データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
六 文 教 意 識
徳川幕府の文教政策は朱子学を主体とし、その昌平黌はいわば官立大学として各地からの遊学子を育て、また多くの学者を輩出した。伊予にあっても延享四年(一七四七)に大洲藩を皮切りに、翌寛延元年(一七四八)宇和島藩に藩校が開設され、その後半世紀の間に八藩すべてに藩校が設置されている。
これらの藩校での学問は前述のように大体東、中予では親藩の故もあって朱子学を主流とし、南予の外様大名では陽明学が講ぜられていた。各地にそれぞれ名のある学者が独特の学風を普及させているが、それらの外に松山藩を中心とする中予では心学、南予では国学から末期には洋学を他に先んじて取り入れたこともよく知られ、新しい時代の学問として脚光をあびたようである。ここらにも宇和島地方人の進取の気性がよみとれる。
学制と就学督励
従ってそのような教育の気風は維新後しばらくはその跡を引きついでいるが、前述のように新政府のもと明治五年(一八七二)わが国最初の総合教育法規「学制」が公布され、「自今以後一般ノ人民必ズ邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事ヲ期待シ」ている。学制は全文一〇九章からなり、学区、教員、生徒及び試業、学費についても規定されている。愛媛県は改めて明治六年に一国一県となり学区制の整備が行われた。同八年県庁内に学務課が設置され、学区取締が就学の督励、学校の設立、学校の保護、学務経費のことなどの監督をすることとなっていた。
当時就学については、士族であったものは学問の習慣もあり、余り問題とならなかったものの、農・工・商の家庭では余計の干渉をして家業を妨げるという受けとり方で、かなり不平があったようである。従って取締の学校の方から子供をしばらく貸して教えさせてくれと懇願していたらしい。以後の視学官等と比較して、当初の就学奨励に対する苦心が偲ばれる。
学制公布当時愛媛は石鉄、神山両県に分県されていて、それぞれ就学意識も差が見られたが、それは草創期の人びとの向学心の発達不充分、特に学費についての思案がさまざまであったようである。
一般の家庭では学費の捻出もままならず、もし各戸に割り当てすれば人民物議をかもし、文部省に学費支弁を求めたが拒否されたこともあるようである。また神山県では学費捻出のため士族に「勧学克諭」を出して俸禄に応じた規定の拠出を命じているが、これはかなり効果があった様子である。明治六年には「学費寄付の告諭」を出し、且つは褒め、且つは冗費を節約して学費に寄付することを一般に薦めているが、同七年には石鉄県でもこの方法を適用している。
以上のような就学勧誘の努力にもかかわらず、明治七年頃では学校設立が思うように進まず、当時の農山村では旧態への思慕と、新制の疑義がまた渦まいていた感がする。
しかし、明治九年頃には小学校の就学はかなり伸び、文部省督学官は「年数ヲ経ズシテ校数ノ多キ此二至ル者勧誘ノ功二由ル」と、県当局や町村学事関係者の労を評価しているところを見ると、学校に対する一般の意識が同一〇年前後にはかなり向上したものと見える。
しかし当時一方では教員養成機関の整はないままで学制の実施を見たために、教員の方の質や信念に問題をもつものもあり、また定着も余り芳しくなかったらしい。これに対し神山県では明治六年に教師検査規則を制定しており、同九年には愛媛県師範学校が開設され教師の養成が進められるようになっている。
明治一三年の県政事務引き継ぎ書によると、当時の教員は薄給のため「教員恰好ノ人物ヲ得難ク、動モスレバ教育ノ価値ヲ人民二蔑視セラレ、寧ロ旧寺子屋二如カズトイワシムルニ至ルコトアリ」と嘆かしめている。当時も教員は余り恵まれなかったらしい。
他方就学率は相変わらず思うにまかせず、権令岩村は、明治八年に「人民の知識の高さと品行方正は人民が学問することに原因している故、せいぜい就学するよう」督励して、その年は急速に就学率を伸ばしているが、同一一年で漸く同年齢子弟の1/3であった。これは全国平均に比べて約一〇%低い率であった。明治一〇年の学事年報にも、教育の普及に尽力したが、人知未だ開化せず、人民の習俗もいまだ破れないこと、また天災、人災による社会変動がその進歩を妨害していることも報じている。
