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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 自動車の登場

 珍らしい乗り物

 自動車は二〇世紀の乗り物といわれている。やっと明治三三年ころに、外国から数台輸入して走らせる程度で、路傍の人々にとってはまことに珍しい存在に映った。ちなみに、わが国の明治四四年末の保有台数は二一〇台である。貨物自動車による輸送が一般化したのは、大正期になってからで、第一次世界大戦前までの陸運は鉄道が独占的な地位を占めていた。一般大衆の乗用としての乗合自動車(バス)は、明治三六年(一九〇三)に、大阪で開催された第五回内国観業博覧会でサービスとして客の送迎に使われたのが最初である。バスが一般に定着するまでには、馬車屋の妨害や自動車そのものの故障続出などで時間がかかり、やっと明治四三年(一九一〇)ころから営業用として成立した。

 乗合自動車の登場

 愛媛県に初めて登場した自動車は、乗合自動車(バス)であった。明治四一年九月、温泉郡素鵞村大字立花(現松山市立花)から伊予郡原町村大字宮内(現伊予郡砥部町)間の路線が認可された。続いて四三年六月に松山市木屋町ロから温泉郡堀江村(現松山市堀江)の路線が認可され、翌年より運行した。初めは中古の一二人乗り乗用車一台で、さらに一〇人乗り一台を購入した。当時、松山―堀江間には旅客馬車が運行されており、競合することになった。
 運行していた乗合自動車は、前輪のタイヤが空気入りで、後輪はゴムの塊だけであり、乗り心地はひどいものであった。一日六往復で、運賃は九銭であった。最初は物珍しさから人気もあったが、旅客馬車の運賃八銭に比べて一銭高いことや故障が多く乗客から危険だと怖がられた。また、沿道の住民からホコリが立つと顔をしかめられ、県当局からは道路を破損するとの指示等があった。そのため、経費がかかる割に収入は少なく、開業後数年で姿を消している。
 明治四一年に愛媛県令として出された「自動車取締規則」は、次のような内容のものであった。
 二〇歳以上の運転手と車掌が乗り込み、場合によっては、「信号人」を乗せること。制服は事業主が定め、県の許可を得て着用すること。運転中、運転手はたばこを喫ってはならないこと。乗客も酩酊して乗ってはいけないこと。馬車や牛馬に近づくときは、速度を落とし、驚かさないように徐行し、場合によっては停車すること。また、自動車の制限速度については、市部を走る場合、最高で時速八マイル(約一三㎞)、郡部では最高時速一〇マイル(約一六㎞)であること。制限速度はその後、大正八年の内務省自動車取締令で、最高時速が一六マイル(約二六㎞)にまで引き上げられた。当時の自動車は、重くて排気量の大きい割には力の弱いエンジンであり、未舗装のデコボコ道といった状況から想像すると、〝暴走〟といっても、せいぜい四〇㎞前後であったと思われる。それでも自動車の登場は、これまでのノンビリした社会の中に大きな渦を巻き起こした。「愛媛県勢誌」によると、県下の自動車の記載は、明治四四年、一〇人乗り以上、二台となっている。