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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 四民平等の原則

 身分制の廃止

 明治政府の発足当時からの悲願は、「万国対峙」、すなわち幕末に結んだ不平等条約を改正して、欧米諸列強国と肩を並べる独立国家になることであった。そのため政府は、明治四年(一八七一)七月に「廃藩置県」に成功すると、外に対しては条約改正を試み、内に対しては、近代的諸制度を樹立するための政策を次々と打ち出していった。
 その中心をなすのが、身分制の廃止=四民平等と貢租制度の改革=地租改正である。この両者は、徳川封建社会を根底から覆すうえで密接な関係を持っている。貢租制度にかかわる新地租税法は、私的土地所有を前提としていた。私的土地所有とは四民の誰もが自由に土地を売買できる一般性を持ったものでなければならない。私的所有制度の確立は資本主義の経済体制を確立するための大前提であった。
 政府はまず、明治二年、皇族のほか大名と公卿を華族、士族、足軽以下を卒族とし、農・工・商の三民を平民として、四民平等の原則を打ち立てた。更に翌三年には、これまで支配階級の者の特権であった苗字を名乗ることを、平民に許した。また、明治四年七月、居住・移転の自由を認め、八月には華族・士族・平民の間の結婚を自由にした。翌五年に田畑永代売買の禁令が解かれて、江戸時代以来の土地売買の禁止が名実ともに廃され(これは江戸時代において既に、実質的効力のないものであったが)、すべての国民に職業選択の自由を認めた。これにより、江戸時代の身分=職業=居住地の関係が廃された訳である。

 名字付け

 伊予諸藩は明治三年中に、相次いで領民に苗字を名乗るよう指示した。しかし、突然自由に苗字を名乗ることを許すとされても、大部分のものは何と名乗ってよいか分からなかった。そこで戸長などに付けてもらうものもあった。その一例として、宇和郡内海浦の由良半島先端部の網代地区では、網元が網子漁民全戸の名字を選定した。三集落のうち、本網代には魚名にちなんだ岩志・浜地・鈴木・福戸・鱒・高魚など、本谷には大敷・木網・目網・大目・立目などの網にかかわる名字を、荒樫には穀物・野菜にちなんだ麦田・稗野・粟野・真菜・大根・株菜・根深などを付けた。半島基部の家串地区は、織田・前田・細川・北条・加藤・伊井・黒田など戦国武将や藩政時代の大名家の名字を付けた。(愛媛県史「民俗下」七三九~七四四頁参照)
 明治一〇年には婦女子の名は、片仮名に統一された。ちなみに、「海南新聞」(明治二〇年一〇月二一日付)の「雑報・今治の女子教育」の文中に記載されている人名をみると「……神戸英和女学校に入り、卒業せし者は、増田ツル、重見ミツ、中谷ユキ、増田シヅ、柳瀬トヨの五子にして……」また「……入学したのは、中谷スエ、森本キクヨ、阿部カメヨ、阿部キチヨ、阿部リン、矢野トモヨ、柳瀬ヒロ、石丸タカの八名……」と片仮名である。

