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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 検地と村

 近世村の特質

 近世の村が室町時代までの村と比較して、根本的に異なる点は、第一に、刀狩・検地によって武士が村に住まなくなったこと(兵農分離)、第二に、村が地理的に確定され(村切)、村高が米の生産高で表示されるようになったこと(石高制)、第三に村高に対して貢租が賦課されるようにたったこと(村請制)、第四に、封建小農(本百姓)によって村が構成されるようになったこと、である。
 天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐によって、伊予国はえぬきの河野氏・西園寺氏らは滅亡し、その家臣らも兵の道を捨てて、大部分の者は帰農した。同年伊予国は小早川隆景に宛行われ、同一五年筑前国に転ずるまで、隆景は主として道後湯築城で領内の支配に当たったが、その間九州征伐に参加したりして、領内統治に専念することはできなかった。そのようなこともあって、隆景の旧領主層に対する政策は、旧支配をそのまま認め、「差出」を徴する場合もあったように、相当妥協したものとならざるを得なかったようである。しかし秀吉の四国征伐および隆景の入封は、伊予国における他国出身者による最初の支配であり、伊予国の農村が、近世的に変質してゆく第一歩となったことはいうまでもない。

 福島正則の検地

 伊予国において、近世村落の成立のうえで画期となったのは、福島正則、戸田勝隆時代(天正一五年~文禄四年・一五九五)と考えてよかろう。正則は、秀吉の子飼大名で、隆景のあとをうけ、主として東伊予国において一一万石を賜わり、中伊予国の秀吉蔵入地九万石の管理という任務もあわせて、天正一五年湯築城にはいり―まもなく国分城(国府城)に移る―、文禄四年まで伊予国近世化の立役者として君臨した。彼がこの間、太閤検地原則(石高記載・村高確定・三百歩一反・名請人は農民など)にもとづいて、領内に検地を実施したことは、天正一五年新居郡長安村・野間郡別府村・越智郡御馬屋村・同鍋地村、天正一九年越智郡中村などの検地帳によって明らかである。

 戸田勝隆の検地

 他方戸田勝隆は、同じく隆景のあとをうけ、天正一五年宇和郡・喜多郡などにおいて一五万石(異説あり)を賜わり、秀吉の蔵入地一〇万石の管理という任務もあわせて、正則と相前後して大津(洲)にはいり、病没する文禄三年まで大津城主として君臨した。彼がこの間、太閤検地原則にもとづいて、領内に検地を実施したことは、天正一五年風早郡長師村、同一六年宇和郡川内村、同真土村、文禄三年宇和郡喜木津村などの検地帳によって明らかである。なお『宇和旧記』によると、天正一五年浅野長吉(長政)が宇和郡にはいっているから、勝隆と共に南伊予国を検地したのだろう。
 つまり正則・勝隆らの検地によって、前述した近世村落の特質の第一・第二・第三については、天正末から文禄初にかけて、一応実現され、近世村落の枠組はできたといえようが、第四を含めた中味については、検地のみでそう簡単にできるものではなかった。その実現には、加藤嘉男・藤堂高虎・蒲生忠知・脇坂安治らによる分割支配が行われたのち、伊予八藩の成立を待たなければならなかった。

