データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
二 本県出稼の諸形態
採貝漁業出稼の推移
オーストラリアの採貝漁業は、木曜島で明治三年(一八七二)に真珠貝(シロチョウ貝)が発見されて以来急速に発展した。今世紀初頭(明治三〇年代)に他の採貝地を圧倒するに至ったのは、日本人のダイバー、特に和歌山県と本県のダイバーの優秀さに負う所が大きい。初期のダイバーはフィリピン人、マレー人、南太平洋諸島の人々が中心であったが、明治一二年(一八八〇)頃から日本人ダイバーの優秀さ、忍耐強さが認められて急増し、明治三〇年(一八九七)には木曜島への出稼者一、〇〇〇名をこえ、日本人の採貝船も登場した。しかし日本人の急増により白人経営者が圧迫されることを恐れ、又クインスランド州東部の砂糖栽培への移民の増加もあって激しい排日運動が起きた。明治三〇年には日本政府は木曜島への渡航を一時制限し、クィンスランド州政府はイギリス国民以外の真珠貝・ナマコ船の所有及び借船独立経営を禁止した。さらに、明治三二年(一八九九)には、州政府と日本政府の協定で渡航者の制限を約束した。明治三四年(一九〇一)には移民制限法が議決され、オーストラリアから有色人種の閉め出しによる白豪主義が確立した。しかし、優秀な日本人ダイバーがいなくなると白人の採貝会社の経営不振になることから、採貝船の船主の働きかけにより一定数の日本人ダイバーの出稼を黙認せざるをえなかった。このため、渡航禁止に近い制限にかかわらず、木曜島や西オーストラリアへの渡航が続いた。
この採貝漁業への本県からの渡航者に関する研究は、現在まで全く行われていなかったと言っても過言ではない。わずかにオーストラリア国立大学のシソンズ、押本直正、久原脩司などの諸研究があるが、ほとんどが和歌山県中心のもので、現地に残る日本人死没者の墓碑名の分析に重点をおいている。これによって判明した名簿は出稼先が確認でき、死亡年月から渡航年もほぼ推定できるが、出身地の不明のものが多く、途中帰国者や他所への転出者が判らない。地域的には木曜島とブルームが中心だが、他にもポートヘッドランドやコサックなどにも一〇基以上の墓石があり、採貝漁業が営まれていたことを示しているが、ここでは中心の木曜島とブルームについて述べる。
初期の中心地・木曜島
ヨーク岬半島とニューギニアの間のトレス海峡にある木曜島は、人口約二、五〇〇名の小島であるが、採貝漁業への日本人の出稼ぎに関する資料は少なく、オーストラリア側のものではC・S・シソンズの諸報告や、最近わが国でも出版されたM・A・ベーン『真珠貝の誘惑』などに部分的にみられるくらいである。その中では、わが国側からの調査で、大島譲二編、『トレス海峡の人々』の中の久原脩司の報告が最もまとまっているが、いずれも本県に関する具体的資料はほとんどみられない。トレス海峡諸島では、木曜島以外にもダーンリィ島、プリンスオブウェールス島、ヨーク島などにも採貝漁業出稼者の墓碑が発見されている。中心の木曜島には東端に日本人町ができ、最盛期には五つの採貝会社と日本人経営の造船所、醤油などの醸造所、唐ゆきさんの家、風呂屋、出稼者の多い県の出稼者用宿舎(以下ボボーディングハウスと呼ぶ)などがあった。ボーティングハウスには和歌山県出身者用のもの六軒の外、本県の伊予ハウス、広島ハウスなどがあった。明治三〇年頃には日本人出稼者が島の人口の六〇%を占め、唐ゆきさんも三〇余名おり、本県人で唐ゆきさんと結婚した人も多い。
