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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第一節 米国への移住①

 初期の米国渡航者

 幕末になると外圧が強まり、嘉永六年(一八五三)ペリー(米国)やプチャーチン(ロシア)が来航、幕府は、翌年のペリーの再来を機に、終に開国するに至った。万延元年(一八六〇)遣米使節が渡航、最初の公式渡米者となった。慶応二年(一八六六)には、海外渡航の禁が解かれた。明治維新を経て、明治三年(一八七〇)、最初の領事館が桑港に設置され、日米通航時代の幕が開かれた。初期渡米者には、留学生や随従渡航者が多く、芸人や密出国者等の渡航もみられる。
 最初の印章(旅券)は、慶応二年五月一四日付で、花田新助(江戸本所・幕府銭座勤務)に、神奈川奉行より、仮発給されたものとされる。

 最初の日本人集団移住

 労働を目的とした米国本土への最初の集団移民は、明治二年(一八六九)に、オランダ人エドワード・W・スネール(ドイツ人ともいう。会津藩砲術指南等)と契約(八ヶ年)渡航した約二〇名であった。スネールは、カリフォルニア州ゴールドヒルにおいて農園を経営したが疫病や資金欠乏で失敗、翌年には日本人移民は四散した。一行中のおけいは、明治四年に一九才で死去、同地に現存する「おけいの墓」は、米国における日本女性最古の墓といわれる。桑港ディリー・アルタ紙は、当時の模様を次のように報じている。

  アズ・ランチを、日本人の植民地として、スネールは購入した。柵を囲らした六百英町の地で(中略)全部で五十弗、スネールは此処にワカマツ町を建設せんとしている。(中略)日本人は庭園の趣味を有し、清潔にして良く命を守る。〈身応〉てワインの醸造も始まるであろう。又植木園を始め、加州に無い茶、竹、蜜柑等、日本の樹を育てるであろう(一八六九年六月一六日付・『在米日本人史』より転載)。

 また、次の集団渡航は、明治一九年(一八八六)、イギリス人H・アモア等に率いられて渡米した七名(熊本県)であったとされる(『アメリカ移民百年史』)。彼等は、カリフォルニア州のソケオにみかんを移植したり、ウッドランドに土地を購入開墾したが、資金の欠乏で失敗、これも一行は四散した。
 なお、本県人では伊東米治郎が、明治二〇年ころ開墾事業をはじめたが失敗している。
 また、単独渡航のパイオニアとしては次の人々がある。
 田中 鶴吉  旗本、慶応三年(一八六七)渡米。一時帰国し小笠原で製塩業に失敗。
        明治二〇年(一八八七)井上角五郎らと再渡航(桑港)
 高橋 梅吉  慶応四年渡米。ネバタ州リノ市に墓。墓石に最初のアメリカ上陸日本人とある。
 赤羽忠左衛門 明治七年、米国商人テーラーと同伴、在米四八年、七九才で死亡。
 田中 文蔵  長野県人、明治四年渡米。一時帰国後再渡航、桑港にて吹矢商、再度失敗後不明。
 大貫 八郎  埼玉県人、明治三年渡米。アリゾナ州フェニックスにて農場(六四〇英町)、シアトル正金銀行を設立するなど活躍。
 塚本 松之助 千葉県人、明治二〇年、広島県人三〇人を引率する井上角五郎(後の広島県選出代議士)と共に渡米。加州バレースプリングに日本人として最初に土地を購入、開墾に着手したが挫折。塚本はその後も滞米、桑港に住み、日本移民洗濯業の開祖として、白人同業者等の迫害に屈せず奮闘した。

 初期の印章受給県人

 明治初期の本県渡航者としては、宇和島藩士城山静一がある。江戸商人扇屋久次郎の手代の通訳としてサンフランシスコに滞在中、ハワイ「元年者」が虐待されていることを知り、明治元年一一月二四日付の救済上申書を提出している(第一章参照)。彼の印章受給年等は不明であるが、明治元年には滞米中であったことが分かる。
 また、『海外旅券勘合簿』によると、初期渡米者としては次の人々が、印章を下付されている。

   (氏名)       (所属)     (印章番号)  (下付年)
  松 田 晋 斎   松山藩士    第二七〇号   明治三年
  野 中 宇 門   松山藩 権少参事   第二七一号   明治三年   米国より欧州
  池 田 謙 蔵   松山藩 権少属    第二七二号   明治三年   米国より欧州
  藤 田 隆三郎   宇和島 城下商人   第一八四号   明治三年
  河 野 通 猷   松山藩士族   第五五一号   明治四年   修学

 このうち、松田晋斎については、『松山藩明治三・四年日記』に、次の留学免状下付についての願書の記録がみえる。

                                     士族 松田晋斎 当未二十八歳
  右之者藩費ヲ以米利堅留学之儀旧臘御願申上御聞済相成候処未タ大学留学御免状頂戴不仕候間早々相渡候様被仰付被下度奉願候
    辛未二月廿日                                     松山藩
   弁官御中

 なお、明治二三年(一八九〇)の『庶務雑書』にも、渡部翼(和気郡三津浜町・士族)の留学願書がみえ、本県の場合も、留学・視察が多かったようである。

 本県の渡米先駆者

 『在米愛媛県人発展史』等には、本県の先駆者として次の四人が紹介されている。
 谷口  某 周桑郡 外国船水夫 明治二年ポートランドに上陸
 村井 保固 北宇和郡立間尻村(現吉田町)森村組勤務 明治七年ニューヨーク渡航
 伊藤米次郎 宇和島 外国船水夫 明治一〇年サンフランシスコにて脱船上陸
 西井 久八 西宇和郡矢野崎村(現八幡浜市)明治一三年シアトルにて脱船上陸
 この四人のうち三人は外国船水夫で、脱船上陸したものである。谷口某は、船長と衝突して下船、後に一時帰国、明治六年桑港に再渡航したというが、詳細は明らかでない。

伊東米治郎

 伊東米治郎〔文久元年(一八六一)~昭和一七年(一九四二)〕は、宇和島元結掛生れ、明治一〇年(明治一四年・同一五年説もある)水夫として乗組んでいた外国船を脱船、桑港に上陸、苦学力行してミシガン大学を優秀な成績で卒業した。その後、今城・伊藤・近藤等九名(詳細不明)を呼び寄せたという。また、明治二〇年、広田克巳(高知県)と、シアトル市ワシントン湖畔において開墾事業を計画、広田は一時帰国して片岡健吉の協力を得て、高知県から同志一〇名の渡米が実現した。しかし、翌年着手した事業は、無経験者集団のため失敗した。さらに、伊東は明治二七年ころ、荒井達爾(福島県)等と共に、タコマ市に植民同盟会を組織して定住的植民運動を起こしたり、ダワテマラ国を探険し日本移民を計画したが資金難などのため成功しなかった。彼は、明治二九年帰国、日本郵船会社に入社、上海・ロンドン支店長、同社社長、日清汽船取締役、ジャパンタイムズ社長等を歴任、実業界で活躍した。

 村井保固

村井保固は、北宇和郡吉田町に生まれ、村井家に養子に入る。明治一一年(一八七八)慶応義塾を卒業、翌年、福沢諭吉の紹介で、森村組(森村市左衛門)に入社、同年九月紐育の森村ブラザーズ(森村豊)に派遣された。村井の活躍については、『在米同胞発展史』(明治四一年刊行)に次のように記されている。

