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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 高度成長期以降の立地政策

 全国総合開発計画と工業立地政策

 昭和三〇年代の初頭から昭和四〇年代の中ごろまで、日本経済は年率にして実質経済成長率一〇%前後という歴史上例をみないような高度経済成長を達成した。このような高度経済成長は、既存の大工業地帯に対する産業と人口の集中を伴った。その結果、用地・用水等の生産面での隘路の打開が必要となり、産業立地のための産業基盤の整備が重要な課題となった。通産省は、産業基盤の整備と並行して企業を誘導するために、昭和三三年(一九五八)から全国的規模で総合的な立地条件の調査を開始し、昭和三四年三月には、立地指導体制を裏づけるものとして「工場立地の調査等に関する法律」が制定された。この法律は、昭和三六年の改正により特定の工場については設置の届出を必要とし、また勧告が行われることとなった。さらに昭和四八年の改正では、同法は工場立地法と名称が改められ、工場敷地の利用の規制や公害防止のための調査等の実施が追加された。愛媛県においても、昭和三三年から昭和三七年にかけて、昭和三三年度西条・壬生川(西条市・壬生川町〈現東予市〉)、昭和三四年度松山(松山市・伊予市・北条市・松前町)、昭和三五年度大洲(大洲市・長浜町)、昭和三六年度愛媛県東(伊予三島市・川之江市・土居町)、同今治(今治市・大西町)、昭和三七年度宇和島(宇和島市・吉田町・宇和町・津島町・明浜町)、同八幡浜(八幡浜市・三瓶町・保内町)の七地区において最初の工場適地調査が行われた。
 工業立地政策という観点から言えば、全国的な視野に立つ工業立地政策が展開されたのは、昭和三七年一〇月に閣議決定された「全国総合開発計画」においてである。「全国総合開発計画」は、昭和三六年に発表された通産省の「工業適正配置構想」を取り入れ、昭和三五年策定の「国民所得倍増計画」及び「国民所得倍増計画の構想」に即し、都市の過大化の防止と地域格差の縮少に配慮しながら、諸資源の適切な地域配分を通じて、地域間の均衡ある発展をはかることを目標としたものである。計画の目標を達成する方策としては、「拠点開発方式」がとられ、大規模な開発拠点として、工業開発拠点と地方開発拠点とが想定された。前者は大規模な工業等の集積をもたせることによって周辺の開発を促進する役割をもち、後者は、大規模な外部経済の集積をもたせることによって、東京・大阪・名古屋のもつ外部経済の集積を利用しにくい地域の飛躍的な発展を可能にする中枢主導的な役割をもつものとされた。
 拠点開発のための立法措置としては、まず昭和三六年一一月、「低開発地域工業開発促進法」が制定され、同法による開発地区には、全国で九一地区が指定され、愛媛県では宇和島地区、八幡浜・大洲地区が指定された。
 昭和三七年五月には開発地域を重点的に指定する「新産業都市建設促進法」が制定され、さらに昭和三九年七月、太平洋ベルト地帯の地域を指定した「工業整備特別地域整備促進法」が制定された。またこれらの開発立法措置の実施に伴う地方公共団体の公共投資の財源を補完するために昭和四〇年、「新産業都市建設および工業整備特例地域整備のための国の財政上の特別措置に関する法律」が制定された。新産業都市の指定は、全国四四地区からの激烈な申請競争ののちに、昭和三八年七月、一三地区が内定し、昭和三九年四月までに正式指定された。その後、昭和四〇年一一月に二地区が追加指定され、全国で一五地区が指定された。愛媛県では東予地区が昭和三九年一月に指定された。

