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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 紡績業の発展と女子労働力

 機械製糸の導入

 明治以後、わが国最大の輸出産業であった製糸業は、政府の輸出市場の開拓と相まって、新しい技術の導入が図られた。明治初期の段階では、製糸業もまだ手繰りや座繰りで農家の副業として行われていた。しかし、機械製糸の導入によって質・量ともに大きく発展し、それに伴なって製糸労働の在り方も変わっていった。もはや家内工業は行われず、主要な労働力は女子の賃労働力となって、寄宿舎制度が一般化していった。
 紡績業における機械制工業の発展は、多額の資本を必要とするため、株式の形で行われた。愛媛県においても宇和紡績(明治二〇年創立)、松山紡績(同二五年)、八幡浜紡績(同二九年)、伊予紡績(同三五年)といずれも株式会社である。紡績業の発展とともに、綿織物の生産も近代化を進め、紡績資本による兼営織布は力織機による大工場で行われるようになった。これら紡績業の発展を荷ったのは、女子、幼少年労働力であった。

 女工哀史

 明治中期から大正初期にかけて、生糸の需要が急増し、〝伊予糸〟が全国的にその地位を高めていくにつれ、製糸工場の新設が相次いだ。そのため女工不足が甚だしくなり、低賃金、重労働はますます幼少年労働者にのしかかっていった。このような女工や幼少年労働者は大部分、貧しい家庭の子女であった。支度金や前借金で半ば売られるようにして、工場へ出された子女たちは、入社の翌日から働いて給料引きでそれの返済に当たることになった。その労働環境の悪さは、明治政府当局の目にも「工場は危険防止の設備がなく、衛生管理も工員の寄宿舎も整ってなく、肺病が多く、その予防や救助の手段もなされていない。職工のほとんどは義務教育もうけていない幼少年が多く、職工募集の弊害は著しく、工場主と労働者の対立が激しい。」と映るほどであった(明治三八年の政府による工場労働者の調査結果)。
 愛媛県においても当時一、一〇〇人ほどの女工が働いていたが、県紡績連合会が決めた女工の賃金は一日一二~一七銭であった。明治三八年九月の中米一石は、松山で一二円七一銭である。昼夜二交代の一二時間労働が標準で、なかには一五時間に及ぶところもあった。当時の県下の紡績工場の女工の話によると、朝食と昼食はいずれも三〇分、大きな丼に漬物、監督の号令とともに一斉に食べ、追い立てられるように機械に向かったという。また、政府の調査結果の中でも言われているように、県下各工場の職工募集の歌い文句と実際の状況との間には大きな隔たりがあった。例えば、募集の条件には「寄宿舎は畳、夜具も完備しており、食堂でも米、菜とも粗末なものは与えない。日用品も安く手に入り、夜は自由で外出も許す。時折活動写真などの余興も催す。正月と盆には帰郷も認める。病気、結婚等の正当な理由があれば退社も認める……」等々とあった。しかし、現実には職工不足の折、一度確保した労働力に対しては、監禁同様で監視と体罰の管理であった。幼い者を中心に逃亡するものはあとを絶たなかったが、親元にたどり着いても会社の手回しは早く、また工場へ引き戻されることになった。逃亡した労働者に対する制裁は残虐を極めたといわれている。
 このことは、次のような記録からその一端をうかがい知ることができる。「明治四一年、新築の松山紡績の寄宿舎では、畳一畳を二人で、また布団一組を昼夜交替勤務の二人で交互にそれぞれ使用していた。」、「東洋紡績川之石工場では沢庵大根を年間五〇万本、梅漬を二八貫入り六樽も用意していた。粗食と長時間労働、非衛生な生活が続くため、女子工員たちに肺結核がまん延し、大正六年には月平均三人の死亡者が、大正八年には二割の者が肺結核であったが、その半数は服薬・治療を受けていなかった。」という。