  森村組(ブロードウェー五四六番)
  森村豊君が明治七年を以て創立せる所なり、其の頃に盛運に向ひしは、村井保国君が同組の柱石として、十分敏腕を試むることゝなれる時にあり、彼の機才は小売商を脱替して卸売の方針を執らしめき、同組が今日百二十有余名の同胞と十余名の白人店員を有し、外国貿易業の泰斗として、其の鵬翼を振ひつゝあるものは村井総支配人の努力と精勤に織由すといふべし(後略)

 ちなみに、当時の三井物産会社支店の規模は、店員五十余人(内日本
人三〇余人)であり、森村組の盛業ぶりが推察できる。村井は、米婦人キャロラインと結婚、太平洋を横断すること実に九〇回、日米両国の実業界で活動、日米協会元老、紐育日本人会長として在留同胞のために尽力した。また、キリスト教に入信、「救世軍」援助、「村井保固実業奨励会」(基金五〇万円)を設立、さらに、郷土吉田町への教育・厚生機関整備に大きな貢献をした。
 村井は、自ら国際人として活動すると共に、海外植民活動にも深い理解を示し、協力援助を惜しまなかった。その主なものをあげると、
○テキサスの米作援助
  明治三七年ころ、ヒューストン付近における大西理平等の先駆的米作に資金援助
○朝鮮の営農資金援助
  佐藤政次郎(愛媛県)の朝鮮における農業経営を援助、その額は九〇万円に達したという。
○伯国聖洲義塾援助
  小林美登利(福島県)の聖洲義塾に、大正一一年に一千ドル、昭和二年に一万ドルを寄付、昭和五年には三万円を寄付、約二〇〇町歩の付属「村井植民地」を開設
○日本力行会援助
  昭和八年、日本力行会に二万円を寄付、伯国アリアンサ合宿所ヲ建設、「力行農園村井館」と名付ける。
○海外植民学校補助
  海外植民学校(東京市世田谷区北沢・崎山比佐衛校長)に、昭和三年、三万四一〇円を寄付、女子部を開設、校舎五三坪、寄宿舎一四坪。男子部にも、牛乳搾取配達業の設備改善費三、二〇〇円寄付する。
○古谷重綱の伯国営農援助
  昭和三年、古谷重綱(愛媛県)の珈琲園・養蚕業に対し二万円を出資する。
○村井太郎の貿易事業援助
  子息太郎(養子)のアルゼンチンのブエノスアイレスでの貿易事業を援助した。
 村井保固こそ、先見性に富んだ国際人ということができる。

 西井久八

 米国移民のパイオニアといわれる西井久八は、八幡浜市大字向灘の出身、温厚にして剛毅、進取の気性に富む人物であった。その生涯は、年譜の示すとおり波乱に満ちていた。若くして外国船水夫として世界各国を周航、米国の将来性を見越し、明治一二年オレゴン州ポートランドに上陸(米国上陸時期等異説あり)。勤倹力行して各種事業に成功を収めた。その主な事業歴は、タコマ市(洋食店三、大ホテル一、洗濯業一)、シアトル市(洋食店三)、ベーリングハム(洋食店二)、フアイフ(農園一)、アラスカ(洋食店一、金鉱山一)と多方面にわたり、全盛時代の財力は四〇余万ドル(約八〇万円)に達していたという。
 彼の事業は、不幸にして明治四一年ころに失敗、以後第一線を退くことになったが、彼を草分とする日本移民の事業活動は、彼の指導援護により目覚ましい発展を続けた。彼は、同胞移民の援護にも熱意を持ち、多くの同郷人が彼を慕って渡航、また、困窮移民も数多く彼により救済された。
 彼の同伴・呼寄せによる渡航者は、井上政太郎・久保田道太郎・中西与吉・三原平四郎・西井忠平・森本浅市・山下宅治・向井新太郎・大家経太郎等数十名に及ぶ。
 このうち、森本浅市の同伴渡米出願書(『資料編下』海外移住第二節39)が、『明治二五年庶務雑書』にあり、西井久八の次の願書が添えられている。(「愛媛の海外移住」中とびら写真参照)
  私義凡ソ十五年前北亜米利加合衆国ヘ渡航シ華士頓府タコマニ於テ商店ヲ設ケ飲食店并ニ日本店等ヲ開キ営業致居候所商務モ繁忙ニ相成候ニ付親族ノ者ヲ連レ帰リ万端取扱セ度ト存シ森本徳蔵へ相談致終ニ同人長男浅市ヲ連レ帰リ候様協議致シ旅券下渡ヲ相願候次第ニ候条何卒御証明被成下度此段奉願候也
   明治廿五年六月十七日                       西宇和郡神山村 西井 久八(印)
                                          村長 橋本徳重郎(印)
  愛媛県知事 勝間田稔殿
 これによると、森本の渡航出願は明治二五年ということになる。
 西井久八の社会・篤志事業の主なものをみると、
  ○明治二七・八年ころ 白人ユニヨンにより迫害され、ワシントン州スナチアイランドに放遂されていた十数人の日本人を救済
  ○日本人会の設立とシアトル領事館の開設に尽力
  ○明治三三年 シアトル市のキリスト教会開設に協力、同胞と共に四千ドルを寄付
  ○明治三七・八年 応召帰国者の旅費を援助
  ○   〃       愛国婦人会員として妻みよが尽力
  ○明治四〇年 タコマ市の狂人病院に、同胞と共に数千ドルを寄付、ワシントン州の排日感情をしずめる。
  ○某年 西宇和郡矢野崎村の二〇余人の渡航者、カナダ領に上陸困窮せるを救済
  ○郷里の教育機関等に多額の寄付
 西井久八は、大正一三年八幡浜市に帰国したが、毎日新聞等で、「移民のパパさん帰る」と紹介され、顕彰のための基金三千円が寄せられたという。在米同郷有志・日米同志会等による寿像(『資料編下』口絵及び海外移住第二節37参照)は、一四三名の賛同を得て昭和二年八月(昭和三三年再建)に建立された。

 米国の移民政策

 米国は、米墨戦争(一八四六~一八四八)の結果、カリフォルニア、ニューメキシコを併せ、太平・大西両洋にまたがる大陸国家となり西部大開拓時代を迎えた。鉱山開発、農場経営、大陸横断鉄道の建設等のため大量の労働者が必要になった。
 まず、中国人が多数渡航した。一八六八年(明治一)までの二〇年間に一〇万八、四七一人が流入、一八六八年の「米支条約」により、自由移住が認められたこともあり、一八六九年~一八八四年の一五年間には、年平均一万四、〇〇〇人が渡航したという。しかし、白人の排斥が強まり、一八八五年の「外国人契約労働者禁止令」、一八八八年の「支那人絶対排斥法」の実施等により、中国人の渡航は減少の傾向をたどった。
 これに代って増加を続けたのは日本人であった。明治二〇年(一八八七)に二、〇三九人、同三〇年に三万五、〇〇〇人と増え続け、「近来米国ヘ渡航スル者陸続相踵キ其為メ我国人ニ対スル業務又ハ労働ノ需要頓ニ減少シ遂ニ多数ノ帝国臣民ヲシテ異域ニ於テ活路ニ迷ハシムルノ憂不尠」(明治二四年七月六日愛媛県達内訓)という有様であった。このため、白人の日本人に対する警戒心が強まり、桑港では排日感情が特に強いものがあった。明治二四年には最初の排日事件ともいられる「レムス号」・「ペムプトス号事件」が相次いで起こっている。それぞれ日本人五三人と六七人の上陸が拒否され、領事等の尽力で一部を除いて上陸を許可された事件である。同年三月には「改訂移民条例」を公布、移民に対する法規制も強められた。これについては、国の指示により、本県でも同年七月六日付け次のとおり移民願書を厳密に審査するよう内訓している(『資料編』海外移住第一節の10)。
  今般北米合衆国ニ於テ外国人移住条例(本年六月一六日官報ニ掲載アリ)制定有之其条項ニ拠レハ白痴瘋癲貧困者若クハ公共ノ扶助ヲ受クルノ虞アル者嫌悪スベキ疾病又ハ危険ナル伝染病者重罪又ハ破廉恥罪ノ宣告ヲ受ケタル者ヲ始メ直接又ハ間接ニ契約結ヒ一定ノ給料又ハ就役ノ場所ヲ定メヌハ其予約ヲ為シ或ハ書面口頭ノ勧誘ニ依リ渡米シタル者ハ契約移住者ニ該当スヘキモノト認メ敦レモ上陸ヲ禁止セル趣ニ有之(中略)同国渡航ノ為メ証明願書提出ノ輩有之場合ハ右内訓ノ趣旨ニ基キ本人身元目的等厳密調査ヲ遂ケ該条例ニ抵触セス且確実ノ目的アリト認ムル者ハ其旨副申書ヲ添ヘ進達セラレ其他条例ニ抵触スルカ又ハ抵触セサルモ確実ノ目的ナキ者ハ懇篤諭止セラルベシ 右内訓ス

