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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第五節 もう一つの村 禎瑞新田村

 禎瑞新田(村)の成立

 禎瑞新田は、西条藩主松平頼謙の資金によって、藩直営で郡奉行竹内立左衛門を惣元掛として、安永七年(一七七八)造成に着工し、天明元年(一七八一)に一応成立した。安永七年から天明二年までの五か年間に要した総経費は、銀一、一二八貫余で、なかんずく工事の最盛期であった安永八~天明元年の三か年に、その七七%にあたる銀八七二貫余を支出し、五七万七、六〇六人の労働力を投入した(秋山英一『西条干拓史』)。『西条誌』によると、天保末年の村勢は、五名からなり、田畑二三四町三反二畝二一歩(うち田二一九町五反八畝一五歩、畑一四町二反一畝一八歩、外に見取田地五反二畝一八歩)、外に畑(百姓屋敷地ならびに宛添)一〇町九畝一二歩、宛米(小作料)一、五八四石四斗四升(うち田一、四九七石二斗三升八合、畑八七石二斗二合)、家数二〇八軒、人数一、一七八人で、西条藩領では大規模な村であった。

 入植者

 入植に応募した人々は、「汐留の後、他国より農具を荷ひ、蓑笠を負ヒ来リ」(『西条誌』)と、安永九年一二月七日汐留が完了した直後から、農民が農具などを所持してやってきた。入植者について、『西条誌』には、
 百姓屋敷地并宛添共、庄屋屋敷地一反五畝にして宛添なし、西之手吉十郎東之手房吉、此両人之家ハ汐留後一番二引越たる者ゆへ、屋敷地三畝、宛添五畝ヅゝ、其余ハ屋敷地三畝・宛添三畝ヅゝ仕分、別家之者ハ屋敷三畝のみにて宛添なし、此屋敷地、宛添共皆無年貢也、右屋敷地受居ルもの百八十七軒、屋敷地不受もの二十一軒、此二十一軒ハ、屋敷地不渡様定りたるのち家建しもの共也、追々百姓相増に付、当時ハ別家する事を不許、本家の納屋・物置等に分る、親の宛り地へ家建るものありても、内々にて名目を 出ス事を不得、斯の如きゆへに、難儀人ハ百姓株を売るに、屋敷地耕作地多く宛り持たるものハ、一株にて通用銭五六貫目余に売ルもありと云
 とあり、一般的に屋敷三畝と宛添地三畝の計六畝の畑が無年貢で一八七軒の入植者(分家は屋敷のみ)まで支給され、特に最初の入植者には優遇処置がとられたので、続々と入植したようである。入植者には、屋敷・宛添地の外に、耕作能力によって支給面積が異なったようであるが、地割された水田が、一般に一町歩ないし一町二、三反歩、宛付地として支給されたから、経営規模は十分確保されたようである。
 入植者は、新田造成が一段落した天明五年(一七八五)早くも七〇軒を数えたという。以後新開地の整備につれて、享和年間一二九軒、六八〇人、天保末二〇八軒、一、一七八人、文久元年(一八六一)二四八軒、一、四〇三人と増加した。天明元年から享和元年(一八〇一)にかけて入植した者一二一人を出身地別にみると(出身地の判明する者)表1-27のようになる。すなわち入植者は、西条藩領を中心とする伊予国の人々を最多に、讃岐国、阿波国と続き、わずかながら、備中国・備後国・安芸国の人々を含む瀬戸内海地域の人々で占められていた。この入植者数は、全入植者の約半数であるけれども、出身地の大体の傾向はわかろう。

