データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
1 瓦生産と村
瓦の需要
瓦の需要は、近世初期城郭および城下町の建設の盛行と、元禄・享保期以後民衆の経済力の発展に支えられて拡大し、その結果、必然的に生産の増大をうながすこととなった。
江戸時代初期には、江戸城下の町人の家屋でさえ、まだわら葺・こけら葺・板葺が大部分であったようだが、町人が次第に経済力をまし、また明暦の大火以後、防火対策が強化され、消防組織、防火用水の設備などが積極的に整備され、瓦葺が強く要請されてゆくなかで、瓦葺の家が多くなっていった。諸国の城下町でも、江戸に準じて、時代とともに瓦葺の家が増加し、また港町・宿場町・門前町・在町などの町並みにおいても、同様に増加していった。
農村はどうだろうか。寛永一一年(一六三四)信濃国南佐久郡下海瀬村、同二二年東筑摩郡下波多村、承応三年(一六五四)南佐久郡原村、同臼田村では、瓦葺の家は一軒もなかった。また寛永二二年河内国石川郡富田林(農家一〇軒、町家二六二軒なる町場)では、農家一〇軒の本屋のうち瓦葺が一軒で、他はすべてわら葺であったが、一二軒の蔵屋はすべて瓦葺であった。町家二六二軒の本屋のうち瓦葺が五軒で、他はすべてわら葺であった。蔵屋三九軒のうち瓦葺が三六軒、わら葺が三軒であった。すなわち富田林では、蔵屋はほとんど瓦葺で、本屋もぼつぼつ瓦葺になりつつあった(大石慎三郎『近世村落の構造と家制度』)。このように江戸時代初期の農村では、その村のおかれた自然的・社会的・経済的条件によって異なるが、瓦の需要は少なかったのである。
ところが元禄・享保以後になると、庶民の間にも瓦の需要が増大する。たとえば広島藩は、文化一〇年(一八一三)城の屋根を伊予国の菊間瓦でふきかえることになったが、瓦の不足から葺かえがなかなかはかどらなかったので、菊間の瓦師へ、葺かえが終わるまで藩内の領民に売らないように依頼するとともに、藩内の村浦にたいしては、菊間瓦の買い入れを禁止した。当時藩内において菊間瓦の問屋は、広島城下をはじめ、一二か所にあり、町人・農民のあいだに菊間瓦の需要がかなりあったことがわかる。
菊間瓦の生産
松山藩での菊間瓦の生産は、後述するように、藩の作事奉行―御用瓦方奉行の支配下におかれ、御用瓦を中心として生産されてきた特殊な産業であった。藩は必要な瓦の納入は命じたが、瓦の専売制は実施せず、株仲間として規制したにすぎなかったが、これは、瓦が特殊な商品であったことと、寛保元年(一七四一)紙・楮・茶の専売制実施に反対して久万山騒動がおこったことを配慮したからであろう。
藩は安永六年(一七七七)瓦株五三株(のち五四株)を公認し、翌七年株札を渡した。その内訳は、浜村二六株(天明年間に一株増加して、いちじ二七株となる)、東野・三津・堀江・垂水・上野・和田・鹿之峰などで二七株で、瓦株仲間の半数が浜村の瓦師によって占められていた。瓦株仲間の公認については、藩が歳入増をはかるために積極的に公認したとは考えにくい。むしろ、わが国の経済の発展によって、瓦の需要がふえ、瓦師が他国の同業者との競争を有利にするため、藩の保護のもとで、瓦の生産および販売の独占を得ようとして、積極的に藩にはたらきかけた結果、公認されたとみられる。つまり瓦株仲間は、藩の主導によって公認されたのではなく、生産者の要求を、藩が追認するという生産者主導によって公認されたようである。松山藩は、つぎのような組織で瓦師を支配した。(図表「瓦師支配組織」参照)なお、瓦師が浜村のように、農村に居住している場合には、(図表「地方支配組織」参照)このように農村支配組織にも属し、瓦師支配組織および地方支配組織による二重の支配をうけた。