明治三四年(一九〇一)の移民制限法で自由渡航が禁止されて日本人出稼者が減少し、太平洋戦争開戦時には五〇〇名を下まわっていた。このような中で本県人が木曜島を知ったのは明治三七年(一九〇四)~三八年(一九〇五)頃で潮ノ岬方面への出稼漁民を通じて、和歌山県出身の平松新八が紹介したと言われており、その結果として明治四○年(一九〇七)に二〇名余の本県人が木曜島へ初の渡航をしている。木曜島への本県出稼者の内、現在までに判明している者をみると南宇和郡が多い。特に西海町と内海村が中心で、その一部が「西海町誌」に報告されている。御荘町平城の観自在寺に仁王像建立の寄贈者碑があるが、明治四四年(一九一一)に、木曜島で活躍した東豪州組と呼ばれていた人々が寄進したものである。寄贈者碑には、西海町船越の浜田才一外三七名の住所、氏名、金額が刻まれている。その合計金額が三八八円で、当時、米一石が一七円強であったことからみて金額の大きさがわかる。木曜島への出稼者の中には、陸上で商売をしたり、農業をした人もいる。その代表的な例が西海町の山下春良で、食料品店を開き、後述するブルームにおける三瀬豊三郎や山本亀太郎の役割をはたした。天草出身の唐ゆきさんと結婚し、三人の子供と共に県人会や日本人会の会長をつとめて現地に骨を埋めた。彼らは地縁的・血縁的つながりで呼び寄せによって行く場合が多く、初期は密航も多かったが、昭和に入ると正規の渡航のみとなった。渡航費は神戸まで自己負担で行くと、神戸~木曜島間(主にホンコン経由)は採貝会社が負担又は立替え負担し、乗組む採貝船の船長や出身県のぶとボーディングハウスの経営者などが渡航手続きや会社との雇用契約を代行して呼び寄せの形で行き、その船長のもとで働いた。渡航する出稼者は昭和一二、三年頃まで続いた。
前述の仁王像寄贈名簿以外に、昭和六年~一五年の間の木曜島関係者名簿では本県出身者は一七名の氏名がみられる。その資料の中で最もまとまって、新しく、従ってその中に生存者の可能性を含むものは、太平洋戦争開戦時、在豪日系人を収容したものの内の一つである、ヘイ収容所の収容者名簿(表2-41)である。名簿に本県関係者は四十名もいるが、関係者である高橋与や高魚幸之助(共に内海村)、辰野柳七、松夫の兄弟(保内町)らからの聞きとりによると、昭和二一年に集団で帰国
した時の人数は、木曜島関係者二七名、ブルーム関係者一一名であった。これ以外に開戦直前に帰国して名簿にない者も多いが、これは聞きとり調査に頼るしかない。
彼らはそれぞれ本県出身のキャプテン(船長)の船に乗り組んだ。特にキャプテン河野(貞三郎・保内町出身)はその勇気ある行動力と人間性で出稼日本人はもとより、アイランダー(トレス海峡諸島の人々)やパプアニューギニア人、アボロジニー(オーストラリア原住民)などの乗組員や現地の人にも高い評価をえていた人物である。仕事は白蝶貝の採取以外に高瀬貝今ナマコの採取船もあったが、いずれの船でも新規採用の出稼日本人は料理係をしながら先輩日本人のダイバーの潜水技術を見習い、危険をかえり見ず収入の多いダイバーを競ってめざした。ノルマ以上の水揚げがある場合や、天然真珠がみつかると、船長の収入になったので、その中からダイバーや他の船員にもボーナスが出た。ダイバーの収入は月六~七ポンドの固定給が加えられたが、料理係は五ポンドくらいであった。その他、ダイバーは入港時には上陸して遊ぶし、入浴や外泊もしたが、他の者は船に起居し、船上生活でも水の配当など大きな相違があった。
食事だけは乗組員全員平等であったが、当時日本国内でカンコロ飯を常食にしていた出稼者には豊かなものであったという。いずれにしても、レイアップタイム(サイクロンなどによる休漁期)を除くと、大部分が船上生活で、食料や燃料は会社から現物支給されるため衣料や飲酒代、上陸時の娯楽費、故国との通信費以外は伊予ハウスの山下が管理して故国へ送金してくれた。これを依頼しない者の中にはトバクや過度な飲酒で身を持ち崩す者も出た。多い月には一〇〇円~二〇〇円と送金する者と大きな相違である。昭和一五年に送金は凍結されたが昭和二一年の帰国時には残金は支払われた。海を生活の舞台としてきた多くの南予出身の出稼労働者にとって、当時としては絶好の出稼地であった。