 さらに、翌二五年七月七日付け「北米合衆国渡航者取締方告諭」(『資料編』海外移住の11)を出し、「漠然渡航ヲ企テ一身ノ不幸ニ陥リ遂ニ我国体ニモ関係ヲ来スカ如キ不都合ヲ生セサル様」注意を促している。また、ハワイ、カナダ等からの転航者も阻止するよう努めたが、排日感情は深刻になり、明治二六年には桑港学務局は、一時的ではあったが日本児童の隔離を決定した。
 我が国でも、「移民保護法」(明治二九年)の公布等法規の整備を図り、同三一年には移民取扱人による渡米禁止、同三三年米国及びカナダ行移民を一時的に禁止した。この結果、排日熱は一時鎮静化したので、同三五年に禁止を緩和、在米領事の在留証明書を有するもの、及び在米者の妻子の渡航を許可することにした。これにより、渡航・転航者は再び増加し、在米者数は、同三八年に五万六、〇〇〇、同三九年には七万五、〇〇〇人に達し、同年中の入国者は前年の二倍に達した。
 日本移民の飛躍的発展と、日露戦争の勝利による「黄禍論」などから排日熱が再び高まり、同三八年には、「日韓人排斥協会」が設立された。同三九年の桑港大地震が排日に拍車をかけ、多くの日本人が迫害され、同年、桑港市が東洋人学童排斥法を制定、これに反対する大統領と対立、翌四〇年になり、日本児童隔離問題は解決した。しかし、この解決のため日本移民の制限は強化されることになった。即ち、四〇年に米国移民法が改正され、それに基づき、大統領の「米国本土転航禁止命令」が出された。この禁止令にもかかわらず、同年数ヶ月間に、墨国より日本人一万人が転航したと報ぜられ、日米開戦の噂が流れ排日感情は高まった。我が国は終に、米国の申し入れに応じ、いわゆる「日米紳士協約」により、直接渡航をも規制するに至った。その内容は、渡航許可者を、再渡航者、呼び寄せによる父母妻子、農業企業上の既得権所有者、学生商人に限定するものであった。
 日本移民制限法は、その後も次のように強化されていった。
 大正 二年 カリフォルニア州の排日土地所有禁止法
 大正 九年(三月)日本政府、写真結婚婦人の渡米禁止
 大正 九年(一一月)第二次カリフォルニア州排日土地法
           日本人の借地禁止
 大正一〇年 テキサス州(六月)・ネブラスカ州(七月)排日土地法実施
 大正一一年(一一月)合衆国最高裁判所、日本人の帰化権否認判決
 大正一三年 新(排日)移民法実施
       (『わが国民の海外発展・資料編』)
 これらの法的規制のほか、迫害・暴動等の排日事件も続発したが、在米同胞はよく努力しその地歩を固めていった。北米における移住規制は、本県人等の北米への密航の多発の一因になったものと思われる。

 米国への移住者数

 米本国は、ハワイ・ブラジルと並ぶ大量移住先であるが、帰国者・密航者等も多く、戦前、戦後ともその数は明確でない。
 外務省や国際協力事業団の調査統計資料によると、戦前の移住総数は十万七、二五三人(明治元年~昭和四年)であり、各時期の在留日系人数は次のとおりである。
 明治一二年(一八八〇)       一四八人
 明治二三年(一八九〇)     二、〇三九人
 明治三三年(一九〇〇)   三万四、三二六人
 明治三七年(一九〇四)   四万八、三五四人
 明治四二年(一九〇九)   七万六、七〇九人
 大正 三年(一九一四)   八万〇、七七三人
 大正一三年(一九二四)  一三万一、三五七人
 昭和 四年(一九二九)  一四万〇、九四五人
 昭和 九年(一九三四)  一四万六、七〇八人
 昭和一一年(一九三六)  一一万一、一八四人
 昭和四三年(一九六八)  二七万六、三〇七人
 昭和六〇年発行資料  六七万三、八二二人
 これらの移住数等を年度別にみると、表2-1のとおりである。渡航と移住の区別が不明確で年度別の数値の把握も正確を期し難い。しかし、時期による消長はみられるものの、日系人は着実に増加している。
 また、対米国移住者の移住集中地をみると、明治四四年においてカリフォルニア州が五万六、七六〇人で六〇・八%を占め、ワシントン州の一万六、八一七人(一八%)・オレゴン州の三、七九五人(四・一%)を加えると約八三%がこの西岸三州に集中していた。それに、中西部のネヴァタ・ユタ・コロラド等を加えると九〇%が集中しており、この傾向はその後も続いているものと思われる。
 次に、出移住者県では、移住者集中地域の、羅府日本人会管轄下の人数では、広島県二、九四三人(一九・二%)、和歌山県二、一七〇人(一四・二%)・熊本県九五五人(六・二%)が上位を占め、ベストテンに中国・九州が八県を占めている。四国では、愛媛県が一九一人(一・二%)・高知県一七二人(一・一%)等となっており、本県は順位では一七位を占めているものの、人数的には一・二%にすぎない。この傾向は移住者総数についても同傾向であると推定される。
 これらの出移民県については『在米日本人史(一)』によると、日本政府が移民県と認めて海外伸展を奨励したのは、三重・富山・広島・山口・熊本・和歌山の六県であった。右のうち三重県以外は、ハワイを含めて多数の移住者を送り出し、明治二三年ころのハワイ転航者の多数渡米もあり、先輩成功者の誘導もあって移民県を形成したとしている。

 移住邦人の職業

 在米邦人は、その数の増加とともに、よく苦難にたえ、勤勉力行して地歩を固め、在米邦人社会は顕著な発展を遂げた。労働力提供の出稼時代から、定着化が進み、地方農園のみならず都市にも進出し、農業・漁業・サービス業等多方面に自営活動し、その生活も改善向上するに至った。
 『実地踏査北米』によると、その自営職種は七五を越え、ロスアンゼルス七〇〇、サンフランシスコ六七三、シアトル五四五を始め、一五都市で約三、一〇〇に達し、その従業員を加えると在留邦人の活躍は目覚ましいものがある。職種としては、西洋日本料理店二六四、旅館二五五、洗濯所二一二、理髪店一九〇、靴店一六五等サービス業が多数を占めていたことが分る。なお、『在米日本人史(一)』には、昭和一四年(一九三九)のサンフランシスコにおける在留邦人職業別人数があり、総計六、七八四人、就業者二、九九六人で、家内労働一、〇六二人、会社商店員六一九、新聞雑誌社員一五一、同記者二七、料理職一三六人、洗濯業一一九人が多数を占め、時代の推移を示している。