瓦職頭には、加藤・蒲生・久松時代をとおして、瓦業を営んできた東野の束本氏が代々任命され、藩より扶持米を支給された。その職務は、瓦方奉行より出される触れの伝達および瓦師よりの願書の取り次ぎをはじめ、瓦株仲間の全般的な支配をすることであった。
諸郡瓦師総代は、五三株の瓦株仲間の総代・利益代表であり、弘化四年(一八四七)には、平兵衛・喜左衛門(以上浜村の瓦師)・平吉・五右衛門の四人であった。
年行司は、各地域(村)単位に、瓦株仲間によって選出された者が、瓦職頭によって任命され、浜村の場合は普通二人であった。その職務は、瓦の生産および販売の調整、製品の検査などをおこなうことであり、現場での瓦株仲間を統轄することであった。
吟味方は、年行司の補佐役で、各地域(村)単位に瓦株仲間によって選出された。
「瓦職内申定」
浜村の瓦株仲間は、文政二年(一八一九)「瓦職内申定」という一五か条からなる仲間規約を制定し、組織としての体裁をととのえた。その主な内容はつぎの通りである。
一、瓦株の売買および貸借は、正式の手続きをへて、村内においてのみ許可する。
二、職人の養成は、村内の者にかぎり徒弟制でおこない、仲間のあいだでの職人および一般の労働者の奪いあいは禁止する。
三、株を所持しない者は、領内いずれの場所においても、瓦の生産をしてはならない。
四、販売合戦は禁止する。不正な瓦船は流通より締め出す。
このような規約を制定したのは、文化初年より藩内において、無株で瓦生産をする者が出たのみでなく、株仲間の有力者が他領に移住して瓦生産をおこなったので、瓦株仲間の市場がせばめられ、収入に影響がでたためであった。その対策として、詳細な規約を制定し、株仲間に対する統制を強化し、伝統的な技術を守り、生産と販売の独占を徹底しようとしたのである。しかし、規約はなかなか厳守されなかった。天保二年(一八三一)浜村の瓦師政右衛門は、今治藩領喜多村に移住して、瓦の生産をはじめた。翌年越智島盛村(松山藩)の常五郎が、無株で瓦の生産をはじめた。また同八年には、六、七人の手間の者(手間には下手間と上手間がおり、下手間とは粘土の調合から土練りまでの仕事に従事する職人見習いの者をいい、上手間というのは瓦職人のことである)が今治藩領へ移住して、瓦の生産をはじめている。
このようなことがおこると、瓦株仲間は、ただちに不正な生産者の排除を藩に請願するとともに、みずから「瓦職内申定」および藩の「規定」(安永六年増株の禁、同七年株仲間の移転の禁)をタテに、不正な生産者に対していろいろな制裁をくわえた。しかし瓦株仲間が株数を固定し、生産の独占をはかればはかるほど、瓦の需要が増大している中で、独立したい職人は無株で生産するか、今治藩・西条藩・大洲藩・広島藩などに移って生産するかのほかに手がなかった。そこになかなか厳守されなかった原因があったのである。
菊間瓦の流通
つぎに瓦の流通をみよう。幕府は安政二年(一八五五)一〇月瓦の価格を公定し、岡山藩は寛政四年(一七九二)六月瓦の移出を禁止したが、松山藩は、瓦の価格の公定および流通の統制はしなかった。
菊間瓦の販売は、幕府・諸藩および朝廷などを対象とした注文販売(御用瓦)と、一般の人びとを対象とした小売・問屋販売・注文販売によっておこなわれた。とくに御用瓦は、文政二年「瓦職内申定」によると、注意をはらって生産され、さらに製品は、年行司場に集められて、品質の厳密な検査がおこなわれた。官納は名誉であるとともに大口の販売であり、品質が評価されると、政治的に販売が拡大される可能性があったので、御用瓦は非常に重視された。事実菊間瓦の名声は、この御用瓦をとおしてあがり、一般の販売にも有利に作用した。しかしながら、西条藩は、文政二年(一八一九)頃から領内で生産された瓦を使用することとなり、菊間瓦を締め出した。また今治藩は、国益をはかるため他国の瓦職人の移住を許し、領内での瓦生産を保護奨励した。このように幕末に諸藩が、国産の保護奨励策として国産瓦の生産と使用につとめるようになったので、御用瓦の販売は、時代とともに減少してゆく傾向にあった。
