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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

六 本門・家子門

 封建小農

 近世村落の基本単位は、いうまでもなく封建小農(本百姓)であった。封建小農とは、図式的にいうと、単婚小家族の農民、すなわち夫婦を中心に両親・子供が加わって家族を構成し、独立した家屋に住み、一〇石(一町歩)程度の田畑を所持し、家族労働によって独立的に農業をいとなむ農民である。このような農民を中心に村が構成されるようになるのは、寛文・延宝期と考えられている。

 忽那島の本門・家子門

 封建小農の成立後において、南伊予国大洲藩領では、農民(農家)を本門・家子門と呼称する風習があった。本門・家子門とはどのようなものだろうか。
 元禄四年(一六九一)三月大洲藩領風早郡忽那島小浜村(安永九年(一七八〇)から幕領、大洲藩預り)の「切死丹宗門御改下帳」に、本門一軒五人佐右衛門という記載に続いて、家子門一軒五人佐衛門、家子門一軒七人与三右衛門、本門一軒五人八兵衛……のように記されているから、本門と本門に続いて記載されている家子門とは、血縁としてまとめられて記載されたもののようである。そうだとすれば、本門は本家で、家子門は分家であろう。
 寛政一一年(一七九九)正月小浜村の「宗門帳」と同十年八月「御料小浜村御役目株分帳」とを比較して若干例を整理すると次のようになる。
 (イ) 本門林平(五人内男二人)壱役忠介株の一合五勺をはたす(分担)本家林平
 (ロ) 本門六兵衛(五人内男二人)壱役六兵衛株の三合をはたす(分担)本家六兵衛
 (ハ) 本門与次兵衛(七人内男四人)壱役喜三兵衛株の一合六勺六才七をはたす(分担)本家与次兵衛
すなわち本門というのは本家の別称であることが明らかである。
 寛政一三年正月「忽那嶋御私領大浦村宗門御改帳」によると、大浦村(幕領と大洲藩領分からなる)の大洲藩領分の農民で、真言宗長善寺の檀家は六五軒、その内訳は、本門一四軒、家子門五一軒、また真宗浄玄寺の檀家は二〇軒、その内訳は、本門四軒、家子門一六軒で、ともに本門・家子門の順に、それぞれをまとめて次のように記されている。(図表「忽那嶋御私領大浦村宗門御改帳」参照)
すなわち本門の農民には、必ず「何某株」と肩書され、家子門の農民には肩書されていない。また、さきの真宗浄玄寺檀家の本門文右衛門は、安永九年一一月「御公料御私領 大浦村本軒元割帳」には、(図表「御公料御私領 大浦村本軒元割帳」参照)とある。などから、本門の農民は株頭(株の代表者、役頭・役の代表者)であったが、家子門の農民は株頭ではなかった。しかし文右衛門株の中で、家子門の勘蔵が文右衛門より多い四歩を所持(負担)しているから、本門が必ずしも株内で最も多くを所持していたとはいえない。なお前記の真言宗長善寺檀家の本門庄兵衛株宇左衛門と本門十左衛門株甚六は、「大浦村内輪ほう田方之帳」(延宝二年二月、寛政二年改、御私領拾三冊之内)には、(図表「大浦村内輪ほう田方之帳」参照)とあるから、株は受(請)ともいわれていたようである(このことについては第三節大洲藩の地ならし参照)。
 前記(イ)の一役忠介株の構成者として、本門(家)林平の外に、源蔵・次右衛門・利左衛門・五六・新之丞・利右衛門らがいるが、いずれも家子門である。(ロ)の一役六兵衛株の構成者として、本門(家)六兵衛の外に、源七・常七・松右衛門・善次郎らがいるが、いずれも家子門である。(ハ)の一役喜三兵衛株の構成者として、本門(家)与次兵衛の外に、与左衛門・安五郎・喜左衛門・利左衛門らがいるが、いずれも家子門である。しかし家子門は、全員独立家屋に住み、家族を構成し、株(役)の構成者・負担者であり、しかも本門より多くを所持(負担)している家子門もいるから、経済的に、本門に隷属するということはなかったと思われる。
 寛政一〇年「役目株分帳」に、二一役半(二一株半)とある数は、元禄四年宗門帳によると、真言宗二か寺の檀家の本門が一八軒、人数八一人で、真宗一か寺の檀家の本門数は不詳であるが、真言宗二か寺の檀家の人数から本門を割り出すと、真宗一か寺の檀家の本門は四~五軒となるから、本門数と大体一致する。したがって株(役)数は、本門数と深くかかわって近世初期に成立したといえよう。
 元禄一一年(一六九八)三月小浜村の「宗門改帳」によると、風早郡忽那島内の大洲藩領七か村(大浦・小浜・粟井・宇和間・無須喜・上怒和・下怒和)の全家数六五八軒、うち、本門が二一九軒、家子門が四三〇軒、無縁八軒、庵一軒と記す。元禄一一年頃、本門一軒が、平均二軒程度の分家を出していたことになる。家子門は時代とともに漸増した。
 小浜村(寺なし)の真言宗長隆寺(大浦村)の檀家は、元禄四年本門六軒・家子門一二軒、同一一年本門六軒、家子門一四軒、無縁門一軒、宝永八年本門六軒、家子門一六軒と本門数は固定しているにもかかわらず、家子門数すなわち分家数は、時代とともに漸増している。この現象は、他村でも同じであった。このように、本門が固定されたということは、本門が社会的に特別な意味をもっていたことを示すものだろう。
 なお文久元年(一八六一)一月小浜村の「御年貢米并入用免割帳」に、「本門百弐拾三軒、半門ヲ本門二直し弐拾六軒、ニロ〆百四拾九軒」とあり、元治元年(一八六四)一一月小浜村の「御年貢米并入用免割帳」に、「本門百弐拾軒、半門ヲ本門二直し弐拾八軒、合百四拾八軒」とある。ともに家子門という表記がないのは、「御年貢米并入用免割帳」で、持高を基準にした表記だからであろう。いずれにしても、文久元年本門一二三軒に対して半門五二軒、元治元年本門一二〇軒に対して半門五六軒と、本門が半門の二倍余を占めているから、本門・半門を本門・家子門と対応させては考えにくい。万延元年(一八六〇)一一月小浜村の「門割諸入用帳」には、「有門百九拾四軒二割」とあり、門割(軒割)の場合には、本門・家子門のような区別はせず、軒別に平等に割付けた。

