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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第二節 ハワイへの移住①

 日本・ハワイの交流史

 近世以降のハワイとの交流は漁民等の漂着にはじまる。愛媛県人としては民蔵(越智郡岩城村)が栄力丸で漂流、一八五四年(嘉永一一年)米国より送還途中にヒロに立ち寄ったとされる「愛媛県関係漂流者」)。
 公式の交流としては、万延元年(一八六〇)、我が遣米使節団を乗せたポーハッタン号が、予定外であったが二月にホノルルに寄港、使節等は国王カメハメハ四世に謁見した。また、咸臨丸は米国よりの帰途ホノルルに寄港し勝安房等幹部が国王に謁見した。
 ハワイへの最初の移住者は、慶応四年(一八六八)に出発したいわゆる「元年者」と呼ばれる一五三人の集団移住者であった。彼等は近代における我が国最初の移住者であったが、ハワイで多くの苦難に遭い、その噂をサンフランシスコで聞いた宇和島藩の城山静一等が救済上申書を提出したりしている(後述「元年者」参照)。明治新政府も明治二年(一八六九)に調査と出稼ぎ人召還のために特派使節団を派遣している。
 同四年には日布修好通商条約が調印締結された。ハワイ政府としては主産業の甘蔗栽培労働者の補充が必要であり、人口減少のことも重なって移住者導入の熱意が強かった。同八年、練習艦筑波の艦長に日本移民の誘致を依頼した。同一四年には、ハワイ国王カラカウアが来日して明治天皇と会見し、日本よりの移住者を懇請した。しかし移住者送出しは、この時直ちには成功せず、元年者は明治新政府により公認はされたものの、同一八年までは我が国からの移住者送出しはなかった。元年者を含めて同一七年までの本県人のハワイ渡航については資料がなく明らかでない。
 同一七年、日本政府はハワイの移住者誘致を承諾、翌一八年約定出稼人、いわゆる「官約移民」が第一回九四五人、第二回九八五人と渡航した。同一九年には日布渡航条約が締結された。官約移民は、同二七年に廃止されるまでに二六船、二万九、一三二人にのぼった。従来、愛媛県人は官約移民に含まれていないとされてきたが、同一九年の第三回に水夫として一〇人が渡航上陸している(後述「官約移民」参照)。
 この間、同二六年に革命によってハワイ王朝が崩壊、我が国も在留日本人保護のために軍艦浪速等を派遣した。共和制政府は日本移民排斥の態度を取り、同二七年「外国人上陸条例」を設けるなど渡航取締りをきびしくした。同三〇年には日本移民上陸拒否事件が起こり、同年中に上陸を拒否された者は合計千百数十人にのぼったという。米国は、日本政府の在留日本人の権益を阻害するとの強い抗議にもかかわらず、同三一年八月一二日ハワイを併合するに至った。
 日本人移住者は、その間も増加を続けたが、同二五年から同三三年のペスト予防焼払事件までを暗黒時代と呼ぶ人もある。すなわち日本人の無頼の徒の集団が、誘拐・人身売買・脅迫等を働き社会に迷惑を及ぼし、これらのことが影響して官約移民が廃止されたといわれている。また、同二七・二八年の日清戦争を機としての在留日清両国民の対立抗争事件も悲しい出来事であった。さらに、ペスト予防焼払事件が同三三年にホノルルで起こった。これは、同三二年に流行したペストに七一人が罹病、六一人が死んだが、患者中中国人三五人、日本人一三人が居たため、衛生局が両国人集住地区を病毒一掃のため焼払ったところ、予定外の地域まで延焼して、日本人にも大きな損害を与えた。日本人だけで焼失家屋一七六軒、被害者は男二、四六〇人、女七九六人、小児一八三人、外来者一五〇人にのぼるという有様であった。この事件は、ハワイ政府が同三六年に損害賠償して解決した。
 同二七年に官約移民が廃止されてからは、我が国の移民保護規則も公布され、私設移民会社の取扱いによる契約移民、いわゆる私的移民時代が同三三年まで続くことになる。当時ハワイから故国に送金される金額は毎年二〇〇万円に達したといわれ移住希望者は後を絶たなかった。移民会社としては、海外渡航会社が六一回で一万七三二人、森岡商会が五一回で八、一四八人、熊本移民会社が四六回で七、七三八人等が主なところである。
 この契約移民が耕主側としては管理支配に便であり、同三二年をみると一年間に、実に二万二、九七三人の日本人移住者がハワイに送り込まれている。
 一方では自由移民も渡航していたが、同三三年に米国がハワイに属領制をしくと、契約労働移民が廃止され、すべてが自由移民となった。この自由移民時代は、同四一年の日米紳士協約により移住制限が実施されるまで続くことになる。この時期は、日本人の組織化の時期であり、日本人社会の成長期でもあった。契約移民時代の酷使・虐待に代って身分的に自由を得て立場も有利になって来たのである。このころ、日本人にとって不幸な事件も相次いだ。同三三年に前述のペスト予防焼払事件、同三四年にアメリカ丸事件という日本婦人侮辱事件がそれである。
 これらを機に結成された臨時日本人会と布哇日本人会は、損害賠償等の目的を達成して解散したが、日本人権益の保護伸展を目的とした組織の結成の気運が強まった。このように自由獲得と躍進の意気に燃えて、同三六年にハワイ全島統一代表団体として中央日本人会(会長は総領事斉藤朝)が結成された。しかし、この会は、頻発した日本人ストライキの解決等に充分に力を発揮できず弱体であった。例えばワイパフのストライキに際しては、会の支部に反対する人々が別個にワイパフ日本人会を組織、その委員森田栄(愛媛県人)等が会の支部会計の乱れを攻撃し、結局会長等の調停は失敗した。また布哇新報社も会を攻撃したりしたので会は次第に信頼を失い、同三八年には消滅した。一方、この会や移民会社等の不法取扱いを糺す目的で、有志による革新同志会が同三八年に結成された。同会の委員長は志保沢忠三郎、常務委員の中に愛媛県人芳我日下がいて活躍した。この会も、「醜党退治」等の目的を達成したとして、同三九年九月九日に解散した。
 この時期はまた、米大陸への転航が盛んであった。米国本土への転航は初期官約移民の契約満了時の同二一年ころから始まっていたといわれる。大陸に新天地を求める人々は同三三年に契約労働制が廃止され、自由移住となると、日本からの計画的転航者も加わって増加していったという。さらに転航周旋人の活動により転航は盛んとなり、同三四年から同三九年までが転航最盛期であった。愛媛県人芳我日下が転航周旋に活躍したのもこの時期のことである。
 転航はハワイの労働力を不安定にし、米大陸への大量流入は米国西岸地域の排日感情を高めることになった。同四〇年転航禁止法が公布され、さらに同四一年には日米紳士協約により我が国は自主的に渡航を規制した。
 以後、再渡航者と家族呼び寄せ以外は渡航できなくなり、大正一三年(一九二四)までは、いわゆる「呼び寄せ移民時代」となった。新規移住者はなくなり、「写真結婚者」や在留者の近親だけが渡航、この一六年間に女子渡航者は約三万二、〇〇〇人に達し、その大部分は写真結婚花嫁であったといわれる。
 この時代は、移住者の定着化と社会的向上指向の時代であった。近親の呼寄せや写真結婚花嫁の渡航で家族数も増し定着化が進み、生活改善運動等も起こった。明治四二年の七、〇〇〇人労働者の第一次オアフ島耕地ストライキ、大正九年(一九二〇)の第二次オアフ島耕地ストライキが起こって、待遇改善、賃上げ等が図られた。
 大正一三年になると、米国移民法いわゆる「排日移民法」が実施され、帰化権のない日本移住者は完全に締め出されることになった。新規渡航完全禁止となって以後、在留日本人は永住化の道を進まざるを得ず、いわゆる、「永住土着時代」となった。しかし、在留邦人の苦難は続き、満州事変から太平洋戦争と反日と戦争中の強制収容と大きな嵐に巻き込まれていった。在留邦人はよく苦難に堪え、二世部隊(第一〇〇・第四四二部隊)は米国のために勇敢に戦って武勲をたて、日本人に対する信頼感を高めた。
 戦後、昭和二二年戦争花嫁の入国が始まり、同二七年新移民法により移住可能となり、日本人帰化法も成立、日系人の大活躍時代を迎えることになった。

