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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第二節 工場法の変遷と労働者

 明治三〇年代の工場・職工

 明治一五年から内務省によって調査が始められ、幾多の変遷と波乱のうちに、ようやく明治四四年(一九一一)になって、いまの労働基準法(労働安全衛生法を含めて)の前身である工場法が成立、しかも、その施行は大正五年(一九一六)まで引き延ばされたということは前節で述べたが、この節では、工場法の成立前から、施行後の変遷のうちにあって、愛媛県下の労働者がどのような状況におかれていたかを、その変遷の経過を追って概略してみよう。
 明治三二年の「工場傷病者届出ニ関スル件」、(『資料編社会経済下』五八七頁)同三八年「工場事故届出ニ関スル件」(『資料編社会経済下』五八八頁)の二つの県令は、いずれも増加しはじめていた工場の労働者調査を、工場法案の制定に関連して行っていた政府の要請で公布されたものと思われる。その理由として、政府が「工場調査要領」として発表した中で、工場の危険防止設備や衛生設備の不完全なこと、寄宿舎が不潔で結核病が多く、その予防および扶助の方法が欠けていること、職工の中に義務教育を受けていない幼少者の多いこと、職工募集の弊害が甚だしいこと、工場主と職工とが相反する兆しのあることなどが指摘されているからである。後者の工場事故の届出については、前者の工場傷病者の届出と違って、「職工徒弟十人以上ヲ雇使スルエ場」と届出工場を限定しているが、前者では、ただ単に「職エヲ雇使スルエ場」、「寄宿舎又ハ社宅アルエ場」としているにとどまるが、当時すでに県では、職工一〇人以上の使用工場数、職工数を調べているから、前者の場合の工場も、そのような工場としてよいであろう。ちなみに、明治三〇年代の職工一〇人以上の工場数、職工数を、表1-4であげよう。
 このうち、紡績工場を例にとると、先にあげた松山紡績など三工場で、明治三一年、その職工数一、四一七人(うち、女工一、〇七九人)同三二年、一、三六二人(うち、女工一、〇三二人)同三三年、一工場ふえ四工場で、一、二六三人(うち、女工九一三人)、同三四年、一、四九二人(うち、女工一、一二一人)、明治三五年、松山紡績の年間作業日数三二〇日、昼夜二交替制で二四時間稼動、職工二四八人(うち、女工一八八人)、一日平均賃金男工二六銭三厘、女工一八銭一厘、同三六年、職工四四五人(うち、女工三六一人)、一四歳未満の者は一二九人(うち、女工一一九人)、一四歳以上の賃金男工二二銭、女工一五銭、同三七年、職工三八一人(うち、女工三一九人)、賃金男工二七銭、女工一八銭、同三八年、職工三三〇人(うち、女工二五九人)、一四歳未満の女工二六人、賃金は男工二九銭、女工二二銭、同三九年、三六七人(うち、女工二九二人)、一四歳未満の女工一七人、賃金男工三六銭、女工二五銭、同四〇年、職工三五二人(うち、女工二七八人)、年間作業日数三三一日、一日平均就業時間二二時間、賃金男工四六銭、女工二三銭という労働条件である。このうち、明治三六年から三七年の間、職工数が激減しているのは、日露戦争開戦のため操業短縮、職工の解雇が行われたという事情があるが、明治四〇年代にはすでにみたように、職工の大募集を行っている。