 愛媛県の長期計画と工業立地政策

 愛媛県においても、「全国総合開発計画」が策定された直後の昭和三七年一二月に『愛媛県長期経済計画』が策定された。そこでは、「工業開発の基本方向」として、「工業の振興は、県民所得増大の大きな源泉であり、また、雇用の増大が、最も期待されるため、国の工業地方分散施策ならびに瀬戸内海臨海工業地帯造成に呼応して、東・中予地域における臨海地域の重化学工業化を促進しながら、更に、工業の適正配置により、県内の均衡ある工業化を図らなければならない。」と述べた上で、次の四つの必要性があげられている。(一)工業構造の高度化、特に、臨海地域の重化学工業化を促進すること。(二)立地条件に基づき、拠点開発の方向に即し、工業の適正配置を促進し、地域間の格差の是正に配慮すること。(三)中小企業の近代化を図ること。(四)工業立地条件の長期的整備を強力に進めること。
 ところで、「全国総合開発計画」策定後における日本経済の急速な経済成長は、過密・過疎問題を一層深刻化させ、生産活動のみならず、住民の日常生活にも重大な障害を与えるようになった。この問題に対処するために、昭和四四年五月、「新全国総合開発計画」が閣議決定された。この計画は、深刻化する過密・過疎問題を解決するために国土利用の抜本的な再編成を図り、中枢管理機能の集積と物的流通の機構とを広域的に体系化する新しいネットワークを整備し、それによって各地域の特性と自主性を生かした地域開発を意図したものであった。新全総の目標を達成するための開発戦略として、少数地点への工業の大集積を図る大規模開発プロジェクトの推進があげられ、その一つとして、遠隔地における大規模工業基地構想が打ち出された。
 産業立地政策との関連で言えば、昭和四六年六月には、「農村地域工業導入促進法」、昭和四七年一〇月には「工業配置促進法」が制定された。『農村地域工業導入促進法』は、「農村地域への工業の導入を積極的かつ計画的に促進するとともに、農業従事者がその希望及び能力に従って、その導入される工業に就業することを促進するための措置を講じ、並びにこれらの措置と相まって農業構造の改善を促進するための措置を講ずることにより、農業と工業との均衡ある発展を図るとともに、雇用構造の高度化に資することを目的」としたものであり、愛媛県では、同法の第四条の規定に基づき、昭和四七年三月、第一次の愛媛県農村地域工業導入計画が策定された。
 「新全国総合開発計画」に対応する愛媛県の計画としては、昭和四五年一〇月、『愛媛県長期計画』が策定された。この計画では昭和六〇年を目標年次として、(1)新ネットワークの形成による広域的開発の推進、(2)新しい経済開発の推進、(3)豊かな県民生活の実現、(4)人間能力の開発と文化の向上という四つの基本テーマがとりあげられた。新しい経済開発を推進するための「工業開発の推進」においては、「地域開発の有力な手段である工業化を、住民生活および他産業との調和に配慮しつつ、意欲的に推進する」とした上で、「こんごの工業開発においては、本県の立地条件の優位性と、既存企業の利益を最大限に活用することを考慮すれば、重化学工業を主体とした方向へすすむものと考えられるが、将来、電子工業など高度加工の分野へと工業の高次化が進展していくことも予測されるため、精密機械など都市型工業の育成にもじゅうぶんな努力をはらうこととする。」とされ、大規模な重化学工業化を主体とする地域開発が指向された。
 昭和四〇年代の後半からの高度経済成長から低成長経済への移行、重化学工業化に基づく環境問題の深刻化は、「新全国総合開発計画」の見直しを必要とした。新全総の見直しと西暦二〇〇〇年を見越した超長期展望を踏まえつつ、今後一〇年間の基本的な整備目標を示したものとして、昭和五二年(一九七七)二月、「第三次全国総合開発計画」が閣議決定された。『第三次全国総合開発計画』では、開発の基本的戦略として、「定住構想」が選択された。「定住構想」というのは、「大都市への人口と産業の集中を抑制し、一方、地方を振興し、過密過疎問題に対処しながら、全国土の利用の均衡を図りつつ、人間居住の総合的環境の形成を図るという方式」である。「第三次全国総合開発計画」の具体的な推進の方策として、人口の地方定住に先導的役割を果たすべき地域を「モデル定住圏」と名付け、同定住圏域の整備を先行させ、その成果が全国に波及していく手法を採用した。その結果、昭和五七年現在において、全国で四二のモデル定住圏が指定された。愛媛県では宇和島地域がモデル定住圏に指定され、当地域における定住構想を推進するためにモデル定住圏計画が策定された。
 愛媛県においても昭和五三年三月、『愛媛県長期総合計画』が策定された。この計画では、今後の愛媛県の施策として、安定した生活と定住環境の整備、活力ある産業と地域経済の確立、豊かな郷土への基盤整備と県土の総合利用、新しい文化とコミュニティの形成の四つをあげ、それぞれの方向性が示された。工業立地政策としては、各地域の中で先導的な役割を果たすキー産業を明確にし、その誘導指針や条件整備の方向を明らかにし、計画的な工業立地を推進して地域経済活力の強化をはかった上で、「工業立地にあたっては、きびしい環境アセスメントを実施し、地域社会との調和に配慮しつつ、化学・非鉄金属・紙パルプ等の素材系工業と有機的連携をもつ加工部門の育成誘致につとめ、低公害高雇用型工業への脱皮をすすめる。とくに、内陸部においては、農林水産業や地場産業との協調をはかりつつ、農村地域工業導入促進法等を活用して加工型工業の導入をすすめる」とされた。低成長時代への移行に伴って、この計画では、工業立地の力点が従来の大規模開発型から地域経済力の強化、環境への配慮、地域社会との調和に移った。
 以下では、高度成長期以降の工業立地政策の流れにそって、「全国総合開発計画」における拠点開発構想を具体化したものとして、東予新産業都市建設計画とその実績、過疎地の大規模な工業開発の例として長浜町の臨海工業開発、南予を中心とした農村地域への工業立地政策の例として農村地域工業導入計画とその実績について述べる。なお、愛媛県においていわゆる「高度経済成長」が始まったのは、昭和三〇年代の後半からであるから、「高度成長期とそれ以降」とは、昭和三〇年代の後半期以降を指す。日本経済の「高度成長期」が通常、昭和三〇年代の初頭から四〇年代の中ごろまでを指すのとはこの点において異なっている。