 元年者

 明治元年(一八六八)のハワイへの集団移住が、我が国の近代における最初の海外移住であった。
ハワイ政府は砂糖会社と協力し、中国人苦力の代わりに日本人労働者を得ようとした。通商条約を結ぶため、ハワイ国王は、万延元年(一八六〇)に日本の遣米使節に、また慶応三年(一八六七)にも親書を送ったが成功しなかった。そこでまず、日本人労働者を得るため、領事ヴァン・リードをして徳川幕府との間に「日本ハワイ親善協定」を結ばしめた。そして、出稼人三〇〇人分の渡航印章(旅券)の下附を得て京浜地方で出稼ぎ人の募集を始めた。ところが、その時に明治維新となり、新政府は、幕府から受けた印章を無効として没収しヴァン・リードの請願を承認しなかった。そこでヴァン・リードは無断出航という非常手段に出た。すでに、一五三人(男子一四六人・女子五人・少年二人)の出稼人を乗せて待機させていた英国船サイオト号(八〇〇t)を、慶応四年五月一六日の暁闇、横浜を出航させてしまった。サイオト号は三四日間にわたる航海を終えて、六月一九日に無事ホノルルに到着、翌日には出稼人達は上陸した。
 この出稼人は「元年者」と呼ばれているが、一五三人の年齢別は一〇才台一八人、二〇才台一〇二人、三〇才台二二人、四〇才台三人、不明八人となっている(『元年者移民ハワイ渡航記』山下草園)。元年者の人数については、『布哇五十年史』(森田栄)の調査が定説となったとされ、人名もおおむね判明しているが、出身地は明確でなく本県出身者の有無も明らかでない。
 この元年者の航海については、佐久間米吉の布哇渡航日記が残っており大体平穏であったようである。到着時のホノルルの新聞も好意的であり、元年者は早速各耕地等に配分された。その内訳は次のとおりである。
 カワイ島 リフエ耕地八人
 マウイ島 ワイルク耕地一五人・ハイクウ耕地一五人・ウルパラクア耕地一五人
 オアフ島 コウラウ耕地三六人・カネオヘ耕地二五人
 ホノルル 家庭奉公二〇余人
 元年者の渡航前の契約条件は、年限三ヶ年、賃金は一ヶ月四ドル、全労働者の頭一名を置く(仙台藩士牧野富三郎が任じられた)、船賃、住宅、食糧、治療費等は耕地会社より支給すること等好条件であった。しかし、実際の耕地での生活は苛酷そのものであった。炎天下の一二時間労働、休憩なし、体が不調でも休業できず、日本品の欠乏すること等、生活は酷使の一語に尽き自殺者が出たという噂も立った。
 この元年者の救済に一役買ったのが宇和島藩士城山静一であった。彼は江戸の商人扇屋久次郎の手代の通訳としてサンフランシスコに滞在中に元年者の苦難の様子を聞いた。その上、彼自身がハワイ駐在領事として渡布するという噂をヴァン・リードにより立てられて迷惑した。そこで明治元年(一八六八年)一一月二四日、外国官判事試補都築荘蔵あてに、次のような上申書を提出した。