 工場法の成立と施行

 いわゆる明治三一年工場法案は、法律の適用対象を、「五十名以上ノ職工徒弟ヲ使役スルエ場」と、例外的に「事業ノ性質危険ナルモノ健康二害アルモノ職工徒弟ノ保護取締上必要アルモノ其ノ他ノ特別ノ事由アルモノ」とし、例外はあるが、「十四歳未満ノ幼者」の使役禁止、「十四歳未満ノ職工」ノ一日一○時間以上の使役禁止、職工規則・徒弟規則・社宅寄宿舎規則の制定を命ずるなどを内容としていたが、議会の解散などがあり流産した。その制定理由としては、工場工業が発達し、工場における安全衛生について、その取締りを従来のように各地方庁に一任できないこと、労使の関係が従来の情誼関係から法律関係に変わるなかでその調和を図る必要かおることがあげられている。
 日露戦争の結果、わが国の産業が飛躍的な発展をし、とりわけ動力の普及による全国的な重工業の増大は、工場法成立の経済基盤を強化していく。その間、いわゆる明治三五年公表の工場法案要領、明治四二年第二六帝国議会提出の工場法案などと経過するが、提出案が発表されると、綿紡績業者からする夜業禁止に対する非難の声が高く、撤回を余儀なくされる。しかし、当時においては、もうすでに絶対反対は極めて少数となり、立案作業は続けられ、明治四三年前年の法案に条正を加え、各省、地方庁官、商工会議所など各種団体に諮問し、さらに修正が加えられて、翌四四年第二七議会に提出、ここでもまた修正がなされて、ようやく議会閉会前日に工場法が成立することとなる。長い期間をかけて制定された工場法の施行も、その公布後の恐慌のため予算措置も講じられず、かつまた数次にわたる政変のため、大正五年(一九一六)九月一日まで持ち越されるという運命をたどらざるをえなかった。
 とにかく、成立した工場法は全文二五か条から成り、勅令による除外を認めて、「常時十五人以上ノ職エヲ使用スルモノ」、「事業ノ性質危険ナルモノ又ハ衛生上有害ノ虞アルモノ」を適用工場とし、これまた若干の例外はあるが、「十二歳未満ノ者」の就業を原則的に禁止、一五年の猶予期間があるも、「十五歳未満ノ者及女子」については、一日について一二時間の就業禁止、また、それらの者について「午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間」の深夜業禁止、それも交替制勤務の場合には施行後一五年間適用しないなどを含む内容で、「本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」としていた施行期日を定める勅令、「工場法施行細則」(農商務省令第一九号)、「工場法第二条第二項ニ依ル就業許可二関スル件」(同省訓令)の公布をみるのは、さきに述べた大正五年(一九一六)八月である。
 右をうけて、大正五年に「工場法施行細則」(『資料編社会経済下』五九〇頁)が八月二九日県令として公布されるが、それは、法施行にともなう適用工場の各種届出、許可申請の内容様式を定めるもので、その翌六年一二月二五日には、ごく一部の改正がなされている。大正五年一二月末の県下の工場法第一条第一号の「常時職工十五人以上ノ職エヲ使用スルモノ」は二七〇、同第二号の「危険其ノ他ノ事由アルモノ」一三、計二八三工場、第一号(男工四、二五二人、女工一万七、〇三五人)第二号(国二七八人、女一二二人)総計二万一、六八四人、その翌年一二月末では戦後の新設拡張で、三三八工場(男工四、九三七人、女工一万九、六四五人、総計二万四、五八二人)そのうち綿織物一一二、生糸一〇一工場など繊維工業が圧倒的に多い。
 工場法が施行された前後の労働者の状態を、さきにみた松山紡績㈱の例でみてみよう。女工数七〇〇人、そのうち、松山在住者が約六割、ついで、温泉郡中島村、越智郡津倉島などの島方出身者、年齢は一二歳~三〇歳が多く、小学校未修了者がいるので、一五歳以下のそれらのために学校設置を知事に申請、翌年その認可もおり、満一二歳以上一四歳未満の職工中、小学校未修了者を対象に、毎月の休日一日、八日、一五日、二三日を除いて、午前七時から一〇時まで教育することとしている。もちろんそれらの人たちは夜間業務従事者であるが、このようなことは県下で最初のことである。その当時、農商務省もまた文部省も義務教育奨励から、いわゆる幼年工の不就学者対策をいろいろと考えているが、県下各工場における不就学者の数は一四六人、市町村長の認可をえて免除されている者を含めると二九五人で、それは特に綿織物、製糸工場に多いと報ぜられている。松山紡績の女工の賃金は見習期間中一日一八銭ぐらい、それも技術次第で五五銭ぐらいになり、寄宿舎の賄費は一日九銭、専属の医師、医局も設置されているという県下では恵まれた工場である。
 工場法第一三条の定めでは、「工場及附属建設物並設備カ危害ヲ生シ又ハ衛生、風紀其ノ他公益ヲ害スル虞アリト認ムルトキハ豫防又ハ除害ノ為必要ナル事項ヲエ業主ニ命シ必要ト認ムルトキハ其ノ全部又ハ一部ノ使用ヲ停止スルコトヲ得」とあるので、県では建設年月日、位置・方位など四八項目の「工場寄宿舎調査事項」をとりあげ、それについて調査を始めるが、急に改善を命ずると、事業経営が成り立たなくなるので、差し当たり、費用も余りかからないこと、例えば痰壺を置くとか、寄宿舎の収容人員は畳敷一坪について二人以下の割合で収容させるとか、寝具は一人一床とするとか二二項目と便所構造三項目とを第一次改善事項として、工業主に実行させようとしている。その後、一向に改善がなされず、南予の各工場寄宿舎をみても、一畳に二人ぐらいの割合で詰め込んでいるのが実情で、全国では長野県についで、大正九年九月に「工場寄宿舎規則」(『資料編社会経済下』五九三頁)を県令として公布、一〇月一日より施行することとした。当時の工場寄宿舎は、県下の工場法適用工場四七一工場中、二三〇余工場がもち、益々増加する傾向にもかかわらず、その構造、設備で大体において完備しているのはわずか二〇数工場に過ぎず、衛生、風紀、危害防止の点からも憂慮すべき状態にあったといわれている。
 愛媛県における工場法令施行の状況について「大正十年県政事務引継書」はつぎのように記している。「法令施行ノ初期ニ於テハ一般工業主ハ法令ニ関スル知識ヲ有セサルニヨリ懇切ヲ旨トシ過誤ナカラシムヘク専ラ指導誘掖二努メ違反事項二就テハ犯情ノ最モ悪ムヘキモノ又ハ重大ナル過失等ニアラサル限リ可成訓戒二止メタルモ歳月ノ経過卜共二漸時取締ヲ励行シ大正八年末以来違反事項中最モ情状酌量スヘキモノヽ外ハ仮借ナク刑事訴追二付スルノ方針ヲ以テ取締ヲ続行シツヽアルモ一般二法令ヲ周知セル為メ施行概シテ良好ニシテ軽微ナル事項ノ外違反少シ而シテエ場及附属建設物等モ事業ノ旺盛二伴ヒ著シク改善セラレ法施行ノ当時ヲ顧ミレハ其ノ面目ヲ一新セリ」