教育令
明治一二年政府は「学制」を廃止し、新に「教育令」を公布し、中央統制による画一化された教育を改めて、教育行政の一部を地方に委託するようになった。これは当時の自由民権運動とも関連があるものとみられ、「自由教育令」という世評をうけている。これによって学校は小学校、中学校、大学校、師範学校、専門学校に分けられ、従来の学区制を廃止し町村または数町村連合して公立小学校を設置すべきものとし、学務委員が掌握して学校用地は免税、生徒に体罰を加えることを禁じ、男女別教育を定めている。また学齢は六~一四才の八か年としているが、土地によって四か年も可としている等基本的規定が定立した。
これにより小学校教員は師範学校卒業者に定められ、明治九年開校の愛媛県師範学校の拡張の急務が叫ばれるようになり、各府県一校が完立した。
明治一三年、教育令が改正せられ、小学校教育は一般規則も府県知事、県令が定めることになり、愛媛県では同一五年以降関係規則が次々布達された。それより少し前同五、六年頃から中学校もぼっぼつ開校されているが、当時は開廃も見られた中、同一一年変則中学校といわれた正規にのらない中学校から松山中学校が誕生するのを嚆矢として、各地に中学校が開かれるようになった。これを見ると子弟特に青年期の教育への関心が同一〇年頃から高まったものと見られる。
書記官の視察報告
明治一五年(一八八二)文部省大書記官西村茂樹は徳島、愛媛両県下学事巡視の命を受け、五月随行員と共に来県その報告を認めている。その状況から当時の教育意識を推測してみよう。(文部省第一〇年報)
愛媛県(当時伊予、讃岐両国を管理していた)に関して「南方ハ徳島、高知二県二接シ其間山岳連亘シ平地ヲ見ルコト罕ナリ北方ハ内海二瀕シー帯ノ平地アリ但伊予ノ温泉郡以西ハ海浜ニモマタ平地ヲ見ス」として山岳が多く平地少なく、南予における隔絶の地勢を簡述している。また讃岐一二郡、伊予一四郡の「各郡内ノ学事良否甚ター様ナラサルニ由リテ考フレバ郡長ノ学事二心ヲ用ヒル者ト用ヒサル者トアルコトヲ知ル」として両県学事の差が郡長の意向、努力によることを指摘している。
また小学校の景況について「讃岐ト伊予ト大二其状ヲ異ニシ両国ノ中二於テモ各郡亦優劣ヲ異ニセル者ノ如シ」従って徳島のように全県を通じて評論を下すことが難しいとしている。伊予東予では上等の学校は讃岐と変わらないが、村落の学校は大いに讃岐に勝っていると評価している。中予松山では学事は良好であるが「表薄ノ製作宜シキヲ得タル者ハーモ之ヲ見ス」とある。温泉郡のある学校で新教則に異見ありとして、その学校独自の教則を作成しているところあり、即決し難いが県庁学務官に注意を促している。なお道後では温泉、繁華の地ながらその学校は「陋隘疎拙ヲ極メタリ」と厳しい。
喜多郡は「四面山ヲ以テ囲繞シ其民勤倹質素ノ風アリ」「学事八本県二入リテ以来第一等二居ル民風固ヨリ教育二適スルナレドモ郡長郡書記亦能ク其ノ任二堪ヘタルナルベシ」と讃えている。
宇和郡も「平地甚少シ其民質朴倹勤ナルコト喜多郡二相似タリ但其内八幡浜ノ如キハ船舶輻湊ノ地ナルヲ以テ其民軽薄ノ風アルヲ免レス然レドモ概シテ之ヲ観ルトキハ此ノ一郡ノ学事ハ喜多郡ト相伯仲スベクシテ其中東北ノニ郡ハ喜多郡二一歩ヲ進メタルニ似タリ」と、東宇和郡は山間の平地でその民は農を業とするもの多く「風俗淳撲ニシテ古代の遺風アリ」と、また村民学事に尽力して就学状況は豊かな都会の学校の上に出るものもあり、教員も亦「勉強ノ様子アリ」と評している。宇和地方は当時教育にかなり熱心であったようである。宇和町卯之町の開明学校は明治一五年の建築であり、有志の寄付によって建築されたもので、地方民の向学の意識の結晶であった。
その他中学校について、本県は一一藩の領地で旧城下に士族が聚居しているため自然に中学への要求する勢があったと見られ、目下県下に県立八校、私立一校を設けられるようになっている。しかしその名は県立でもその費用の多くは人民の義金や賦課金をもってあてている実状である。また宇和島では南予中学が県下第一の大校で、特に英学の力は他学に優れ、積立金も多い事が書かれている。南予の教育意識の密なるを示しているものか。