 愛媛県人の移住数

 本県からの渡航・移住数並びに全国的地位についても、全国の状況と同じく戦前・戦後ともこれを明確にする資料はない。全国的順位を、羅府日本人会管轄下(大正八年)の人数でみると、前述のとおり本県は順位では一七位となっているものの、人数では一九一人で一・二%にすぎず、移民県として知られる広島県の一九・二%や、和歌山県の一四・二%には遠く及ばず、米国全土に於ける状況も同傾向と思われる。
 明治三〇年代を中心とする本県からの渡米数等は表2-2の示すとおりである。米国旅行者数は、明治三四年(一九〇一)から明治四二年までで四、六〇六人、年平均約五八〇人が渡米していることになる。これを地域別にみると、西宇和郡が一、五一六人で三二・九%と群を抜いて多く、南宇和郡は〇・一%と極端に少ないが、宇和四郡を合わす南予は四七・九%と半数近くを占めている。次に中予は三一%で、そのうち温泉郡(松山市を含む)が一四・八%と郡単位では二位である。東予は二一・一%で、そのうち越智郡が一二・八%で県内郡単位では三位であるが、他の三郡は四・四%、三・一%、〇・八%と極めて少数となっている。西宇和郡を別格として、南予が多く東予が少なくなっているが、東・中・南それぞれに一〇%を超える送出郡と、それに近接する極端な少数郡、宇摩郡〇・八%、上浮穴郡〇・七%、南宇和郡〇・一%があるのも、理由は明らかでないが(宇摩郡の場合は北海道移住が多い)、特色的なことである。
 以上は、あくまでも旅行者の送出数ではあるが、全時代を通じての移住者送出数の場合にも、これと同じ傾向がみられるものと考えられる。
 なお、移住者の送出数については、表2-2に「移民年表地方長官進達一件」の移住者を示した。これは、当時の県知事から外務大臣に毎年進達した移住者数である。明治三三年から明治四二年までで八六人、出身地は不明であり、さきの旅行者数とはあまりにも掛離れた数である。明治三三年の三二人が最多であり、平均すると年一四人ほどにすぎない。同期間ハワイ旅行者は一、一五三人、移住者は五五七人となっており、移住者は米国本土に比し格段に多い。米国本土の場合、排日気運の高まりや妨害運動にかかわらず、先輩等を頼り、旅行旅券で出稼や定着を目指す者も多かったものと思われる。

 在米県人の職業別人数等

在留県人については、明治二四年の領事珍田権巳の報告中に、在ポートブルックレー浅海浦蔵・在タコマの西井久八とその妻ミヨ・金本廉蔵・原芳睦・井上政二郎・佐藤貞二郎・伊藤菊次郎、在ポートランドの吾妻長次郎・藤原八太郎等がみえる。『在米愛媛県人発展史』によると、明治一八年から同二三年までの県人の渡航は二八人。その後渡航者は増加を続け同三二年ころには四五〇余人、同三三年から同三七年までに、ハワイ転航者も加えると四七〇人の増加をみたという。その後排日運動や転航の禁止等のこともあり、在留者にも永住的精神の者も増加し迎妻時代を迎えた。この間、同三七年から大正元年までに五一二人が渡航、大正初年現在、在米愛媛県人総数は、小児も合せて一、四七〇人に達している。
 これらの県人は、全国的傾向と同じくワシントン州・オレゴン州・カリフォルニア州の三州に集住していたものと思われる。彼等には婦人一五五人、小児二六一人を含み、婦人・小児を除く大人の八〇%の八四二人は労働に従事。市内と市外が半数ずつで、市内ではホテル・洋食店・洗濯所の労働が多く、市外では農園や製材所、鉄道人夫等が多い。彼等は苦労の多い労働に従事しつつ自営業となる日を夢みて苦闘したのである(表2-3「大正初期在米愛媛県人概数」)。
 一方、自営業者は約二〇%で、都市部の商業等と農村部の独立農業者が主なものである(表2-4「県人実業者の職種別分類」・表2-5「県人の農業経営概況」)。
 まず、市内では洋食店等の飲食店が二九人と群を抜いて多い。「西井久八はシアトルの同胞洋食店の元祖で、一時は同胞洋食店は殆んど愛媛県人に限られている」(『在米闘士録』所載、中広源造談)、といわれ伝統的に県人の活躍が目立ち平均七人を雇用していた。次に旅館業も一一人と多く、室数平均四一、一ヶ月収入は約三万八、〇〇〇ドルにのぼっている。また、洗濯業も得意で、職工を平均六人を雇用、オリエンタル洗濯所は職工五〇人、馬車一〇台を有する大規模なものである。その他医師六人、牧師一人、学生も一二人を数えている。
 農業関係者も多く(表2-5「県人の農業経営概況」)、請負耕作者を含めて延一一三が従事、農園労働者も二〇〇人となっている。主な作物は、馬鈴薯一七人、野菜一七人、砂糖大根二三人(製糖会社の下請耕作が一二人と多い)、玉葱・セロリ・トマト等もあり、養豚等も白人の妨害に苦しみながらも成長を続けていった。一方、農園労働者も二〇〇人を数える。別記愛媛県人の活躍にもあるように、ほとんどの移住者がこの農園労働・鉄道人夫等に従事、また、アラスカ働き等の苦闘時代を経験しつつ、故国への送金もし、独立自営の時に備えていたのである。

 在米愛媛県人の活躍

 表2-6「在米愛媛県人Ⅰ」と表2-7の「在米愛媛県人Ⅱ」には、明治末年から大正初期にかけての人名がみえる。
 既述の著名人たる村井保固、西井久八・伊東米治郎等を始め、特色ある活躍家も多かったようである。『在米愛媛県人発展史』の在米愛媛県
人実業家伝を抜粋し、数名の活動を紹介したい。

 井上織夫

 文久三年(一八六三)喜多郡大洲町生れ。明治三一年渡米、シカゴイオンカレージ卒業、ニューヨークユニオン大学院に学び、欧州を歴遊して帰国。明治三九年五月再渡米、シアトル日本基督教会を設立して牧師となり、同四〇年教育雑誌「美嘉土」(後の日米時報)を刊行。当時、東洋人教役者会会長・北米日本人会矯風部長及び参事員・国語学校評議員・沙港日本人青年会理事・日米時報主筆・北米愛媛県人会会長等として徳望を得て活躍している。

 伊賀上惣太郎

 明治一二年(一八七九)伊予郡岡田村生れ。同三七年渡米。各地で就労後サンマリノに日本人労働者収容所を設置、労働者供給契約請負業を始め、約七〇名の人夫を引率。また、柑橘類苗木栽培業を経営盛業中である。愛媛県人会会長として県人のために尽力、明治四二年結婚した夫人萩野子も愛媛婦人会副会長として尽力している。

 岡田澄蔵

 明治七年西宇和郡三机村に生れる。明治三六年渡米。シアトルにて就労後、同三八年金水湯兼洗濯所経営、同四〇年オリエンタル洗濯所増設、日白人五〇人を雇用、集配用馬車一〇台を使用して沿岸屈指の発展中である。三九年夫人冬子を呼び寄せ、北米愛媛県人会会長として公益に尽力している。