   上
  先般私儀江戸ニ罷在候処同所町人扇屋久次郎と申者亜美利加洲え商法相開候発意ニ而商人同所え指遣し候付私え通弁且事件委任相兼罷越呉候様相頼候処従来外国え渡航仕同国之形勢茂熟察仕度と多年心掛居候義故好機会と奉存右之趣建白候上渡海仕候処横浜在留米人ウエンリイトなる者私コンシユル之役目ニ而サンドウヰッチえ参り候様流言美国サンフランシスコニ着仕候処人々皆コンシユルを呼ひ候次第且又新聞紙ニも早々右之次第相出し尤商用ニ付サンドウヰッチえ可参筈之処右之次第ニ而はサンドウヰッチえ参り候節は如何様なる事も可仕出来奉存猶又皇国之御名目ニも拘候義と奉存其故ハウエンリートヨリ先般サンドウヰッチえ相送候奴隷共甚困却罷候様子是亦新聞紙ニ而承知仕候処右奴隷の中一両人ホノルルと申処え参り進退窮り自殺候様ニ而右之所えウエンリート策略ニ落入り候而は私一方之儀は敢而不申論候へ共乍恐、皇国之御名目ニ茂拘リ候義茂出来可仕義と奉存候右前書之次第ニ早々帰朝仕候間此段御尊家様まで奉建白候間宜敷御達し被下置候様伏而奉懇願候恐々謹言
   明治元辰十一月廿四日
    都築様閣下                                 宇和島藩 城山静一

 城山は右の上申書に「サンフランシスコ新聞抜書訳」を添付し、記事によると自殺者が出たとの風聞があること、日本人の内に初年中全く月給を受取れない者もある等のことがある。
 出稼人元締の牧野富三郎も、同元年一二月二五日・二六日に上申書を出し、また城山静一と連名で「皇朝横浜御政府様」宛に歎願書を提出している。牧野は同二年にも歎願書を出し続け、明治新政府もハワイ政府と交渉のため使節を派遣することとした。太政官は上野敬介を民部監督正に任命、同二年一〇月三一日ハワイへ出発させた。使節の調査交渉の結果ハワイ政府と同三年一月一一日に次の内容の調印をすませた。すなわち、待遇改善、違反事項の是正、帰国希望者の要望を認める、元年移民を日本政府が公認する等の内容であった。この結果、帰国希望者四〇人が帰り、他は残留して働きハワイ移住の先駆者として活躍した者も多かった。なお、城戸静一のその後の行動は明らかでない。

 官約移民と愛媛県人

 既述のとおり、明治時代前期のハワイは、主産業甘蔗栽培のための労働者の補充のため、また原住民人口の減少、中国人苦力の不適格等のこともあり、日本からの移住者導入に熱心であった。
 カラカウア王は、明治九年(一八七六)ハワイに寄港した軍艦筑波を歓迎し移民送出しの上申を懇請した。艦長伊藤雋吉の海軍大輔への上申に次の文がある。
  該島ホノルル港在舶中、国王陛下に謁見し、且御艦へ来臨し、及び該国政府の貴重の官員面会の節、説話の及ぶ処、多くは該当人民歳々減少するの憂慮を述べ、且つ皇邦有余の人員を同地殖民にして、物産を盛大ならしめば一挙両益なるべく(後略)
 ハワイはさらに日本駐在総領事H・B・リリブリッジをして正式に移民懇望の交渉を行ったが日本政府は承認しなかった。同一四年にはカラカウ王は日本を訪問、明治天皇を訪問、直接移民を懇望したりした。さらに、同一五年・一七年と特使を派遣して交渉を続けた。
 同一七年日本政府も終に移民送出しを承認、外務卿井上馨から、その旨を全権イアウケアに通告した。ハワイ政府は「官約移民招来準備会議」で「元年者」等の意見も聞き、協議して移民約定書を作成、R・Wアーウィン公使をして日本政府と詳細交渉し、日本政府もこれを承認、約定による移民が送り出されることになった。
 日本における移民募集は、最初人口稠密な地方に重点を置き、政府が海外進出を奨励したのは、三重・富山・広島・山口・熊本・和歌山の六県であったという(『和歌山県移民史』)。これが「官約移民」であり、第一回の募集は約六〇〇人の予定に二万八、〇〇〇人の申込があり、農業経験者等を主として厳重に審査したという。
 第一回船(シティ・オブ・トウキョウ号・同一八年二月八日ホノルル入港)は山口四二〇人・広島二二二人・神奈川二一四人・岡山三七人・和歌山二二人等で計九四六人であり、第二回船(山城丸・同年六月一七日着)は、広島三九〇人・熊本二七〇人・福岡一四九人・滋賀七四人・和歌山三三人等で計九八八人であった。
 官約移民は明治二七年までに二六回渡航している。県別渡航数は広島が三八・二%を占めて第一位であり、山口三五・八%、熊本一四・六%がこれについで多く上位五県で九八%を占めている。移民県といわれる諸県が上位を占めている中で和歌山が〇・二%と少ないのが特色的である。
 この官約移民には、従来愛媛県人は含まれてないとされて来た。しかし、第三回の記録によると、水夫が四九人おりその中に本県人が一〇人(名簿では九人)含まれていた。神奈川県令の上申は次のとおりである。

  布哇国第三回出稼人名簿上申
   児子ヲ合セテ八百七拾七名外ニ水夫出稼ノ者其妻ヲ合セテ四拾九名総計九百弐拾六名(中略)
   一、同去ル二日米国郵船シチー・オブ・ペキン号ニテ出帆
    明治十九年二月二十日 神奈川県令 沖守固
   外務大臣伯爵 井上馨殿
   (人名簿…愛媛県)
   小豆郡橘村一七九六番  平民 二九年 三月 山本佐太郎
   那珂郡佐柳村四十六番  〃  二四年 八月 瀬戸 寅吉
   河野郡乃生村百五一番  〃  二八年 一月 山田 亀吉
   温泉郡松山木屋町四百  〃  二三年 五月 堀池市太郎
   那珂郡泊り浦      〃  二四年 三月 輔野忠四郎
   越智郡魚島村二四八番  〃  二一年    山道 守雄
    〃 〃  二三〇番  〃  二五年一〇月 福原 音吉
    〃上弓削村七三二番 〃  二七年 三月 橘 善一郎
   風早郡粟井村二五〇番 〃  三四年 三月 国元 又七
      (「日本人民布哇国へ出稼一件-出稼人名簿の部(一~三回)」による。)

