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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 政 治 意 識

 議会開設

 明治七年最初の公選権令岩村高俊が発令され、同八年最初の大きな施策として町村議事会開設についての仮規則を公布し、同時に各区(当時の区は大区・小区とあり、それは従来の郡―組―町村とは別に新しい行政単位として出現していた)戸長に「近いうちにこの会が盛大になることを県下の人びとが熱望するようになれば、それは県民の幸福のみならず県の名誉でもあるこの意を体認して世話するよう」告示している。この仮規則のほとんどは「寄合相談」の伝続からまだぬけきらないものであったというが、県内各区でその開設が進められ、中には「人民不慣ニシテ町村会スラ速二開ケ難キ」処や、また「不参ノモノ多ク決議相整イ難シ」として不参者には罰金を課す処等あり、文明開化、地方鎮撫の策として開設された町村議会も実態はおおむね不活発の状況ではあったらしい。
 明治九年岩村権令はさらに「大区会仮規則」を定め、その開設を促した。議員は各小区から選ばれた各一名の代議員で構成され、毎年二度九月と三月の第二金曜日を開催日としている。しかし実際は「緊急ヲ要スル事件モナク」とか、「議員の出席少ク半数二至ラザル」とかで、町村会同様活発でなかったらしい、そのように会議による政治の意図は外国に範をとり、上部には明らかであっても、下部や中部までも浸透しなかった様子であった。
 明治一〇年(一八七七)西南戦争後というから丁度その頃に、愛媛県でも大きな反政府的動きがあったらしい。いわゆる国事犯事件で政府顛覆をねらう具体的陰謀が南予で計画されていたというが、未然に終っている。南予の人びとは維新のスタートに立ち遅れ言論その他の活動で補償しようとする気風が強かったものと考えられる。そのようなもどかしさを維新後しばらくの間伊予人、愛媛県人はもっていたし、それも伊予人、特に南予人気質の一特色とも指摘されるであろう。
 明治一〇年には岩村権令は県会の開設を宣言「愛媛県会仮規則」を布達している。それは岩村にとっては町村会開設に際して公表した一連の民会開設方針の最終段階に当たり、岩村県政を象徴する施策となった。それによると議員資格は不動産をもつ二〇才以上の男性、または不動産はなくても大区内で人望あり、選挙人6/10以上の声望のあるもので、官職を兼ねてはならないとしている。これは先進の千葉県、兵庫県の各区戸長が議員を兼ねるという規定に比べて近代議会制度の目指す処を射ていたとされている。このように県会の独立と自主性の確立を目指す点においてそれらの施策は全国でも最先端をゆくものであったといえる。
 同年五月には議員選挙の施行が指示されたが、各地で選挙についてのかなりの混乱や、辞退者の続出が見られ、県議会に対しての県民の意識はまだかなり低調であったことがうかがえる。いうなれば岩村権令の施策は県民意識より一歩進んでいた為に、それに対応できかねていた感じであった。このような不理解者の多くは、当時合併されていた香川県内の地区や、愛媛では東部地区のもので、地理的条件による意識の交叉が原因のように思われる。しかし明治一〇年六月には全国初の第一回特設愛媛県議会は開催されているのである。これは全国に一般的に県会が開かれる時期より二年早く、県当局は勿論それぞれの地域住民の期待を集めて開設された、いわば県民の輿望を荷なって開設された県議会であったといえよう。そこで当初は仮議長のもとに進められた議会も正式の議長を選出するようになったが、初代の議長は松山出身の小林信近であった。
 またその議事の中「民費賦課」とその賦課方法についての議案に論議が高騰し、当時の一平民が旧高級藩士に堂々と自説を主張する場面もみられたという。愛媛県において明治八年以来展開された一連の民会政策の成果が垣間見られた感じである。しかも県会の財源を自主的民費とすることによって県会を地域住民である県民の完全な自主機関としようとする見解は、ようやく高まってきた県民の自治意識を代弁したものと考えられ、徐々にではあるが領民意識から脱した地域住民の各層が、自らの力によって近代化を手中にしようとする道程が確実に表現されたものと見られている。
 またこれは従来の当局提出議案が、ともすれば住民の現実を無視した抽象的な側面をもっていたのに対して、これを具体的に現実面に引きおろし、実現可能な方法に修正しようとする共通の信念の湧溢でもあった。
 明治一一年には第二回の特設県会が開かれているが、特設県議会はその二回で幕を閉じている。しかし第一回の決定事項はその主要部は無視され、第二回のそれも水泡に帰している。そして第三回からは三新法体制の正式県議会に移行するのであるが、前の議員が以後の県会で活躍することになり、二回までの議会はいわば以後の議会のための議事訓練の機会と場所を提供して、地域代議制機関運営の基礎を固めたものと評価されている。
 このように県会が全国に先がけて愛媛県で開設されたことは、その指導もさることながら、県民の政治意識の発端をあらわにしているものといえる。
 なおこうした政治意識の高揚に大きな役割を果たしたのは新聞であった。愛媛新聞は明治九年にその第一号が発刊され、翌年には海南新聞に改称されているが、同二〇年頃からは県民の新聞への関心も高まり、読者数も急増している。なお海南新聞は公共社(松山自由党)海南協同会、政友会の機関紙として民権思想の啓蒙活動や、中央の政党活動の宣伝にも力を入れ、県民の政治的覚醒に大きな役割を果たしたものと見られている。