 亀岡梅八

 明治八年温泉郡三津浜町に生れる。明治三三年ウラジオストックに渡り、その後渡米してサンフランシスコに上陸、また、アラスカに渡って鮭缶詰製造所に就労。再び帰米して就労。同三五年オンタリオの果実摘採請負業に六〇名の人夫を引率して従事して失敗、また、イユーカモンガのぶどう摘採も人に譲渡。同三六年、羅府のボールドウィン柑橘摘採請負業に従事、人夫一三人より始めて、一四〇人を収容する大成功をおさめた。他方、一四〇英町にカリフラワー栽培するなど農場経営に進出、請負業を廃してエルモンテに五五英町の農場を購入し農界の覇王といわれる。さらに土地興業会社の副社長、墨国鉱業会社取締役、南加実業家協会会長等実業会に重きをなしている。県人会等では、愛媛県人会会長・南加日本人会常置員等を歴任、その夫人江子も愛媛婦人会会長として県人のために尽力している。

 山下宅次

 明治七年西宇和郡矢野崎村字向灘生れ。同二六年渡米、西井久八の援助もあり、タコマ市高校に就学中一時帰国、卒業後ワシントン大学法科を卒業法学士となる。実業界に身を投じ、シアトルにサンライス洋食店を経営。スノーコール地方に馬齢薯を耕作、ファイフ村にて野菜の共同耕作を実施したがいずれも失敗。プレマートン軍港付近にホテル、イーストシアトルに土地家屋を所有するなど実業界に地歩を固めつつある。糸子夫人との間に長男稔・長女春子・三女政・次男譲がある。

 丹正之

 『実地踏査北米』によると、「伊予の人、夙とに自由党に属し、曾て白目鉱山事件に付て、義気の迸る所凶徒嘯集罪に問はれ、獄裡の人たること二年余、後も国会開設請願のために上京して退去を命ぜられ、遂に渡米して此地に静隠し、土地家屋を買ひ、盛大なるランドリーを営みて加州同業者中の巨擘と称せらる」とあり、大正初年ころ、サンタクローズに於て洗濯業を盛業中とある。『米国日系人百年史』には、北カリフォルニアに明治二三年開業の花園業者の草分けとして彼の名前がみえる。彼については、『愛媛県史近代上』に、明治一八年演説会葬儀事件の時、新居郡大生院村市之川鉱山資本家への寄附金強要事件に連座、重禁鋼二年罰金一〇円監視一年の判決を受けたとあり、前記の記事と符合する(『米国日系人百年史』には明治二〇年渡米とある。)。また、「海南新聞」(明治三〇年四月二〇日より同二二日)紙上には、三回にわたり、「丹氏の南米実歴」という渡米中の回想記が載せられている。それによると、政界より実業界に転進、明治二〇年、牧牛搾乳の視察と技術修得のためサンフランシスコに渡航し、苦心修行、その後、メキシコ人と偽称して鉄工会社に転じて技術を学び、機関インジ綱の製造に精通、機関師の資格を得、月給も三〇円から一五〇円となり各会社からまねかれるに至った。渡米後一〇年を経て一時帰国、技術を生かした会社創設のため投資家を募集中としている。この計画の成否は不明であるが大正初年ころの状況は前記のとおりである。

 相原清吉

 明治一八年温泉郡睦野村に生れる。同三六年ハワイに渡航、ホノルルの望月海水浴場に就労する傍ら英語学校に学ぶ。同三九年米国に転航、上陸の当夜桑港大震災にあう。南加州に移って就労、同四一年サンタアナに四〇英町を借地、翌年も農耕に失敗、同四四年には八〇英町に砂糖大根・セロリを栽培して大成功。翌年は二〇〇英町に拡張、馬匹一〇頭を有し多数の人夫を雇用するに至っている。さらに、ガーデングローブに移り同地で大農場を経営、戦後はアーリントンにもオレンジ畑四〇エーカーを購入、長男清秀氏が中心となって経営に当たっている。

 県人所在都市と周辺地域

 移住県人の集中していた西海岸三州の都市は、ワシントン州のシアトルとタコマ、オレゴン州のポートランド、カリフォルニア州のサンフランシスコとロスアンゼルスであった。移住者はこれらの都市か周辺の農園や鉄道人夫として、また、アラスカ働き等もして苦闘時代を送っていた。ここでは、県人活躍の舞台のごく一部を紹介する。
 シアトルは、一八五二年(嘉永五年)の創設、人口は一八八〇年三、五三三人、一九〇〇年八万五、八八五人、一九二〇年三八万二、九六六人と急発展をした。明治三六年一一月一一日の「海南新聞」に次の記事がある。

  市の一隅、不潔極まる部分に至れば、多数の日本人あり、自ら店を開き床や、酒や、日本湯、日本料理、そばや、汁粉や、雑貨商、受負い等を営めるものあり、又た他人の使役に服しつつあるものも少なからざるが、残念なる哉、紳商は皆無なり。……多くは無一物、加ふるに手足の人、労働の人にして、……従って大事業を企及するを得ず……(『アメリカの風の吹いた村』から転載)

 明治四三年(一九一〇)に博覧会が開催されたのを機に街は見違えるばかりに整備美化され、大北・北太平洋・加奈陀太平洋等の諸鉄道の乗入れ、海上交通でもアジア・アラスカヘの要地であり、日本よりの移住者も多くこの港に上陸した。太宰正夫の大正初年の調査によるワシントン州在住実業人五三人中二七人が当市で活躍、洋食店一三人、ホテル・旅館四人等となっており、この時期になると第一街等にも進出、立派なものに発展しつつあることが分かる。タコマの東四哩のファイブ日本人村には、日本館・小学校等もあり、本県人も活躍している。このタコマとその周辺については、表2-8「タコマ市と近郊」に概要を記してある。
 カリフォルニア州では州内実業家五五人が調査されているが、各地に分散居住しており、その内三五人までが農業となっている。この州については表2-9「ガードロップ」で、ロスアンゼルスの北一九八哩のガードロップの概要と本県人の状況を記した。
 なお、『米国日系人百年史』によると、カリフォルニア州のヴァカビル地方に本県人が入ったのは明治二一年に山田義雄が果実摘採労働に従事したのが最初であるとしている。

 昭和時代の愛媛県人

 昭和に入ってからの本県出身者の動向については、『在米闘士録』(昭和七年刊行)の関係人名を抄録した。表2-10の「在米愛媛県人」がそれである。この四六人については出身地その他が不明な者も多く、人数的にも多いものではないが、昭和初年の県出身者の動向の一端を知ることが出来る。異国において各地を流浪し苦闘を重ね、白人の迫害や、生活苦から幼児を失う悲しみに耐え、一歩一歩その地歩を固めて行った様子をうかがい知ることができる。転航者・再渡米者等もあり、磯崎千太郎はアラスカにも渡り、佐々木牧三郎は一時メキシコにて豆栽培、田村三郎はペルーからの転航、相原清吉・河野慶長はホノルルから転航、山内玉三郎は再渡米者である。
 これ以後は日米関係が悪くなり、大戦へと推移するため、移住者の苦労はさらに倍加されることになる。