 これによると、九人中四人は現香川県出身者であったことが分る。またこのうち二人を含む解約帰国の報告が布哇総領事から次のとおり提出されている。

  明治二一年六月一二日 在布哇総領事安藤太郎
   神奈川県知事沖守国殿
    二三三八  愛媛県 輔野忠四郎 高砂丸にて帰国
  明治二一年一一月一七日出発高砂丸便
    二三二八  愛媛県 瀬戸寅吉
    移住民ニアラズ 愛媛県 田辺八太郎
  (「日本人民布哇へ出稼一件-出稼人解約帰国之件」)

 この三人のうち二人は水夫として同一九年に渡航した者の解約帰国であるが、田辺八太郎は「移住民ニアラズ」というので布哇への自由渡航者であったことも考えられる。なお、他の七人の上陸後については記録が残ってない。
 官約移民は明治二七年までに約二万九、〇〇〇余人にのぼったが、既述のとおり、王朝が倒れ日本移住者が疎外されるようになって廃止され、私約移民の時代に移行する。

 米大陸への転航

 官約移民・契約移民時代のハワイ移住者の労働条件は苛酷なもので生活状態は劣悪なものであった。そこで、初期官約移民の契約期間満了となる明治二一年(一八八八)ころから、すでに少数ではあるが大陸への転航者があったという。それが、同三三年米国がハワイに県制をしき米国移民法が実施されたことにより契約移民が廃されたことにより、米大陸転航が便利になった。大陸転航の最盛期は同三四年から同三九年までといわれるが、それにはいくつかの理由があった。自由移民制になったため身分的に自由となり転航しやすくなったこと、錦衣帰郷の願望も達成が困難で大陸に新天地を求めたこと、米国本土より渡航手続が容易なハワイに渡航して大陸に転航するという、計画的転航者も増えたこと、転航周旋人が日本・米大陸の業者とも手を組み転航熱をあおったこと、日露戦争後の余剰労働力がはけ口を求めていたこと等である。
 ハワイから大陸転航者の激増をみて、低廉な労働力の不足することを恐れた砂糖会社の耕主は、同三八年、政治家に働きかけ転航周旋業に対し五〇〇ドルの営業税を課することとしたが、転航を防止するまでには至らなかった。此の時期における周旋業者の一人、芳我日下(愛媛県人)の営業ぶりを『布哇日本人発展史』(森田栄・愛媛県人著)には次のように記している。

  大陸転航者の漸々盛ならんと欲する時機に際し当時ホノルル市に旅館業を営める芳我日下氏(現布哇報知記者)は此の機逸す可からずとなし大仕掛けの渡米労働者の勧誘に着手し布哇に於ける同胞労働者に就いて之を募集せしのみならず態々母国に募集人を派遣し所謂内外呼応して大陸転航者を狩り集め毎船幾百の労働者を大陸に輸送を開始するに至れり(中略)当時芳我氏の経営したる漢城旅館は言はずもがなホノルル市の各日本人旅館は大陸転航希望者を以て満々たる状態なりし而して彼等幾多の労働者は僅かに転航船賃位を所持するに過ぎざる者殆んど(中略)最愛の妻子を振捨て無言の侭夜陰に乗じて乗船渡航せしものすらあり(中略)当時本邦にまで渡米者の勧誘を目的として布哇に渡航す可き移民募集人を派遣したる漢城旅館主芳我日下氏は直ちに五百弗の営業税を納付し茲に倍大々的に転航者の輸出を図るに至れり此に於て氏は定期船位で之等転航者を輸送するは面倒臭いと云ふので更に対岸シャトルより臨時船オリンピヤ号を廻送せしめ一回四百五百と労働者を狩集めて大輸送を試むるに至れり斯る状態なるが故に折角耕主側の立案になりし新規の法律も何等その効なく敢て彼等耕主の必要なる同胞労働者は滔々として大陸沿岸に奪ひ去らるゝまゝに唯之を撫手傍観するの他亦施す可き策なきに至れり(下略)

 この状態をみて斉藤総領事は渡米防止の諭告を出し、ホノルル日本人商人同志会は転航禁止についての請願を日本外務大臣に提出したが転航熱を冷ますには至らなかった。
 この時期の渡米者を『在米愛媛県人発展史』の人名表によってみると、掲載数一二七人中明治三三年から四〇年までの米本土上陸が九五人にのぼる。この中には、相当数の転航者が含まれていたと考えられる。その内ハワイからの転航が明らかなのは、相原清吉(温泉郡睦野村・同三九年渡航)・栗田伝次郎(温泉郡久米村・同三五年渡航)・前田市次(喜多郡天神村・同三九年渡航)の三人である。この内相原清吉を例にとると、米国の項で既述のように「同三六年ハワイに渡航、ホノルルの望月海水浴場に就労する傍ら英語学校に学ぶ。同三九年米国に転航、上陸の当夜桑港大震災にあう」ということである。
 この大量の転航者は米本国太平洋岸の排日にも拍車をかけ、同四〇年ついに大陸転航は禁止となり、さらに四一年には、いわゆる紳士協約によってハワイ渡航をも日本政府自ら禁止することとなり、さしもの転航熱も終息し、ハワイ渡航についても呼寄時代に移行するのである。
 なお、大陸転航者数は、同三八年から同四〇年までに男二万四、八五三人、女一、七〇五人、子供七五八人の計二万七、三一六人、同三五年から同四〇年まででは三万八、〇三六人であった。
 また、日露戦争後のハワイへの渡航旅券発給数は次のとおりである。
 明治三八年             七、一四六人
                    (内女子 八二〇人)
 同 三九年 日露戦争終了の翌年 三万〇、三九三人
                    (内女子 一、九八二人)
 同 四〇年 この年二月転航禁止 一万五、七五七人
                    (内女子 四、七八四人)
 同 四一年 この年紳士協約     三、六二一人
                    (内女子 一、七〇六人)
      (数字は『ハワイ日本人移民史』による。)
 日露戦争終了が労働力のハワイ渡航と大陸転航の一要因であったことが分る。