 身分解放令

 四民平等の原則は、江戸時代、政治的に激しく差別され身分制度の最下位に位置づけられていた被差別部落にも、改革が行われることになった。明治政府は四年八月二八日、太政官布告第六一号で、「えた非人の称廃せられ候條、自今身分職業とも平民同様たるべき事」といういわゆる身分解放令を発布した。
 松山県では、一〇月にこの布告文の領内伝達を命じ、加えて、「えた非人」の版籍を村々に加えること、「えた」の称号は廃止するが、牛馬の皮革業や履直しなどは家業の一種であるから自由に営業させることなどについても通達している。そして、
 「この度、えた非人の身分が廃止されることとなった旨、朝廷よりお達しがあったが、物ごとをわきまえない者には、これから彼らが平民と肩を並べることを快く思わない者もある。しかし、彼らも(中略)耳目鼻四肢百体から、その衣食住にいたるまで、普通の人とどこも異っていない。このように同じ万物の霊と生まれた者を鳥獣などの別種類のように賤しんで嫌う理由はさらさらないことである。源氏、平氏とか藤原氏、橘氏とか、その姓氏は正しくても、人の人としての道を修めず(中略)禽獣の行いをすれば、これこそ人に非ずとも穢れ多いとも言うべきである。人の人としての道を尽くすことをもって尊しとし、そうでないことを賤しとするべきことであって、同じ万物の霊長である人間の中に
賤しみ嫌うべき種族はないはずである。」
と諭告した。(明治四年、松山藩布告留)(資幕末維新一七一―一七二)
 この内容は、天賦人権論に基づいた解説的啓蒙的なものであり、全国的にも特筆すべきものである。しかし、昨日までの身分意識が一朝一タになくなるものではなかった。明治五年四月の「石鐵県布達々書」には、
  「旧、穢多たちは、ともすれば元来の平民と争いを起すことが少なくない。双方が心得方がよろしくないためにこうしたことが起こるのではあるが、旧穢多たちは、異例のお達しに乗じて、昨日までの身分をかえりみず、礼儀をわきまえないことから、争い事を引き起こすことは、心得ちがいもはなはだしい。銘々が昨日までの身分をかえりみて、万事平民の身分がどうであったこうであったと言うことのないようにせよ。もし違反するものがあれば、この度のことを申し付けるようにするように。」
 つまり、銘々がもとの身分をわきまえて分度を保てということである。明治初年における民衆の身分解放令に対する反応と、政治当局側の苦慮がうかがえる。

 士族解体

 四民平等によって身分差がなくなったのは、農工商民と被差別部落出身者の間だけではなかった。版籍奉還に伴う禄制改革から始まって士族解体は急速に進められた。旧武士層は従来の特権を次々と失っていった。愛媛県における一つの例が次に挙げる明治五年七月に出された「石鐵県布達々書」五一号である。(県史資料編・近代1・五一~五二頁参照)それには、
  温泉のことは、従来は官費で県が営み、修繕をしてきたため、無料であり、入浴は自由である。また一之湯は士族のほかは入浴してはならなかったが、今日にいたっては、全く不公平であるばかりではなく、これから温泉は民費で運営していく。(中略)士族・卒族・平民とも、一般に入浴する時は、湯場などをよく守り、無銭で入浴することのないよう心得ておくこと。但し、養生湯は病人のためにあるのだから入浴料を出す必要はない。(中略)
   一、士族、卒族、平民ともに混じり合って入浴することに区別をつけることのないようにすること。(以下略)
 ここでいう温泉とは、道後温泉のことである。以前は官費で県が営繕しており無料であったものを有料化するとともに、士族だけが特権的に利用できていた一之湯もすべての人々が区別なく入浴できるようになった。しかし、その一方で養生湯は病人のために設けているのだから無料という配慮がなされている。
 旧武士は士族といわれ、名目上は平民と区別されたが、明治九年(一八七六)に帯刀厳禁の布告がだされ(帯刀を禁じられてから、士族の間では煙管を腰にぶら下げて歩くのが流行した。)実質上は平民と全く差はなくなった。士族には、元の知行に応じて家禄が支給されたが、家禄で生活していける者はごく一部のものであった。また、この家禄支給は政府にとっても財政上の大きな負担であった。そこで政府は家禄奉還制度を定め、希望者に家禄六年分の現金と年利八分の秩禄公債を下付することにした。愛媛県下の士族は明治七~九年の三年間に全国平均を大きく上回る割合で家禄を奉還した。
 士族たちは家禄を奉還して、新しい生業を営もうとしたが、有名な「士族の商法」の言葉通り、不慣れであったため、多くの者は授産事業に失敗し、没落していった。当時の「士族の商法」が民衆からどのように受け止められていたかは、明治九年一一月二六日付の愛媛新聞に「当時流行見立」の一つとして「とにも危ないも乃は、人力車と士族乃商法」と書かれていることからもうかがえる。