一般の人びとを対象とした販売を、地域的にみると、領内と領外にわけられる。領外で販売された地域は、安芸国を第一として、備後・豊後・日向・讃岐・伊予の諸国など、主として瀬戸内海・九州地方であった。しかし嘉永五年(一八五二)の記録によると、関東および日本海側の各地にも品質のよい菊間瓦の名声が知られていたから、これらの地域にも販売されたのであろう。また文政三年(一八二〇)一二月付浜村瓦師から大坂の伊勢屋弥兵衛、竹屋太郎兵衛あての手紙によると、大坂市場の積極的な開拓をとおして、菊間瓦を全国市場に直結させ、生産の増大をはかろうとしている。
一般の人びとを対象とした販売方法には、問屋販売と直接販売(小売・注文)とがあった。たとえば広島藩領では、広島城下・椋之浦・にし海・竹原・宮島・只(忠)の海・呉浦・川尻浦・広浦・倉橋・廿日市・尾道・三原にそれぞれ問屋をおいて販売し、代価の一割を問屋に与えた。直接販売は、消費者・建築業者などに小売・注文によって直接売却したものである。
瓦は重量物であるから、船による海上輸送が主であった。浜村には「浜村瓦売船」とよばれる七端帆の瓦輸送専用船が一七隻(安政四年・一八五七)あり、瓦輸送に中心的な役割をはたした。また瀬戸内海を通航する諸国の廻船が寄航して積み帰ったり、瀬戸内海の渡海船が運送する場合もあった。
年間の総売上高は不詳であるが、嘉永五年(一八五ニ)には、他領への移出高が銀三〇〇貫余もあったという。天保三年(一八三二)〔弘化元年(一八四四)か〕五月から七月までの三か月間で、他領への移当高が銀八八貫余であったから、嘉永五年の記事は信用してよかろう。このように菊間瓦は、浜村の経済に非常に大きな役割をはたしたのである。
瓦株仲間の分化
文政二年「瓦職内申定」によると、瓦株は、村内において売買および貸借が許可されていたから、瓦株仲間の分化と瓦株小作が進展した。株の売買は、株の実体である瓦職屋・瓦納屋・窯・敷地などの売買をともなうものであるが、必ずしも一株単位で売買されたものではなく、七半株(七分五厘株)、半株、二半株(二分五厘株)に分割して売買されることもあったから、必然的に二人ないし三人持ちの共有株が存在した。一株の値段は、瓦職屋・瓦納屋・窒・敷地心大小、建物の新旧などによって異なったが、弥蔵株は弘化二年(一八四五)米二五〇俵、孫八株は同三年銀七貫二〇〇目、利左衛門株は同四年銭札一二貫七〇〇目でそれぞれ売買されているから、この程度であったのであろう。
つぎに株の貸借をみよう。貸借証文によると、貸借期間は三か年、四か年などいろいろであり、貸借料も瓦職屋・瓦納屋・窯・敷地の大小、建物の新旧などで異なったが、弘化期において年間だいたい銭札一貫目くらいであった。借株人のなかには、不良品を販売し、菊間瓦の信用をおとした者もいたらしく、株仲間は、文政二年(一八一九)株の貸借を禁止することを申しあわせたが、なかなか守られなかったようである。
以上のような株の売買および貸借によって、瓦株仲間は複雑な様相を呈することとなる。安政四年の「野間郡浜村根方帳」によると、浜村の瓦株二七株は、いずれも土地所持者がもっていた。そのうち弥蔵・利左衛門は五株を、為助は三株をそれぞれ所持したが、他方で一株を二人ないし三人で共有するなど、株所持者(株仲間)の分化が進行していた。