 ハワイへの移住数

 明治初期のハワイは、既述のとおり、日本からの移住者の導入に熱心であった。最初の渡航は、一五三人の「元年者」であったが、その取扱い等に問題があり、以後明治一八年まではほとんど移住者が無かった。ハワイの熱望により「官約移民」が始まると明治一八年から同二七年までに二万九、〇〇〇余人が渡航した。ハワイに革命が起こり、さらに米国に併合されるにおよんで移住者の形態も次第に変化した。官約移民廃止後は、移民会社による「私約移民」が、同三三年に米国がハワイに属領制をしき契約制を廃するまで続き一年間に二万人以上を送り込んだこともあった。次いで、「自由移民」時代となり、大陸への大量転航も含めて活発な動きがあった。それが同四一年日米紳士協約によって我が国が自主的に規制したため、写真結婚花嫁の渡航を中心とする「呼寄せ移民」時代に移行した。さらに、米国本土の排日感情等のために、大正一三年に「排日移民法」が実施されて、新規渡航は完全禁止となって、在留日本人の永住土着による活躍時代となったのである。表2-16は、元年者から大正一三年に新規移住が完全に禁止されるころまでの年ごとの人数である。ハワイの政策の変化、日露戦争等の我が国情の影響による増減を知ることができる。
 次に表2-17には、在留日系人数の推移を掲げてある。移住者の中には、帰国者や大陸転航者の多い時期もあり、写真結婚花嫁の多く流入した時期もあったが、各時代を通じて着実に増加していったことが分る。
 表2-18はハワイの人種別人口の推移を示している。日系人は早くから最多数を占める種族で、明治三二年に三九・七%、昭和一五年に三六・八%、同二八年には四〇・四%と、ハワイ土人の二〇%前後をはるかに凌いでいる。日系人は始め労働者として渡航、教養的にも、明治四三年の調査で、書く能力の無い者の割合が、全人口の二六・八%に対し三五%と高かったが、優秀性と勤勉により着々と活躍の舞台を広げ、重要な役割を果たすようになった。表2-19は、ハワイの主産業の甘蔗栽培に従事した日系人労働者数とその比率の推移を示している。明治・大正初期に如何に多数の日系人がその発達に努力したか、またその後は他の職業に変わって行ったかが分る。表2-20は、昭和初年から戦後までの日系人の活躍状況の推移を示しており、日系大が各界で重要な役割を果たすようになったかを知ることが出来る。
 太平洋戦争中の日系人は、強制収容される等、米国本土以上の苦難が続いた。しかし、二世部隊の活躍等により、信頼感を高め、戦後の日系人活躍の基を築いていった。表2-21は、人種別戦死者数であり、日系人が如何に米国のために勇敢に戦ったかを示している。

 出身県別在留人口

 各時代を通じての各県別移住者数の資料は見当たらない。明治一八年からの「官約移民」募集の時の重点地域が広島・山口・熊本・和歌山・三重・富山等であったことは別記のとおりである。そして官約移民についてみると、広島三八・二%、山口三五・八%、熊本一四・六%と三県が多数を占めていた。この傾向は、その後も続き、これ等の諸県からの移住が多かったようである。
 図2-3は、大正一三年の排日移民法の実施によって、新規移住が禁止された年の各県別の在留者数を示すものである。これによって各県別の状況の概要を知ることが出来ると思う。在留数の多い県は、広島三万余人で二四・四%、山口二万五、〇〇〇余人で二〇・六%、熊本一万九、〇〇〇余人で一五・六%となっている。それに沖繩一三・二%、福岡六%。加えると、この中国・九州五県で実に約八〇%を占めて、移民送出し卓越地域となっていることが分る。ただ和歌山が一、一二四人で〇・九%と米国本土の場合と異なり八位と比較的低位にある。
 四国では愛媛県が、順位では一二位であるが、五三八人で〇・四%、高知が一八位で〇・三%となっており、人数的には卓越県とくらべると比較にならない少数となっている。

 愛媛県人の移住数

 愛媛県人の移住については、前記のとおり大正一三年における在留数が五三八人で全体の〇・四%となっている。
 表2-22は、明治三四年から同四二年までのハワイ旅行者の出身郡別人数と各年のハワイ移住者数である。この間のハワイ旅行者数は一、一五三人で年平均一四四人となっている。郡別にみると東宇和郡が三四・四%と最多数で、温泉郡の二〇・六%がこれに次ぐ。米国本土の場合多かった西宇和郡は八・九%にすぎない。東予特に東部三郡は宇摩郡一・二%、新居郡二・八%、周桑郡一・六%と少数にすぎない。同時期の移住数の県知事報告では、郡別は不明であるが、五五七人であり米国本土の八六人に比し多数にのぼっている。それは、日露戦争後の余剰労働力の海外移住増加であり、戦後三年間に三七八人に達しているのである。