 在米愛媛県人会など

 故国を遠く離れて米国に生活する県人はおのずから結集、各県人会等が結成されているが、いま『在米愛媛県人発展史』により愛媛県人会の状況を抄録してみよう。
 「北米愛媛県人会」は、ワシントン州シアトル市にあり、明治三九年二月二四日発会式、出席者八五人であった。
 「南加愛媛県人会」は、カリフォルニア州ロスアンゼルスにあり、明治四二年七月三日発会式、出席者二八人であった。なお、『南加愛媛県人史』が出版されている。
  『米国日系人百年史』によると、昭和九年の会長は中川無象、戦後は昭和二二年に会が再発足している。
  「愛媛婦人会」は、大正元年一〇月に発会、事務所はカリフォルニア州ロスアンゼルス市にある。役員は、会長亀岡寿美子、副会長伊賀上萩野、幹事茂川小富士、会計今井千代野・広田筆子、評議員は茂川品子・茂川梅子・岡保子・青野月子・近藤時子・山田元子・菊地桃代・菊地菊野・山地夫人となっている。
  『在米同胞発展史』によると、シアトルに本部を置く「ワシントン州日本人会」が明治三二年に設立されている。本会は「日本帝国に国籍を有し又は有せし者及其子にしてワシントン州内に在留する者」(会則第二条)を以て組織し、「本会は其一致協和を図り権利を伸張し利益を増進する」(会則第三条)ことを目的としている。此の会の代議員に本県出身者は、山下宅治・井上織夫(外交部)、山田作太郎・周田澄蔵(衛生部)、砂田和三郎・西井久八(慈恵部)が選ばれている。
 なお、同書では、愛媛県人会は同三七年二月二四日に創立、会長山下宅治、副会長山田作太郎、幹事兵頭庄蔵・砂田和三郎で会員は一一八名となっている。県人会としては、広島同二四年、備作同三〇年、徳島同三五年、山口同三六年に続いて五番目に古い創立となっている。
  「愛媛新報」(明治四二年一月三日)に、「桑港だより―愛媛県人の消息」として次の記事がある。

  今や県人は多く地方に散って当地にあるもの甚だ多からず然かも松山地方人の組織せる愛媛県郷友会、郷友会より分離せる県人会、今治地方人のなせる東予同志会の三団体有之候。如此類例は他県人に於て見る能はざる現象に御座候。天罰? 覿面、何れも微々として振はず有って無きが如くに御座候……

 桑港の愛媛県出身者の団体結成の状況を報告、小藩散在の封建時代以来の団結心の乏しさを嘆いている。

 西宇和郡真穴村愛媛のアメリカ村

 西宇和郡は米国移住の卓越地域であり、特に真穴村から多くの人々が渡米していることは前述のとおりである。
 太宰正夫も、「赤手空拳より起りたる西井は一八年頃より成功家として目せらるゝに至り彼を頼りて来る者、日々に多く彼の世話を受けし同胞又少しとせず。今沙港の日本人元祖として開拓者として尊めらる……彼の成功は県下の青年の渡米熱を益々熾ならしめたり。渡米者の最も多きは西宇和郡とし、今成功家中西宇和郡に最も多数を占むるを見ても、之れ彼の影響せし所ならん」と先輩の成功が大きな誘因となったとしている。
 実業家の出身郡をみると、「米国西岸県人実業家出身地」(表2-11)のとおりで、「愛媛県人の米国旅行者数・移住者数(明治三三年~明治四二年)」と同じ傾向を示している。西宇和郡が、ワシントン州七五%、オレゴン州八九・五%、カリフォルニア州二九%で三州計において実に五五・一%を占め、次位の温泉郡一一・八%を大きく引き離しているのに対し東予四郡は六・三%にすぎない。また、この表によると各郡出身者とも集中的傾向がみられ、西宇和郡の場合もワシントン州に半数以上が集中していることが分る。
 村川庸子氏の研究でも、明治三七年の郡市別海外旅行者の人口一万人当たりの海外旅行人数(清韓を除く)は、西宇和郡は五一・八人で二位の東宇和郡の一五・七人、三位の東宇和郡一〇・四人を大きく引き離している。そして西宇和郡の中でも旧川上村の上泊・川名津、真穴村の真網・穴井出身者が特に多かった事は、村上節太郎氏も指摘しているとおりである(『愛媛県移民史』)。
 西宇和郡、その中でも「愛媛のアメリカ村」と呼ばれる真穴村が、密航者も含めて米国移住者を多数送り出している理由については、村川庸子氏の実地調査に基づく克明な研究がある。それは、進取の気性・好奇心・解放性が強く、野望・不屈の精神を持つ、農地の狭小と人口の増加、半農半漁で商工業にも熱心、経済的問題、費用を入手出来たこと、米国の高賃金等の魅力、先輩の成功に対する憧れと一種の流行、兵役忌避等である。この詳細については『アメリカの風が吹いた村』(県文化振興財団刊)を参照されたい。

 米国への密航者たち

 密航とは、正規の手続をふまず不正に外国に渡航することである。移民保護法第二十一条(『資料編』14参照』の密航者に対する罰則が「五円以上五〇円以下の罰金」と軽いものであったためもあり、本県からも相当数の密航者を出しており、その数は移民卓越諸県にも劣らないほどであるという。
 密航の方法は、打瀬船等自力によるもの、船員の寄航港での脱船によるもの、外国航路汽船に潜入するもの、他国を通じて転航・越境潜入するもの、他人の旅券を使用するものなどがあった。
 『愛媛県移民史』には、密航事例として、萩森音次郎(送還後船員として再渡航、タコマで成功)、矢野義弘(明治四四年)、吉田亀太郎(同四四年)、井上慶三郎(大正二年)、菊地進一(昭和二年)の五例が載せられている。これらは、大部分が渡航後に発覚送還された例であるが、出発前に国内の港で発見された者も多く、反対に密航に成功した者もいたものと思われる。
 密航者も西宇和郡出身者が多く、『アメリカの風が吹いた村』(村川庸子著)には、西宇和郡の密航者についてもすぐれた研究成果を提示してくれている。表2-12によると、密航が発覚したものだけで二一件、延ベ一六九人にのぼり、大部分が米国を目的地にしている。郡内では真穴が五五人で三分の一を占めており、この地域は短期の出稼ぎ的性格が強かったのが特色であるとされている。同書にも西宇和郡からの密航の事例が紹介されており、魚崎亀太郎(一行九人・大正二年)、上野留三郎(一行一五人・大正二年)等は打瀬船で密航した。彼等の詳細な密航関係史料は外交史料館に保存されている。そのほかにも、吉田亀吉(明治四五年・大正二年)、宮内牧太郎(大正三年・一行八人)、田渕朝秋(大正四年)、橋本菊太郎(船員・四二年間滞米)、井上直吉(神戸で発覚)竹中音治(一行八人)の事例が載せられている。また、外交史料館には他人の旅券を悪用した事例として、「他人ノ旅券ニテシアトルヘ密航セル山下ツネヨ取調依頼」等という史料が保存されている。
 このように、西宇和郡からの密航者が多かったのは、憧れの米国の規制強化や、先輩の成功、土地狭小、積極性、開放性、連帯感の強さ等が原因しているといわれる。
 県当局も密航取締に努力しており、大正五年の「県政事務引継書」には、密航取締について次の記事がみえる。

  大正二年以来宇和四郡及喜多郡内ニ於テ海外密航ヲ企ツルモノ少ナカラサル実況ナリシヲ以テ所轄署長ヲシテ講話其ノ他ノ機会ヲ利用シ密航ノ無謀且背法行為ナルコト等ニ付注意ヲ与ヘシメ尚一面其ノ疑アル者ノ行動ヲ監督セシムル等厳重取締ヲ加ヘツゝアルモ彼等ハ渡米者中比較的成功ヲ収ムルモノ多キニ心動キ尚密航ヲ断念セス現ニ大正三年五月二二五名仝四年六月二八名各米国密航ノ目的ヲ以テ出発セシ模様アリ直ニ関係地方へ手当セシ結果前者ハ愛知県下後者ハ宮城県下ニ於テ発見セシ事実アルヲ以テ引続キ厳重注意セシメツツアリ