 工場法の改正

 とにもかくにも、工場法が施行され、労働者保護が緒につくが、その工場法も大正一二年(一九二三)改正される。その主内容の一は、その適用を従来の常時一五人以上の職工を使用する工場から常時一〇人以上の職工を使用する工場に拡げたこと、その二は、従来「十五歳未満ノ者及女子」を保護職工の範囲としていたのを、「十六歳未満ノ者及女子」と拡げたこと(法施行後三年間は一五歳とする)、そして、それらの者の一日について一二時間の就業制限を一一時間に短縮(法施行後一五年間を限って一二時間)、深夜業の禁止の猶予期間の短縮(昭和六年までであったのを二年短縮)などである。
 この工場法改正と並んで、「工業労働者最低年齢法」が大正一二年(一九二三)に制定されている。これは、ILO第一回総会で採択された「工業二使用シ得ル児童ノ最低年齢二関スル條約」(条約第五号)にもとづいて、工業において、一二歳以上で尋常小学校修了者を除いて一四歳未満の者の使用禁止するものである。この中で注意すべきことは、第一に、この最低年齢の定めは、工場法適用工場に限定しないで、一般の工場、工場以外の工業的企業にまで適用する、第二は、義務教育未修了の一四歳未満の者の使用を一切禁止するということで、この点、工場法の中から最低年齢に関する定めを削除することになる。「改正工場法」も、「工場労働者最低年齢法」も、大正一五年(一九二六)七月一日から施行されるが、最低年齢法が、一二歳以上で尋常小学校修了者を除外したことは、繊維工業との妥協の産物であるといわれる。
 なお、愛媛県では、「工場法施行細則」「工業労働者最低年齢法施行細則」(『資料編社会経済下』六〇〇頁)(『資料編社会経済下』六〇四頁)を大正一五年六月三〇日にそれぞれ県令として公布し対応しているが、六月二七日付の愛媛新報によると、改正工場法実施を控えて商工省からの調査に対して県は次のような回答をしている。「製糸業 県下殆んど十一時間を施行して居り、深夜に及ぶやうなことはない。而して一日交替制を行って居る処は一工場もない。製紙業 殆んど男工であって、唯手漉・原料製成に女工を使用するも別に大したことはなく、時間は先ず十時間から十一時間程度のものである。瓦製造業 製成には専ら男が当り、釜入れ等の場合に女が手伝う程度のものである。綿織物製造業 一日交替制を行って居る処もあるが大体に於て男女共に十時間程度の勤労である。捺染業 大体綿織物製造工場の場合と変りなし。絣製造業 同上。其他種々あるも本県としては綿織物製造・製糸工場が主なるものであって、紡績業は深夜業を何れの工場も行っている。之は工場のみで、松山市に倉敷紡績会社の工場、今治市に合同紡績会社工場、宇摩郡三島町に大阪莫大小会社工場、西宇和郡川之石町に東洋紡績工場、同郡八幡浜町に近江帆布会社工場の五工場で、女工・男工を合す時は約二千六、七百人、三千近くを有している。」
 改正工場法公布後の「大正十三年、県政事務引継書」によると、懸案事項の一つとして、「工場法規ノ普及徹底」がとりあげられている。それによると、改正が大改正であるため、法の趣旨、規定を詳細に解説するとともに種々の届、報告書、認可申請書の様式を一冊の本にして工場主に配布する手当てもしているとされている。
 また改正工場法はその施行令で、就業規則を始めて国家制定法の領域に組み込んだ関係上、愛媛県でも「就業規則準則」(『資料編社会経済下』六〇七頁)を大正一五年七月一三日に訓令として出している。同日付で同じ訓令の形式で、「職工扶助規則準則」(『資料編社会経済下』六〇四頁)も定められているが、この準則は、原則として工場法または鉱業法の適用をうける工場事業場の労働者を被保険者とし、広く業務上・外を問わず、負傷・疾病・死亡について給付をしようとする「健康保険法」(大一一・四・法律七〇号)との絡みで、業務上の傷病などについて工業主の職工に対する扶助義務を定めるもので、官役の職工・傭人、鉱夫を別にして、いわゆる労働者災害補償制度の濫觴であり、これは労働者災害扶助法(昭六・法律五四号)でその対象労働者を拡大し、労働者災害扶助責任保険法(昭六・法律第五五号)で、従来の工業主の扶助義務を政府保障制度へ切り換え、その後の若干の改正を経て、従来の扶助関係法規の統一がなされていくこととなる。「労働者災害扶助法施行細則」(『資料編社会経済下』六二三頁)「労働者災害扶助責任保