 徴兵制の施行

 さらに、士族が生業を失った理由の一つとして、「徴兵制」の施行がある。愛媛県においても明治六年(一八七三)五月、徴兵令を管内に配布した。しかし、県下において血税騒動が起こり、県では徴兵令の趣旨を告諭し、流言誤解を訓戒するなどしたが、この年は延期を陸軍省へ申請している。実際に本県での最初の徴兵検査は、明治七年九月二四日~一〇月一日の間、松山と西条で実施された。血税騒動とは、民衆が「徴兵告諭」の中の「血税」という語句を文字通りとらえ、貧乏人の生年月日を調べておいて必要に応じて生血を搾り取って税とするのだと誤解したことによるものだった。また、欧米人が飲むワインと混同して、その血を外国人に飲ませるのだというデマまで飛んだ。
 民衆は血税騒動の外にも、様々な手段で徴兵から逃れようとした。「徴兵免役心得」という本が出され、大いに売れたりした。その背景には、徴兵されないものを定めた規定(「常備兵免役概則」)の不平等さにあった。「常備兵免役概則」によると、兵役を免除されるものは、身体的条件の他に、官吏、一定の官立上級学校卒業者、洋行修行者、医学を学ぶ者、一家の戸主や嗣子などであった。また、代人料二七〇円を納めた者も徴兵を免除された。(もっとも、この代人制度は、その後世論に押されて廃止した。)これによると、徴兵されるのは専ら農家の次、三男ということになった。重要な働き手を奪われることになる農家は大いに徴兵令に反対した。そのため、徴兵逃れの名義だけのニワカ養子や嗣子が続出している。また、徴兵逃れの風潮は、宗教に対するニーズにもなり、霊験あらたかとされる神社の御利益に「徴兵よけ」が加わり、新たに「徴兵よけ」の神様も登場した。宇和島の和霊神社も、徴兵よけの御利益があるとされた。
 当時の「兵士心得八力条」という軍隊手帳には次のような事項が書き込まれていた。
  脱走、略奪、トバクなどの悪事、押し買い、押し借りなど局外での金談、ケンカ、放とう、酒ぐるいなどをするな。戦場ではひきょうな振舞いは許さない等のほか、氏名・入営番号・連隊番号・生国・入隊前の住所・身元・人相書き等であった。

 暦の改正

 民衆にとって、大きな変革事項の一つに暦の改正があった。明治五年一一月より、従来の太陰暦に代わって、西洋式の太陽暦が使用されるようになり、一二月三日を明治六年一月一日とし、毎週日曜日を定休日とした。しかし、実際には、使用されるようになったといっても、当初それは政府関係者や都市部の生活者に限られていた。地方の者、特に漁業関係者は、潮の干満につながっている太陰暦を容易に改めようとはしなかった。このことは明治も終わりに近い明治四二年になってもなお、愛媛県では太陽暦励行のための告諭が出されていることでもうかがえる。(「愛媛県布達々書」県史資料編・近代3・三七六・三七八頁参照)
 「明治五年一一月に改暦を行ったとはいっても、暦の面に旧暦を付記しているため、因襲が続いている。なお、古い習慣を脱することがなく、往々にして旧暦によって諸々の事を行うものが少なくない。特に、山村漁浦のような僻地においては、一層はなはだしい。今や世の中の進歩、発達にともなって、社会全ての事物は、整えられるべきである。にもかかわらず、依然として旧暦を用いている者があろうか。このことによって、人と人との関係をますます複雑にして、社会上また経済上に及す不便は、はなはだ大きい。(中略)明治四三年の暦の頒布から、絶対に暦面から旧暦を削除することによって、従来の弊風を一掃し、社会の幸福を増進すべきであることを信じる。ゆえに、この趣旨をあらわし、それによって旧風を一新せよ。」
 これを見ると、新暦に旧暦を添えているため、いつまでたっても旧暦から脱することができない。これは特に山漁村等の僻地に甚しいとしている。そして布達はさらに、明治四三年の暦からは旧暦を付け加えるのはやめるように指示している。このような当局側の施策によって、太陽暦は大正期には地方にも次第に定着するようになっていった。