 なお、密航については前記二書のほか、村川氏の諸論文、『密航船水安丸』(新田次郎著)、『北針』(大野芳著)等がある。

 アメリカ講

 南予の村落は、山や岬で区切られていて集落ごとの連帯意識が強い。多数の米国移民を出していた西宇和郡の村々、特に真穴村の穴井・真網代では村民の団結が強く、また、移民との心の絆も強かったようである。これらの部落では、留守家族の間でアメリカ講等という、移民の平安を祈願する催しが始められた。これは村によって万歳講・アメリカ籠等と呼ばれていた。
 穴井では、万歳講と呼ばれ、明治三八年からの記録が保存されている(薬師神粂宣氏資料提供)。講の定めは次のとおりである。
  一 例年正五九月二五日氏神御籠ヲ成ス事
  一 若シ多忙之際ハ定日ヲ操合セヲ致ス事
  一 壱人ニ付酒弐合五勺宛肴モ持参
    若シ不参デモ出金スル事(写真2-10参照)
 毎年正月・五月・九月の三回氏神の天満神社に御籠し移住者の平安を祈願し、お守などを受けて身内の移民に送っていた。
 この講は、太平洋戦争中も続けられ、盛時には百数十人もの参籠があった。戦後も続けられていたが何時のころからか行われなくなったという。
 真網代については、古い記録は散逸し昭和一七年の記録から保存されている(柳沢茂明氏資料提供)。米国行祈願祭といわれる当地の講も旧一月二三日に氏神の住吉神社で行われ方法は穴井と同様であった。
 当地の講は大戦中・戦後を通じて行われており、昭和六一年度は一五人、六二年度は一七人が参加している。

 テキサスの米作

 日本移民の集中地域から遠く離れた、テキサス州ヒューストン付近において、明治後期から大正期にかけて、日本移民による大規模な米作が行われていた。そして、大西理平等本県出身者がその先駆的中心的役割を果たしていた。この米作については、外務省の『移民調査報告』第一回(明治四一年編纂)・第二回(明治四三年編纂)に詳細な調査報告がなされている。
 大西理平(周桑郡徳田村=現丹原町・時事新報記者)・大西虎一(理平の親戚)が、西原清東(高知県・代議士、同志社社長)等と、ヒューストンに米作調査に赴いたのは明治三六年(一九〇三)九月。それは、総領事内田定槌の「北米米作地方事情一班」という米作適地という報告書に影響されたためであった。当時の同地方では、

  従来日本人ノ足跡稀レナリシヒューストン市ニハ俄ニ七八名ノ新来ノ日本人ヲ見ルコトゝナリ殊ニ孰レモ多少ノ資本ヲ投シテ土地ヲ買ヒ米作ニ従事セントスルモノナリシカバ地方人士ヨリ非常ノ歓迎ヲ受ケ

という有様で、案内人を付け鉄道無賃乗車券を出したりした。大西等は、ヒューストン西南二〇哩のウエブスターに各三〇〇エーカーの土地買入の契約をし、一一月同地に移住を決定した。
 大西理平は一時帰国し同三七年一月、種籾輸入の手続をし、大西・西原両氏の家族と自由渡航労働者若干名を帯同再渡航して此の年から米作を開始した。同三八年には、県人大西岩次郎(理平の弟)・近藤栄次郎・黒川沢助が大西農場を離れて他の小作経営に従事することもあった。同四〇年には大西岩次郎が兄の出資にてウエブスターに二〇〇エーカーを管理経営し、渡辺豊蔵・近藤栄次郎は同地で借地米作を始めた。大西理平は同四〇年、紐育の森村組の村井保固等の財政的援助を得て、ピアス付近に二、二〇〇エーカーの土地を買入れ、運河を作って、小作方式による大農場経営を開始した。小作は七組、男女二〇余人で、近藤栄次郎・黒川沢助・宇野清次郎・安藤熊八・山内玉三郎・飯尾宇野清次郎・安藤熊八・山内玉三郎・飯尾宇野清次郎・安藤熊八・山内玉三郎・飯尾伊一・桑村政一・安藤仁作・大西実次(以上愛媛)・柿崎良太郎(山形)・麻生朝路(大分)とその家族、傭員四人であった。一小作あたりの面積は一三五ないし二二〇エーカーであった。なお、大西虎市(所有地三二〇エーカー)、大西岩次郎(所有地二一四エーカー・借入地五〇エーカー)は別の農場を経営していた。
 同地方の米作は、水利問題、大雨旱天等気象の激変・米価の急落等多くの困難点を抱えながら、入植者は着実に増加した。また、テキサスの米作の特色は、相当に豊富な資金を有する社会的地位の高い者が入植していること、経営規模が大西農場、岸吉松農場(三、五〇〇エーカー)等の如く大規模であること、大規模農場で小作方式を採用していること等である。
 この米作地に二人の異色の人物が一時的であるが米作を試みているのが興味深い。その一人は星名謙一郎、明治三七年ハワイから家族同伴で渡来、西野伊勢松(茨城県)と組みオルデンに土地を買入れて米作に着手したが、井戸の不結果等で中止した。もう一人は、片山潜(岡山県・社会運動家)、明治三七年ガーウードに一六○エーカーの土地を買入れたが水量不十分で着手に至らず、翌年にもオルデンにて土地を求め米作を試みたが失敗している。
 かくして、着手から六年目の現状をみると、本邦人米作従業者約二〇〇人、単独又は組合にて経営する者小作人共二三組、作付面積約一万エーカー、本年収穫予想約一二万袋、同売上予想約四二万ドル、投資額約四〇万ドルである。

 その後のテキサスの米作

 テキサスの米作は、その後も曲折を経つつ続けられたが、大西理平の農場は大正一二年(一九二三)の米価の暴落の時に解散したという。
 『アメリカ移民百年史・上』には次のように記されている。
  昔日の米作ブーム時代は一朝の夢で、戦前からすでに振るわなかったが、米作としてはウエブスターおよびボーモント両地域で数戸ずつがこれにたずさわり、面積統制で拡張できず堅実経営の守勢にあり、ヒューストン周辺に若干の野菜農があるのみ。

 一時期の大規模米作は、戦前すでに衰退に向かい、後継者たちは堅実な農場経営を行っているようである。『米国日系人百年史』には二人の県人後継者が紹介されている。
○ 香川米吉(明治二二年生。周桑郡壬生川町=現東予市)、明治四〇年渡米、大西理平農場で一二年間就労。独立して五〇エーカーの土地に野菜耕作、後にオクラ専門になり最優良品出荷、妻喜和(壬生川町出身)と六男六女。ウェブスター在留民物故者共同墓地世話役。
○ 渡辺豊蔵(明治一八年生。周桑郡徳田村=現丹原町)、明治三七年大西理平に引率されて渡米、ウェブスター にて二〇〇エーカーの米作。同四四年独立して野菜耕作、大正六年二〇〇エーカー、同九年から四〇〇エーカーに米作。五〇年間ウェブスターに定住。妻きさよと二男五女。日米修好百年祭に夫妻で表彰された。

 その他の地域の県人移住者

 県出身者の集中地域以外の、テキサス以外でも各地域で県人の活躍がみられる。
 北ダコタ州の西部のマニトウ付近等で明治三〇年代後半農業に従事している一三人の中に県人今井慎次郎が居た。