本県最大の出稼地ブルーム
ブルームは西オーストラリア州北西部のインド洋に面した人口約四、五〇〇人の小さな町である。採貝漁業の歴史の詳細は不明な点もあるが、採貝漁業以外にめぼしい産業はなく、明治二〇年代にはかなりの日本人がすでに進出しており、明治三〇年代から四〇年代初頭にピークになっている。ブルームにある日本人の墓碑から、現在までに判明している者は合計六八八名で、出身地、氏名などの不明者を含むと一、〇〇〇名以上になる。これを出身県別にみると、木曜島と同じく和歌山県に次いで第二位で、シソンズの資料では六四名となっているが、昭和五八年のテレビ愛媛の特別取材班の調査では表2-42のごとく七一名となっている。
木曜島へは一般にホンコン経由で行ったが、ブルームへはシンガポール経由でイギリスの定期船があり、パース、フリーマントル経由で渡航した。シンガポールにはブルームの採貝会社の労働力斡旋所があり、日本人経営の船待ちの宿泊所で採用の機会を待った。
ブルームへの県人の進出は明治二六年(一八九三)、三瓶出身の三瀬豊三郎の渡航が記録としては古い。これに次いで同二九年、同じ三瓶出身の山本亀太郎らがこれに次ぐ。いずれもボーディングハウスの三瀬ハウスや、山本商店と呼ばれる雑貨店を経営し、本県人の進出に大きな足がかりとなった。彼ら自身のブルーム行は、その動機などはっきりしないが、彼らと地縁、血縁のある人が続いて多くブルームに行った。例えば、三瓶の菊地武美の場合、父親が明治四三年(一九一〇)から三瀬を頼ってブルームへ行き、大正二年(一九一三)に一四歳の彼を連れて再度ブルームへ渡航を試みている。この時は不況のためシンガポールでブルーム行を断念し、彼自身は戦後帰国するまで東南アジアで、波乱の青春を送ったが、これに類した事例は他にも多い。菊地の周辺だけでも、ブルームを体験した人で、墓碑名にない人(帰国又はシンガポールなどへのい移動)として、叔父の菊地武重、同郷の先輩でブルームの成功にあこがれて渡豪のきっかけをつくった山崎栄治郎(八幡浜出身)などがその例である。同様な例が内海村家串出身の北条嗣雄の周辺にもみられる。彼と兄の重次郎、叔父の江尻三兄弟が三瀬に呼んでもらった関係から家串出身者はブルームのみへ行くようになった。兄の重次郎はシンガポールで一〇年間機会を持ち、昭和九年(一九三四)からダーウィンヘ一年、さらに昭和一〇年から二一年帰国するまで、戦争中のヘイ収容所時代を除いてブルームにいた。この兄の所へ昭和一一年に一八歳の嗣雄も行き、以後彼はこれを含めて戦前一回、戦後二回ブルームへ行っている。昭和に入ってからの渡航はすべて正式なものである。内海村は前項のように木曜島へも若干名行ったが、主にブルームへの出稼が中心で、家串の外、油袋、平碆・魚神山、網代などから現在判明している分で三〇名が出稼に行った。特に戦後の本県からの採貝漁業への出稼中心地となった。
ブルーム関係の資料は前述のヘイ収容所の名簿以外に、本県側の資料として注目できるものが二つある。
