上の長寿者一万四〇五名とその付添人が、市町村役場、公会堂、小学校、神社などに特設された会場に参集して御下賜品の奉授式が挙行された。こうした養老の典は、明治新政府発足や「大日本帝国憲法」発布に際しても挙行され、その度ごとに各地で綿密な高齢者調査を実施し、その人名と生年月日等を簿冊にまとめた。
 昭和三年の養老の典施行準備は、同年二月二四日付の内務大臣官房文書課長通達「高齢者取調方ノ件照会」によって始まった。通達の内容は「今般宮内大臣ヨリ調査上必要有之候趣ヲ以テ照会ノ次第有之候二付テハ、本年八〇歳以上二達シタル高齢者ヲ左記要項二依リ御取調ノ上、来七月二〇日迄二人員数御回報相成度」というもので、その詳細は、(1)八〇歳以上の高齢者を、(イ)八〇歳以上九〇歳未満の者、(ロ)九〇歳以上百歳未満の者、(ハ)百歳以上の者の三種類に分けて報告すること、(2)年齢は数え年によること、(3)「日本臣民タル以上身分職業ノ如何ヲ」問わないこと、(4)受刑中の者は除外すること、(5)調査報告後、該当者が死亡した時はそのつど宮内省へ報告することの五項目であった。
 この通達に基づく県下の調査は五月から七月にかけて実施された。この間、宇摩郡川滝村(現川之江市)からは、「年齢計算ハ戸籍簿ニヨレバ七九歳ナルモ本人ノ申出ニヨレバ八一歳ナリト言フ、此場合戸籍・本人ノ申シ出、何レヲ基礎トシテ調査スベキカ、至急何分ノ御回答相頂度候」との質問や、本籍地に居住しないで他県に居住している者の取り扱いなど多くの質問が県庁に届いた。県当局は宮内省、内務省、近県とも連絡をとって、年齢は公簿によることや住居地は現住所によることを市町村に伝達した。七月初旬、県下の調査報告が県庁に集められ、関係者がこれをまとめて七月一七日付で内務省官房文書課へ報告した。この時、県下の高齢者数は一万九一七人でその内訳は八〇歳~八九歳が一万二八六人、九〇歳~九九歳が六二八人、百歳以上は三人であった。その後、この人数は該当者の異動などにより再調査や補正が加えられ、一一月の養老の典挙行時には表2-10に示している一万四〇五人となっていた。
 昭和三年九月、内務省より「本年大礼御挙行二際シ歴朝ノ嘉例二依リ即位礼当日ヲ以テ養老ノ典可被為行」との通達とその実施要領が本県にも届いた。この主な内容は、(1)八〇歳以上の者には朱塗の木杯小一個と酒肴料五〇銭ずつ、九〇歳以上の者には朱塗木杯大一個と酒肴料一円ずつ、百歳以上の者へは朱塗木杯三つ組一組と酒肴料一円五〇銭ずつを下賜すること、(2)各行政区の長たる者が奉授式を掌ること、(3)式場にはなるべく官公職を有する名望家を参列させることなどであった。愛媛県内務部長は政府の方針に基づき、九月二一日「御下賜品賜与二関スル件」、「御下賜品送達二関スル件」を発して御下賜品の受け取りなどに万全を期す一方、同日「御下賜品奉授式挙行二関スル件」を発して式典の開催準備に入った。
 一一月一〇日午前一〇時より松山市立高等小学校講堂において、愛媛県が主催する御下賜品奉授式が挙行された。松山市内の八〇歳以上の高齢者四一八名(このうち一七名は代理人)と愛媛県知事市村慶三、松山市長御手洗忠孝ら来賓及び関係者一三二名が列席した。来賓中には伯爵久松定謨、陸軍大将秋山好古ほか加藤彰廉、門田晋、大本貞太郎、井上要、岩崎一高、武知勇記、仲田伝之しょうら政界、実業界、教育界の名士がそろっていた
 式典は荘重かつ敬粛に取り行われ、養老御下賜品奉受者を代表して三好祐直が「偏土老耄ノ微臣、此ノ御大典二際シテ優渥ナル恩典ヲ辱フス、天恩無窮洵二恐懼感銘二堪ヘス、幸二頑健寿ヲ曠古ノ聖世二享ケテ今日ノ聖恩二浴ス、一身一家ノ光栄何物力之二加カン、謹ンテ皇恩ヲ奉謝シ聖寿ノ万歳ヲ奉祈」と奉答の辞を述べた。式が終わると参会者には松山市が寄贈した紅白の鏡餅が配布された。
 なお、この年愛媛県歳入歳出追加予算書中に御大典奉祝費一万一、〇六三円が承認されているが、このうち養老の典に関するものは会場雑費を主とする一五〇円であった。