   一九〇四年同地方ニ於テ……百六十噎ニ対シ「ホームステッド」ノ登記ヲ受ケ住家ヲ造リ其ノ後法規ヲ遵奉シ年々開墾ニ従事シ追テハ登記転換法ニヨリ土地所有証ヲ請ヒ受ケント企テ居タル所日本人ニ対シテハ該地所取上ゲ処分ヲ行ハルベシトノ風評ニヨリ事業ノ進行ヲ妨ゲラレタリ(『移民調査報告第二回』外務省)

 とあり、一六○アールを登記、六〇アールの開墾をしている。しかし、土地所有関係で苦労しているが、彼は土地が所有できなくなった場合も、小作経営で努力する決心であるとある。
 また、コロラド州では南部のグラナダ地方に井上喜作(収穫分配借地五〇エーカー)、北部のフォートラブトンに広島県人と共同で菅茂三郎(収穫分配借地四〇アール)が居たことが記録されている。

 鉄道・炭坑働き

 移住者は自営資金等を得る手段として、炭坑や鉄道に就労する者も多かった。
 本邦人に鉄道工夫としての就労の道が開かれたのは明治二四年ころで、最盛期には一万一、六〇〇余人を算したといわれる。
 『庶務雑書・明治二五年』に、県知事に対する証明願がある。

    米国渡航旅券下付願之義ニ付証明願
  私儀先年来米国ヲレゴン州ポートランド市スターク町三百八番邸へ本郡弓削村大字佐島左高甚太郎高下新太郎ト共ニ渡航致居候処私壱名都合ニヨリ中途ニシテ一応帰郷致居候処今般該人共ユニヲンパースピークト鉄道会社修繕工事請負タルニ付至急渡来可致旨申越候ニ付該地へ渡航シ仝人業務ヲ補助シ倶ニ相営ミ申度(下略)明治二五年一〇月九日田中徳之助(住所略)

 明治二五年ころに既に鉄道働きがあり、人夫調達の請負業があったことが分る。
 『移民調査報告』(外務省)の第一回と第二回には、明治四〇年代の炭坑・鉄道の請負状況が記録されている。コロラド州サンタクララのダリーンカンヨン石炭会社の契約人中に県人高橋清次郎(労働者一六人)が、ワイオミング州スペリアのスペリア炭坑会社には、砂田隣太郎(労働者九二人)が記録されている。砂田は『四国人発展史第二編』によると、米国以外でもアラスカ・台湾等でも活躍したことが記録されている。
 また、ワイオミング州のユニオンパシフィック鉄道の工夫統計によると、ワイオミング区のセクショッフォーマン二五人(社宅付月給六五~七〇ドル)の中に、県人松金秋広(工夫七人)・二宮徳蔵(工夫五人・工夫日給一・五ドル)の二人が記録されている。

 戦前・戦後の米国移住

 一九二四年(大正一三)の米国の新移民法は排日移民法である。日本人は帰化不能の外国人として、新しい移住の道が閉されてしまった。新しく妻を日本から迎えることも出来ず、帰国する者もあり、在留邦人社会は排日迫害・暴動など困難な問題を抱えながら、次のような定着化の道を模索しなければならなかった。
 大正一一年 アメリカ忠誠協会(二世)結成(桑港)
   一四年 太平洋沿岸日本人協議会開催
 昭和 三年 新アメリカ市民協会(二世)結成(桑港)
    四年 日系市民協会結成(二世の全米組織)
    五年 第一回全米日系市民協会大会(シアトル)
    七年 日系帰米市民協会結成(シアトル)
    (『わが国民の海外発展・資料編』による。)
 このような努力にもかかわらず、昭和五年からの恐慌は在留邦人にも大打撃を与えた。また、満州事変・日中戦争等が勃発して反日感情が強まり、日米関係は悪化の一途をたどり、終に太平洋戦争に突入するに至った。
 開戦の日に「全米日系市民協会」(二世)は米国に忠誠を誓う声明を発表したりしたが、在留邦人に対する圧迫・規制は強まる一方になった。一一万余人の邦人が太平洋岸から立退かされ、最多数の時には一一万二、五八〇人の邦人が抑留生活を余儀なくされた。しかし、日系兵の第一〇〇部隊・第四四二部隊等の大活躍により対邦人感情が好転するということもあった。
 昭和二〇年の大戦終結後は、対日本人規制も漸次撤廃され、日米関係も好転した。昭和二二年には戦争花嫁の入米許可、同二三年戦時立退損害賠償法公布、同二四年日系人敵国人扱い終結、同二七年「移民・国籍法」(マツカラン法)の成立等である。こうして不平等な待遇が廃止されたので、同二八年には、新移民法による初の日本移住者が渡米、また、同二九年には邦人一世一、六〇〇人の帰化宣誓式が行われた。日系人数も大戦直前の一二万六、九四七人から、昭和三五年には二五万九、〇七一人、昭和六〇年には六七万三、八二二人となっている。

 戦前・戦後の県人の状況

 戦前から戦後にかけて、在米県人の消息については、まとまった資料はほとんど見当たらない。昭和一八年の原籍地別の在米県人数を表2-13として『愛媛県移民史』より転載することとした。戦中の状況としては、ごく限られた事例であるが、本県出身者の大戦中の立退き・抑留状況を表2-14により示した。太平洋岸地域の在留者等の苦難の様子が推察できる。
 戦後については、差別的な規制が廃され自由渡航になったため新移住者の実態は把握しにくく、また在留者も二世三世の時代となり出身地別の実態はさらに明確になりにくくなっている。ここではごく限られた二、三の資料を紹介するにとどめる。

 日米修好百年祭表彰

 昭和三五年の日米修好百年祭に、在米六〇年以上パイオニアとしてシカゴ地域で表彰された人々の内に県人の井門惣次郎の名がみえる。一地域の事例ではあるが表2-15に示すごとく、ここでも移民県といわれる広島・和歌山が多数を占め、岡山・福島・山口・熊本等がこれに次いでいる。

 愛大記念講堂募金活動

 戦後、愛媛大学教育学部の戦禍の大であったことを知った在米県人の間で昭和二五年、愛媛大学の講堂建設資金の援助のため募金活動が起こった。戦時中の強制収容所等の痛手が充分回復していない時期であるにかかわらず、八八人の在米県人から一九〇万円の寄付があったという。その詳細は『愛媛県移民史』に掲載されている。

図2-1 日本人の移住関係の州

図2-1 日本人の移住関係の州


村井保固年譜

村井保固年譜


表2-1 年度別対米国渡航・移住数

表2-1 年度別対米国渡航・移住数


表2-2 愛媛県人の米国旅行者数・移住者数(明治33年~明治42年)

表2-2 愛媛県人の米国旅行者数・移住者数(明治33年~明治42年)


表2-3 大正初期在米愛媛県人概数

表2-3 大正初期在米愛媛県人概数


表2-4 県人の実業家の職種別分類

表2-4 県人の実業家の職種別分類


表2-5 県人の農業経営概況

表2-5 県人の農業経営概況


表2-6 在米愛媛県人Ⅰ(明治41年)

表2-6 在米愛媛県人Ⅰ(明治41年)


表2-7 在米愛媛県人Ⅱ(大正2年)

表2-7 在米愛媛県人Ⅱ(大正2年)


表2-8 タコマ市近郊(ワシントン州ピーアス郡)

表2-8 タコマ市近郊(ワシントン州ピーアス郡)