 大竹村の本門・家子門

 寛政一〇年(一七九八)大洲藩領喜多郡大竹村は、表1-6のように、本郷組・げん瀬組・小倉組の三組に分かれ、各組には、それぞれ猶右衛門・覚兵衛・三右衛門の組頭がおかれ、預分と称した。本郷組組頭猶右衛門預分は、さらに四組に、げん瀬組組頭覚兵衛預分と小倉組組頭三右衛門は、それぞれ二組に分かれ、合計八組あった。各組には五人頭がそれぞれ一人ずつ置かれ、五人頭の名前を冠して、「五人頭七左衛門組」のように称した(享保八年(一七二三)「田畑高寄免割帳」に、「五人組頭八名」とあるから、おそらく加藤氏初期から八組に分かれていたのだろう)。この八組の各組は、本門と家子門によって構成され、一組が三一軒から八軒の規模であった。八組の本門は合計六〇軒・家子門は一一九軒であった。
 天保二年(一八三一)から明治四年(一八七一)までの宗門改帳から、戸口数・本門・家子門・明家数・奉公人数などを整理すると、表1-7のようになり、本門は六〇軒で固定され、家子門は、一一六軒から一二○軒の間を増減した。本門数と家子門数はおよそ一対二の割合であった。
 天保一五年一二月「村中本家分家改帳」と同年正月「宗門御改帳」を比較すると、表1-8のようになる。この表より、①本門は本家のことであり、家子門は分家のことである、②本家分家改帳では分家と記されているにもかかわらず、宗門改帳では本門と記されている者が六人いる。本門は六〇軒と固定されているが、表1-7によると、天保一五年本門の明家が七軒あるから、本門の定数六〇軒までは埋めることができたのだろう。
 天保一五年一一月「五人引合銘々改帳」と同年正月「宗門御改帳」を比較すると、本郷組之内上追打組五人頭長次郎・同組之内上組五人頭宮五郎・同組之内裾ノ尾組五人頭宮五郎(上記の宮五郎と同一人物と推定)は、いずれも家子門であり、同組之内下組五人頭幸太は本門であったように、五人頭は、本門からも家子門からも出し、天保末にはむしろ家子門出身の方が多かった。
 天保一一年「大竹村高名寄帳」、同年「大竹村畑高名寄帳」より、本門・家子門の所持高をみると、本門が家子門より多いとは限らなく、むしろ家子門の方が多い場合が多くみられた。たとえば家子門石左衛門は、組頭で、一町八反五畝一〇歩余・一七石八斗四升三合余を所持し、村内で有数の高所持者であった。
 天保一五年一一月「御免割帳」に連名する庄屋一人・組頭三人では、庄屋と組頭一人が本門出身で、残り組頭二人は家子門出身であった。

 今坊村の本門・家子門

 文政一〇年(一八二七)新谷藩喜多郡今坊村慈光寺檀家の「宗門御改下帳」を整理すると、表1-9のようになる。この表より、①庄屋と組頭の一人は本門から、組頭のもう一人は家子門から、それぞれ出されている、②本門三七軒に対し家子門は一四九軒で、本門の四倍である、③檀家は八組からなり、うち一組の組名には本門の百姓名が、七組の組名には家子門の百姓名がそれぞれ冠されている。大竹村の組名を参考にして考えると、この組名は、五人頭の農民の名前となろうから、当時五人頭には、家子門出身の農民が多く就任していたことになる。
 以上大洲藩領における島方の村と里方の村の本門・家子門と大洲藩の支藩である新谷藩の本門・家子門をみたが、基本的に相違はなかった。本門は本家で、家子門は分家で、少なくとも江戸時代中期以降両者の間には隷属関係はなく、経済的な差(所持高など)や政治的な不利(組頭など)はなかったようである。しかし本門数が固定されていたことは、本門が社会的に特別な意味をもっていたことを示すものだろうし、島方の村において、本門が株頭として株と深くかかわっていたことは注目さ
れるところである。

図表「忽那嶋御私領大浦村宗門御改帳」

図表「忽那嶋御私領大浦村宗門御改帳」


図表「御公料御私領 大浦村本軒元割帳」

図表「御公料御私領 大浦村本軒元割帳」


図表「大浦村内輪方田方之帳」

図表「大浦村内輪方田方之帳」


表1-6 寛政10年大竹村の組構成

表1-6 寛政10年大竹村の組構成


表1-7 大洲藩喜多郡大竹村戸口変遷

表1-7 大洲藩喜多郡大竹村戸口変遷


表1-8 天保15年大竹村本家・本門、分家・家子門

表1-8 天保15年大竹村本家・本門、分家・家子門


表1-9 文政10年喜多郡今坊村慈光寺檀家構成1

表1-9 文政10年喜多郡今坊村慈光寺檀家構成1


表1-9 文政10年喜多郡今坊村慈光寺檀家構成2

表1-9 文政10年喜多郡今坊村慈光寺檀家構成2