 公益質屋の設置

 昭和二年八月一日、低所得者を対象に質物を担保にして、少額低利金融を目的とする「公益質屋法」が施行された。この年の三月、東京の渡辺銀行の休業を最初に、銀行の取りつけ騒ぎや休業が全国に広がり、いわゆる金融恐慌が始まった。四月二二日にはモラトリアムが即日施行されるなど国民に大きな不安を抱かせていた。愛媛県でもこの法律の施行に併せて同年八月一六日「公益質屋法施行細則」を定め、庶民金融の途を開いた。
 喜多郡長浜町では、法律施行以前の大正一二年一月、長浜町営質庫を開業しており、これが県内最初の公益質屋であった。昭和三年に喜多郡大洲町中村公益質屋、宇和島市公益質屋、喜多郡大洲町公益質屋、東宇和郡野村町公益質屋など五つの公益質屋が設立され、昭和九年五月までに県下に五四市町村で開業をみた(表2-11参照)。
 今治市公益質屋は八年五月一日の開業である。昭和二年以降、今治市社会事業関係者は市長に質屋設置方を進言していたが、実現はしなかった。昭和七年時局匡救事業の必要が唱導されると、市内の質商黒川政助が、今治市において公益質屋を設立するのなら、自分の質屋営業を廃止して市のために働いてみたいと申し出た。市側はこの申し出を受けて三万円の資金を準備し、市内風早町四丁目の黒川質店を借り入れて市営公益質屋にしようとした。しかし店舗は公益質屋としては狭隘で防火設備もなかったため、国庫補助二、九〇〇円、今治市より三、七八〇円を支出して、昭和一〇年二月市内中央部の神明町に鉄筋二階建の倉庫(四〇坪)と木造の事務室(三五坪余)を新築し、営業を開始した。貸し付け金額は民営質屋への影響も考慮して、一口一〇円一世帯五〇円までを限度とした。利率は月一・二五%が公益質屋法規定の限度であるが、今治市では一%の低利で融資した。流質期限は法規上の最短限度の四か月とし、別に市長裁定で二か月を限り延長できた。民営質屋の場合、月三%前後の利率であり入質期間の計算も長く計算されるため、公益質屋が市民にもたらす利益は大きく、昭和一〇年度中には一万四、四八二口、六万四、八四六円余を融資している。
 愛媛県における公益質屋数は昭和一一年度五三か所、一二・一三年度五七か所となり北海道に次いで全国二位の設置数となった。すべて市町村の経営で公益法人によるものはなかった。今治市のような人口を有する所では経営も円滑に進んだが、昭和一五年になると農村郡を中心に質屋利用者数が減少し、四町村が業務を停止した。県が国庫より転貸した運転資金は五七万二、七〇〇円(一五年現在)であったが、業績不振のため借入金の年賦償還を運転資金を取り崩して支出する公益質屋もみられるようになり、また資金を目的外に運用するものもあり、県社会課では監査指導を強めた。
 その後経済事情の変化により休業や廃業をする町村が増え、また戦災による焼失などのため終戦直後には壬生川町と宇摩郡三島町の公益質屋を残すのみとなった。愛媛県では戦後の生活難を切り抜ける一環として、公益質屋の復旧と新設に努力し、昭和二七年六月末までに支部を中心に一三か所で営業を開始した。