次に南予私学の継志館について、宇和島の旧藩主伊達宗紀の遺志をついで、修身道徳を柱とした学課を課している状況について「今功利ノ風地方ニモ波及セル折柄ナレバ此ノ如キ学校ノ設立ハ亦人心風俗二必要ノ者ナルベシ」としているところを見ると、南予地方にも都会の風潮が及んでいる実態を感じたものと見える。
小学校の就学状況について、不就学の理由は貧困としながらも、讃岐、伊予甚しき差異は見ずとしている。学事についての全体的状況については「讃岐ト伊予トハ甚地勢人情ヲ異ニスルヲ以テ其教育ノ状モ一様ナラザル所アリ、二国ノ中二於テモ其東部ト西部トハ人民向学ノ状同シカラサルニ似タリ」「西予上等二居リ東予ト西讃ト中等二居り東讃下等二居ルカ如シ」、「讃岐ハ伊予二比スレハ民産富続ナルヲ以テ教育モ亦進歩スヘキニ県治ノ数分合スルト其他二彼此ノ縁故アリテ為二人心ヲ損シ全体教育ノ状伊予二及ハス、伊予ハ其民産菲薄ナルカ如シト雖モ人心倹撲ニシテ(人心倹撲ナルハ特二西予ノ地ナリ)向学ノ気却テ讃岐二勝レルハ稱誉スヘキコトナリ」としている。
「総シテ徳島県ノ学事ハ全県大抵同一ノ地位ニアレドモ愛媛県ハ一郡毎二多少其状況ヲ異ニセリ蓋シ県庁ニテ自ラ学事ヲ担当スルト郡役所二学事ヲ放任スルトニ由リテ此差異ヲ生シタル者ナルヘシ併セテ之ヲ見ルニ二県ノ民ノ財産ノ富ハ全国中ノ中等以上二在ルヘクシテ其民心頗ル向学ノ気象アレバ他二之ヲ妨害スル者ナキトキハ後年二至り良結果ヲ得ヘキコトハ期シテ待ツヘキ者ノ如シ」と結んでいる。付加することはない、当時の初等、中学教育への人びとの考え方を裏打ちしている。
青年女子教育
次に青年教育について、その頃男子については中学校として抬頭してきたが、女子教育については江戸時代以来の男尊女婢の風潮が払底せず、女子は家庭で婦徳を磨くべきであるとの考えが一般的で、それが女子中等教育の発展を妨げていたようである。しかし庶民の意識の進展につれて小学校への女子の就学も次第に増加し、さらに高等教育への志望も出てきたものの、当時は県内に女学校がないために他県に遊学する不便さがあった。
県下で高等女学校が誕生したのは明治一九年九月で、四国で初の私立松山女学校(現松山東雲高校前身)であった。その後明治二四年に有志によって高等女学校の設立が準備され一〇月には認可された。同年一二月に中学校令が改正され、初めて高等女学校の名が現れ、法規上の市民権が与えられた。その結果多少女学校志望も増したが、経営はいずこも苦しい実情のようであった。
明治二八年には文部省も女子教育について腰をあげ一月には「高等女学校規程」が制定された、その背景には男女の分離主義と、女子教育の婦徳、婦技の意図からぬけられなかった。同三二年二月には「高等女学校令」が公布、初めて高等女学校は男子中学校と対等の地位を獲得することになる。そしてそれから各地に高等女学校の設立が進み、入学者も次第に増加した。
このような教育の普及は県民生活意識の変貌に大きく係わっている、特に女子教育の進展は衣食住を中心とする生活様式や、社会意識の向上にかなりの影響を与えている。当時の男子中等教育は強いアカデミズムによって支配されており、それに対して女子教育は家庭生活への実科教育が重視されていたので、男子中学校と比較すると教養的な内容は低かった。しかし女子教育についてはそれが当然として受けとめられていたのであろう。勿論進学するものも男子に比べて少数であった。
小学校令と就学状況
明治二三年改めて「小学校令」が公布され、尋常科と高等科の二課程が設けられ、また郡視学をおいて郡内教育事務の監督を、市町村には学務委員がおかれ長を補佐して教育の振興を期せしめている。愛媛県ではこの小学校令の実施は明治二五年であり、郡視学等の設置は同三〇年であった。
その当時の小学校の就学状況を次に示してみる。なお愛媛では明治三一年に「児童就学勧誘の告諭」が県知事によって発せられているが、その頃から漸く全国平均に接近し、明治末期になってその平均を上廻る就学率が見られるようになっていることがわかるとともに、ほとんど全員の就学が見られている。