 在留愛媛県人名簿

 在留愛媛県人については、大正一三年の在留数が前記のように五三八人となっている。その人名については詳細は不明であるが、ハワイで発行された年鑑類等の名簿中から、氏名と職業等をみることが出来る。
 『ハワイ島日本人移民史』所収の人名録では、家族は記されてなく、八六人の住所と職業を知ることができる。この時期には既に多種類の職業に従事していたことが分る。農業は小作・園丁等を含めて一〇人ほどで、新聞関係が社長を含めて九人と多いのは、本県人に芝染太郎・芳我日下等新聞社経営に携わった人がいたためであろう。商社員等も多いが、理髪店等の自営業も多く、森田栄がいたためかオアフ島の写真業も四人いる。職人では大工・石工等が目立つようである。
 また、『ハワイ年鑑』(一九四〇・一九四一年版)及び『愛媛県移民史』により、昭和一五年・一六年の両年度の本県人の様子が伺える。両年度版で出入りがあるが一六二人が記載されている。このころには、さらに職種が多岐にわたっており確固たる社会を形成しつつあることが分る。農業関係は小作を含めて約二〇人、労働従事者も二〇人に近く大工七人も多い方である。新聞関係は減少しているが、技術者や事務員、店員等も多い。自営業も二〇人を超え、医師、牧師、教員等もみえる。
 愛媛県人の個人的活動については資料が少ない。年鑑や銘鑑に掲載された数人について抄録する。

 星名謙一郎

 慶応二年(一八六六)、北宇和郡吉田町に生れる。東京英和学校予備学部卒業。上海・ハワイ・米国のテキサス・ブラジル等に雄飛したが、ここではハワイ時代を略述する。
 明治二〇年代初めころ契約移民として渡航(契約移民か否か明確ではない)、同二四年ヒロのワイアケア・プランテーションで就労中、岡部次郎(キリスト教組合派伝道師)の伝道助手として採用された。そして、ヒロ教会やパパイコウで伝道に従事、ハマクアやホノカアでも伝導、ホノカアに住むこととし最初の定住伝道者となった。この仕事は日曜学校・夜学校・歌の会等のほか、労働者の相談相手となることであった。このころ、同胞の東伊平の銃撃負傷事件があり、鈴木国蔵等とその救援運動に尽力することがあった。同二五年一〇月伝道の仕事を辞職、火山道路のアラドに農民として住む。同二七年「布哇新報」の発行を引受けた、同二九年ホノルルにて税関通訳中に相賀安太郎の移住上陸するのに遭う。同三四年末光久子(明治七年卯之町生れ)と結婚す。同三六年七月米国テキサスに渡る。
 (『移民の先駆者・星名謙一郎の生涯』飯田耕二郎著による。)
 『在布日本人出身録』(明治三三年・同三五年)による愛媛県人の氏名は次のとおりである。