 宛付地

 禎瑞新田では、農民(宛請人)に貸与した土地を宛付地といった。このように呼称されたのは、おそらく領主(松平氏)が農民に宛行った土地であるとともに、地主(松平氏)が農民に宛地(小作地)として耕作させたからであろう。
 また農民が「御宛受(請)御田地」(宛請地)といったのは、土地が宛行われ、年貢を請け負ったからであろう。したがって「御宛受御用地是迄之通御差置被為下候様」(「禎瑞方記録」)と弘化三年(一八四六)加茂名の佐右衛門が病死した時、まだ子供が小さかったので、金次を養子として跡目を相続させたい、と親戚の者が「禎瑞方」へ願い出している。また嘉永二年(一八四九)伝次は、「私儀近年病人等茂御座候而御宛請之御田地肥し、修理等行届兼候間、奉恐入候得共、御宛付之内高丸三番之内十五番にて四畝二十四歩、同四番之内十七ばんにして五畝二十一歩……当分指上申度奉存候」(同上記録)と宛請田地二反六畝一五歩を、当分の間返却したいと願出したのに対し、「禎瑞方」では、「役所一同得与談合之上無拠様子二相聞候」と認めた。というように、農民は宛請地を相続したり、返却したりする場合には「禎瑞方」の許可をうけなければならなかった。分家をする場合にも許可を得なければならなかったが、文政九年「禎瑞之儀追々人数相増、御宛付可被申御田地も不自由二罷成……無拠訳相立之筋之外別家願者取扱不仕儀二御座候」(同上記録)と、宛付地の余裕がなくなったという理由で分家は禁止された。
 つまり禎瑞新田農民の土地所持形態は、近世後期における農民の土地所持形態、すなわち農民間で相対で、事実上売買・譲渡・分与されていたのとは異なり、また農民間でおこなわれていた地主小作関係とも、ややおもむきを異にしていた。強いていえば、農民(宛請人)は、領主で地主でもある松平氏から土地を宛行われて耕作させてもらっている、という考えを基底に置いた小作人であったといえよう。もちろん宛付地は、耕作するか返却するかの何れかで、売買・譲渡・分与・質入などによる移動は禁止されていたが、しかし時代とともに農民(宛請人)が宛請地を内々で、売買・譲渡・分与・質入をし、土地台帳上の宛請人と現実の宛請人とが乖離するようになったので、村役人らは、実際の宛請人すなわち年貢納入者を把握しにくくなり、元治元年(一八六四)七月「乍恐奉願上御事」で、宛請地の移動を、土地台帳の訂正によって明確にしたい、と願出している。宛付地が、農民(宛請人)間で、相当移動していたのである。

 村の支配組織

 禎瑞新田は、加茂川河口左岸に位置する相生名と加茂名、中山川河口右岸に位置する八幡名・高丸名・産山名の五名(名は開発後付けられた字と考えればよい)からなり、前者の二名を東之手、または西泉村の地先にあったので、西泉村下分ともいい、後者の三名を西之手、または氷見村の地先にあったので氷見村下分ともいった。
 藩主は新開地の造成および支配のために役所を設置する(はじめ「新田方」、のち「禎瑞方」「禎瑞方御役所」という。『西条誌』によると、加茂名三番の内堤添にあり、四間に八間の規模であった。役人は、平生には、禎瑞方下役一人、御倹約方立会一人の計二人が詰め、六月より九月までは、この外に上役一人が一月交代で詰めた。特に加茂川などの増水の時は禎瑞役全員が出勤した)とともに、一応造成が終わり、農民が入植しはじめると、村としての組織が必要となり、天明五年(一七八五)一二月二二日庄屋(一人)・組頭(二人・文久二年より三人)を置いた。さらに庄屋・組頭の下には、名頭が、相生名・加茂名・八幡名・高丸名・産山名にそれぞれ一人ずつ計五人おかれ、名内農民の年貢の納入や相互救済などにあたった。支配組織を図式化すると次のようになろう。(図表「村の支配組織」参照)

 年貢

 禎瑞新田は村高が公定されていなかったので、年貢が村高に対してどの程度の率で賦課されたか、全く不明である。「禎瑞方記録」に、「出来毛六歩上江御取被成、四歩下へ御下被下候儀御座可有」と、年貢は、検見によって出来毛(収穫高)の六割、残り四割が農民という配分で徴収するのが原則であった。ただし屋敷と宛添地は無年貢で、畑は天保四年(一八三三)まで無年貢、さらに三年延長され、同七年から年貢が賦課された。したがって、天保末年を例にとれば(『西条誌』)、畑の年貢は、一四町二反一畝一八歩に賦課され、屋敷・宛添地一〇町九畝一二歩には賦課されなかった。
 『西条誌』に、年貢は初め百石にも満たなかったと述べているが、新田の造成が一段落した天明五年(一七八五)宛付米(年貢)が五〇〇石となり、以後新開地の整備と鍬下年期が終わるにつれて、宛付米高は、寛政九年(一七九七)一、〇〇〇石、文久元年(一八六一)一、六○○石と増加した。この宛付米によって年貢率六割から逆算すると、村高は、天明五年八三〇石、寛政九年一、六七〇石、文久元年二、六七〇石となる。