つぎに、株所持者で瓦生産に従事していた者は一一人で、株を借り瓦生産に従事していた者(株小作)が一六人いる。このうち一〇人は五反未満の土地所持者で、五人は土地を所持しない瓦専業者であった。またこの株小作一六人は燃料を採取する山林(松山)を所持せず、燃料はすべて購入していた。
瓦株を五株持っていた弥蔵は瓦生産から遊離し、九町一反一畝二三歩の土地を持つ村内第一の土地所持者であった。所持地の大部分は小作に出され、残り二町五反七畝二〇歩は、抱四人(軒)が耕作していた。さらに彼は浜村の組頭をつとめ、二八端帆の廻船を所持し、商業および運送業に従事していた。また同じ瓦株五株を持つ利左衛門は、六町三反三畝一二歩の土地を持つ村内第二の土地所持者であった。所持地のうち一町一反七畝九歩は、年季奉公人の下男三人、下女二人の労働力を中心にして手作され、残り六町一反六畝三歩は抱三人(軒)らによって耕作されていた。彼は瓦株仲間の年行司をつとめていたが、珎蔵と同様、瓦生産には直接従事していなかった。
以上のように、瓦株所持者は土地所持者でもあった。とくに弥蔵、利左衛門、為助(三株所持、四町五反五畝六歩の土地を所持し村内第三位、一〇端帆の船を所持、年行司)の三人は、浜村における瓦株の半数にあたる一三株と、村の土地九六町三反九畝五歩の二一・八%にあたる二一町余を所持し、さらに村役人、瓦株仲間の年行司をつとめ、廻船を所持するなど、村内きっての有力者たちであった。
瓦生産と村
野間郡浜村は、松山城下より東北約七里にあり、瀬戸内海の斎灘に面している。村勢は、「村方の儀は、瓦師船持どもその余無作の者多く御座候て、例歳とても飯料米多分買い入れ候村柄に御座候」(慶応三年・一八六七)、「元来人高よりは御田畑少ク村方二付、……無給無縁ニて作方仕らず、その日稼ぎの者多分御座候」(天保七年・一八三六)と耕地に比較して人口が多かったので、水呑層も多く、飯米を買い入れなければならなかった。
安政四年(一八五七)の「野間郡浜村根方帳」から生計別に土地所持構成をみると、総数四三四人のうち、無給、無縁(水呑層)が九九人で二二・八%、三反未満が三四五人で七九・五%にものぼっており、標準的農民である五反~一町の土地所持者は三四人で七・八%にすぎなかった。その一方で、珎蔵のように一〇一石、九町一反余の大土地所持者がいるなど、農民層の分化が両極分化の形で進行していたのである。
人口は、享保一〇年(一七二五)一、一二一人、弘化四年(一八四七)一、五二六人、安政四年(一八五七)一、八九四人と、時代とともにふえているが、耕地面積は、元禄一三年(一七〇〇)から安政四年(一八五七)までに、新田畑が五町九反二畝二七歩増加したにすぎない。このように、耕地の増加にくらべて人口の増加が顕著であったのは、「村方瓦師の儀は数十軒御座候ゆえ、瓦焼方二付、日雇その余船はたらく等ニて渡世仕り候者共も数百人の儀、なおまた他国より瓦代壱ケ年およそ正銀三百貫め余も取帰り、郡中へ融通仕り候ゆえ、村々潤色ニもあいなり、恐れながら御国益ニも罷成り候」と、無給・無縁層および農業だけでは生活のできない三反未満の土地所持層が、小作しながら、副業あるいは農間余業として、瓦生産や運送などに従事することができたからであろう。
したがって村民の相当数、とくに水呑層は、何らかの意味において、瓦生産および流通と関係をもつことによって生活をなりたたせていたといえる。このように考えると、瓦生産(農村手工業)および流通は、浜村の経済を支える上で大きな役割を果たしたといえるが、他方で農村を分解させ、輩出した水呑層を村落にかかえこみ、地主小作関係を発展させ、封建農村を変質させていったのである(『大名と領民』)。