 大久保領(良太郎)
 宇和島出身。住所加哇島リフイ。明治二〇年代半ばに渡航、ビショップ商会の売捌人として活躍している。
 越智保平
 松山市紙屋町出身。住所ホノルル市イレーン町。明治三〇年渡航。時計修繕並販売。『ハワイ移民史』(斉藤刀水・明治三六年)には、ホノルルにて写真業とある。
 山村幸八
 新居郡出身。ホノルル府在住。明治三二年渡航。雑貨販売。
 増田知次郎
 越智郡今治出身。住所はホノルル府。
同志社出身、明治二五年渡航。糸半商会に勤務、一時帰国して柳瀬商会を始めた。また、移民取扱業を始め、日本移民会社に入りホノルルに駐在して活躍中である。
 この増田知次郎については、飯田耕二郎氏が研究結果を『汎・四号』(昭和六二年三月)に載せている。それによると、明治四年生れ、同二五年渡布、同二八年帰国して柳瀬誠三郎貿易商店をホノルル府に設立するのに支配人として再渡航、同二九年一時帰国した時に日本移民合資会社の代理人となった。同三二年ころにはフォート街に増田知次郎事務所を置いていた。同三三年村上りよ子と結婚し順調であったが、同三五年九月突然ニューヨークに出発、同三六年、敗血症で急死し、友人星名謙一郎等の名で死亡広告が出されたとなっている。
 『布哇日本人銘鑑』(曽川政男著・昭和二年)に掲載されている愛媛県人の略歴を紹介しておく。
 芳我日下
   明治一三年、南宇和郡内海村に生れる。住所ホノルル市セレノ街。新聞記者。
  明治三四年渡航。オアフ島ワイアルア耕地にて甘蔗計量係、その後ワイアルア郵便局事務員、旭商会簿記係。同三七年ホノルルにて独立し日刊の「労働新聞」を発刊、一年余で廃刊、同三九年スミス街に漢城旅館を開業、移民取扱鑑札を得て移民の大陸輸送を開始、グレートノーザン鉄道会社と契約、チャーター汽船でシアトルに多数の移民を送った。同四一年邦字紙「新日本」を買収、夕刊「自由新聞」を発刊、また「布哇新報」をも手に入れ、愛媛県人芝染太郎と共同経営、自由新聞を布哇新報に併合。同四四年全権を芝に譲って一時帰国、翌年再渡航、日布時事社編集局同人、まもなく布哇報知社に転じた邦字言論界の故老である。
 岡本英吉
 明治二一年、北宇和郡成妙村に生れる。住所加哇島キラウエア。耕地測量師。
明治三八年渡航、馬哇島にて就労、同三九年加哇島に転じて水隧道工事の測量技手、牧師リリゲート邸に勤務のかたわら測量技手としても活躍した。後コロア耕地の甘蔗請負小作に従事するも失敗、大正七年(一九一八)キラウエア耕地測量技師となり、同一一年水隧道工事を完成特別賞金五〇〇ドルを与えられた。キラウエア日本人会書記を勤めている。
 岡浪之助
 明治一五年、新居郡埴生村に生れる。住所ホノルル市ギユリック街。歯科医師。
明治三三年米国サンフランシスコに渡航、苦学生として英語を学び、また、南加州大学歯医科を同四二年に卒業。ロスアンゼルスで開業、南加日米協会理事を務めた。大正六年ハワイに渡航、キング街住友銀行階上にて開業している。夫人シゲノ、長男誠志、三女和子、二男義治、三男光人がある。
 楠本鶴吉
 明治七年、北宇和郡北灘村に生れる。住所布哇島ククイハエレ、ミルキャンプ。棧橋人夫監督。明治四二年に渡航、布哇島ククイハエレの棧橋に就労した。大正一一年一時帰国、現在は一〇数名の監督として活躍している。労働同盟会幹部・日本語学校学務委員を勤めている。夫人コユイ、長男楠男その妻福江は同居、他の二子は日本に在住している。
 城滝大六
 明治一八年、東宇和郡土居村に生れる。住所ホノルル市フォール街。商業。明治四一年渡航、ホノルル高桑商会種物部主任として勤務、その後独立して布哇農産商会を創業し、さらに大陸貿易会社を開設、大陸の製造会社と特約、肥料・米・海産物等の輸入に従事している。夫人はソヨ。
 森田 栄
明治一〇年、東宇和郡土居村に生れる。住所はオアフ島ワイパフ本町。写真館主。明治三二年渡航、ホノルルにて写真術を研究、同三五年オアフ島のワイパフに写真館を創立して現在に至る。オアフ島のエワには支店も開設している。彼は公共事業にも尽力している。すなわち、同三六年中央日本人会支部副支部長となり、同四一年曹洞宗布教場役員、同四五年日本語学校学務委員長、大正一〇年ワイパフ公益会を組織し理事長の任にある。また、著述活動にも熱心であり、大正四年『布哇日本人発展史』を刊行、同書は天覧の栄に浴している。さらにその続編として、大正八年には、『布哇五十年史』を刊行している。この二著はそれぞれ約九〇〇頁と約一、〇六〇頁に及ぶ大著であり、ハワイ移民史研究上欠くことの出来ない貴重資料である。夫人イトとの間に長男栄一がある。
 なお、城川町の『土居郷土誌』により経歴を補足しておく。森田は自由渡航者(同乗五七〇人中一五〇人が自由渡航者)として渡航、同行した最初の夫人ヤスノを明治三三年に失っている。大正一三年から帰国の年の昭和二年まで総領事館請願届代書取次人を嘱託されている。大正大震災に際しては、義損金募集のワイパフ委員長として一万七、〇〇〇余ドルを送っている。昭和二年郷里の村長にとの懇望があり帰国。昭和六年一二月から同一四年一二月まで村長を勤め、同一九年九月一七日永眠した。長男栄一は米国ウエストバージニア州に在住している。
 関屋長次郎 
 明治七年、松山市土橋に生れる。住所ホノルル市スクール街。理髪店主。明治三一年渡航、約二〇年間理髪店を経営、同業者間の成功者である。公共事業に執心であり、日本人理髪業組合、布哇日本人協会の幹部として尽力し、愛媛県人会長を勤めたこともある。
 清家武雄
 北宇和郡吉田町に生れる。住所加哇島カパア。商業。渡航年は不明であるが約二〇年前。加哇新報の前身の加哇評論の記者となったが、その後、リフエ耕地商店ハナマウル支店員となり支配人となった。独立してカパァ・ツレージング商会を創立して現在に至っている。

 新聞界と愛媛県人

 ハワイには多くの人種が移住して来ていたが、大正初期には日本人が二〇万人を超えて数的には第一位を占めていた。新聞としては英字新聞が第一、それに次いで邦字新聞が有力で、日本人の活躍が盛んになるにつれて邦字新聞の活動も活発化していた。『布哇日本人発展史』等により、新聞界における愛媛県人の動きをみてみたい。

 元・新日本

 新日本は、ホノルルにおいて、明治三〇年「日の出新聞」のあとを引受けて発刊、同三四年に週三回発行を日刊とした。後に愛媛県人芳我日下がこれを買収「布哇自由新聞」と改名した。その後、愛媛県人芝染太郎が加哇島から来て買受けた「布哇新報社」に合併、「布哇新報」は朝刊、布哇自由新聞は夕刊として発行していたが、夕刊の発行を廃止した。

 布哇新報社

 布哇新報はホノルルにおいて、明治二七年、糸半商店主笹松正之助・志保沢忠三郎等により週刊紙として発行された(活版刷り)最古の邦字紙である。同二八年「火山」と改題して日刊とし、翌年また旧名に復した。同三八年には革新同志会(別記)と提携して移民会社の横暴を攻撃する等在留同胞のために活躍した。同四一年、芝染太郎が加哇島より来て同紙を買受けて社長となった。さらに前記のとおり布哇自由新聞をも合併し芳我日下と共同経営となる。同四五年四月五、〇〇〇号の記念祝賀会を催した。このころ、日本人労働者の増給問題が起こり、「日布時事」と対立時期尚早論を唱え、芝は一青年に狙撃される奇禍に遭った。

 日布時事社

 日布時事は、ホノルルにおいて、明治二五年「布哇週報」と題し雑誌型として発刊された、ハワイ最古の新聞である。これを愛媛県人星名謙一郎が譲り受け「ホノルル報知」に合併。同二七年紙名も「ホノルル報知」さらに「布哇新聞」と改題した。同二八年には水野波門が譲り受けて「やまと新聞」と改めた。その後曲折を経て同三九年「日布時事」と改題、同四〇年株式組織とした。同四二年のオアフ島大同盟罷工事件では、別記「布哇新報」と対立して論陣を張った。そのため、当時の社長相賀安太郎等は七、〇〇〇人の罷工者の犠牲となって刑務所に入れられる不幸に遭った。