 商品作物

 禎瑞新田の主たる作物は何であったろうか。『西条誌』には、「綿名物にて繰粉多し、因て他村の産よりハ価貴し」と、天保期綿が名物であったというから、相当栽培されていたことが推察される。さらに嘉永四年(一八五一)七月付禎瑞新田の農民宛申渡に(『愛媛県史』資料編近世上、以下『資料編近世上』と略記)、
 一(2)、禎瑞者田敷勝之所二而大雨之節者沼ひ強く、綿作者別而風雨凌難キものニ而、近年不作勝二而有之候得共、銘々勝手二仕付候義二付、如何程不作二有之候共見引等不致事二付、年々肥修理年貢二潰レ、何連も内間之痛二相成候事二付、以来遣ひ料尺(ママ)者其通り多分二仕付申間敷候
 一(3)、菜種之儀も沼ひ場所ニて麦作難仕付場所江多分仕付候義二者候得共、右者忽飯料之助ケニも難相成、返而内間倹約之為ニも不相成ものニ付、可成たけ相減し、高野豆・えんど抔之類仕付置候得者、万一凶年之助ケニ可相成、右等之義相心得可申候
 とあり、禎瑞新田で綿作・菜種作が盛んに行われていた。特に表作としての綿作が、正式に認められていたのではなかったが、禎瑞方は黙認していたようである。しかし正式には認めていない綿作を、農民が「銘々勝手に仕付候儀二付」と勝手に栽培しているのであるから、どのような不作になろうと、綿作地については検見引はしなかった。したがって、不作の時には困窮するであろうから、「遣ひ料」すなわち飯料だけは米作にするように、と禎瑞方はすすめていた。菜種は、裏作の麦作にかえて栽培されていたが、やはり不作の時のことを考えて、菜種作もなるべく少なくし、高野豆やえんどうなど、食糧となる作物の栽培を奨励していた。
 多くの新田でそうであったように、禎瑞新田においても、不作の時のリスクをおかしながらも、このように商品作物としての綿作・菜種作が相当盛んにおこなわれていたことは、米麦作に比して収入が多かったからであろう。しかし、このことは、貨幣経済にまきこまれ、農民層の分化を促進することとなった。

 商工業

 次に禎瑞新田における商業・手工業についてみよう。天保一〇年(一八三九)二月「禎瑞二而商ひ并諸職人左之通」(『資料編近世上』)によると、雑貨商(小間物商)が、相生名に一軒、加茂名に二軒、八幡名に一軒あり(高丸名にも一軒あったが休業)、酒造業と採油業が加茂名にそれぞれ一軒、石灰(焼)業が相生名に一軒、左官が加茂名に一軒、大工が加茂名に二軒、紺屋が高丸名に一軒、鍛冶屋と桶屋が加茂名にそれぞれ一軒、石工が高丸名に一軒、鋳物屋が加茂名に一軒(『西条誌』)あった。このように酒造業・採油業をはじめとして、商人・職人が加茂名に集中しており、さらに加茂名には禎瑞方役所およびその北側に船溜があったから、加茂名は禎瑞新田の政治・経済の中心地であった。
 天保末雑貨商の店で取り扱う品物が八品種に制限されたので、日常生活の需要および入港した他国船の需要をまかなえないとして、取り扱い品種の増加を嘆願し、ようやく弘化五年(一八四八)三月、加茂名の兵右衛門と八幡名の勘次郎の二店に次の二六品種の品物を店に置くことが許可された(喜多村氏後掲書)。
 塩・醤油・酢・茶・白米・はし・杓・杓子・茶碗・すり鉢・びん付・えゆひ・煙草・火打・ほくち・角ト石・油・蝋燭・付木・燈芯・把木・せん香・竹の子笠・簑・わらじ・白甫
八品種から二六品種になったといっても、これらの諸品は日常生活に必要な食糧や道具類であったに過ぎなかった。さらに嘉永四年七月付禎瑞新田の農民宛申渡(『資料編近世上』)に、 
 一(1)、百姓之儀者農業之事計専らニ心掛可申身分二付、商売事二携り候儀急度不相成事
 一(4)、居宅瓦葺ニいたし花美成ル普請等急度指止メ候、
 一(5)、惣而花美成品商ひ候者一切村内へ立入らせ申間敷候
 一(6)、三味線浄瑠(璃)理惣而遊芸二携候者有之候ハヽ急度可申付候
 一(7)、髪結床様之儀急度不相成候
 と百姓の商売と贅沢品を取り扱う商人の入村を禁じ、また瓦葺・髪結床・遊芸を禁じ、倹約を旨として、専心農業に精進するよう申し渡している。