険法施行細則」という県令はいずれもそれぞれの法施行に対応する県令である。これら法令の統一化の動きの背景は、いわゆる昭和恐慌への対応と、いくつかのILO条約との関連があったとされている。
 大正一二年の工場法の改正以後、昭和に入って、まず「工場附属寄宿舎規則」(昭二・四・六内務省令二六号)が、ついで「工場危害予防衛生規則」(昭四・六・二〇内務省令二四号)が制定される。これらは、さきに述べたように工場法第一三条に定められている「工場及附属建設物並設備」の安全および風紀衛生の取り締まりのために定められたものである。工場附属寄宿舎について愛媛県としてはすでに大正九年に「工場寄宿舎取締規則」を制定していたので、昭和二年にはその改正(『資料編下』六一五頁)の形をとることで足り、さきの「工場法施行細則」の若干の改正と並んで、同年七月一日からの施行に対応するが、昭和三年一月二四日公布施行した県令「工場取締規則」(『資料編社会経済下』六一八頁)では、明治四一年一〇月県令三一号「火工場取締規則」を廃止し、「一 汽缶、汽機、瓦斯機関、石油機関、電動機又ハ蒸釜ヲ使用スルモノ、二 瓦斯製造所又ハ貯蔵場、三 鉱油、魚油、植物油ノ製造所又ハ貯蔵場」など二一をあげ、「前各号ノ外危害ヲ生シ又ハ衛生、風紀其ノ他公益ヲ害シ若ハ其ノ虞アル製造所」の「建設物及附建物並一切ノ設備」の設置について取り締まりをするため知事の許可とするものである。昭和一二年の「工場取締規則」(『資料編社会経済下』六二九頁)、昭和一三年の「工場危害予防及衛生規則施行細則」『資料編社会経済下』六三二頁)の二つの県令はいずれもこの系譜に属するものである。ちなみに、昭和二年一〇月一日現在の県内工場中、寄宿舎の設けがあるもの二一九工場、寄宿職工数一万二、二八一人(男工九九八人、女工一万一、二八三人)そのうち、繊維関係工場が二〇〇工場、一万二、〇七〇人を占めている(愛媛県統計書昭和四年刊第九九表)。
 「昭和六年県政事務引継書」によると、昭和五年一〇月末現在で、県下の工場総数一、一一五工場、職工数三万一、五四五人(男工七、五七五人、女工二万三、九七〇人)、工場中最も多いのは製糸二〇三、織物一六一、主として製糸は南予に、織物は東予に分布、紡績は六工場にすぎないが、大規模で、その職工数は四、三八一人(男工八一九人、女工三、五六二人)の多きに達している。これらの繊維工業はいずれも不況のため、経営困難に陥り、事業の休止縮小を余儀なくされ、中には倒産もあり、職工の賃金なども極度の引き下げを行っているので、なるべくその緩和に努めている。「就業時間及賃金等職工保護二関スル取締」は、従来も相当行っていたが、不況による事業の休廃縮小にかんがみて、失業者も続出傾向であるので、幾分取り締まりを寛容にしている。「工場及附属建設物ノ取締」に関しては、「工場附属寄宿舎取締規則」と「工場危害予防及衛生規則」に基づいて、漸時改善を促し、同時に県令取締規則によって工場建設物の設置を許可制度とし、保安衛生その他公益上必要な取り締まりを励行しているので、工場法令は概して励行されつつあるとされている。それによると、昭和五年中の工場災害は計二三件、損害額四五万七、四六〇円に及び、職工罹病数(休業三日以上)は合計一万一、八一八人(男二、六三一人、女九、一八七人)で、もっとも罹病率の高いのは紡績業である。

