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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 権 利 意 識

 一揆と自由民権

 明治維新によって門閥制度は破れ、四民平等と種々の権利が容認されることになるが、それらの確立前の明治三年(一八七〇)東宇和郡野村において一万五千の農民が、農村におかれていた民政局をとりまいて、いまでいう農地改革、小作料引き下げ、当時藩庁の役人とたっていた庄屋の制度改革を迫る農村騒動なるものが起こっている。四民平等とはいうもののやはり新政庁には旧士族や豪農出身者が優先的に登用される事態があったらしい。
 松山藩では明治三年に苗字が許可され、同四年四月戸籍法の制定に伴い、その加除心得等も数年内に示されその日常的運営を期している。ところがこの年大洲藩全域にわたって、二万とも四万ともいわれる農民が県庁職員の入れかえを要求し、戸籍調査と種痘とに反対する等の騒動を起こしている。
 同年七月には居住移転の自由、八月には華族・士族・平民の間の結婚の自由、同五年には職業選択の自由が認められている。
 そのような中で明治六年徴兵令がしかれることになるが、同五年から六年にかけて、岡山県から起こった徴兵令反対の一揆が香川から愛媛県一円に及んでいる。これら戸籍や、徴兵令、種痘反対の動きはすべて誤解によるものではあったが、民衆の自らを守ろうとする意識の一部を示すものでもあった。
 また明治五年の通達に、明治初年頃は士族達が道後温泉に無料で入湯することが出来ると考えていたに対し、町民が四民平等であるから、その特権行使を認めることはできないとしたことが伝えられている。これも町民の目ざめの一つであろう。
 明治六年東予及び南予にも農民の徴兵令反対の一揆の動きがあったが、首謀者の捕縛によって鎮圧されている。このようにそれまで無権利状態にも等しかった日本の民衆が、それを主張する行動を各地で色々の形で起こすようになった背景には、農民のエネルギーが大きく働いていたようである。
 明治七年一人の旧大洲藩士が、当時自由民権運動の盛んであった高知に単身潜入し、民情を視察し帰国の上同志の賛同をえて集義社という政治結社を組織している。集義社はその後全国的組織に加わって活動したが、成員間の意見の対立で同九年には解散している。そのような政治思想の風潮は松山にも芽生えていたようで、明治八年開設された県立松山英学所の初代校長には、慶応義塾の伝統を受けついだ自由思想の草間時福が選ばれ、学内には新しい思想に目覚めていく青年の活気がみなぎっていたという。
 ともかく愛媛の自由民権運動は高知の影響を受けることが多く、徐々に高まってはいったが、高知のように急進的ではなく、官民調和を基調とする微温的民権運動が主体であった。それは土佐出身であった岩村権令の明治七年以来の啓蒙的行政の影響もあってのことであるが、ともかくも温和な風土や、穏やかな人情の醸し出した士族の政治思想の反映であったとみられている。
 しかしこの微温的路線も明治一一年頃から少しずつ転換が見え始め、全国の民権運動の流れを受けて国会の開設を実力で戦いとるといった路線へと近づいていくこととなる。そうした動きが明治二〇年(一八八七)展開された三大事件建白運動に発展したものとみられ、当時の愛媛の民権意識は指導者の存在にもよったものと見られるが、かなり高かったものと思われる。

 公害阻止

 今日では公害の問題は高度経済成長の残滓として人びとの意識の中で大きな位置を占め、それに対して生活や生命を守るための権利意識は強く、その反対運動も各方面に種々の手段を通じてみられ、少しずつ解決されてきている。この問題について愛媛県では明治二六年別子銅山の製錬による亜硫酸ガスの煙害問題が、関東の足利公害とともに公害の原点として浮かび上がっていた。
 住友鉱業所の別子銅山、惣開製錬所の煙害は明治二六年新居郡四か町村の総代により県庁に訴えられたのを皮切りに、明治三七年(一九〇四)製錬所が四阪島(現越智郡宮窪町)に移されるやその煙害はさらに東予四郡に拡大、明治四三年一〇月両者の賠償交渉が妥結するまでその紛争は続いた。公害紛争の原点であり、農民のねばり強い一七年に亘る生存権の主張が、最終的には功を奏したことになっている。

 選挙

 権利意識について既に議会の問題として触れたが、明治二三年(一八九〇)には新しい郡県制の実施があったにも係わらず、県は自治体としての法人格は与えられず、条例の制定権もなく、議員も間接選挙で、被選挙権も直接国税一〇円以上を納める男性の戸主に限られていた。同三二年に漸く県に自治体としての法人格は認められたが、自治立法権はなかった。議員も直接選挙とはなったが、被選挙権は直接国税一〇円(県会)、又は五円(郡会)以上の納税者に限られ、女性と無産の民は地域社会の中で平等の権利を持たない住民にすぎなかった。
 こうした状勢を大きく変革しようとしたのが大正デモクラシーと呼ばれる一連の風潮の中で高まった普選運動・労農運動・婦人運動・水平社運動であった。第一次世界大戦後愛媛県ではすでに知事の公選要求が高まっており、大正一一年には女性も政治演説会に出席するようになっていた。公民権の要件も国税納付者から市町村税に改められ、中央集権体制の末端的役割を果たした郡制も同一五年には廃止されている。また同一四年には普選法成立、昭和三年には二五才以上の男性はすべて国政参加できる選挙が行われ、同六年には婦人参政権への第一歩が踏みだされている等、政治参加への意識は昭和に入って急ピッチで進展した。

 メーデー

 その他農民、労働者の権利主張の行動として、大正一一年に北宇和郡日吉村では小作人や日雇が集まって、四国最初のメーデー集会が行われ、同一四年には今治でも総同盟因島労働組合今治支部がメーデー集会を開催している。その他の地でもそれらに刺激されてメーデー集会の実行が見られたようである。その間同一三年には新居浜住友関係の組合では二度の争議を起こしている等、愛媛では労働者のこのような権利主張の活動は比較的早くから行われていたことがうかがえる。