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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 識者の視点と「新人国記」

 少し観点を変えて昭和三二~三三年頃の識者のことばを引用して見よう。
 昭和三二年一一月号、「教育心理」(日本文化科学社刊)に、当時愛媛大学田中賢教授の『愛媛県民かたぎ』の一文がある。
 「名はよく体を現すの言葉にたがわず、愛媛は〝伊予の二名の島〟とよばれた神代の昔から、女性的で平和的な国柄人柄のようである。現代でも男性よりは女性の方が評定がよいのではないかと思われる節がいろいろある。温暖豊穣(四時たゆることない新鮮な果実だけでも想像していただけよう)な、出で湯の里では人間が温順柔和に育つのは自然の道理であろう。歴史的に見ても勇猛殺伐で名をなした人はいない。日振島で暴威を振った藤原純友は東国の人で、伊予人はその被害者にすぎない。……(中略)勇武の点ではさえないが、文教では都から遠く離れているにもかかわらず、なかなかよい成績をあげている。弘法大師の徳化はもとより、中江藤樹、盤珪禅師の教化は地につき、正岡子規らの風流は一般庶民のものになっていて、風流な武人や文人を輩出する温床となっている。
 さて最近愛媛の教育界に、勤務評定、集団予備校入学、集団訓練のため自衛隊入りなど前述と矛盾するかのごとき問題が爆発したのはいかに。それらは近因はさておき遠因を探ねると、都から遠離していることから生ずるはげしい劣等感とその反動、(補償)ならびに地勢的分離や旧藩時代の小藩分立からくる割拠的対立的抗争意識などの生んだ結果であると思われる。しかし児島惟謙(宇和島出身)の明断はなくとも、これらの問題が教育放棄の暴挙とならず、ともかくも解決を見ているのは温和の国柄、人柄のいたすゆえんであると、なお自説を固持するが、識者はどう見られるか、妄言多謝。」
 当時教育界を沸かした諸問題の解決も、愛媛県民気質に負うところがあると見ている点注目されよう。
 次に昭和三三年野田宇太郎は、『四国文学散歩・愛媛』―小山書店刊―の中で、「近頃は獅子文六の『大番』という読物が映画になったりして脚光をあびはじめた宇和島だから、少しは田舎娘の厚化粧みたいな俗化もしているだろうと思ったが、大番とか小番とかいう菓子が売り出されている程度で、印象はむしろがさがさした戦災復興都市らしい質素なものだった。港町らしい情緒もあまり感じられない。しかし私がさっそく会った文化関係の人たちは皆素朴ななかに熱心な知識欲を抱いて、親切で、ひそかに期待した宇和島の伝統はそんなところに生きているように思った。」
 主として宇和島人の評であるが、当時多少戦後の残滓の漂う中で、南予人らしい純朴さと知性への意志の現れを描いている。

 「新人国記」

 次に昭和三七年一二月頃連載された、朝日新聞の「新人国記」、愛媛県編に巷間よく引用される一文がある。
 「愛媛県を大きく分けて、松山中心の一帯を中予、それ以東を東予、旧大洲藩以南を南予と呼ぶ。かりに昔の金の一万円があるとしよう。東予人は商売につぎこんであの手この手で二万円、三万円とふやそうとする。中予人は銀行に預けて利子で温泉にはいったり俳句をひねろうと思う。南予人ならば思い切って大散財して、また一万円もうければよいと考える―とさる銀行家が表現したそうだが、伊予人の通ったあとには草もはえぬとの昔の言伝えは、この東予人のなかの商売上手にささげられた言葉らしい。」と
 この東予人として当時国鉄総裁十河信二と、近畿日本鉄道社長佐伯勇があげられている。
 十河は西条出身で、昭和三〇年当時種々の事件のあった国鉄の四代目の総裁に就任している。四年の任期が過ぎたとき、当時岸政権が思うままにならぬ人間として勇退を望んだものの、世論は逆に、利権屋からけむたがられる私心のない東洋人的人物だと支持する声が多く、結局再任されている。戦争末期西条市長に選ばれ、食糧増産のための干拓や灌漑池作りを進めた。「ガンコだったが賞与などを受け取らずにみんなにわけたり、大物市長でした。今も帰郷されると、友人の墓へ全部参り、何々君さよなら、と声をかけてゆかれますよ」、と西条市役所の方が語っていたという。
 昭和三九年東海道新幹線はあのじいさんなればこそ生み出したとはみんなの認めるところで、新幹線あるかぎり十河の名は消えないであろうといわれている。
 新幹線に対して「あれが完成したときはタイヘンだ、こちらは商売上で新機軸を出してサービスで対抗する」として二階作りの電車を走らせたのは、近畿日本鉄道の佐伯勇であった。佐伯は周桑郡丹原町出身で、十河が国鉄の虫ならば佐伯は関西私鉄の虫である、としている。
 中予では昭和一五年から旧制一高(現東大)の校長。そして戦後は幣原内閣の文相に就任した安倍能成があげられている。彼は文相をやめてしばらくのち、学習院長に迎えられて一六年、宮内省の保護から離れて一私立大学となった学習院の経営に身を砕いたという。氏はいうまでもなくカント哲学の研究者として令名が高いが、松山旧藩士の子弟で、中学二年から五年までは新聞配達によって学資を稼いだという苦学の経験者であった。
 中予には多くの俳人がいたことはいうまでもないが、中村草田男、石田波郷はその雄、松根東洋城、芝不器男は南予出身であった。
 南予では大津事件当時の硬骨な大審院長児島惟謙や、法学者穂積陳重、さらに鉄道唱歌の大和田建樹等があげられているが当時の活躍者ではない。
 この時の「新人国記」では東予の事業家的風土と、中予の学者風土がクローズアップした観であった。