次に出席状況を見ると高等科では全国平均を上廻っているものの、いわゆる義務教育としては思わしくない。教育進歩のあと遅々たりとされている。殊に明治二九年兵丁検査における兵丁の教育状況の統計を見ると、無学者(一丁字のなきもの)1/3以上の多きに上っているは真に寒心すべきことであると訓令に出ている。
このような状況打開のため上浮穴郡弘形村(現美川町)では、出席良好者には賞金を出し、欠席多き児童の保護者からは過怠金を供出させる等の手段を講じている。その頃から学校行事として運動会、遠足、中には修学旅行等も行われるようになっている。勿論旅行といっても県内のようであったが、そのような行事の教育的意義も理解されるようになったことを物語っている。
実業学校
明治三二年には「実業学校令」が公布され、工業、農業、商業、商船、実業補習の各学校が出発することとなったが、これについては愛媛県では同三〇年頃からその必要を感じ準備を進めていた様子である。農業学校が先ず同三三年に開校、商業学校が同三五年、三四年には越智郡弓削、岩城村組合立海員学校も誕生している。しかし工業はずっと遅れて同四二年松山市立として出発している。このような状況は地域住民の要請にこたえたものと考えられ、県民の教育に対する期待を物語るものであろう。
教育意識の高まり
明治三七、八年日露戦争は、未曽有の大戦で社会の各方面への外的、内的影響は言語を絶するものであったというが、教育界へのそれも極めて大きく、義務教育の延長が明治四二年より実施され、実業教育の奨励、中等学校への関心の高まり等が現れている。小学校学齢児童の就学率は明治末期には約一〇〇%に達していたが、出席率は明治二九年で約八〇%であったのが上のように高められている。
その他教育に対する意識の高まりは、教員給与にも現れ、漸次優遇の方向に向かっていたようである。しかし正岡子規は明治二五年月給一五円であった。
青年団その他
大戦後各町村に於いて青年団体の組織が任意に行われていたが、その意義、効果が浸透してその指導の必要に迫られ明治三九年一月知事は郡市長に次の通牒を発している。「各種青年団体ノ設置ヲ見ルニ至レル八通俗教育上二於テモ其効果尠カラサルコトト存候二付是等団体ヲシテ其発達ヲ遂ケシムルト同時二旧来ノ習慣二依レル若連中等ノ青年団体二於テモ其弊風ヲ排除シテ有益ナル活動ヲナサシムル様適宜誘掖指導相成様致度……」と、同四四年にも知事は郡市長会議に於いても注意督励している。
ついで大正四年(一九一五)九月一五日内務・文部両大臣より青年団体の指導に関し一層適切な施設をなすべきことを命じ、知事は同年一〇月二二日郡市長に訓令を出して、「……青年ヲシテ健全ナル国民善良ナル公民タルノ素養ヲ得シムルニ在リ……」とその本旨を示して最も適切な指導をなすべきことを指示し、合わせてその組織・設置区域等の注意を促している。
こうした指導の中大正三年現在青年団は二九三町村に七〇八団体あり、その会員数は六万二九九人(『愛媛県誌稿下』)となっている。
さらに大正九年二月六日には、「青年団改善に関する件」の訓令が出され、「……今ヤ平和克復シテ大詔煥発セラル国家正二重要ノ時ナリ、此時二際シテ国民ノ奮励努カヲ要ス殊二切ナルモノアリ、青年団体ハ思ヲ茲二致シ益々堅実ノ俗ヲ興シ剛健ノ風ヲ養ヒ其使命ノ重キニ副ハムコトヲ期スベシ……」と知事は望んでいる。
これらを見ると日露大戦後及び第一次世界大戦後特に青年教育の重要性が一般に認識せられ、義務教育を終えたあとの兵役までの数年について神経を用いていることがわかる。
こうした状況の中、大正八年には官立松山高等学校が、同一二年には私立松山高等商業学校が設立されることになる。
右のような一般教育意識の高揚の中にあっても、大正一三年には、「児童就学奨励規程」なるものが出され、貧困により就学が難しい児童に対し、義務教育を受けさせるための補助金の交付を定めている。その傍ら同一五年一一月には今度は「女子青年団刷新振興に関する訓令」が公布され、その修養機関の育成の急務と目的達成への努力が要請されている。