 禎瑞新田(村)の特質

 禎瑞新田村の特質の第一は、そのなりたちにあった。すなわち、領主松平氏が開発資金を出し、直営で開発した新田で、入植者を募集し、入植者に宛付地を貸与し、領主である松平氏が地主として農業経営にあたったことである。第二は、禎瑞新田が、その広さ・戸口などにおいて大規模な村落であり、しかも村落としての組織が十分整備していたにもかかわらず、公的(対幕府)に独立村として扱われず、したがって村名・村高は付けられなかったことである。第一についてはすでに述べたので、ここでは第二についてみることにしよう。
 日野和煦は、編著『西条誌』で、「禎瑞と云フ名号をは不申、新開の事いまだ公達に不及を以の故なるへし」と、禎瑞と公称(幕府に対して)されなかった理由として、幕府へ公式の届出が済んでいなかったからとし、岡光夫氏は、禎瑞新田が高を結ばなかった理由として、藩直営で開発した新田であるからとし(「封建貢租および農民諸負担の徴租様式」)、喜多村俊夫氏は、禎瑞新田が検地も実施されず、隠密の扱いとなっていることは、何としても異例である。竹内立左衛門のような人の立案・企画の結果が、禎瑞をして特徴的な直営・家産新田の形態を生んだのであろうとする(『新田村落の史的展開と土地問題』)。いずれも十分に納得させる説明とはなっていない。
 新開地を「禎瑞」と呼称するよう藩から「被仰出」たのは、ほぼ造成の目鼻のついた天明元年(一七八一)九月一八日であった。にもかかわらず幕府巡見使に対しては、「西泉村下分・氷見村下分」と説明するよう指示している。幕府巡検使の廻国に際し、藩が禎瑞新田について、質問を予想して作成した解答集「禎瑞の儀につき巡見使へ奉答心得」(『資料編近世上』)には次のように記す。
 一(1)、禎瑞之儀御尋有之候ハヽ、年々汐出等も有之未高付不申、見取場所と御答可申、田畑反別何程との儀御尋有之候ハヽ、弐百九町余と御答可申(後略)
 一(2)、銀主之儀御尋有之候ヽ、普請者上より被仰付、銀主ハ町人共二而御座候、名前誰々と申儀品々不存と可申候
 一(3)、御蔵并人家等御通り筋より御見及、若御尋有之候ハヽ、人家ハ是迄追々有付候百姓二而、蔵ハ村方之蔵二御座候と御答可申候
 一(4)、右新田何郡何村二而村役人等有之哉と御尋候ハヽ、新居郡氷見村・西泉村之内二而、村役人も直付御座候段御答可申候
 一(5)、地名御尋有之候ハヽ、西泉村下分・氷見村下分と相答可申候
 要約すると、禎瑞新田(村)は、その名前を西泉村下分・氷見村下分といい、藩の許可で町人の資金提供によって開発されたが、収穫不安定な土地で、見取場所として扱い、いまだに高付していない、と答えよというのである。ほとんど事実をまげた解答を指示しているのである。また明治四年(一八七一)九月七日付西条県から大蔵省に提出した伺書(「禎瑞方記録」)に、
 当県管下新開地年数相立候付高附之取計可申哉伺
 当県管下氷見村下分之儀ハ、元領之節安永年中松平頼謙貯蓄之手元金を以築立候新開地に而、町数二百四町七反八畝六分有之、見取場所に相立御座候付、昨年藩政御改正之節五ヶ年平均之収納高を以御進仕候処、最早年数も相立、毛附目的聢と相立候儀に付、外に平民共私築新開地の振合を以高附に致、定免相定可申哉、此段奉伺候、以上
 と記す。いうところは、禎瑞新田は見取場所で高付しなかったが、開発後年数がたっており、「毛附」高すなわち収穫高は確定できるから、農民の開発した新開地を参考にしながら高付し、定免を決定すべきでしょうか、と。それに対し、同年九月二九日付大蔵卿大久保利通は、「書面伺之趣聞届候条、地味相当之石盛立、更二高入之儀可伺出事」と、地味相当の石盛をつけ、高を決定し、それをもって伺を立てるようにと答えた。伺書の内容は、幕府巡見使に答える内容と全く同じ趣旨のものであった。