第一の資料は三瀬豊三郎が大正六年から大正一五年(一九一七~一九二六)の間に扱った送金取扱帳である。ブロータイム(休漁期、一二月~三月)に入ると賃金を精算するが、出稼者たちはボーディングハウスや商店へ借金を支払った残りの国許への送金を三瀬ハウスに頼んだ。この送金はブルームの西オーストラリア州銀行、ユニオン銀行から香港上海銀行神戸支店、三井銀行神戸支店宛への送金小切手による場合が多かった。送金人はブルームの三瀬豊三郎、受取人は京都の島田治郎作となっていた。三瀬から島田へ各依頼人の送金額と宛先を郵便で通知し、島田から各人の国許へ送金した。三瀬と島田の関係については菊地武美の報告に詳しいが、山本亀三郎商店の商品買付け代理店としていた島田とは幅広い信頼関係を確立していた。この送金額は大正一五年(一九二六)頃から採貝漁業の不振で激減するが、その送金先によって本人の出身地別名簿が作成できる。三瀬は在ブルーム二八年の後、真珠不況で店を県人会にまかせて昭和二年にインドネシアのスラバヤに移り、更に昭和一〇年に帰国した。そして終戦の日の昭和二〇年八月一五日に郷里、三瓶で死没した。現在二男がオーストラリアのカウラ市に、長女は郷里の三瓶に在住している。
第二の資料は、山本亀三郎商店に関するものである。出稼者の中には、一四・五歳の者から妻帯者まで多様であるが、酒、ばくちなどに身を崩す者が多かったので、三瀬は山本らと相談して日本人相互の共済と福祉のため明治三〇年(一八九七)頃、西オーストラリア日本同盟会を結成し、更に、貯蓄投資会社までつくっていた。これらは必ずしも成功とは言えなかったが、この貯蓄投資会社のものと思われる出納簿(大正三・四年頃中心)に約一四〇名の本県人中心の名簿がある。又、「明治三七年起・死亡者懸(掛)残帳-山本商店」と「個人別出納簿」もあり、当時の生活を推察できる。日常品はもとより、新聞社や出版社への送金、大学の講義録の取り寄せまでみられることから、単に生活苦からの棄民的出稼とは考え難い。彼らの成功と活況を知った出身地からは、多くの寄付依頼が寄せられ、前項の木曜島の東豪州組以外にも同じ場所に、大正八年(一九一九)に西豪州ブルーム南郡人共進会六九名の名で石灯籠が寄付されている。寄付額は一人三円~三〇円である。その他、明治三八年(一九〇五)と明治三九年の二回にわたり宇和島市の和霊神社に三瀬、山本などを世話人として四一名から二三七円が寄付されている。又明治四〇年頃、三瓶町津布理の高福寺へ県内外の出稼者七一名(内、県内出身者五五名)から三五〇円が、明治四五年(一九一二)には三瓶出身者二四名が四〇〇円を三瓶小学校に寄付している。これらは一例にすぎないが、懸(掛)残帳その他の資料から、採貝漁業者の収入の規模及び名簿と、三瀬、山本らの扱った金額の大きさなどは採貝漁業出稼の研究資料として注目に値する。
採貝漁民の生活
明治一二、三年頃から日本人ダイバーの優秀さが認められ、明治二五、六年には木曜島の日本人は五〇〇名、明治三〇年には一、〇〇〇名を超えたという。本県人も明治四〇年に和歌山県人の平松新八の斡旋で初めて木曜島へ集団的な出稼に行く一方、三瀬、山本らはすでに明治二〇年代末にブルームに行っていた。
この渡航費をどうしたのか。明治四〇年頃で神戸~木曜島間片道普通賃が六〇円で、移民会社に頼めば仲介手数料を一人二〇円もとられたので密航が多かった。特に木曜島へはホンコン経由が多く、インドネシアのセレベス島マカッサルやアロー島ドボーなどからも木曜島や東部オーストラリア各地へ密航が行われた。しかし採貝漁業がブルームに中心を移すにつれて、船便の関係で渡航がシンガポール経由となり密航は減った。シンガポールは出入国検査が厳しかったので、採貝会社の代理店と契約を結び、旅費は給料前払いで渡航したのが多い。ブルームに渡航した者の中には、アメリカに密航するつもりでシンガポールに来たが、目的を果たせず、仕方なくブルーム行に変更した者も多い。