 愛媛県盲人福祉協会と聾唖福祉協会設立

 明治四〇年一〇月松山市二番町に創設された私立愛媛盲唖学校は、大正五年九月一二日松山市旭町に新校舎を建てて移転した。大正一二年度以降は県より毎年六、五〇〇円の補助を受け、また宮内省、文部省、松山市などからも奨励金や補助金を得て、盲生・聾生の普通教育のみならず針治療、按摩、指物、裁縫などの技術を身につける職業教育にも一段と力を入れていた。
 昭和四年四月一日「盲唖学校規則」が施行されると、私立愛媛盲唖学校もこの日をもって県立に移管され、愛媛県立盲唖学校と改称した。校舎も松山市御幸町に新築されて、昭和五年度には生徒数七一名、教員九名、書記一名が新しい学舎に入った(「愛媛県立松山聾学校創立七十周年記念誌」)。
 視覚障害者、聴覚言語障害者、肢体不自由者などに対する救済の途は、近世の盲人米の制度に比べると、近代には公的救済法制は「恤救規則」によるもの以外には生まれず、むしろその救済は後退していた。愛媛県立盲唖学校は県下唯一の盲聾者教育機関であったが、昭和九年八月三一日、盲唖学校長に任命された二神常一の努力によって、県内の盲聾者への「福祉」実現の動きが顕著になった。すなわち昭和一〇年三月二四日愛媛県盲人協会(設立年月日不詳)の会合が盲唖学校講堂で開催され、同一一年九月には本県の盲人の福祉増進を目的とする愛媛県盲人福祉協会の結成が企図され(「愛媛社会事業」昭和一一年一二月号)、翌一二年四月一日より正式な活動を始めた。
 昭和一一年九月の「愛媛県盲人福祉協会趣意書」は「盲人の福祉を図り、保護を加へるの道は洋の東西を問はず相当早くより講ぜられまして、我国に於ても中古以来其の文献に乏しくはないのであります。殊に徳川時代に於て其の制度は最高峰に達しまして鍼按業の如き殆んど盲人の専業となり、之を主としたる教育も行はれ、盲目ながら実に明朗なる世界に住んで居たものであります。然るに明治維新に際会して各般の制度改廃せられるに及び、盲人の社会的保護は不幸中絶の非運に陥り、従来盲人にのみ許されたる音楽鍼按の独占さへも奪はれ、薄幸の身を以て激烈なる生存競争の渦中に投ぜられる様になりました」と述べ、当時、盲学齢児童の就学率が全国平均(二五%)を下回っていた本県の就学率(二三%)の改善を図るとともに、愛媛県盲人福祉協会を設立して、相互の連絡を図り、研究調査し、失明に関する知識の普及に資し、予防救治に関する事業の促進を通して「盲人福祉事業」の拡充を期そうと呼びかけていた。
 「愛媛県盲人福祉協会々則」によると、協会事務所は県社会課内に置かれ、「会員相互ノ親ヲ厚クシ盲人ノ福祉・失明防止並二視力保存二関スル事業ノ振興」を目的とし、講習会・講演会・研究会の開催、盲人の保護及び就学奨励、開眼検診並びに治療の補助、点字の普及などの事業を行うこととした。初代会長は県学務部長猪股博、副会長には県社会課長伊関庄三郎が就任し、盲唖学校長二神常一は常務理事に、同校教諭佐々木政次郎が理事、日野亀次郎ら四名の教諭が評議員となった。こうした盲人福祉協会結成の背景には、満州事変以降の戦盲者に対する援護事業の要請があったことも見逃せない(「民生行政概要」昭和三一年愛媛県発行)。
 昭和一七年四月、聾唖関係者の全国組織である聾教員振興会、日本聾唖学校長協会、日本聾唖協会、日本聾唖教育会が合併して日本聾唖福祉協会が結成された。こうした動きに応じて本県でも同年八月一五日に聾唖福祉協会の支部組織が結成された。支部発会式は県立盲唖学校で行われ、当時の同校「当直日誌」(愛媛県立松山盲学校蔵)八月一五日の欄には「聾福祉協会支部発会式アリ 列席者藤本敏文氏(大阪から来県した協会長)、植田視学、校長、相原・今村・池内・原・高橋・二神・乗松・三好ノ各先生、篠木先生(元同校教諭)来校、卒業生約五〇名参集」とあり、小規模ながら本県にも聾唖者の福祉団体が誕生したことを記している。
 これら二つの協会は、愛媛県で最初の「福祉」という語をもつ団体で、ともに愛媛県立盲唖学校を活動母体として結成されたことは注目に値する。しかし、岡山医大の畑博士を招いて県下で開眼検診などを積極的に行っていた盲人福祉協会は、翼賛運動の中で名称を変え、傷病兵や軍需産業労務者に対して按摩や針治療をもって奉仕する治療報国を主な活動とし、聾唖福祉協会も会員の親睦を中心とする活動が中心になっていった。

表2-7 社会事業行政の部・課の変化

表2-7 社会事業行政の部・課の変化


表2-8 昭和2年~20年の社会事業費(決算額)の推移

表2-8 昭和2年~20年の社会事業費(決算額)の推移


表2-9 昭和2年~20年の社会事業関係費の特別会計支出の推移

表2-9 昭和2年~20年の社会事業関係費の特別会計支出の推移


表2-10 昭和3年における郡市別高齢者数

表2-10 昭和3年における郡市別高齢者数


表2-11 公益質屋設置状況

表2-11 公益質屋設置状況


表2-12 愛媛県における公益質屋の職業別利用者数

表2-12 愛媛県における公益質屋の職業別利用者数