 検地帳の名請人

 それでは太閤検地を伊予国において実施した正則・勝隆・長政らは、どのような層の農民を検地帳の名請人としてとらえたのであろうか。季吉は、検地帳の名請人について検地条目でも言及していない。間接的なものであるが、「文禄之比、一天下ノ御検地依有之、下作ノ田畠皆其作人之結高ニ」(『中世山国庄史料』)と太閤検地では、検地帳の名請人に作人をあてたという。作人というのは、おそらく作職権を持つ現実耕作者であろう。年貢を徴収するのに、この層を把握することが得策であると考えられるからである。
 なお慶長九年(一六〇四)池田利隆が検地の時公布した「掟」に、「前々よりひかへ来田畠たりといふとも、当毛の小作名うけ可仕候事」と現実耕作者を名請人とする、とある。これは、利隆が前年慶長八年に公布した法令「地主私徳を取候儀一切停止たるへし、出置小作もくせ事たるへき事」をうけて出された「掟」である。地主小作関係を禁止すると、当然現実耕作者が検地帳の名請人となり、この層に負担させることが、貢租を多く収取できる道だ、と考えてのことだろう。
 天正一五年宇和郡の検地に従事したと思われる秀吉の子飼大名浅野長政が、同年領国若狭で公布した「条々」で、「おとな百姓として下作ニ申つけ、作惑いを取候儀無用二候、今まて作仕候百姓直納仕候」と小作を禁止し、年貢納入者は現実耕作者であるとした。
 しかし現実は、このような一片の布令で、その通りに実現できるほどあまいものでなかったことは、この時代の検地帳の名請人数と名寄帳の名請人数の乖離を見れば一目瞭然のことだろう。つまり検地帳の名請人数に比し、年貢納入者の名簿である名寄帳の名請人数が、非常に少ないことである。しかも名寄帳の名請人は、屋敷所持者であるのに、検地帳の名請人には屋敷を所持しない者が多く、検地帳の名請人から他村の農民を差し引いても、なお両帳名請人数の乖離は埋まらない。その意味では、太閤検地段階の検地帳の名請人は、年貢負担者であっても、必ずしも年貢納入者ではなかったのであり、検地帳名請人と名寄帳の名請人が、およそ一致する時代が、本百姓の一般的形成期であり、近世村落が実態をもって成立した時代であるといえよう。
 天正末から文禄時代伊予国における福島正則・戸田勝隆らの検地帳の分析によると、同じことが指摘できるのであり、この点からも、伊予国における近世村落の成立は、八藩の成立頃まで待たなければならないのである。

 近世初期の年貢

 それでは、近世初期の年貢はどのくらいで、どのような方法で徴収されていたであろうか。
 天正一二年(一五八四)山崎源太左衛門尉宛秀吉書状によると、「其方知行分水際之事、検見上以、三分一百姓遣之、三分二可有収納候」と水際すなわち収穫不安定地では、検見によって、三分二が年貢として徴収されていた。続いて、天正一四年秀吉の「条々」によると、「若損免出入在之者、以立毛之上、三分一百姓、三分二給人可召置事」と「損免出入」の時は、収穫高の三分二を徴収するとある。また文禄五年近江国で、石田三成が公布した「掟条々」によると、「免之儀相さたむへし、……其田をみなかり候て、いね三つにわけ、……ニぶんきう人、一ぶんは百姓さくとくに取可申候」と収穫高の三分二を徴収するとある。そして文禄四年五大老連署公布の「御掟追加」第三条に、「天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分の一者百姓可取之、兎角田地不荒様可申付事」とあり、検地によって、収穫高の三分の二を徴収する、とした。このように、秀吉から五大老までの時代、すなわち近世初期の年貢徴収方法は、検見制で徴収量は、法定生産高の三分二を原則としていたようである。
 伊予国においてはどうであったろうか。検地奉行浅野長政は、天正一五年八月一八日付ありま総中宛(現北宇和郡三間町)書状で、「免之儀者重而可相極候、とかく札のむねにまかせ候て、其田の立毛三分一百姓に可遣候間可成其意者也」と収穫の三分二の徴収を布令した。戸田勝隆は、天正一五年七月一四日付「条々」の第四条で、「田畠つけ候事、検地の者見ちがい有之、其田ニ帳面程無之候はゝ、其給人か代官へ相ことはり、めんをこい、立毛の上を以、三分一百姓とるへく候、もし給人代官むりを申かけ、米帳面ほと無之侯共可取と申候はゝ、其田の立毛三分一百姓かり取、大分は代官の給人え可上置事」と検地が不正確で、検地帳記載の石高ほど、収穫がない田畑の年貢は、収穫高の三分二を提出せよ、と述べている。など、近世初期伊予国の諸大名も、検見制で、法定生産高あるいは収穫高の三分二を徴収することを原則としていたようである。