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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 電話・電灯の架設

 電話の普及

 わが国の電話は、明治一一年(一八七八)に内務省―警視本署間に架設され、官用通信、特に警察通信の分野でまず実用化された。同二二年から一般公衆通信が始まり、東京・横浜間で電話交換(翌二三年)を開始した。二〇年代後半になると、紡績業・製糸業など軽工業中心に経済界が活況を取り戻し、情報流通量も年々拡大した。そのため、即時性に威力を発揮する電話の効用に対する認識が高まり、利用数も増加した。
 愛媛県の公衆電話は、中央から大幅に遅れて、松山市に明治四一年(一九〇八)三月二六日架設された。それまでは、二点間の直接通話だけを行う専用電話として明治二一年、愛媛県庁―松山警察署―松山監獄間に、また、特異なものとして、同二二年一〇月松山郵便局と松山城鐘楼の間に架設された時報用の専用電話がある。当時、松山城で打ち鳴らされた正午の鐘は、松山郵便局から送られる時報を合図にしたので、そのための専用電話であり、電話線の長さは約一・三㎞であった。
 明治四一年三月二六日付「愛媛新報」は、電話開設を祝した文中で、次のように論じている。
  「本日は市民諸君が多年の熱望を達せし日なれば、その歓喜思うべし。(中略)ああ、文明の利器の一なる電話は本日をもって備われり。市民諸君は、おおいに奮起してこれを利用し、松山市の発展を図らざるべからず、また図るべきを信ず。本日、電話の開通に当たり、記してもって市民諸君とともに、ここに歓喜の意を明らかにす。」
 当日、松山市民は各戸に祝意を表すため、国旗を掲げ、松山郵便局正門には大アーチを建て、古町通りは町中飾りを施したと言われる。
 電話交換を開始した当初の松山郵便局内の設備は、磁石式単式交換機三台(市内)で、加入数は一八三であった。電話創業によって松山にも、〝電話交換手〟という名のビジネス・ガールが登場した。当時、女子の職場は極めて限られており、交換手の採用条件は非常に厳しく、高等小学校(この頃、尋常小学校四年、高等小学校四年であった)二年修業程度で、主に良家の子女から厳選した。交換手の服装は、羽織、袴姿で通勤し、職場では羽織を白い筒そでに着替えた。
 表2-6に示すように、県内各地で松山局の開局後、続々、電話が開通していった。しかし、明治末期の電話普及率はまだ低いもので、通話したくても相手側が加入者でない場合が多かった。そのため「呼出電話制度」が盛んに利用された。この制度は、電話加入者でない者と通話するために、相手側を最寄りの通話局(現在の局内公衆電話)に呼び出して通話するもので、距離によって料金が決まっていた。通話料及び呼出料は、ともに松山・三津浜間五銭、松山・高浜間一〇銭、三津浜・高浜間五銭であった。今治からの通話料は、松山まで二〇銭、宇和島まで四〇銭、広島まで三五銭、呼出料は松山一五銭、宇和島・広島二〇銭となっている(明治四三年三月二六日付「愛媛新報」)。

 オレンジ色の光・電灯

 わが国で電灯が一般に使用され始めたのは、明治一六年(一八八三)東京電燈会社が設立され、同二一年から東京市内に配電を行ってからのことである。その後、神戸・大阪・京都・横浜などの主要都市に同種の事業が起こった。
 愛媛県においては、明治三五年(一九〇ニ)湯山水力発電所(二六〇kW)の竣工により、松山の町にはじめて電灯がともった。翌三六年一月より営業を開始し、松山及び三津浜に点灯した。当時の電球は、ドイツ製シーメンス・ハルスケ炭素電球でオレンジ色の光を放ち、ガス灯や石油ランプよりはるかに明るく評判となった。点灯の申込数は、一か月後には一、〇〇〇灯に達し、二年を経ずして既設の電力を売り尽くすことになった。電灯の使用料は五種類で一か月四銭五厘(五灯)から十五銭(二五灯)であった。
 点灯の瞬間について「明治百年歴史の証言台」(客野澄博著)で次のように記されている。
  「明治三五年一〇月二五日、松山市小唐人町一丁目の商家や旧家に〝パッ〟と電灯がともった。もの見高い近所の人、『光の出る機械』が県下で初めてともる歴史的瞬間をみとどけようと近在から集まった群衆は〝昼をもあざむき、日暮れを知らない〟電灯をみて驚いた。取り付けられた電球をみつめて、いまか、いまかと点灯にかたずをのんでいた人たちは、飛びこんだ〝五燭光〟の光りで、瞬間は〝メクラになった〟と騒ぎ、時をおいて〝ドイツ製シーメンスハルスケ炭素電球〟のカラクリに歓声をあげた。」
また、同著は、宣伝の効能書きについて、
  「電気は、ランプのようにガスを出さない。人間が必要な空気中の酸素はつかわず、点灯しても室内は熱くならないし、光りがちらつかないから夜業、読書をしても目を悪くしない。電球は割ってもすぐ消えるから火事にならず、夜でも色彩が昼とかわらなくみえる。夜でも写真撮影ができる。マッチがいらない。吹き消さなくても簡単に点滅できる。……」
と記されている。

表2-6 第二次拡張計画期間中に開設された県内電話交換局(明治41年~大正2年)

表2-6 第二次拡張計画期間中に開設された県内電話交換局(明治41年~大正2年)