 以上のように、領主松平氏は、私的(藩)には、自ら禎瑞新田と名付け、禎瑞方役所を設ける、などしながら、公的(対幕府)には、新田が成立した時から明治初年まで、一貫して禎瑞新田といわず、氷見村下分・西泉村下分といい、しかも見取場であるといい続けて高付せず、村高を設けなかった。なぜだろうか。余程の理由があったのだろう。
 周知のごとく、幕府は、享保七年(一七二二)、続いて宝暦七年(一七五七)法令を発布し、「私領一円之内」以外の土地を大名が新田に開発することを禁止した。禎瑞新田は、加茂川と中山川の両河口に広がる砂州で、当然のことながら「私領一円之内」にこもる土地ではなく、「海辺川通出洲寄洲」の土地であるから、幕府によって開発されるべき条件を備えていた所であった。したがって、家門西条藩としては、幕法に照らして開発できないところであることは、よく知っていた筈である。日野和煦が、「新開の事いまだ公達二不及を以の故なるへし」と、造成されてから六〇年もたっているのに、なおこのように表現しているのはおかしいし、何もかも知ったうえでの表現ではなかろうか。幕府に開発を申請できない所での内々の開発であったから、幕府巡見使に対し、禎瑞新田という呼称は使用できず、氷見村下分・西泉村下分といい続けた理由もそこにあったのではなかろうか。しかもこの地域は、両河川の下流域に位置し、水害などにも見まわれやすく、事実生産が不安定な土地柄でもあり、内々のことにしつづけるためには好都合で、「見取場所」とすれば、高付をしなくてよく、高付しなければ公的にならなくてすむ。喜多村氏は「検地もなく」といっているが、検地しなければ、あの正確な畝の表示と宛付米は決定できないから、内々で検地をしたことは明白であろう。事実「禎瑞之儀二付心得」(『資料編近世上』)に、氷見村・西泉村両地先の新田畑の高と、禎瑞分の畝高が記されていることは、そのことを物語っている。「見取場所」、氷見村下分・西泉村下分といい続けて、独立村としなかったのであるから、逆に検地帳を作成し、村高を決定するわけにはゆかなかったのである。
 なお「禎瑞之儀二付心得」の第五条に、「万一海辺付村々枝郷等御調二付、前方指出候帳面之内、氷見村西泉村之部二禎瑞と申小名無之抔と御押方有之候ハヽ、此所之儀前々者水沼強ク、爾々毛付も無御座候処、役人中段々世話有之候而より追々毛付も御座候二付、百姓共も近年追々出作仕候場所二而御座候二付、枝郷二者相立不申儀二御座候との趣御答可申事」と、禎瑞という小名はないかと巡見使に執拗に聞かれたら、ここはかつて湿地で、耕作できるようなところではなかったが、役人らの世話と農民らの努力によって追々耕地となり、近年は出作できるまでになった。しかしまだ枝郷になるまでには至らず、氷見村・西泉村の下分として扱っている。とあくまでも入植者はいなく、枝郷でもなく、まして独立村ではないことを、事実に反して執拗に主張するよう申し付けている。やはり異状といわねばなるまい。
 公的には高付をせず、したがって村高はなく、年貢は村高に対して賦課されるのではなく、地主である領主松平氏(禎瑞方)が、一人一人の小作人から徴収した。まさに地主が小作人から小作料を取る方法と同じであった。日野和煦が『西条誌』で、「右田地残らず役所持(禎瑞方)にて、他村の如く百姓の持分、地主あるものは一段もなし」と述べているのは、そのことを指したものであろう。

図1-7 禎瑞新田付近

図1-7 禎瑞新田付近


表1-27 入植者出身別人数(天明元年~享和元年)

表1-27 入植者出身別人数(天明元年~享和元年)


図表「村の支配組織」

図表「村の支配組織」