採貝漁業は表2-42のごとく多数の犠牲者を出す作業であったが、その収入は大きかった。一〇t~三〇tのダイバーボートを構成する一〇名前後の乗組員を職種別にみると、明治四〇年頃の年収がダイバーで一、二〇〇円~一、五〇〇円、テンダー(命綱持ち)で三五〇円~四五〇円、クロー(水夫)で二二〇円~二七〇円であった。当時の小学校教員の年収一〇〇円~一三〇円と比べて、その魅力は大きかった。従って日本人出稼者は競ってダイバーを志願し、又優秀なダイバーと乗組むことが収入を増やす近道であった。それだけに潜水病その他で多くの生命を失ったのである。現在もブルーム周辺で細々と採貝漁業が営まれ、本県からも一〇名に満たない出稼者が現地採貝会社と雇用契約を結んで出稼ぎに行っているが、効率のため潜水したまま移動することが多く、危険度は現在も同様である。
又、風土の相違と重労働で病気も多かった。木曜島は地下水不足のため、雨水をタンクに溜めて飲料水にした為、赤痢が多発した。また、重労働と野菜不足のため脚気の患者が多く発生した。このような環境の中ではボーデンハウス(簡易宿泊所)の存在は大きく、出稼者の休養、慰安、厚生の場であった。三食付で、新しい渡航者が乗船するまでの間や、ブロータイム(一二月~二月の間、ウィリーウィリーと呼ぶ北西貿易風が強く休漁する期間)には滞在した。ブルームの三瀬ハウスは本県人にとって大きな生活根拠地であった。
農業移住その他
明治四四年(一九一一)のオーストラリアの国勢調査によると、採貝漁業に次いで多くの日本人が従事した仕事は農業である。その数はクインズランド州一三一名、西オーストラリア州一九名、ニューサウスウェールス州五名、ビクトリア州二名の計一五七名となっている。これ以外に精糖業関係(工業労働者)としてクインズランド州に一九五名の日本人がいる。クインズランド州の日本人総数悠三二六名になるが、これら砂糖栽培関連への移民であった。彼らの出身地は採貝漁業と異なり、最も多いのが熊本県(三六・七%)、次いで和歌山県であるが、一九・二%と少なく、広島県(一七%)、岐阜県(九・七%)が続く。そのほとんどが明治二五年~明治三五年に日本の移民会社の手によって渡豪した点も採貝漁業と異なる。明治四四年の国勢調査の中でビクトリア州の日本人二名の内の一名が本県出身の高須賀穣であるとも言われている。彼の年譜表2-43によると、明治三八年(一九〇五)にメルボルン着、三九年に家族共でスワンヒル近郊に入植し、米の栽培を始めているが、明治三四年(一九〇一)に「移民制限法」が成立し、全豪から有色人種締め出しが行われている中で入国許可は注目される。高須賀穣は松山市末広町出身で、慶応大学に二年在学後に渡米し、ペンシルバエア州のウェストミンスター大学を卒業して帰国した。明治三一年(一八九八)に帰国し、立憲政友会から愛媛県選出の最初の衆議院議員となった。明治三五年(一九〇二)の選挙には立候補せず、明治三八年に妻と二人の幼児を伴ってメルボルンに到着、輸出入貿易に従事する目的で上陸許可をえたのである。明治三五年から昭和二六年までの開はアジア人の居住は一時入国許可しか実際には認められず、次のような目的の少数の者に限られた。(一)オーストラリアの真珠採取の潜水夫、又は船員として雇用される者、(二)国際貿易の従業員。真珠採取業者は日本人従業員を陸上業務に使用することは許されず、雇用契約が更新されぬ場合、本国送還を義務づけられていた。貿易商人とその家族も毎年手続きを更新し、許可をえなければならなかった。このような中での高須賀穣の長期滞在は明らかに例外であった。苦労を重ねた末米作などで大きな成果をあげ、子供達もオーストラリアに大きな貢献をした。単独帰国中の昭和一五年(一九四〇)松山市で急死した。彼の活躍を知る郷土の人は意外に少ないが、本項ではD・C・Sシソンズの報告から高須賀家の略年譜を示して、本県の隠れた先駆者の紹介にする(表2-43)。
表2-41 ヘイ収容所収容者名簿(昭和17年・本県分) |
表2-42 ブルームの日本人墓碑名①(本県関係) |
表2-42 ブルームの日本人墓碑名②(本県関係) |
表2-43 高須賀家略年譜(年齢は穣の年齢である) |