 戦時中の推移

 「国家総動員法」が制定され、労務の保護と人的資源の確保のため制定された勅令の主なものは、「工場就業時間制限令」、「賃金統制令」、「賃金臨時措置令」、「重要事業場労務管理令」などであるが、その前の昭和一二年(一九三七)一〇月八日には「軍需工場二対スル指導方針ノ件」という内務省社会局長通牒が出され、一日の就業時間を原則として一二時間、とくに長時間労働を必要とする場合も一四時間以内とすること、休日は毎月少なくとも二回、交替制の採用など指導督励に当たっているが、これはその年七月中旬以降、軍当局の証明があるものに限って、いわゆる保護職工の時間延長を認めたため、労働者の健康状態の悪化を憂慮したためとされている。そして、昭和一四年(一九三九)「国家総動員法」にもとづく「工場就業時間制限令」(昭和一八年廃止)で、工場法適用工場で厚生大臣指定の軍需工場について、一六歳以上の男子職工の就業時間を一日最長一二時間としたのは、いわゆる保護職工以外の成年男工の時間制限をした点で画期的なことである。しかし、それが、物価急騰に対処しようとしてとられた低物価政策の一環としての「賃金統制令」や「賃金臨時措置令」による賃金釘付けや賃金体系ないし賃金形態の不合理を克服する労働者の残業手当や割り増しを受けようとする生活防衛策と衝突するものであったことは皮肉な現象であった。昭和一七年(一九四二)の「重要事業場労務管理令」は、 「事業主は国家に対し従業者を適正な労働条件のもとに従事せしめる義務を負ふと共に、従事者も国家に対し事業主の指揮に従い従事する義務を負ぶ」というナチス労働秩序法の根本理念に立って、厚生大臣指定の重要事業場では、従業規則・賃金規則・給料規則および昇給内規の作成が命ぜられ、その作成・変更は厚生大臣の認可を要し、しかも、それら従業規則や賃金規則は、「工場就業時間制限令」や、昭和一五年の「賃金統制令」の適用をはずし、各事業場の実情に即した労働条件の実施を期待するが、実質的には厚生大臣の認可という点で、「経営の国家性」、「勤労の国家性」が強調されることとなる。
 その後、昭和一八年(一九四三)の「工場法戦時特例」では、厚生大臣、軍需省所管工場では軍需大臣の指定工場については、工場法がいわゆる保護職工について定めている労働時間の制限や危険有害業務の就業制限を排除し、銃後で生産に励む女子および年少者の生産に期待するという破局を迎えては、昭和一八年決戦体制としての「軍需会社法」による軍需会社の従業員を全員徴用でかき集め、その管理についての監督も厚生省の労務管理官から軍需省または陸軍省海軍省の監理官へ移行して終戦を迎えることとなる。
 最後に、最初に工場法が成立した第二七議会での桑田熊蔵氏の次のような工場法案説明でこの節の結びとしよう。「工場職工の疾病の割合は、普通の人民に比して余程多いのである。……若しかかる事実ありとせば、わが国の国防軍備に非常なる関係のある問題と考えます。年々二億の軍事費を抛ち、海に五十万噸の船を浮べ、陸に百万の兵を養って居る我が帝国の前途が此工場職工の為に遂に危き状態に陥ることを思へば、どうか諸君は我国家の前途のために本案に賛成あらむ事を願います」(『大日本帝国議会誌第八巻』)。

表1-4 労働者数(10人以上使用工場労働者)

表1-4 労働者数(10人以上使用工場労働者)