 加哇新報

 布哇新報社長芝染太郎(愛媛県人)の経営していた週間「カーデン・アイランド」紙を他に譲り、「加哇新報」を社長芝・主筆兼総支配人福永虎次郎にて発行している。週刊紙で四頁の活版印刷、本社は同島リフエ町にあり、五〇〇号を数える加哇島唯一の邦字新聞である。

 産業発達と日本移住者

 急速に増加し移住者としては最多数を占めるにいたった日本移住者が、ハワイの各産業の発達に果たした役割は大きなものがある。
 製糖業が、ハワイの主要産業になるには、日本移民の勤勉と熟練によるところが大といわれる。糖業に従事する日本人は、明治二三年、七、五六〇人で四二・二%、最多時期は率では明治三四年の六九・六%、人数では明治三八年の二万八、四〇六人となっており、以後はフィリピン移民が急増した。その間に砂糖産額は約八倍に増加している。日本人最初の砂糖耕地経営は、紺野登米吉(岩手)で、ハワイ島コナに大正初期に七五万ドルを投じて買収した「コナ開拓会社」とされる。
 パイナップル栽培と缶詰製造業の労働者・小作人も大部分が日本人であり、昭和五年ころには小作約八〇〇名であり、大多数は日本人会社と契約していた。製糖業と同じく品種の改良、技術の向上等に大貢献をしたが、最初の日本人の独立栽培者は、明治三四年八月、オアフ島ワヒアワに十数エーカーを借地した手島弥助(福岡)であった。また、最初の日系缶詰会社は、桑原寿太郎が明治四三年マウイ島にマウイ・パイナップル会社を設立したものといわれる。
 コーヒー栽培を始めた日本人は、明治二五、六年ころで、村上勝平、大久保範造等でコナにおいてである。
 ハワイの最初の米作は、安政四年(一八五七)で中国人によるものである。明治三三年ころから米作は日本人の手に移り、大正九年ころには日本人の独占となり、オアフ島やハワイ島を中心に行われている。しかし、明治四二年ころの九、五〇〇エーカーを最盛期として衰退し戦後は約一千エーカー、産額も需要の五%程度となっている。
 水産業の面でも、山口、広島、和歌山等の出身者を中心に、日本人の手でハワイ漁業は飛躍的に発展、中筋五郎吉(和歌山)は、明治四〇年にガソリンエンジン船を導入、柏原清作(山口)は、大正末ころ重油エンジンを導入し、日本漁民数は大正三年四三七名(家族あわせて一、〇五二名)、昭和一一年には六一五(家族二、七四八名)と増加している。
 本県人の関与しているものとしては、布哇漁業株式会社がある。明治四一年、基本金五万ドルで設立。キャスリン船二五、普通漁船四〇隻を有し、同胞漁夫二七〇余名を使役している。この会社の当初委員二一名中に、愛媛県人芝染太郎、芳我日下の名がみえる。
 明治一七年(一八八四)のハワイ在留日本人は、七八名、翌年には二、二一九名に急増した。
 日本移民の急増につれ、農耕労務以外に進出する者も出て来た。小農業に従事した日本人は、花卉園芸を独占するまでになり(昭和一六年現在二七〇名)、また、菜園、果樹栽培、サイザル栽培面で活躍、牧畜でも養豚・養鶏・搾乳、養蜂等でも約七〇%を占め、特に養豚(昭和一六年現在約四五〇名)は沖繩人の御家芸になっている。
 商業面では、明治一八年にヒロ市に鈴木国蔵(千葉)が「鈴木店」を開いたのをはじめ、次第に活発化して行き、ヒロ市及びハワイ島での明治二八年の調査(外務書記生成田五郎)では、山口六、広島三、福岡二、宮城、埼玉、千葉、新潟、岐阜、大分、鹿児島各一の一八店となっているが、この段階では本県人は含まれていない(『ハワイ日本人移民史』・『布哇日本人発展史』)。

 戦中・戦後の本県人

 戦中・戦後の本県人に関する資料は、米国本土の場合と同様ほとんど見当たらない。表2-23は、ハワイ官約日本人移住七五年祭(昭和三五年)に、八〇才以上の高齢者表彰を受けた者の、各県別の人数を示している。やはり移民卓越県が多く、広島五八一人で二八・九%、山口四四八人で二二・三%、熊本四〇三人で二〇%と多数を占めている。本県は九人であり、表2-24にその氏名を載せてある。
 『愛媛県移民史』には、昭和一八年六月の愛媛県庁資料によるハワイ在住の出身市町村別人数(総数二五八人)が表示され、また数人のハワイ移住者の活躍が紹介されている。
 なお、ハワイ在留県人については、昭和四五年に愛媛県が作成した『海外移住者県人名簿』がある。

図2-2 ハワイ諸島

図2-2 ハワイ諸島


表2-16 ハワイへの移住者数

表2-16 ハワイへの移住者数


表2-17 ハワイ日系人の推移

表2-17 ハワイ日系人の推移


表2-18 ハワイ人種別人口(明治32年・昭和15年)

表2-18 ハワイ人種別人口(明治32年・昭和15年)


表2-19 砂糖生産高と日本労働者数

表2-19 砂糖生産高と日本労働者数


表2-20 日系人活躍状況

表2-20 日系人活躍状況


表2-21 第二次大戦中ハワイ人戦死者数

表2-21 第二次大戦中ハワイ人戦死者数


図2-3 ハワイ日系人県別人口(大正13年)

図2-3 ハワイ日系人県別人口(大正13年)


表2-22 愛媛県人のハワイ旅行者数・移住者数(明治34年~同42年)

表2-22 愛媛県人のハワイ旅行者数・移住者数(明治34年~同42年)


表2-23 ハワイ官約日本人移住75年祭(昭和35年)被表彰高齢者県別人数(80歳以上)

表2-23 ハワイ官約日本人移住75年祭(昭和35年)被表彰高齢者県別人数(80歳以上)